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そして金だけが残った【前編】




たいてい、ほんとうに必要なモノを持っていないのは、
金を持っている人たちのほうである。
   ―――ヘンリー・デイヴィッド・ソロー/星野響訳
   (『モノやお金がなくても豊かに暮らせる』33頁)


▼▼▼2つの「人生ゲーム」▼▼▼


小学生の頃、おばあちゃんの家で、
正月に「人生ゲーム」をやった。
将棋の駒ぐらいのサイズのプラスチック製の「自動車」に、
まち針みたいなプラスチック製の「人」を乗せる。
最大6人ぐらいまで乗れる設定だっただろうか。
途中、結婚したり子どもが生まれたりするイベントがあると、
人が増えていくことになる。
紙切れの「お金」を参加者に配る。
ルーレットを回して自動車を進める。
要するにスゴロクだ。

いろんなイベントがあって、
そのイベントごとにお金がもらえる。
「結婚しました。
 ご祝儀として参加者全員から1000円もらう」みたいな。
お金を失うこともある。
「交通事故に遭う。
 5万円失い、1回休み」みたいな。
他にどんなイベントの詳細があったかは忘れたが、
だいたいこんな感じで合っていると思う。

「人生ゲーム」をやったことがない人のために説明したが、
もしかしたら説明は不要だったかもしれない。
あのゲームをやったことがない日本人は、
ほとんどいないかもしれないからだ。
いや分からない。
ほとんどの人はやったことないだろうか。
誰かとそんな話をしたことはないけれど、
「人生ゲーム」は、僕が家族でやった
数少ないボードゲームのひとつだ。

僕が小学生になった1983年、
「ファミリーコンピュータ」が任天堂から発売された。
周囲にデパートなど皆無なド田舎、
愛知県の知多市というところに住んでいた小学2年生のある日、
東京本社への出張から帰ってきた父が、
ファミリーコンピュータ本体と
「スパルタンX」のカセットを買ってきてくれた。
「スーパーマリオブラザーズ」は人気すぎて店頭になかったらしい。
なぜか父は「麻雀」のソフトも買っていた。
ちゃっかり自分も楽しもうとしていた。
実際はあまりハマらなかったらしく、
「麻雀」は僕と弟がその後、
「スパルタンX」に飽きると時々やることになった。
後にいっとき中学校で麻雀がなぜか流行ったとき、
あれをやっておいたことが役に立った。

人生で「狂喜乱舞」することってあまりないと思うのだけど、
「父がファミコンを買ってきてくれた日」は、
間違いなくそのひとつだと思う。

あの日ほど父を尊敬した日は後にも先にもなかった。

それは嘘だ。

言い過ぎた。

でも、僕たち世代はそれほどに、
「ファミリーコンピュータ」に夢中になった。
友だちの家に行ってファミコンをし、
外でちょっと遊び、
今度は自分の家で同じ友だちとファミコンをした。

人の家のソファ(カウチ)で泊まり歩くことを、
アメリカで「カウチサーフィン」と呼ぶらしいが、
僕たちの世代の男子はほぼ全員、
「ファミコンサーフィン」をしていた。

誰かの家に「あのソフトがあるらしい」となると、
その家に行ってそのソフトを見学した。
クリスマスに新しいソフトを買うと、
自分の家に友だちが来てそのソフトを見学した。
クリアしたり飽きたりするとソフトを交換した。
「借りパク」されないように名前を書くのだが、
後に「中古ファミコンショップ」に売るという習慣が根付くと、
名前を書くことで値段が下がることとのジレンマに悩んだ。
ちょっとお金持ちで最新のソフトがある家には、
プレイしているその家の子と地域のガキ大将的な子が最前列におり、
10人ぐらいの「ギャラリー」ができていた。
ギャラリー同士が「こいつ、だれ?」と思い合っていることもあった。
あの時代は、いったい何だったのだろう、と今は思う。

凄い時代だった。
あの時代って、何だったのだろう。
僕たちは力道山の試合を地域全員で観戦していた、
『ALWAYS 三丁目の夕日』を懐かしがっている場合ではない。
「懐かしがられる世代」に、僕たちはもう突入しているのだ。

話を戻そう。

あれは小学5年生ごろだと思うけど、
タイトーから『爆笑!人生劇場』というソフトがリリースされた。
完全にボードゲームの「人生ゲーム」を、
ファミコン化したような内容で、
スゴロク式にコマを進めていく。
僕は弟と対戦形式で何度もこのゲームを繰り返した。

結構、ハマった。


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