見出し画像

暗夜の航海者と、灯台について


どう行動するべきかをいつも社会が教えてくれる世界、
すなわち、社会が次のステップを指図して、
エスカレーターに乗せてくれる楽な世界では、
自分の弱みや失敗に直面することがないだけでなく、
自分の強みを知ることもない。 
    ――エイブラハム・マズロー


▼▼▼3人の会▼▼▼


北海道にいるとき、
土畠君と、同じく古くからの友人である、
グレースコミュニティという教会の主任牧師の益田結先生
(ここでは結君と呼ばせてもらう)と3人で話した。
土畠君と結君の二人は僕と知り合うずっと以前からの盟友なので、
「幼なじみ」みたいな感覚に近いのだと思う。
それでも「3人の会」みたいな非公式な集まりが、
僕が北海道に行くと、毎回ではないが自然発生的に開催される。

いつも同じ店のだいたい同じ席で、
極上の料理をいただきながら話す。
恐縮しつつ、いつも僕と結君はごちそうになっている。
突然「割り勘」と言われても多分財布の中身では足りない。
3人で最初にその店で話したのはもう10年以上前のことで、
それ以来、人生の節目、節目に3人で集まって話してきた。
なんか、「特別な時間」なのだ。

あと、二人はお互いに、
お互いへの尊敬を僕に言い表す。
「結は昔から本当に凄いんだよね。
 天性のサーバーントリーダーなんだ」
「俊君、僕どばっちを本当に信頼してるんですよね」
多分、お互いに面と向かっては言わないんだろうな。
それは「粋」ではないから。
僕という壁を使ったスカッシュのように、
二人はお互いに賞賛を口にする。
互いの愚痴を聞く壁は疲れるが、
こういう壁なら光栄なので喜んで引き受ける。

三人で話すと、これまた別なダイナミズムが働く。
お互いの新たな側面が現れる鼎談になる。
しかし今回、中盤ぐらいからソワソワし始めた。
僕と2人の間には共通項がほとんどないことに、
話してる途中に気がついたのだ。
今までもうすうす気付いていたけど、
今まで以上に気付いた。
気付きまくりやがった。

2人は組織のリーダーだ。
大きな教会の主任牧師と、
50名のスタッフが働く医療法人の理事長。
二人とも背負っているものの大きさが、
僕とはサイズ違いだ。

多くの人々の生活と仕事と人生を彼らは背負っていて、
その重責たるやいかばかりだろうと思うとき、
突如、僕の背中がスースーしはじめた。

なんか背負ってるふりをしようと思った。
それは違う。
絶対バレる。
いつもバーベルスクワットで70キロ担いでるけど、
そういう話でもない。

やばい。

俺はこの話に入っていて良いんだろうか?

背中がスースーしすぎている!
やばい!


▼▼▼背負わない僕▼▼▼


でも話し続けていくうちに気付いた。
僕が何かを背負っているから、
2人は僕と話してくれてるのではない、と。

僕が何かを背負っていないことなど二人は承知している。
ガラにもなく背負おうとして10年前に鬱病になったことも、
それからは「組織」みたいなものとは距離を置いて、
なるべくスタンドアローンで生きていくことを、
僕が模索していることも多分知っている。

あ、あらぬ誤解を招く前に言っておく。

「スタンドアローンで生きる」というのは、
誰にも依存せずに生きるということとは違う。
むしろ、組織に属する以上に、
多くの人に依存しないとスタンドアローンでは生きていけない。
「大きな組織」という一本の太い柱にではなく、
無数のパスタのような個人や零細な組織とつながることで、
自分の人生の構造を支えることが、
フリーランスとして生きることなのだと僕はこの15年で学んだ。
自ら障害者で、障害者医療の研究者・思想家である、
熊谷晋一郎さんが言ってる名言に、
「自立とは依存先を増やすこと」というのがあるが、
スタンドアローンというのはこういう意味で言ってるので、
「誰にも頼らず自分の力だけで生きていく」
っていう生き方とは似て非なるもの、というより真逆だ。

話しを戻す。

僕はともあれ、スタンドアローンが自分に合っている。
みんなが同じであることを要求する「学校という仕組み」が、
反吐が出るほど嫌いだった小三のときに気付くべきだったが、
本当に気付いたのは30代で鬱病を患ってからだった。
てなわけで僕は「組織人」みたいな意味では何も背負っていない。
組織に属さないということは日本ではけっこうしんどい思いもする。
一番のデメリットは、ほとんどの人が、
初見では自分のことをまず信用してくれないことだ。
あと、組織という「集金システム」がないので、
自分で生み出すしかない。
農耕社会と狩猟社会ほどに、
組織人とフリーランスでは、生き方や要求される能力は違う。
だから公務員出身の僕は30代で鬱になったのだろうけど。

でも、何も背負わないことのメリットも間違いなくあるのだ。

何かを背負ってしまえば、このメルマガも書けないし、
毎日のPodcastやYouTubeもできない。
組織的な意味で「責任を負う」というのは、
「好き勝手に発信できなくなる」ということでもあるのだ。

言葉を扱うというのは危険物取り扱いと同じだと心得てるので、
発言にはとても気をつけてはいる。
これからも気をつけながら発言していく。
こう見えても(どう見えてるか分からんが)、
不特定多数に向けてパブリックに話したり書いたりするとき、
アクセルとブレーキを同時にべた踏みでやっている。
だから脳は非常に疲れる。
それでも元来口が悪い僕は、
これからもきっと迂闊なことを言うし、
きっといろんな人のヘイトを稼ぐこともあるだろう。

口が悪かろうと悪くなかろうと、
「何かを発信する」というのはそういうことだ。
Aという政党を熱烈に支持することは、
反対のBという政党の支持者からのヘイトを稼ぐことだし、
あるトピックについて反対を表明することは、
熱烈な賛成者からのヘイトを稼ぐことだ。

そうしたヘイトの最も強烈なものは、
僕たちが属する組織に向かうのだ。

「こいつをまだ雇ってるつもりですか?」
「こいつがいる以上、もうこの組織は応援しません」
という形で、その人自身に論戦を挑むのでなく、
周囲から攻めるのが効果的だと、
強固な反対者はよく知っている。

この時僕に「背負っている大きなもの」があれば、
僕は発言をやめるしかなくなるだろう。

でも、僕がある意味何も背負っておらず、
スタンドアローンで発言しているからこそ、
僕はそういったヘイトを恐れず発信を続けられるのだ。

以上のことは僕の脳内の想像で言ってるのでなく、
つい先日リアルな人生でほぼこのまんま経験したことだ。
詳細はさすがにここには書けないが、
「あぁ、僕は何かに属していないからこそ、
 こうやって書いたり話したりできるんだ」
と改めて認識した出来事だった。


▼▼▼リーダーは孤独▼▼▼


話を戻そう。

僕と2人の間には大きな溝があり、
それは「大きなものを背負っているかどうか」だと書いた。
じゃあなぜ2人は、
僕を少なくともこの場所にいさせてくれているのだろう、と。
まったく用なしなら2人でサシで話せばよいわけで。

背中がスースーするなー、
とりあえず何か背負いたいなー。
さっきグレゴリーのデイパック、
荷物入れに入れなきゃよかったなー、
なんて思いながら考えた。
なぜ僕なのだろう、と。
なぜここにいるのが、
もうひとりの何か大きな責任を背負ったリーダーじゃなく、
背中がスースーしている僕なのか、と。

3人でいろいろ話しながら、
「もしかしたらこれかな」と思った。

それが「孤独」だ。

リーダーというのは孤独だ。
僕も人生の中で、
大規模ではないが何度かリーダーを務めたことがあるので、
少しだけ想像できる。
まして2人が背負うものの大きさを考えたとき、
その孤独の大きさに僕は思いを馳せた。

そうすると、僕は思った。
僕もまた孤独なのだ、と。


▼▼▼LIGHTHOUSEの星野さんと若林さん▼▼▼


『LIGHTHOUSE』というNetflixの番組を見た。
星野源さんとオードリーの若林正恭さんが対談する番組で、
べらぼうに面白くて一気に見た。
天才と天才の対話。
HSPとHSPの対話。
繊細の爆発。
面白くないわけがない。
妻も一気に見た、と言っていた。

そのなかで二人が、
「周囲に誰もいない」という経験について話していた。
二人は「芸能」という大ジャンルこそ同じだが、
カテゴリはまったく異なる。
星野さんはミュージシャン、
若林さんは芸人、
というのがパブリックな意味での二人のカテゴリだ。

でもね。

この二人がなぜこんなに共鳴し合うのかは、
『LIGHTHOUSE』を見ると分かるのだが、
二人が「孤独」だからだ。

まず星野さん。
星野さんは売れない時代に阿佐ヶ谷の風呂なしアパートに住んでいた。
「絶対に売れてやる」という、
痩せた野良犬のような野心とこの世への復讐心を滾(たぎ)らせながら、
星野さんはひとり部屋で小さな音で作曲していた。
しかしファンならよく知ってることだが、
星野さんは音楽と同時に役者の道も同時に志し、
劇団員と役者論について話し合ってもいた。
それから星野さんは「文筆家」の一面も持っている。
ちなみに彼の『蘇える変態』と、
『そして生活はつづく』は名作だ。
俳優としてや音楽家としての星野さんのファンには申し訳ないが、
僕はそれら二つがいまいち「ハマって」なくて、
文筆家としての星野源を一番尊敬している。
(『LIGHTHOUSE』で、
 音楽家としての星野さんの評価は爆上がりしたが)

次に若林さん。
若林さんも売れない時代に風呂なしアパートに住んでいた。
春日の「むつみ荘」は有名だが、
実は若林さんの家賃のほうが安かったのだ。
星野さんという野犬が阿佐ヶ谷を徘徊していたころ、
若林さんもまたひといちばい大きな恨み辛みを心に滾らせ、
阿佐ヶ谷や高円寺界隈を徘徊していた。

痩せた野良犬は二頭いたのだ。
二人は保健所職員に捕獲されることなく、
ちょうど同じ頃にスターダムにのし上がった。
若林さんはM-1グランプリ2008敗者復活からの2位でお茶の間の人気者になり、
ミュージシャン・俳優として爆売れした星野さんは、
2015年に紅白歌合戦に出場するまでになった。


▼▼▼道をつくりながら歩く▼▼▼


二人の「共通項」とは何か?

それは、
「道がない場所に自分で道をつくりながら歩いてきた」
ということだった。
『LIGHTHOUSE』を見るとよく分かる。

星野さんは100万回ぐらい先輩のミュージシャンから、
音楽一本に絞れと言われ、
先輩の役者から、俳優一本に絞れと言われた。
「なんで文章なんて書いてるの?
 なんで役者か音楽の一本に絞らないの?
 分散するよ?
 どれも中途半端になるよ」と。
星野さんはそれらのアドバイスを無視することを選んだ。
「表現する」ということで、
歌と演劇と文筆はつながっていて、
それらは自分のなかで「ひとつ」なのだから、
なぜ一本に絞らなきゃいけないのか。

芸能の世界に入ってからも、
100万回ぐらい「前例がない」と言われた。
今も言われ続けているという。
でも、上を説得してやらせてもらうと、
けっこう成功したりする。
そうすると二番煎じ、三番煎じで真似する人たちが現れる。
そうなると自分自身はそれに興味がなくなり、
次の「新しいこと」を生み出そうとしてしまう。

そういった性分を星野さんが話しているとき、
若林さんは首がちぎれそうなぐらい激しく同意していた。

「分かるぅぅうぅぅうぅぅぅーーー!!!!」

若林さんもまた、
型に押し込もうとする周囲の声をはねのけながら、
今の唯一無二の芸風と、
ラジオやライブや文筆といった、
彼の特殊能力でしかできない表現を磨き上げてきた。
「なんでひな壇やらないの?
 なんでリアクション芸やらないの?
 受け身とれないとこの世界でやってけないよ。
 分かりやすいパンチラインとか必要だと思うよ」
全部、やろうとしたけどできなかった。
でも、それが出来ないことの中にこそ、
若林さんの持ち味があることは誰も教えてくれなかった。
誰も教えてくれないから、自分で自分を肯定するしかなかった。

若林さんもまた、
「道のないところに道をつくりながら、
 その道を歩く」タイプの人だったのだ。

『LIGHTHOUSE』の二人の会話のグルーヴ感というか、
なんとも言えない心地よさはここから来ている。
つまり、二人が「孤独」だからこそ、共鳴できているのだ。

二人が番組で言っていたけど、
暗い海を照らす「灯台(ライトハウス)」が、
この番組のテーマだが、
実は灯台はその足元が一番暗い。
そういう「ことわざ」もある。
遠くからの目印になる存在は、
足元では不安と戦いながらいつも震えている。
その震えや不安や葛藤や孤独な戦いが、
共鳴するからジャンル違いの二人は互いに「盟友」と思っているのだ、
というのがよく分かる。


▼▼▼暗夜の航海者▼▼▼


さて。
そろそろ先月の札幌の夜に戻ろうか。

土畠君と結君。
二人ともあまりにも大きなものを背負っている。
比較だけで言うなら、僕は背負っていなさすぎる。
でも三人で会話を深めていくうちに僕は、
実は僕にも共通点があることに気付いた。

それが「孤独」だった。

あまり自分で言うのは憚られるが、
僕はけっこう孤独だ。
道なき道を15年近く歩いてきた。
次に何をすれば良いか指示してくれる人なんて誰もいない。
自分で考え、自分で行動し、失敗したら自分のケツは自分で持つ。
「来年も収入があるかどうか分からない」を15年続けたのだ。
そういう生き方はけっこうしんどくもある。
本当に不安で、眠れない夜もたくさんある。

僕は自分の言葉を「ブロードキャスト」している。
それを「灯台」と思ってくれている人が世界に何人いるか分からないが、
ゼロではないことを僕は知っているから、
これまで書き続けてきたし、話し続けてきた。
でも、星野さんたちが言うように、
そういった存在の足元は恐ろしく暗い。
本当に暗いのだ。

自分は誰かの「灯台」かもしれない。
星野さんたちと比較したら規模は極小だが、
それでも僕は、生意気かもしれないが、
そういう自覚と小さな矜持を持ってやってきた。
でもずっと、僕自身は灯台を持たない状態で、
暗い海を航海しているという気持ちなのだ。
これが僕がもはや「旅の道連れ」のように思っている、
「孤独」の種類であって、
組織のなかで生きている人には、
説明して分かってもらえるものでもないし、
あんまり分かる必要もないと思う。
こんなの、誰しもが経験しないほうが良い。
心を病んじゃうから。

ひるがえって大きな組織の責任を負う友人二人。

彼らもまた、他の人には、
絶対に理解できない孤独を味わってきたのだろうな、
いや、今もそれを味わっているのだろうな、
そしてそれを味わっていることを悟られてもいけない、
そういう再帰的な孤独を抱えているのだろうな、
と僕は類推するのだ。

組織のリーダーというのはその定義からして、
誰も「次にすべきこと」を指示してくれないのだ。
道なき場所に道を造るしかない。
次のページを、いつも震えながら開くしかない。
失敗したら自分のケツは自分で持つしかない。
成功しても誰も褒めてくれないことも多いだろう。
相談できる相手が誰もいないようなことも多いだろう。
眠れぬ夜もあるだろう。
休日も脳がどこかでは休まっていないだろう。

組織のリーダーもまた「灯台」なのだ。
自らが灯台であるということは、
自分が参照すべき光源を持たず、
暗闇を航海する道を選ぶということなのだ。

これは僕には決してできない類いのことで、
上ろうとして2合目で燃え尽きた僕からすると、
彼らを心から尊敬する。
ついでに組織に属して生きる人の苦労も、
僕には耐えられない種類の苦労なので、
おそらく数としては最も多いその方々も、
僕は心から尊敬する。

とはいえ、「リーダーの孤独」というのは、
組織に属する孤独よりも案外、
「フリーランスの孤独」に似ているのだ。

この「孤独」が共鳴するから、
二人は僕と話してくれているのかもしれない。
僕はそう思った。

まったく違ってたら恥ずかしいが、
僕はそう思ったのだ。
でも、光源を持たず暗夜を航海することの「ご褒美」は、
同じく暗夜を航海する他者と響き合う夜に、
たまらなく報われた気持ちになる、
ということなのではないだろうか。
星野さんと若林さんの会話を聞きながらそう思ったし、
あの日「三人の会」の多幸感を反芻しながら、
僕はそういうことを考えたのだ。

すべての「暗夜の航海者」にこの文章を捧ぐ。

終わり。



*********
参考文献および資料
*********
・『リハビリの夜』熊谷晋一郎
・『蘇える変態』星野源
・『そして生活はつづく』星野源
・『社会人大学 人見知り学部 卒業見込み』若林正恭
・『フリーエージェント社会の到来』ダニエル・ピンク
・『LIGHTHOUSE』Netflixドラマ


+++++++++++++++++++++
『とある氷河期世代・フリーランスの絶望日記』最新記事は、
以下の無料メルマガを購読していただきますと、
毎週あなたにメールで届きます。
よろしければご登録ください!


NGOの活動と私塾「陣内義塾」の二足のわらじで生計を立てています。サポートは創作や情報発信の力になります。少額でも感謝です。よろしければサポートくださいましたら感謝です。