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医療と宗教(2)寺社仏閣のポテンシャルについて考える

前書き

 宗教にも関心がある医療者としての希望的観測かもしれませんが、新時代の医療として、病院とはまた別の機能を持つ安らぎの場として寺社仏閣や教会などが大きな役割を果たすのではないかと考えています。いや、果たして欲しいと願っています。以下長くはなりますが、お付き合いいただけたら幸いです。
 また、こうしたノートの公開は対話の意味合いもあるため、ご意見やご感想などお伝えいただけたら幸いです


既存の医療:病院で出来ることと出来ないこと

 そもそもこういった思索をしているのは、病院とは違った形の癒やしの場の必要性を日々感じているからです。それは研修医として働く以前から予感として持っていたものでした。医療と宗教に関しての記述は前回の記事を参照していただけたら幸いです。

Note:医療と宗教(1):霊的な健康は誰が診るべきか?

 前回での記事をざっくりとまとめると、
◯終末期医療の領域では定着しつつあるスピリチュアルケアは、プライマリケアや、そもそも身体や心が健康な人の中にも必要な視点なのでは?という提案。
誰しもが「生きる意味への問い」に向き合う必要性がある。また誰かの「生きる意味への問い」をサポートする場合、それは医師が行うのか宗教者が応えるのか。「生きる意味への問い」とどう向き合っていけばよいだろうか?という問題提起。
 こういった点について前回は触れました。
 また最近、興味深い出会いがあり、サンガ出版が主催する心身変容技法セミナーで稲葉俊郎先生を知りました。そこから「いのちはのちのいのちへ」を読み、大いに影響を受けたのでそちらについても説明していきます。


稲葉俊郎先生が紹介していた健康学の話


 医学の道での大大大先輩の稲葉俊郎先生の著書に、僭越ながら我が意を得たり…と唸ってしまった文章があったので、まずは、いのちはのちのいのちへから引用します。

 私自身、医療現場で働いていて足りないと思う点は、「健康」に関する多角的な視点と糸口だ。
 近代医学が誇る西洋医学は「病気学」を中心にしたものだ。
 …(中略)…
 ただ、病気の原因はあまりにも多様で複雑であり、慢性期での問題の解決において一筋縄でいかない場合が多い。だからこそ、病気学の視点に、「健康学」としての視点が重なり補い合うことで、医学や医療はもっと一人ひとりに寄り添うことができるものになるのではないかと思う。

稲葉俊郎,新しい医療のかたち いのちは のちの いのちへ,アノニマススタジオ,2020

 稲葉先生の言葉を借りると、病院は病気学、疾患を治すという思想のもと成り立つ組織です。身体の悪い部分に焦点を当て、それを取り除くと病気が治るという発想で、現代医療的な考え方といえるでしょうか。一方で、健康学は、東洋医学や伝統医療的な考え方が背景の哲学としてあるもので対比されます。全体を整えていくことで結果的に健康に立ち返っていくようなイメージです。直接的なアプローチというよりは、全体的、間接的、有機的な繋がりをもったアプローチによって、自ずと健康に立ち戻っていくのです。
 また、稲葉先生は古来、日本において健康、つまり心身における問題についての向き合い方は様々な道、芸術に昇華させることで受け継いできたのではないかと指摘します。その根拠の1つとして、世阿弥「風姿花伝」の文章を紹介されていました。
 

 秘義に云はく、そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさむ事、寿福増長のもとゐ、遐齢延年(かれいえんねん)の方(ほう)なるべし。極め極めては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり。ことさらこの芸、位(くらゐ)を極めて、家名を残す事、これ、天下の許されなり。これ、寿福増長なり。
世阿弥「風姿花伝」奥義讚歎云
 ※参考:https://roudokus.com/Fushikaden/05.html
現代語訳 
 秘伝に言う。そもそも、芸能とはあらゆる人々の心を豊かにし、あらゆる階層の観客に同じ感動を生み出させるのだ。そして、それが、長寿と幸せを増大する基となり、長寿の方策となるのだ。究極的には、あらゆる芸道はすべて、寿福延長を達成させるものであろう、とも言われている。特に申楽の芸で、最高の芸位に達して子孫に家名を残す事こそが天下に名手として認められることだ。これこそが能役者にとっての寿福延長にもなるのだ。


 これは私にとってかなり納得感のある説明でした。私はフルコンタクト空手道の稽古を続けていますが、型などの鍛錬によって重心を整えていく事で心身の機能は研ぎ澄まされていきました。仕事で疲れた身体で稽古に行くと不思議と元気になって帰ってくるような経験も少なからずあります。
 また、弓道において、正射必中という教えがありますが、正しい型を極めれば、おのずと望まれる結果が導かれる(必ず的に当たる)という意味合いであり、健康学と同じ思想に基づいているように感じます。
 このように健康に立ち返る場所。万人が癒される場所。そんな健康学に基づいた場所が、既存の医療を補完してくれるのではないでしょうか。そして、その健康学としての知識体系は様々な芸能や伝統文化の知恵を現代にフィットするようアップデートすることで、創造出来るのではないでしょうか。

やまいの根本にアプローチしたい 

 病院はそこに来る人を助ける、いのちを救っていくという社会基盤として極めて重要な役割があります。ただ、病院での医療というものは、きりのない戦いと感じることもあります。医療の進歩、様々な職種の方々の尽力があって、多くのいのちを終わらせずに繋ぐことが出来るようになってきています。特に、癌治療の進歩などは目をみはるものがあります。しかしながら、川から水をすくっても手の隙間から零れ落ちていくように、医療従事者の方々が日々いのちを削って診療にあたっても、次から次へと病んでいる人々が病院にはやってきます。出来る限りのことをしても疾患が重篤化していく人、精神を病んで自死を試みる人、疾患を乗り越え社会復帰を試みるも様々な障壁から復帰出来ずにいる人など、その様子を見て、つまるところ我々がしている医療とは、ある意味では対症療法に過ぎず、そもそもの未病の段階で、健康でいられるための仕組みづくりがもっと必要なのではないかと感じずにはいられません。病院で医師として働いていると、目の前の病気の方、病気になった今からどうするかを考える事ばかりに目が行ってしまいますが、大それた理想を敢えて言うなれば、そもそも多くの人が病院に来なくても済むような世界を創造したいと私は願っています。そういう意味で、人々が健康でいられるための仕組み、健康に生きていくことを支える社会基盤がどうも欠けているように思うのです。ただ、健康に生きていくための社会基盤とは、単に公衆衛生学的なことにとどまらず、文化、教育、経済、政治等々ありとあらゆる分野にまたがる課題であり、大きすぎるテーマかもしれません。もちろん、予防医学という視点に絞ったとしても、啓発活動など精力的に行っている方々は既に数多くいることでしょう。それに加えて、そういった予防医学のひとつとして、新たな医療として、これまでの医療という枠組みを超えたアプローチが必要であるように感じています。その一例としてこの記事では、寺社仏閣のポテンシャルについて考えていきたいと思います。


寺社仏閣のポテンシャルについて考える

①場そのものの力
②職場とも家とも違うもうひとつの居場所
③対話の場としての機能

①場そのものの力

 再度、稲葉先生の本から引用しますが、

 頭の理屈を超えて、自然に体や心が「健康」を感じられる豊かな場のひとつは、「自然に体や心がゆるんでしまう場」でもあるだろう。では、あなたの体や心が思わずゆるんでしまう場とは、どういうところだろうか。

 稲葉俊郎,新しい医療のかたち いのちは のちの いのちへ,アノニマススタジオ,2020

 この問いに対して、稲葉先生は、温泉、銭湯、寺を例示している。寺社仏閣については以下のようにも述べています。

 もともと、寺社仏閣が経っている場所は、植物や木が生き生きとした生命力に満ちた場を発見したことに始まったのだろうし、場を守り、場を保ち伝えるために鎮守の森として大切にしてきた場が神社・寺などの聖域と呼ばれ、受け継がれてきた。
 自然の力は私たちの「からだ」や「こころ」、「いのち」の力を呼びさまして、眠れる無意識を活性化させる。自然が持つ奥深い力の働きの一環として、体や心はゆうみ、和らぎ、伸びやかになり、大いなる生命に守られているようで安心する。
 稲葉俊郎,新しい医療のかたち いのちは のちの いのちへ,アノニマススタジオ,2020

 この場の力はやはり名状しがたい威力を感じます。私自身が場の力を強く感じたのは、2019年、鎌倉の建長寺で開催されたZEN2.0に参加した時です。安らぎというか、澄み渡った環境に自ずと気持ちもゆるんできます。藤田一照先生のセッションで会場でシャバアーサナ(死体のポーズ)と呼ばれるヨガのポーズで瞑想する体験をしました。この時の瞑想は、これまでどこで行った瞑想よりも深く、心地よかった…。どうしてこんなに瞑想が深まったのだろうと思い、先生に講演後に質問に伺ったところ、場の力はあるだろうね。と仰っていたのが印象深いです。寺社仏閣、教会といった聖地は、聖地であるがゆえに、場として、人々を安らぎに導く力があるのでしょう。


②職場とも家とも違うもうひとつの居場所
 寺社仏閣を人々が集まるコミュニティースペースとして捉えた時、職場とも家とも違うもうひとつの居場所として、つまりサードスペースとしての機能があるのではないでしょうか。
 これは、以前の記事でも紹介した、学生時代に勉強会を実施した北海道のとあるお寺さんでの経験ですがが、そちらのお寺さんは大きな談話室があり、お寺でありながら地元のコミュニティスペースとしても機能していました。時に講話を聴いたり、お勤めもしながら、地元の檀家さん達が自由に出入りし、お茶を飲み、談笑し、それぞれが差し入れをしてくださったり、掃除などもしてくれていたりします。こちらのお寺の場合、ご住職の人柄による部分が大きいようにも思いますが、自然と人々が集うため、人口が決して多いとは言えない北海道の町でありながら、孤立感、孤独感の少ない温かさがありました。お寺に集まる方々に実際に伺うと、集まってくる理由は様々で友達に会いに、元気な顔を見せたい、こうして集まってお話するのが生きがい、など至って平凡で、信仰心はそこまで関与していないようにも思います。他の地域との比較がある訳ではありませんが、こういったゆるい繋がりというか、コミュニティがあることで、抑うつや様々な慢性疾患のリスクが軽減しているように思います。こういったコミュニティがどの地域にもあったら良いのに…と思ってしまうほど素敵なお寺でした。
 家でも職場、学校でもない、もう1つの居場所がある時、家や職場でのストレスを逃がす場として活きてきます。たとえばこうした場は、精神科デイケアをより地域に根ざした形で実施出来るかもしれません。精神科デイケアとは、心の病気がある方の再発予防や社会復帰のためのリハビリテーションのことです。鬱や統合失調症などを患った人にとって、入院治療と日常を繋ぐ場として精神科デイケアがある訳ですが、デイケアから日常に戻ったとしても、また体調を崩し、入院に戻ってくる方も少なくありません。そういった方々が医療的なケアが必要になる前の安らぎの場として、寺社仏閣が居場所として支えになるかもしれません
 たとえば、私の友人で、教会のコミュニティの支えから社会復帰を果たした方がいますが、彼にとって教会での教えはもちろんですが、コミュニティそのものによって癒やされた部分も少なからずあるように思います。次会った時に詳しくお話を聴いてみたいです。
 依存を乗り越える方法として、潰れずに生きる方法として、依存する先がたくさんあるほうが良いという考え方があります。居場所はあればあるほど良いはずです。


③対話の場としての機能
 居場所そのものに加えて、対話という要素もまた重要でしょう。対話の場として、寺や神社、教会のような落ち着いており無意識に安らげる場所は適しています。精神科領域では、フィンランド発のオープンダイアローグという手法が近年より注目を浴びています。ウィキペディア参照で恐縮ですが、

オープンダイアログとは、患者やその家族から依頼を受けた医療スタッフが、24時間以内に治療チームを招集して患者の自宅を訪問し、症状が治まるまで毎日対話する、というシンプルな方法で、入院治療・薬物治療は可能な限り行わない。患者を批判しないで、とにかく対話する、などのルールがある。統合失調症患者は(創造的である反面、極言すれば病的でもある)モノローグに陥りやすく、そこから開放することを目標とする。

 大雑把に言えば、否定や批判をせずとにかく対話する、といったシンプルな手法ですが、非常に効果をあげているようです。そして、このような批判や否定をしない対話は精神疾患の患者に限った話ではなく万人が求めているものであるように思います。

カフェで対話の場をつくっている人達
 たとえば、西国分寺駅にあるクルミドコーヒーは「朝もや」というテーマトークを交えた哲学に関する対話型のイベントを長期に渡って実施しています。下記公式の説明文ですが、

クルミドの朝モヤとは、月に2~3回、日曜日の朝9~11時 珈琲を片手になにやら始まる会。
「正解」のない問いについて、自分や他人の声に耳を傾け、言葉を交わす場です。会が終わった後も、そこでのやりとりについて考え続けてしまったり何かふとした瞬間に、「はっ!そういえばあれってこれと関係あるかも…」などとひらめいたり。会の最中もその後も「モヤモヤ」するということで、いつの頃からか「クルミドの朝」改め「クルミドの朝モヤ」と呼ばれるようになりました。

参照:クルミドコーヒー

 私も実際に参加しましたが、職場でもプライベートでもない場で、立場や職種を超えて話をするというのは非常に新鮮で、心地よいものでした。日曜日の朝というなかなか寝ていたい頃合いではありますが、コロナ以前はカフェが超満員になるほど、人々が集まり対話に耳を傾けていたようです。それほどに、人々は対話を求めているのでしょう。また、対話と居場所はセットのようで、人々は対話を求めていると同時に、通う場所があることを求めてもいるように感じました。他の参加者さんから、この集まりがあったから仕事を頑張れたとか成長出来たといった話も聴きました。また、良いグルーヴ感、良い対話が生まれる秘訣はなんだろう?とその場にいる方々と考えた結果、1つは、適切なグラウンドルール。たとえば、否定や批判をしないとか、話は最後まで聴くとか、説得しない、何かを変えようとしない、オープンダイアローグではポリフォニーを尊重するといった言い方をされたりもしますが、そういった対話をする上での共通ルールを決めておくことです。もう1つが、良い場所で対話をするということ。クルミドコーヒーは、木の温かみのある内装で、入った瞬間に気持ちが和らぐ素敵なカフェでした。そうしたカフェで対話する文化が広まってくれたら良いですが、記事のテーマに戻ると寺社仏閣もそういった対話の場として機能して欲しいと考えています。寺社仏閣や教会もまた、気持ちの和らぐ対話に適した場所であるように思います。
 少し話はそれますが、詳しくはクルミドコーヒーのオーナー影山知明さんの著書、ゆっくりいそげに譲りますが、欧米ではカフェが文化の成熟させる場として機能していました。カフェでの対話は文化を成熟させる社会基盤としても機能していたのでしょう。

 では、日本で文化を成熟させる場として機能していたのは?と考えると、「寺子屋」や茶道、書道、華道などの芸能や「道」、そしてそれらの理論基盤として禅哲学や仏教哲学に繋がっていくように思います。そういった意味合いで、寺社仏閣が対話の場として再び機能していくことは、文化を成熟させることにも繋がっていくのかもしれません。

寺社仏閣のポテンシャルから期待したいこと

 ということで、上記のような、場そのものの力、サードスペースとしての機能、対話の場としての機能から全国10数万の寺社仏閣に期待することは、
◆コミュニティスペースとしての間口を広げて欲しい
◆リワーク、社会復帰へのクッションになるサードスペース機能を発揮して欲しい
◆仕事や学校にいけなくても通える居場所としての機能して欲しい

と誠に勝手ながら想像しています。
 人々は対話を求めているという話に戻ると、解決までいくかはさておき、悩みを共有し対話出来る場が現代ではそもそも少ないのかもしれません。習い事や趣味、ボランティアもしくは地域の活動など上手く人間関係をつくれる人なら別ですが、都市部に住んでいると、助けを求められる場所として浮かぶところが正直あまりありません。そもそも職場と家の往復でほぼ日常が完結してしまうという方は多いのではないでしょうか。職場の問題や家庭の問題など、悩みの中には外部の介入を必要とするものもあるかと思いますが、そもそも問題に気づけるネットワークが必要であると感じています。森川すいめい先生が自殺希少地域を訪れたフィールドワークをまとめた「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」に詳しいですが、必ずしもネットワークは蜜である必要はなくむしろ数が多い方が良さそうです。
 地域にもよるのかもしれませんが、寺社仏閣はお参りに行く分にはそこまでハードルは感じませんが、まだまだ住職さんやそこに集まる方々とお話する場として通うにはまだまだハードルが高いように思います。コミュニティースペースとしての間口がもう少し広まってくれたらと願っています。今は、お寺の大きな居間を使ってヨガ教室をしたり、ワークスペースとして活用してもらうような活動も増えているようではあります。
 寺子屋ブッダはそういったプラットフォームとして地域の人々と地域のお寺を繋ぐような活動をされているようで注目しています。こういった活動がより活発になっていくことを願っています。

 

 また、寺社仏閣や教会が、病院での治療が必要となる前に人々の癒やしの場としての機能したら、 疾患と共に生きる人々の心の支えの場としての機能したら、病院が必要なくなってくるように思います。現にフィンランドでは、オープンダイアローグの手法の普及によって、統合失調症の再発率を激減させました、つまり入院病床のニーズが激減した訳です。この実例からは病院が必要なくなるというのも全くの夢物語ではないのかもという期待がもてます。心筋梗塞や心不全、腎不全、糖尿病など、生活習慣やストレスが大きく関与している疾患に関しても、よりストレスマネジメントがしやすい環境をつくっていくことができれば、未病に防ぐことも出来るかもしれません。
 リワーク、社会復帰へのクッションになるサードスペース機能、仕事や学校にいけなくても通える居場所としての機能についても非常に期待しています。不登校やひきこもりと言われる子どもたちは少なからずおり、彼らが生きやすくなるような環境づくりは教育の場の方々が日々尽力くださっていることと思います。またひきこもりの高齢化が進んでいるとも言われており、家から出ない生活をしている人は子供に限った話ではなくなっています。そういった人々が、学校や仕事という訳でなくとも、なんとなく通う場所として、寺や教会が機能してくれれば、そこを足がかりに社会に馴染んでいく手助けになります。また、同様の理由で、うつ病や適応障害などで離職した方が職場に復帰する上での足がかりになる場としても、地域の寺社仏閣はいい場になるように思います。今は学校に行かなくても、e-lerningや通信制の学校、塾や予備校などを利用すれば勉強自体は問題なく出来てしまうかもしれません。が、社会との繋がり、ひととの関わり方という面では、対話する場があった方が良いように思います。適応障害や発達障害、自閉症スペクトラムやADHDと診断される子供達、若者たちは、たしかに他の人が出来ることが上手く出来ないという側面はありますが、一方で、非常に繊細かつ型にはまらないものの捉え方をもっており、上手くサポートし、社会に適応できる形に支えていけば、とてつもない功績をあげる大いなる可能性を秘めているように私は思います。Appleのスティーブ・ジョブズが発達障害だったのは有名な話になりましたね。ちなみに、医学生、ひいては医者はADHD、自閉症スペクトラムの傾向がある人が本当に多いです。私はじめ医師は勉学への過集中やこだわりが良いように社会に適応出来た例かもしれません。

考えうる批判的側面や課題

 地域の寺社仏閣、教会をよりオープンな場にしていこうという、上記ようなアイディアに対して、今度は考えうる批判や課題について考えていきたいと思います。

コロナによる影響

 新型コロナウイルスの流行により、社会は変わらざるを得ない状況に追い詰められました。外出へのハードルがあがり、人々は分断されていきました。地域のコミュニティスペースだけでなく、精神科ショートケアなど医療機関であっても、なるべく人が集まらないようサービスを中断を余儀なくされていました。病院や地域のクリニック通いを居場所の1つとして活用していた高齢者の方々には、病院はなかなかリスクが高く近寄り難い場所になってしまったようです。そもそも必要以上に病院受診をすることに関する批判はこの際置いておきますが。これまで、軽症であっても病院受診して不安を吐き出していた人々が病院に受診することも恐れてしまった場合、その人々はどこへ行くのだろうかとふと疑問に思うことがあります。そういった日々の不安を分かち合い、対話する場があったら彼らも心穏やかに過ごせるのではないかと。もちろん、人々が集まること自体がリスクになった情勢ではありますが、病院に集まるよりは、他の場所に集まった方がまだリスクは少ないようにも思います。

 コロナウイルス流行によって自殺者が増えたという報道がされていましたが、経済的に追い詰められるだけでなく、この閉塞感、感染への恐怖といったストレスが精神を蝕んでいるようで、精神科領域では患者さんが体調を崩す人が増えており、小児科でも様々な不定愁訴が増えている印象です。この点については、日本小児科学会が精神的ストレスについて警告しており、学校での日常生活を維持するよう呼びかけています。
参照:新型コロナウイルス感染症の流行拡大から子どもの生活を守りましょう (http://www.jpeds.or.jp/modules/guidelines/index.php?content_id=127)
 また、コロナウイルスの流行によって世界的に摂食障害の増加、増悪を招いているとの報告はされているようです。COVID-19パンデミックが摂食障害のある人に及ぼす影響をSNSの投稿から分析 
 コロナウイルスの流行により、よりストレスとの向き合い方の重要性は感じられていることと思います。感染によって分断、孤立が進んでしまった時代だからこそ、ゆるく繋がれる場が求められるようにも思います。

宗教や信仰に対する問題
 寺社仏閣をコミュニティスペースにとなると、一番のネックは、日本人の宗教に対するタブー視、信仰の強要される心配する部分でしょうか。コミュニティースペースとしてのハードルを下げるには、少なくとも信仰を強要する場になってはならないというルールは明確にしておいた方が良いかもしれません。もちろん、問題解決や悩みを乗り越える上で、各宗派の教えや考え方が役に立つことは多いにあるでしょう。そういった意味では、宗派特有のやり方はあっていいと思いますが、ルール設定はあった方が安心感はあります。
 上記しましたが、北海道のお寺では、ご講話を聴くことはありますが、なにか入信や出家を要求される訳では全くありません。それぞれが好きに集まって、好きに話を聴いて、茶菓子を食べたり、食べ物を持ち寄ったり、お話しているのです。コロナ以前だったので、カラオケをしている時もありました。写経や読経、瞑想教室などそういった目的がはっきりした集まりもそれはそれで良いのですが、無目的であり対話もまた強制されることなく、居場所として機能していることが重要かもしれません。誰かの会話に耳を傾けることもまた癒やしになりえます。
 クルミドコーヒーの朝もやにも通じますが、つまるところ適切なグランドルール設定さえあれば、暴走化は防げるのではないでしょうか。説得や何かを変えることを目的とするのではなく、対話を続け、広げ、深めることで主観を共有していくことに重きを置きます。
 経験しないとイメージしにくいかもしれませんが、対話の心地よさとはそういった前提のもとに成り立ちます。この前提を明確にしている限り、信仰の強制などはなかなか起き得ないはずです。

コミュニティ形成は行政の仕事では?
 コミュニティ形成というニュアンスでは既にそういったサービスは地域行政として行われているものなのかもしれません。そちらに関しては私は不勉強と言わざるを得ないので、もしこの記事を読んだ行政の立場からこういったコミュニティ形成を行っている方がいるのであればぜひ活動内容を教えていただけたら幸いです。
 たしかに、上記の対話の場としての機能は、コミュニティーセンターで行われるサークル活動や自治会などは近いニュアンスがあるのかもしれません。サークル活動などに参加出来る人はそれでも良いでしょう。
 今回提案したいのは、既に行われている活動を否定するつもりはなく、新たな選択肢として寺や神社、教会などにも広がっていけばいいなという話です。
 また、復職支援という点では、行政との連携もできれば非常に心強いです。復職支援に理解ある企業の協力があったらなお心強いです。急性期は病院でみる。治ってきたら、行政のサポートの元、復職支援のプログラムやリハビリを利用、日常に戻ってからの居場所として地域の寺や神社も頼れる…といったように、双方向に連携が取れたら理想的です。
 住職さんや牧師さんなどは疾患のプロではないので、困ったとき、これは医療が必要だなと思った時に、医療従事者にヘルプが出せるような連携もあるとお互いに心強いかもしれません。 

誰を対象とした場にするのか?
 こういったサードスペースを形成するにあたってどのような人を対象とするのかは一つ考えるべき課題になります。
 引きこもりや不登校、復職支援や依存症支援などまず支援が必要な人々がなんとなく集まれる場となることが1つの願いではあります。
 また、一方で実は誰にとっても対話の場、それも固定された家庭や職場のコミュティ外での対話の場は必要なものであり、必要な時間だとも思います。
 これらをすべてを包括する場としてしまっていいのか、散漫になることを防ぐためにもっと目的を絞るべきかは大変悩ましいです。
 上記したように、学校や職場でも家庭でもないサードスペースとしてのコミュニティは多くの領域のハブになる役割も持つ可能性があります。様々な縁が繋がり、地域の人々が豊かに暮らせるように、寺、神社、教会が大きな役割を果たす…そんな社会になったら良いなと願っています。


その他言いたいこと


 私自身、武道、芸術、音楽、寺社仏閣や自然、繊細な人々の心遣いによって救われて生きてきたように思います。考えてみると、病気になって病院に行って治った経験よりも、やまいに至る手前で幸いにもそういった様々な縁に癒やしていただいていた経験の方が圧倒的に多いです。
 一見ささやかな支援であっても、それによって誰かの心が癒やされる、何かを生み出すエネルギーを生む事はあるように思います。
 ということで、寺社仏閣のポテンシャルについて考えてみました。一緒に寺で面白いことしたいですね。一緒に考えてくれる人、一緒になにか始めてくれるお寺さん、教会さん、大募集です。お気軽にご相談ください。

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