ロージナの風：武装行儀見習いアリアズナの冒険　＃1

第一章　解帆：1

　ロージナの海は青く輝き、見晴るかす水平線の彼方まで島影の一筋、雲の一吹きすら目に入ることはなかった。
宇宙空間まで遮るものの一切無い空には澄みきった大気が満たされ、辺りには弾けるような光の粒が眩しいばかりに笑いさざめいるように思えた。
わたしに視覚を聴覚に変換するなんて能力があれば、屈託のない子供たちの上げる歓声と生きる喜びに溢れた歌声が、風音に乗って耳に届いたに違いないね。
うん、きっとそう。
　航空船はわたしたちの母なる惑星ロージナ、その海抜三百メートル上空をあまねく取り巻くフィールド平面上を帆走する空の船だ。
空には海と違って波もうねりもない。
だから航空船は遮るものが何もない大空で易々と風に乗る。
そうして張り切った帆に力を漲らせて揺れも音もなく、氷の上を滑る様に航走していくんだ。
　航空船を地上から見上げると、船底に大きく張り出した水平帆がまるで鳥の羽だし、シルエットはクジラと言うよりはペンギンだね。
その意味でもまったく船と言う感じがしない。　　　　　　　　　　　　　　
ビジュアル的にもフィールド上を滑走しているのではなく、空中を飛行しているようにしか見えないし。　　　　　　　　
こうして航空船でフィールド平面上を渡って行く船旅は、航海船のそれとは違って辛い船酔いとは無縁だ。　　　　　　　　
航空船は空を飛ぶように進んで行くけれど、飛行機械や気球みたいに上昇や下降はできない。
その代わり重力に引かれて墜落する心配もない。
航海船が沈むのは、船の浮力が星の重力に負けちゃう時だからね。　　　　　　　
嵐で難破して沈没っていうアクシデントも、航空船じゃ起こらない理屈だよ。　
ただ、うっかりさんが航空船の船べりから落ちようものなら海面か地上までまっさかさま。
いっかんの終わり。　　　　　　
航海船のように浮き輪を投げてもらって一安心、という訳にはいかない。　
それでもこうして手摺の外に大きく身を乗り出し、見晴かす彼方で輝く水面に視線を投げかければ、鮮やかな群青がわたしを包み込み心地よい海風が頬をうつ。　　
海にあっても空にあってもロージナの風は変わらない。
わたしは頬を風に嬲られるままそっと瞼を閉じた。　　　　　　　　　　　　　
そうして豪華客船の甲板でデッキチェアのクッションに身を任せ、気だるい午睡に浸る自分を夢想してみたの。　　　　　　『もうしばらくしたら氷の入った冷たいソーダ水を頼みましょう。夕餉のデザートにアイスクリームはでるかしら？』　　　
我ながら色気の無いことだったけれど、話に聞く先進科学がもたらす涼味と甘味への夢想が風船みたいに膨らんだ。
　修学旅行で首都のトランターに行ったのをカウントしなければ、今わたしは故郷の音羽村から本当に遠くまでやってきたことになる。　　　　　　　　　　　　　　
いやいやながら船に乗ってはいるけれど、この先もしかしたら何処かの港街で憧れの氷入りソーダ水や冷たいアイスクリームにありつけるなんて幸運に恵まれるかもしれない。
望みもしないのに船に乗せられて、田舎からのそのそ這い出てきたんだ。　　　　
そうした技術文明の灯に、ちょこっと触れる機会くらいあったって、罰は当たらないと思うよ？
噂では電気が使えるようになった島があって、冷凍の技術だって復活しているそうなのだから、上手くいけば田舎娘の大望だってかなうかも。
　ああ、思い出すのは海岸通りに住むグラックス姉妹のことだ。　　　　　　　　
収穫祭の翌日の朝、ふたりは昔話に出てくるアイスクリームを実際に食べたことのある詩人と、村の品評会で知り合いになったと大興奮だった。
始業前の教室で、アイスクリームがどんなに甘く冷たかったかと微に入り細に渡り、まるで自分たちが食べたかのように代わる代わる講釈してくれたわ。
詩人は詩を作る人だけあって、子供にも分かる易しい言葉でアイスクリームの魅力を極限まで引き出して見せたと、最後に彼女たちはうっとり顔になってため息をついたの。
アイスクリームを味わったことのある詩人なんて、浮世絵になるトランターの美人女優より凄い大スターに思えちゃったのは、わたしがまだ子供だったから？　　　　
そうしてグラックス姉妹の夢物語を聞きおえたクラスの子達も、つられるようにため息をついてあわてて涎を拭いたものよ。　アイスクリーム！
アイスクリーム！
アイスクリーム！　　　　　　　　　
トランターですらお金持ちしか食べられないアイスクリーム！　　　　　　　　　
そのなんとも甘美な響きがわたしの理性を狂わせる。　　　　　　　　　　　　　
いつの日か、わたしはアイスクリームに侵されて、冷たく甘い白昼夢の中へとうっとりと堕ちて行くの。　　　　　　　　　
そうしてめくるめく陶酔の果て、快楽中枢にドーパミンが溢れかえる甘味廃人と化すに違いないわ。　　　　　　　　　　　
それはわたし達、飽くなきスイーツの追求に命を懸ける女子の本懐！

「フォアおよびメイン・マスト、各ヤード回します。　　　　　　　　　　　　
スパンカー・ブームも同時です。　　　
各員持ち場に。　　　　　　　　　　　
面舵でーす。　　　　　　　　　　　
進路修正は三十秒後。　　　　　　　
アリー！
なにぼやっと突っ立っているのですか。　あなたのブレースはあちらですよ。
腑抜けているとまた繕い物の罰直ですよー」　　　　　　　　　　　　
わたしは甘やかな夢想から一瞬にして目覚め、口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。　　　　　　　　　　　　　　　　　掌帆長のマリアさん、マリア・ロマノフ・スペンサー予備役兵曹長さんがニコニコ顔でこっちを見ていた。　　　　　　　
「アイアイマム」　　　　　　　　　
『まずい！まずい！まずい！おしおきはいや！罰直の針仕事にはもううんざり』　
甲板員のみんながいきなり真剣な顔つきになり、各々の仕事に取組みはじめるのが分かった。　　　　
誰一人としてわたしの方をチラとも見ようとしない。　　　　　　　　　　　　
これはわたしにとって、状況が良くないことを意味していた。　　　
急いで所属する右舷直第二班が担当する船首側の帆柱（フォアマスト）へ走り、すでに綱引きの為スタンばってるお姉さま方の一番後ろに取りついた。
『なんだかなぁ』　　　　　　　　　
甘やかなアイスクリームの白昼夢から、急に引き戻された現実に深いため息がひとつ。　　　　　　　　　　　　　　　　　幸福がまた少し遠ざかった気がした。　『わたしこんなところで何やってるんだろう』　　　　　　　　　　　　　　　　
自分が可哀そう過ぎて、涙が出そうになった。　
　ちなみにこれからお姉様方と一緒に引っ張ろうとしている綱をブレースと言う。
帆がぶら下がってる帆桁（ヤード）の両端についているロープのことだ。
このロープをみんなで綱引きして帆の向きを変え、甲板から立ち上がる杭（ビレイピン）に縛り付けるのだ。　　　　　　　
帆柱（マスト）を十字架の縦木としたら帆桁（ヤード）は横木に当たる。
横木に付けた紐を左右で引っ張ったり緩めたりすれば、十字架は縦木を軸に回転する。　　　　　　　　　　　　　　　　　実際に帆柱は回転しないけれど帆桁が回るイメージはそんな感じ。　　　　　
帆船は船の進む向きを変えると、帆に当たる風向きも変わってしまうからね。　
そこで一々帆桁を回転させて、風の当たりが最適になる様調整するのだよ。　　　
動力船ならこうした面倒は無い。　　　
けれども動力機械を積んだ帆の無い船が、再発明？再発見？されるのはいつのことに成るやら。
わたしみたいな薄幸の美少女には皆目見当もつかなかったさ。