9. 「描かれない」ことから読み解けるもの

 東京国立博物館にて特別展「桃山―天下人の100 年」が2020年10月から開催予定だ。狩野派が一世を風靡し、その後江戸時代を通じて活躍する基盤を築いた頃だが、長谷川等伯や俵屋宗達、海北友松といった画家たち、そして本阿弥光悦や千利休といった文化人たちに、織田信長や豊臣秀吉といった武将たちが関わり、多くの偉大な美術作品が世に残された。開催時点でこのウイルス騒動が落ち着いていれば、なんとか赴けると思うが、果たして……。

 この時代の画家たちが至った境地の一つに、敢えて絵に描かずに描写する、というものがあるのではないだろうか。とはいえ、長谷川等伯の「松林図屏風」、そして俵屋宗達の「風神雷神図屛風」が同時代に描かれたというのは、奇跡的な偶然なのかもしれない。琳派として後に尾形光琳・酒井抱一が「風神雷神図屛風」を描いているが、「描かない」という一点においては、師匠の俵屋宗達が群を抜いている。

 まず「松林図屏風」だが、霧に包まれた松林の佇む姿を絵にした、近世水墨画の最高傑作とも名高い長谷川等伯の代表作である。敢えて霧を描かないことで、却って霧に包まれた松の情景が目に浮かぶという手法は、何度眺めても感嘆させられる。出身地である能登半島の松林を参考にしたといわれる屏風において、静謐な空間に揺れる松たちは、不思議と見る者を惹きつけて止まない。この「侘び寂び」の極致ともいえる絵画は、東京国立博物館を代表する絵として、多くの人を魅了し続けている。

 次に「風神雷神図屏風」だが、俵屋宗達を代表する絵画として知られる。金箔で彩られた空間へ、左右それぞれの端から雷神・風神が躍り出るような構図。後に尾形光琳・酒井抱一といった琳派がこの絵画を模写したのも、必然だったと思わせるような迫力のある世界。実はその無限に広がるような絵の迫力は、敢えて端を描かないことも一つの所以としている。というのも、実は雷神の太鼓・風神の肩紐、そしてそれぞれが纏う雲は、絵画からはみ出た形で存在しており、その部分はつまり屏風には描かれていない。しかしそのことが、むしろ空間が絵の外にも広がっていることを暗示し、屏風に描かれた以上の空間の広がりを見る者に感じさせるのだ。ちなみに弟子筋となる尾形光琳・酒井抱一の作品では、風神・雷神が枠内に収まるように描かれており、この空間の広がりを感じさせる効果は減弱されてしまった。

 さて、メディア論で名を馳せたマーシャル・マクルーハン氏は、『メディアはマッサージである 影響の目録』(河出文庫)において、

三十本の輻が一つの轂を共にする、
その無のところに車輪の働きが有る。
埴をこねて容器をつくる、
その無のところに容器の働きが有る。
戸と窓とをうがちて部屋をつくる、
その無のところに部屋の働きが有る。
ゆえに有るものが利をなすのは、
無が働きをなすからである。

と老子の『無用之用』を引用し、続けて

電子回路は西洋を東洋化しつつある。封じ込められたもの、別個のもの、分離したもの——われらが西洋の伝統——は流れていくもの、統合されたもの、融合したものに取って代わられつつある。

と表現した。東洋思想に通じる無の働きは桃山時代に絵画で表現され、今や電子回路を経て、全世界へと波及している。

 描かれたものから描かれていないメッセージを見出すというのは、実際のところ現実のメディアとどのように向き合うのか、という点においても重要ではないだろうか。それこそメディア論を論じたマーシャル・マクルーハン氏が『無用の用』に着目したように。尤も、現代は誰しもがSNSを介して情報発信ができる時代だからこそ、発信源の信頼性が本当に担保されているかも含めて、数多ある情報を吟味する必要性はマクルーハン氏が活躍した頃よりも増しているのかもしれない。

 たとえば安倍晋三首相が自身の潰瘍性大腸炎が悪化し、2度目の退任を余儀なくされた際に、立憲民主党所属の石垣のりこ参院議員が自身のTwitterにて

「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」を総理総裁に担ぎ続けてきた自民党の「選任責任」は厳しく問われるべきです。その責任を問い政治空白を生じさせないためにも早期の国会開会を求めます

と記載し、非難を浴びたことは記憶に新しい。

 難病支援センターによると、難病とは「難病は、1)発病の機構が明らかでなく、2)治療方法が確立していない、3)希少な疾患であって、4)長期の療養を必要とするもの」と定義されている(指定難病はさらに有病率・重症度の条件が加わる)。潰瘍性大腸炎もこの難病に指定された疾患の一つである。具体的には大腸に限局した粘膜の炎症が非特異的に生じ、時に関節症状や皮膚病変などの腸管外病変も伴う原因不明の疾患である。免疫抑制剤の進歩により病勢を抑えることは可能となったが、いまだ根治することが叶わない疾患の一つである。

 もちろん難病に伴う社会生活への影響はある程度避けられないとはいえ、この石垣議員が訴える「大事な時に体を壊す癖がある危機管理能力のない人物」という表現は、明らかに難病に今まさしく苦しんでいる人間へ送るには不相応な、差別的表現であった。上記記事にあるように、その後石垣議員は立憲民主党の指導を受け、謝罪をしたという。

 しかしこの事案は、果たして一人の議員の暴走として済ませてよい案件かは、深く考えなくてはならない。石垣議員は、この思想に共鳴が得られるのではないか、という期待を持ってTwitterに上記内容を投稿したはずである。即ち、我々の社会の奥底にはこうした不寛容性が流れている可能性を、彼女は身を以て暴露したにも等しい。

 実際『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)によると、

身体は、いわば自分の裁量に任される。わたしたちは、自分の身体のあらゆる部分や機能に責任を負う。そのすべて(あるいは、ほとんどすべて)に改善の余地がある。このことが真実であるか否かは定かではない。とりわけ老化の過程を考えれば、それには疑問がわく。しかし老化でさえも、特別な介入によって、その様相が変わりうるし、老化自体が遅れることもあると考えられる。それゆえに、身体にいつでも人々の強い関心が注がれる限り、その所有者は「身体はいつでも操作可能である」という信念から離れられない。

という。今や難病という人間社会がいまだ治療法を探しあぐねている、自己ではどうしようもコントロールできないものを患っている人間の身体にすら、身体に対する自己責任論が振るわれる可能性を持った時代となってしまったのではないだろうか。

 このCOVID-19騒動でも、身体に対する自己責任論は、まことしやかに社会を流布しているように思えてならない。日本政府も強制力を発揮する法律がないという事情はともかく、「要請」という形で主として自助努力を促進するというのが対策の根幹として扱われている。その背景には、改めて『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)から引用すると、

実際、大半の人々は、身近な隣人の範囲を超えて物事を見ようとはしない。当然のことながら、かれらの関心は、身近な物事・事件・人々に集中しがちである。かれらが、自分の身に危険が迫っていると感じたとしよう。そのぼんやりとした不安は、身近な、目に見え、触れることのできる標的に結びつけられることが多い。個別に、遠くにある、ぼんやりとした——ひょっとしたら存在すら疑われる——標的に一撃を加えようとしても、ほとんど手も足も出ない。(中略)より広域的な動向を掌握することが必要であるといった主張は、不適切かつ無責任なものとして排除される。

という事情もあるのだろうか。武漢に端を発し、国際的な、少なくとも国家としての対応を要するこの感染症においても、まるで罹患することが自己責任であるかのような表現が成されること、そして日本政府としての強力な対応が提示されないことは、社会全体の課題へ取り組むことがますます求められる現代社会において、不吉な影を投げかけているような気がしてならない。

 もちろん、安倍晋三首相は潰瘍性大腸炎を患いながらも、なんとか職責を果たさんと精一杯だったのだろう。本当にお疲れ様でした、と直接お伝え出来ないのが残念で仕方がない。中国に対抗する「セキュリティ・ダイヤモンド構想」を主導するという、日本が世界を巻き込んだ戦略性を発揮した稀有な時代を率いた宰相である点では称賛に値するが、その一方で量的緩和の出口戦略の不在や、官邸主導の弊害、不完全なCOVID-19対策といった課題も山積みとなっている。次の政権は、この自己責任論を打破し、社会全体として取り組むべき課題を政府として解決の道筋を立てられる政府であってほしい。そしてそのためには、今回自己責任論を振りかざした立憲民主党の石垣のりこ参院議員含む野党も、自己責任論からの脱却が望まれるのだが、果たして。

第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
次回:「10. めぐる第3波」はこちら

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