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1. COVID-19:第二波が高まる最中に

 COVID-19の第一波が来たとき、社会は「Point of no return」を越え、今やそれ以前の社会には戻れないのではないか、と思ったものだった。しかしつかの間の緩和期のせいだろうか、喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったものだ。結局この7月には第二波が成立し、今や東京での感染者は連日200人越えをたたき出しているにも拘わらず、人々は舞い戻ったCOVID-19以前の社会行動を完全には断ち切れないようだ。

 もちろん、一部の企業では恒久的なテレワーク対応を見据えた対応が、始まりつつある。しかし一度組み立てられた社会が完全な変革を遂げるには、少なくとも日本ではまだまだ時間がかかりそうだ。その背景にはアメリカやブラジル、イタリアといった国々と比べると、日本の第一波が存外低く、なだらかに終息したことがあるのかもしれない。そんな日本でも、このCOVID-19が無ければもう少し、あるいはもっと先だった逝去のタイミングに、忽然とまみえる人、そしてその周囲の人々がいたのは事実だ。そうした人々への冥福を、そしてこの災禍の中ではあるが、せめて周囲の人々が落ち着いた生活を送れるようになることを、祈るばかりだ。

 尤も、ジャレド・ダイヤモンドが『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)で指摘したように、人類の歴史は家畜と、それに伴う病原菌たちとの共存に彩られている。家畜の飼育に伴い、本来は家畜に伝染していた病が人間に特化した病へと変遷し、そしてこうした病原体への抵抗力を培いながら人間社会は発展してきた。今回のCOVID-19の原因ウイルスであるSARS-CoV-2はコウモリに由来するウイルスとされている。厳密にはペットとは言い難いが、動物に由来する点では今回のウイルスも共通している。

 ただこのような病原体は、それに特化した免疫を獲得する機会に恵まれなかった人々に対し、著しく猛威を振るう。新大陸にヨーロッパ人が乗り込んだと同時にかの地へ入り込んだ天然痘は、そんなウイルスに初めて相対した人々を、無慈悲に惨禍へと追い込んだ。例えばミシシッピ渓谷に存在した大規模な先住アメリカ人の集落は、スペイン人が持ち込んだそれにより壊滅的な被害を受け、西洋人とまともな対面を果たす前に崩壊していたのであった。後から来た探検家たちに残されたのは、文明の残骸がそこかしこに転がる姿だけだったという。

 天然痘による致死率が高いことも手伝った上記のような惨劇は、史実の中でも極端な例かもしれない。しかしある病原体が、それへの特異的な免疫を獲得していない社会に襲い掛かるとき、どのような危険性が生じるのかを教えてくれるには格好の題材である。病原体自体の感染力や致死率はその時次第だが、未知の病原体は時として急速に拡散し、それに対して十分な免疫を発揮できない人々へ、無遠慮な牙をむくのである。

 21世紀の我々は、この天然痘を撲滅して久しい。その業績の根幹にはワクチンがあり、COVID-19に対しても新たなワクチン開発が、世界各国で日夜進捗している現状だ。このワクチンの開発速度と、社会の革新速度とがどのような競争を繰り広げるかによって、今後の社会の在り方は大いに変わるに違いない。

 現時点で我々が言えるのは、第二波がまた猛威を振るうこと、そして我々の社会は一段と変革を迫られることくらいだろうか。残念ながら予言者でもない自分には、それ以上の未来を語る術を持ち合わせてはいない。

 未来について語るときに思い起こされるのは、ヴァルター・ベンヤミンが語ったという「歴史の天使」に関する記述である。

 歴史の天使は顔を過去に向けている。わたしたちが出来事の連鎖を見て取るところに、かれはただ一つの破局だけを見る。その破局は、瓦礫の上に瓦礫を積み重ねては、かれの足下に投げ出していく。天使は、できることならばそこにとどまって、死者たちを目覚めさせ、粉々になったものを元通りにしたいと思う。しかし、楽園から嵐が吹き付けて、翼が激しく煽られているために、天使は翼を閉じることができない。嵐は、背が向いている未来のほうへ、かれを否応なく押し進めていく。その間にも、天使の前の瓦礫の山は、天にも届く勢いで積み上がっていく。


 この文章を引用して社会学者のジグムント・バウマンは、『コミュニティ 安全と自由の戦場』(ちくま学芸文庫)の中で、「進歩とは、空の鳥を追いかけることではなく、戦場に散らばった死体から急いで離れたいという熱狂的な衝動」と指摘した。このCOVID-19という死と後遺症を撒き散らす不快な対象は、それが猛威を振るう限り人々に様々なモノを生み出す機会を設けることだろう。なにせ日常の何気ない自由・安心が脅かされている実感は、とてつもない不快な危機だろうから。

 塩野七生氏曰く、「『不安』からは何も生まれないが、『危機』からは生まれるのだ。危機の語源であるラテン語の『crisis』には、『蘇生』の意味もあるのだから」と『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』(新潮社)より引用するのが妥当かもしれない。「ただしそれは、危機を自覚した人にとって、ではあるけれど」と付記されているのが彼女らしい。とはいえ、良い方向に限った話ばかりではないのが、残念な限りなのだが(いったい関係者以外の誰がこのCOVID-19の前に香港の一国二制度が蹂躙される未来を予期しただろうか)。

 我々はこの危機の中で、少なくとも再度、安心と自由を求めることだろう。ただ先のジグムント・バウマンが書籍では、「安心の増進はつねに自由の犠牲を求めるし、自由は安心を犠牲にすることによってしか拡張されない。(中略)自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い」と語られている。この安心と自由のバランスを含め、日常生活そのものを巻き込むCOVID-19による第二・第三波は、社会を否応なく変えてしまう可能性を秘めているように思える。

 我々は「歴史の天使」が如く、レトロスペクティブな評価を下すことに慣れきっている。「愚者は体験によって学ぶという。私は他人の経験によって利益を得ることを好む」とは、かの鉄血宰相・ビスマルクの至言である。ただそこには本来、「後知恵バイアス」といって、後世から回顧すると「最初から自分もそう思っていた」という風な思い込みを抱くことが当たり前となる、歪な認知が潜んでいることを忘れがちだ。

 この二度とはない災禍の最中、後世におけるささやかな振り返りの材料を、せめて少しでも現在進行形に積み上げこと。各自のできる範囲で、この「クライシス」を「危機」から「蘇生」に読み替えられるためのヒントを、暗中模索すること。COVID-19の渦中において、我々ができる範疇でひとつひとつ成果を積み上げることが、今後の社会をよりよくするのではないか。僕はせめて、この文章を積み上げることから、一緒にそんな朧げにみえる社会を迎える道筋を描いていけたら、と願っている。

第2話:「2. 危機における政治家」はこちら

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