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2020年11月5日:変化

自分は最近noteの読書感想文に挑戦しようと今まであまり読んでこなかった小説を読んでいる最中である。通勤と退勤の電車の中と限られた時間の中で読んでいるので読むスピードは遅い。このままのスピードだと11月末までの提出期限に間に合わないけれど焦りはない。間に合わなかったらそれはそれでしょうがないと思っている。

課題図書の提出に間に合うかどうかなんて正直自分にとってどうでも良くなった。

何故なら小説を読むという行為自体にとても充実しているからだ。本の世界と自分との境界が曖昧になり自分がその世界に入っている感覚。この感覚に浸っている時間がとても幸せだ。この感覚は学術書やビジネス書ではなかなか味わえない。

少し前までは小説を読むと眠くなっていったのだが、今ではすっかり逆である。学術書やビジネス書は読む気になれないのだ。いま購入している書籍はすっかり小説である。小説の世界へとハマってしまっている。「小説なんて読んでいる暇はない」と遠ざけていた昔が懐かしい。

小説に対する考え方に限らず、ここ数年間で色々と変化したように思われる。しかしいつ頃からこのような状態へと”変化”したのだろう。正直いつ頃かは分からない。だけど昔と比べてどのような変化が起きたのかはなんとなく分かる。”何が”自分の中で変化したか。それをこれから述べていきたい。

1,実用から充実へ

自分の中の変化としてこれが一番にあげられる。一言で言うと価値観の変化である。特に顕著に現れているのが先に述べた書籍の好みの変化である。

学術書やビジネス書などの実用書から小説の変化、これが何を意味しているのか。

自分は前までは書籍に求めていたものは実用(役立つ情報やこの世界を知る術)。それがないものは意味がないとすら思っていた。酷い時は気晴らしの為の漫画やアニメ・ゲームなど自分の趣味に対しても何か役に立つものはないかと探している始末であった。

とにかく自分のパラダイムは”自身に役に立つか、それ以外か”だった。何もしていない時間など勿体ない。そう言う思いが自分の中を蠢いていてずっと何か予定を埋める行動をしていた。

自分は目に見えない実態のない恐怖や焦りに追われていた。他人に見下される恐怖、社会的な地位が低いことへの焦り、理想と現実との不満。この時はいつ何時も心が安らいでいなかった。自分は他人に認めれなければ価値がない、どうにかして認めてもらおう。そんな動機で自分を動かしてきた。この時の自己肯定感なんてあったものんじゃない。

しかし、そんな状態いつまでも続くものでもない。徐々に何もしない日というのが続いた。ベッドで床に伏せる時間が多くなった(今でも多いけど、、、)。今振り返れば鬱の手前まで行っていたと思う。

これはなんとかしないとと思い、一旦今までやっていた作業を中断して”自分自身を許す”事に意識を向けた。

具体的にやったことは、

美味しいものを食べる。やりたかった事をやる。何もしない日を作る。

今までは役に立たない、意味がないと切り捨てたものを自分の気持ちに従ってやってみた。

このnoteも前までは何か役にたつ情報を発信しないとダメだと勝手に思っていて、何度も書いては間違っているかもしれないからという理由で出さずを繰り返していた。

今でも時々目に見えない不安に襲われることがあるが、昔と比べるとゆったりとできていると感じる。何より自己肯定感が上がったと感じるようになった。前まではSNS中毒だが今はやらない日があることもあるし、娯楽は娯楽として楽しめるようになった。そして、何よりも効果が出たのは他人に対して許せるようになってきたことである。

今までは色々と他人の悪いところを見つけては批判をしていたことである。自分は正しいと思っていて相手は間違っている。口に出さなくてもそういうスタンスでいた。裏を返せば自分を守ることに必死だったのだろう。今は確かに嫌なところが目に付くとイラッとするが、その人の個性としてみれるようになってきた。

このように、それが人生に”いかに役に立つか”から”いかに充実・快いか”に考えが変わったかを述べた。もちろんどちらが良くてどちらが悪いという話ではなく、自分の人生の幸せ最大化しようとした結果このようになったという事である。もちろん、人によっては上昇志向や成長を幸せに感じるもいる。そういう人は前者のような考えが幸せになりやすいだろう。自分は成長ばかりでは疲れたので後者にシフトしていったのだ。

2,保守から革新へ

一部の人には誤解を与えてしまいそうだが、これは政治的なスタンスではない。いや政治的なスタンスも含んでいるんだろうが、もっと全体的な意味での立場の転換をである。

私は昔はマーケティングいう所のラガードやレイトマジョリティーに近い人間だった(端的にいうと保守的)。とにかく新しいもの流行というものには冷ややかな目で見ていた。

よくいるでしょ?流行ものに対して逆張りをする人間(今なら鬼滅の刃に対して批判する人)。自分がそのうちの一人だった。

とにかく流行や新しいものなんて一過性に過ぎない。どうせすぐになくなるし、失敗する。それに乗っているなんて愚かである。そんな事をさもわかったふうに批評していた。

しかし、実際に愚かだったのは自分だった。色々学んでようやく気づいた。

そもそもどんなものでも成功できるもの長く残るものなんてほんの一握りである。挑戦は失敗が当たり前、そんな世界だ。確固たる成功法則なんてものはない。一つ挙げれるとするならば、”成功するまで何度も挑戦する、これが成功の確率をあげる”。これしかないのである。今成功している会社や芸能人、この人たちも最初は様々な苦労や失敗を積み重ねた上で成り立っている。

その事実を知りもしないで、さもしたり顔でどうせ失敗するなんて言えたものだと、今となっては恥ずかしさでいっぱいである。そもそも幾万の失敗を土台として今の様々な功績や栄光があるというのを知らずに過ごしていた。

私はこの”失敗”を胸に今では挑戦者や流行、新しい考えなどは積極的に受け入れていくいうスタンスだ。ここでいう受け入れるというのは同調ではなく理解していくという意味だ。頭ごなし否定するのではなく、相手の意図や真意を聞いてみるのだ。

中にはその新しい考え方やムーブメントが自分にとって不愉快な感情を引き起こすかもしれない。しかし自戒の念を込めて言うが、その考えを不愉快だからと言って思考停止で真っ先に否定するのは好ましくない。それが世界を良い方向へと変える出来事、当たり前となる出来事なのかもしれないのだから。

しかしそれに寛容的になるというのは本当に難しい。いま多様性が話題になっているが、個人的に思うのが多様性を受け入れることの本質は「みんな人類仲良くしましょう。みんな違ってみんないい」というよりも「あいつのこと気に食わないし、実のところ殺してしまいたいが、それでもあいつにはあいつなりの考え方や生き方があるよな。(本当は嫌だけど)受け入れないといけないよな。もちろん自分に害を被る干渉を受けた場合は容赦しない。その時は覚悟しろ」という考え方の方が近いと思う。それだけ多様性に寛容になるというのは難しいと思う。


話はずれてしまったが、以上が「保守から革新へ」と変化したことである。


今でもそうだけど、昔の自分の教養のなさ見ている世界の狭さには思い出すだけでも恥ずかしい思いをするばかりである。自分が毎日少しずつでもいいから、何か学び続けていこうと思えるのはこの恥ずかしい思いをしたくないという動機が働いているからなのかもしれない。




まだ何か書きたいことがあったが忘れてしまったのでまた今度書きたい。これ以上書くと日を跨いでしまう。

さて割と久しぶりに長々と書いてしまった。一時間ぐらいで書き終わるかと思っていたが、三時間以上もかかってしまった、、、


追記:

noteを書き始めて10日以上になった。こんなに続くとは思いもしなかった。ネタ切れになると思っていたが、むしろこれも書きたい、あれも書きたいとどんどんアイデアが湧いてくる。無理せず継続していきたい。










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