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2020年11月9日:感受

今日は気分が良かった。久しぶりの長期休暇の初日ということもあったが、朝の薄い雲から零れる陽光、薄ら寒い風、そして冬に感じる独特の匂い。とても爽やかだった。

さて今日はどんなネタをnoteに書こうか。色々と悩んでいた。自分は最初に日付入れた後に題名を書く日記形式の投稿を毎日更新しようと目指している(2020年○月○日:●●、みたいな感じ)。今は10日ぐらい連続投稿をしている。ここまできたらいける所まで目指してみようと思っている。ストックにある下書きを書いて投稿してもいいが、私はアウトプットが苦手で1日に一回の投稿が限界である。そうなると毎日続いているこの日記形式の投稿を途切れさせたくないのでこっちをどうしても優先的に書いてしまっている。

しかしかなしいかな。私の1日は大体平凡な日常なのである。読書をしたり、近所に買い物へ出かけたりとこれといったイベントが起きない。アウトドアの人間なら今日はどこへいったとか友達とこんな事をしたとか書けるだろうがあいにく私はそれとは無縁の生活である(そもそも外向的な人間がnoteに毎日投稿とかしないだろうが。偏見ですね。ごめんなさい)。

だから私の書く日記は少し独特である(しかも癖が強い)。まず今日の1日の振り返りながら起こったことを最初にさらっと述べる。そして、それに関連して自分の思っていることや考えていること、感じていることを主張するという形式を取っている(ぶっちゃけこの主張が文章の大半を占める)。

なので私はどうにかして平凡な日常に対して、何か書くネタがないか探し、そこから派生して自分の考えや思いに広げて文章として形に残すという事をしている。休日ならば街を歩いている時や本をゆっくり読んでいる時。仕事している時は業務や人とのコミュニケーションを取っている時。あらゆる場面に対してどういう風に感じ考えたか。良さそうなネタが見つかったらメモをする。そして、実際にパソコンにむかいnoteを開き題名を決めて、それに沿って書く。

こういう生活を10日以上続けていると私はあることに気づいた。気のせいかもしれないが日に日に感受性が強くなっているように感じるのである。今までは見過ごしていたものも目に止まるようになったし、今までなら考えもしなかった事を考える事ようになってきた。


上手く表せないが一つ一つの音や匂い、色がくっきりと輪郭が浮かんでいるという感覚がある。


今日はそんな感受性に関する話をしていきたい。

今回は「noteを10日以上連続投稿して変わった事」というnoteによくあるような題名にしても良かったかもしれない。しかし、あえてそういう題名にしなかったのは自分のつまらないプライドと性格である。みんなと同じ事をしても味気ないと思ってしまうのである。自分は考えるのが好きなのだ。みんなのやっている事をなぞるのではなく、自分でこの文章に最適な題名はなんだろうとなんとかして考えて、そして考え抜いた題名をつけるという行為。そういうのが私は好きなのである。たとえ多くの人に見られなくてもいいから「考える」という作業を少しでも入れたいのだ。

前置きが長くなってしまった。それではどのあたりが感受性が強くなったと感じるようになったのか。実際に表れている具体的な行動とともにこれから述べていきたい(逆に言えば感受性を高めるならこのような行為をすれば効果はあると思う)。

1,小説を読むようになった

正直これには自分でも驚いている。正確に言えば小説が”読めるようになった”というのが正しいかもしれない。

前から本を読んでいたが読んでいたのは学術書や実用書などのノンフィクション。そう、主に情報や知識の習得といった目的に書かれている本である。前までは自分はそれはどのように役に立つのかという”機能的な側面”でしか物事をみれてこなかったのである。あらゆる生活が必要か不要かの考えで縛られていた。

noteを最初に書こうと思った内容も、役に立つような記事を投稿をしようと思っていたのである。しかし、その内容を書こうとしても一向に文章が進まないのである。そしてnoteは何も書かずに挫折した。

しばらくしてまたnoteを書こうと思いったった。今度はみんなにみられなくてもいい。その代わり自分の書きたい事を存分に書く。そんな気持ちで思いの丈を思い切りぶつけて書いた(もちろん倫理的な範囲内で)。

そしたら、自分はこんな事を考えていたのか。こんな感情を抱いていのかと、思った以上に自分の見えなかった部分が見えて驚いた経験をした。最初にnoteに投稿して、その時こう思った。

もっとnoteに自分の思いを書きたい。

そして数日noteに投稿していくと自分の感情が徐々に分かるようになってきた。文章を書いている時、街を歩いている時、本を読んでいる時。その傍で自分は無意識に自分の小さく揺らめく感情の機微を掬いあげる作業をするようになってきた。

そうして自分の感情を感じることができると、もっと感情・情動が動いているのを感じたい。それを求めて最終的に小説にたどり着いた。

ここで今まで小説を”読めなかった”原因がやっとわかったのである。小説における感情の動きが理解できなかったからである。惨めな気持ち、かなしい気持ち、私は人生から自分の負の感情を遠ざけていた。負の感情を認めること=敗北だという幻想を抱いていたのである(正直いまでも若干抱いている)。そうなると自分の感情をうまく感じとることが出来ない。だから、小説の感情の動きが読み解けなかったのである。小説の感情表現と自分の感情の動きが結びつかなかったのである。文として理解できてもどういう感情なのかが理解できなかったのである。

今は少しだけだが、自分の感情に素直になれたことによって小説が読めるようになってきた。小説の表現と自分の感情の動きが連動する感覚がいまではある。


2,辞書を開くようになった


次に辞書を頻繁に開くようになったのである。この文章を書いている最中にも「この表現はこれであっているのかな」「この表現は陳腐だからもっと別の表現で表したいな」とか思うようになり、辞書を開いて言葉を調べるようになった。

言葉がわかると新しいものの見方が増えるということである。たとえ同じ意味だとしても、違う言葉を使うことによって温度差や奥行きが文章の中で生まれるのである。それが世界が違って見えるということだと私は思う。

辞書を使うと。語彙が増える。語彙が増えると繊細に感情を掬い取れるようになれる。そして前よりも世界が違って見えるようになって世界に色がつくような感覚が生まれる。

学術書やビジネス書などの情報だけを得る読書だとどうしても辞書を引く機会があまりない。難しい言葉や語彙よりもいかにして情報をダイレクトに伝えるかがポイントになるので、むしろ言葉が簡素になりがちである。辞書を引く機会があったとしてもやはり知識や概念、情報といったものになる。

逆に簡素な事をいかにして様々な表現を使い、色んな感情や解釈を与えられるかが小説の腕の見せ所なので、難しい表現や言葉が平気で出てくる。言葉がわからないとその小説の面白さが感じられないので辞書を引かざるを得ないのである。

実用書やビジネス書ばかり読んできた私は、この小説の世界に無粋にもノンフィクションのルールを持ち出していた。「もっと分かりやすく書け」「つまり要約するとどういうことなの?」などと文句いっていた。

今から見ると笑い話で済むが、当時は本気で思っていたのだから恐ろしい話である。どちらもバランスが大事である。


以上が感受性についてのお話である。

これからも小説を読んだり、語彙や言葉を増やしたりして感受性を高めていければなと思っている。

P.S. もっと文章を上手くまとめたり上手な表現をしたいのだけど今の自分にはこれが限界である。




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