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第27回読書会レポート:武田泰淳『ひかりごけ』(感想・レビュー)

レポートの性質上作品のネタバレを含みます。予めご了承ください。

暗い話題で持ちきりになるかと思いきや、充実した読書会となりました。
思い切って取り上げてよかった!

これからもセンシティブな作品も扱っていきたいなと思いました。
それが文学!! これぞ文学!!!

ご参加の皆さまの感想

・落ち着かない
・良かった
・カニバリズム
・時間の前後関係がない
・文末処理が過去形、現在形に統一されていない。
・ゴールデンカムイ

「我慢しています」の意味するところ

問題の船長は、よく読めば合理的な判断のできる冷静な人物である。
しかしなぜ、人の肉を喰らう罪を犯してしまったのか。

裁判ではひたすら「我慢しています」という発言を繰り返す。
一体船長は何に我慢を強いられているのか?

ト書きを含む興味深い構成と指示

本作品の特徴は、前半部分が筆者である「私」のレポート形式。後半部分が戯曲形式になっている。

戯曲に移る直前で、「読者が、読者であるのと同時に、めいめい自己流の演出者のつもりになってくれるといいのですが。(新潮文庫P210)」としてある。
このように読者にさまざまな要求をしてくる構成が興味深い。

さらに奇妙な指示は続く。

「船長は、第一幕の船長に扮した俳優とは別の俳優によって演ぜられることがのぞましい。(中略)そして何より大切なことは、船長の顔が、筆者(したがって読者)を、案内してマッカウス洞窟へおもむいた、あの中学校長の顔に酷似していることである。(新潮文庫P238より)」

このように、裁判にかけられている船長役が、レポート部分で出てくる中学校長と同じ容貌を求めているのだが、これは何を意図しているのか?

船長も中学校長も我慢させられているものとは?

漁村の田舎校長は、無邪気で明るい口調で人肉事件について語って聞かせたのだが、その校長と同じ風貌で「我慢している」と裁判で言わせたいようなのだ。

つまり、我慢の連鎖を裁判場面のト書きの船長だけでなく、その前から物語に出てきていた中学校長にも及ばせたいらしい。

そこでこの二人の共通点に思いを馳せたとき、一つ浮かんだことは、アイヌの生活様式から日本の生活様式に強制的に変換させられたということである。

それまでの環境の中で生きてきた人間の文化的常識が、他の文化によって卑下され否定され撲滅される。
それはひたすらに我慢を強いられることである。

船長であったり、学校長であったりと、社会的な身分を得ている者ほどその負担の感じ方は大きいはず。

他の人よりも一層我慢してこれまでの集合体のルール、アイヌという文化圏から外れた人とみなすことができるのだ。

そんな立場の者が命の危機にさらされたとき、いわゆる日本の集合体ルールから今一度「我慢して外れて」いくことは、責任感が強ければ強いほどそうした決断もやむを得ないとなるのかもしれない。

その時その場で社会的秩序が維持できるとなれば、直前まで所属していた集合体のルールに帰属するか外れるか、長という役職についている人物は決断を迫られる。

どの瞬間にどの単位で集合体のルールは決まるのか。

極限状態であればあるほど残忍な判断が迫られる。

時間軸の曖昧さ

この作品は文末が過去形になったり現在形になったりと、文体的にも時間軸を曖昧にしている。

この曖昧さは同時に、集合体ルールの境目を表現しているように思えてならない。

集合体のルールはそれぞれの文化圏で異なる。
そこから外れるか外れないか。
行ったり来たりした者にしかわからない我慢がそこにはあるのだ。

(2022年4月24日開催)

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