第九回読書会:村上春樹『風の歌を聴け』レポート
3月の課題本としていたのですが、コロナの影響でなかなか開催できず、やっと7月12日に開催することができました。
3月より申込みいただいていた方には、本当にご迷惑をおかけしました。
読書会の運営もだいぶ軌道に乗ってきて、いよいよ定員枠を増やして大きくしようとしていた矢先でしたので、管理人自身も挫けるところがありましたが、ご参加いただける方の言葉を励みに開催に踏み切りました。
当日は定員を半分に減らし、換気の徹底、手指消毒マスクの着用をお願いし、無事に開催することができました。
ご参加いただいた皆さま、本当にご協力ありがとうございました。
さすがに村上春樹は人気が高く、ご新規の方だけでも4名ご参加があり、影響力の凄さを思い知りました。
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ご参加の方で関西方面に詳しい方が真っ先に、舞台は芦屋、と教えてくださいました。
実際の風景を知るその方は、小説の中の設定とかなり重なるところがあり、親近感を覚えたそうです。
村上春樹自身もそちらの出身であるため、きっとそうなのでしょう。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
冒頭のこの一文が大変印象的です。ガツンときます。
本文には「僕は文章についての多くをデレクハード・フィールドに学んだ。」と書いてありますが、そんな作家は実在しないということも分かりました。
むしろこの一文を書くためにこの作品を書いた、とも言われているらしく……。デレクハード・フィールドの設定として、1938年6月に飛び降り自殺をして、幸せな死に方をしていません。
これは、客観視したもう一人の自分であり、そもそも完璧な文章を書く気が無く、物語から飛び降りていることの象徴なのではないか、という意見も出ました。
なかなか面白い考察です。
また、「バーテン」というワードがかなり使われていて、そこに着目した方もいました。
バーテンというのはそもそも、瘋癲(ふうてん)をからきている差別用語であるとのこと。
意図して使われていたのかどうかは定かではありませんが、バーテンのジェイは中国人という設定であるため、そのあたりも深堀していけそうです。
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今回、超有名作家さんのデビュー作を課題本として取り上げるにあたって、一つ挑戦してみたいことがありました。
いつものような読書は各個人で好き勝手に楽しめばいい、という観点に追加して、もう少し文学っぽいことをしたかったのです。
もちろん楽しむことが大前提であることに変わりはありませんが、一つの文学作品を論理的にアプローチしてみるとどうなるのか、ということをしてみたかったのです。
小説を読むときの心構が、実はあることをご紹介します。
すべての情報に意味がある、無駄なものは書かれていないということを、大前提として押さえておかなければならない、というものです。
どんなに小さな役柄の登場人物でも、意味があるのです。
このお作法を踏まえて『風の歌を聴け』を読み込んでいくと、また違った世界が見えてきます。
この作品は当初、正当に評価されていたとは言い難いと言われています。事実、芥川賞を逃がしています。
選考委員が作品の構造を読み解けていなかったのではないか、と指摘されているように、何を言いたいのかわからない作品に一見なっているからでしょう。
出席した方の感想も、正直なにを書いているのかわからない、という意見が多かったです。
なにがそんなに難解にさせているのか。
それこそ、まさに作品の構造に着目しませんと分からない仕掛けになっていて、また、それを狙っている作品でもあるのです。
それを話し合ってみよう、というのが今回の読書会の密かな趣旨でした。
ちなみに難解ながらも女性陣は、小指のない女の子が妊娠して堕胎手術をする話ということを読み取り、男性陣はそれにはあまり重きを置いていない、いや、気づいていない、という空気が面白かったですね。これも読書会ならではだなと思いました。
この作品にはさまざまな研究論文がありますが、その中でも1994年に筑摩書房より刊行された斎藤美奈子氏による『妊娠小説』で論じられている考察は有名です。
本作品の構造が丹念に解明されていいて、今でも図書館やAmazonでも手に入りやすい書評です。
そこで今回の読書会では、斎藤美奈子氏の解釈を副読本として展開してみました。
小説を読むときの心構え、つまりすべての情報に意味がある、無駄なものは書かれていないということを、大前提としてください。
小説内に附された「記号」にはすべて意味があるのです。
本作品では、まずは1から40の数字でしょう。
「☆」や「★」マークも使われています。
意味するところが解らないということは、単純に読者が分かっていないだけです。それは悪い事でも良い事でもありません。ただそれだけのことなのです。
その記号に解釈を加えていくのが、読書ということになります。
「↑」という記号を見れば世界共通で、上を差しているんだなということが解釈できるといわれています。
しかし「あ」をアと解釈できる人は、日本語を知っている人だけです。ただそれだけです。
本作品では、数字の大きな意味に気が付けば、この本が40(☆を入れたら53)に分かれていることに着目できます。
そしてその順番は、時系列に並んでいるわけではありません。
「組み立て前のジグソーパズルみたいな小説だから、バラバラの断片を手にとって眺めていても見えてくる絵には限界がある。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)
つまり1~40がバラバラに配列されているのです。
ただしこの構造に気づいた人は多いと思いますし、すでに知られているものです。
ではなぜそのような構造にする必要があったのか。
それは隠さなければならない事柄があったからだ、というのが斎藤美奈子氏の論拠です。
「背後にあるのは「女の自殺」と「女の妊娠」である。自殺と妊娠! こ
んな手垢つきの物語は、もちろん隠さなければならなかった。『風の歌を聴け』の目的は、この物語内容を表舞台から消すことだけだったのではあるまいか。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)
ジグソーパズルのピースがバラバラになっているおかげで、時間も前後し、人間関係も輻輳しているように見えて、何を語りたいのか分かりづらい。
主人公の「僕」は、かつて恋人が自殺した過去を持つことは分かっている。
一方、鼠は……。
そこがまさにポイントであり、物語の核でもあるのです。
鼠のヒントは、はじまって早々「6」にあります。1ページと数行からなる断片なのですが、この取るに足らない断片こそが、バラバラのパズルのピースをつなぐ最大の鍵となるのです。
鼠と謎の女の会話からなる「6」。ここに登場する謎の女こそ、「小指のない女の子」であり、鼠との接点を唯一示唆されている場面になります。
「<鼠は……気がした>という記述からもわかるように、一貫して「僕」の視点で進行するテキストのなかで、(中略)「6」だけが、テキストのルールを逸脱し、「鼠」の視点で記されている。」
「視点の移動というルールの逸脱を犯してでも、語り手はこの場面をどうしても語らなければならなかった。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)
小説のルールとして、語り手の立ち位置の移動や人称の変更は許されません。
でもこの「6」だけはその禁じ手を敢えて犯しているのです。
それを踏まえて、鼠と女はどのような関係だったのか。
「「時間」を解く鍵が「数字」にあったように、「人物」を解く鍵は「人物名」にある。すなわち<ジョン・F・ケネディー>だ。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)と、ヒントはジョン・F・ケネディーとしています。
「6」の最後では、「ねえ、人間は生まれつき不公平に作られている。」「誰の言葉?」「ジョン・F・ケネディー。」という、鼠と女の会話文で締めくくられてます。
その後の「9」では、小指のない女の子が酩酊状態で僕に、ジョン・F・ケネディーについて語っていたことが読者に知らされます。
ほかの箇所でもジョン・F・ケネディーが示唆的に散りばめられていて、パズルのピースを時系列に並べ直し、鼠の挙動や、小指のない女の子の発言をたどって整理していくと、要するに「何を隠そう「鼠」こそ、小指のない女の子の妊娠の片一方の当事者だったことになる。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)と解釈できるのです。
このことが腑に落ちると、霧が晴れたかのように全貌が理解できるようになります。だから鼠は自暴自棄になり、小指のない女の子は“少しの間旅”に出ているのです。
斎藤美奈子氏は「ジグソーパズルを組み立てて、びっくりするような絵が出てくることは、まあほとんどない。そういうことだ。」(斎藤美奈子『妊娠小説』筑摩書房)としています。
よく分からなかったけど、並べ直したら、な~んだ、そういうことね、ということなのでしょう。
しかし、本当にそれだけでしょうか?
私は、ジグソーパズル化には、別の作用をもたらしていると考えています。
物語をバラバラに構成することにより、さらには視点の移動という禁じ手まで使い、この物語はある挑戦を果たしているのです。
いわゆるパラレルワールドを表現しているように思えてなりません。
時間も人間関係も語り手も何もかもが、重層的に輻輳して、並行して存在している。そんな目には見えないこの世のあり方を、『風の歌を聴け』というありきたりなストーリーに乗せて表現されている。
内容は確かに手垢にまみれたものかもしれませんが、世界のありようを表現しようとして挑戦している、なりふり構わない様子が垣間見えます。
それがこの作品を普通の作品にせずにはおかない理由ではないでしょうか。
このように、構造に着目するとまた違った解釈が広がることをお伝えしたかったのですが、いかがでしたでしょうか?
私はずばり、テクスト論者ですので、その意味において作者の生い立ちや思想に重きを置いて読み込むタイプではありません。
その文章に対峙したときに、脳内でどんな信号がやりとりされて、記号を解釈し、物語が流れ出すのか。その面白さ、不思議さを追求することが楽しいのです。
そのときにそのように解釈されたのであれば、その人のその時の解釈が正であり、いわゆる誤読もOKとします。
こんな解釈もあるのだということを、少しでもご紹介できれば本望です。
2020年7月12日日曜日開催
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【参加者募集】
「週末の夜の読書会」は毎月一回開催しています。
いっしょに文学を語りませんか?参加資格は課題本の読了!
【会場情報】
plateau books(プラトーブックス)
〒112-0001 東京都文京区白山5-1-15 ラークヒルズ文京白山2階
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【第8回課題本】
文学は人生を変える!色々な気付きを与えてくれる貴重な玉手箱☆自分の一部に取り入れれば、肉となり骨となり支えてくれるものです。そんな文学という世界をもっと気軽に親しんでもらおうと、読書会を開催しています。ご賛同いただけるようでしたら、ぜひサポートをお願いします!