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書籍編集者の私が自分のことを書くのが苦手な理由


「誰かのための文章」と「自分の文章」

私は職業が編集者・ライターで(ガチのやつ)、本業では書籍を作るのを生業にしているのだけど、去年あたりから「誰かのための文章」じゃなくて、「自分の文章」を書きたいと思うようになった。

それで、夫に名付けてもらった「週末ひさ子」の名でnoteも始めたり、はてなブログで日記を始めたりしたのだけど、現状、100%言いたいことが言えているのかというとそうでもない。

こういう「書きたいことが書けない」と言った戯言が100%うざったく聞こえることは大前提の上に言う。私は書きたいことが書けない。

誰かに読んでほしい、という以前に自分の言いたいことが書けてるかどうかで悩んでる。
編集者のくせに、ライターのくせに、文章書くのが苦手だなんて…と思うかもしれないがすごく悩んでる。

で、結局「自分のための文章」と「他人を知ってもらうための文章」では書き方がぜんぜん違うのだなということに最近気づいた。自分がどの立場を取るかで全然書きやすさが違うのだ。

他人のためのほうが体が動く

まず、文章以前に、昔から私は「自分のため」よりも「他人のため」と思ったほうが体が動くタイプだった。

すごく悪い言い方をすると、自分を粗末に扱う代わりに「○○さんが喜んでくれるなら私が多少損してもいい」という考え方で。根本に自分よりも他人が大切だという考え方があるから、自分を軸とする文を書くのに抵抗があるのかもしれない。

「他人のための文章」は、正直簡単なんだ。
雑誌だったらその人にインタビューをして、その人が言いたいことをその人になりきって書く。
書籍だったら、著者が世間に伝えたいことがどうやったら明確に伝わるかを考えて、本の構成や目次を考えたりしていく。
結局、その人を輝かせるために文章を書いているわけで。

それができるのは、他人を客観的に見れているから何だと思う。客観性があるから、どう書いたらその人が輝けるかをすぐ理解できるのだと思う。目的が決まっていて、著者やインタビューイの伝えたいことが多くの場合は決まっている。それを噛み砕き、伝える技術で文章にする。それだけだ。

客観性の欠如で欲望が暴走

しかし、自分のことを書くとなると「客観性」が作用しなくなる。客観性が欠けると自分の欲望が暴走する。

職業的なライティングをしなくていいのであれば、物事をドラマチックに仕立て上げるようなそういう文章の書き方をしたい。私の生活そのものをおもしろく思えるような文章を書きたい。椎名林檎みたいな難しい言葉を使いたい。
…みたいな。笑

「こうすれば読まれる文章が書けます!」「伝わる文章講座」とかなんかやってる人いるが、それはたしかにそういうテクニックは存在するんだよね。でもそれらはきっと、「客観性」の上になりたつテクニックなんだよね。

天才にはなれん

職業的・娯楽的にも、書けないことに向き合うときは決まってそれは誰かの素敵な文章を読んでいるときで。ああ、こういう文章書きたいなって思ったときです。

書くという抽象的なもので金を稼いでいる身分では「おもしろい」「読みたくなる」という至って抽象的な価値観でジャッジされなくちゃいけなくて毎度毎度自信を失っていくのですよ。

酔った勢いで書いた文章が賞賛されるような人とか、日々の日記が評価されるような人とか、自分の半生まるごとコンテンツになっているような人がいるけれど、それはもう一握りの天才で。

私、去年自殺未遂をしてから「生きているだけでいいんだよ」と往々にして言われてきたけれど、どうやらそれ以上の何かを求めているかんじはする。

まだ。何者かになりたい。という18歳のときに思う、漠然とした思いを30歳手前で思いはじめてしまったようだった。

私は元々編集者になった時点で天才性みたいなのはなかったのだから、それを努力でカバーしようと思っていたのだけど。

「私は凡人以下だから、普通の二倍努力をしてやっと普通になるんだ」

そういえば、自分に自信がなくなった中学三年生から社会人2〜3年目くらいは、「私は凡人以下だから、普通の二倍努力をしてやっと普通になるんだ」と呪文のように唱えていたな。自分にも他人にも聞こえるように言うことで、そこから逃れられないように。

自分のこと書ける人、自分のことが好きなんだと思う。いいな。私はもっともっと自分のことを好きになって自分のことを大切にできたら、納得できるいい文章が書けるのかしら。でも、今はそう信じて頑張りたいと思う。


今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!