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異端

2021年に、私はNetflixもアマプラもU-NEXTもDisnyプラスもある世界線にいる高校生で、自分以外の生き方が世の中に存在していることを様々な映画を観ることによって知っていて、すでに「大学に行かなくたってなんとかなる。死にゃあしない」という観念を知っているから結構な頻度で授業をサボったりもしていて。たとえスカートを短くしすぎて中年の男性教諭に怒られたとしても、屁でもないわ!という顔がすぐにできて。近所の超ヘビースモーカーのお姉さんが住む、灰まみれのワンルームに平気で入り浸っている生活がしてみたい。

「音楽を聞くことで救われるのはもう経験した?」「鬱な気分になったり死にたくなったりしても別にいいじゃん」などと平気でそのお姉さんは言って高校生の私は幾度も救われる。生きるのに疲れても、それをごまかす方法でだましだまし乗り切る術をその煙臭いお姉さんに私は教わった。

視野の広さは生きづらさの軽減に直結する。当時は、自分や周りを括り込むカテゴリーが「女」「高校生」「子供」「大人」などと大きすぎるものしかなく、自分を測る評価基準も「成績」「大学」「素行」「金」などとわかりやすすぎていた。善と悪、みたいに二項対立的にしかとらえることができなかった時代。そこから外れていくひとのことを、今ならかっこいいと思えるのに。

2008年、ほんとに通っていた高校は、全学年のほとんどが大学(いわゆる難関大学)に進学するような有名私立高校だった。私たちには大学に行く以外の選択肢はなかったから、どんなに成績が悪くても高1から受験戦争に出征する。高校三年の受験が終わると、誰がどの大学に行ったのかが掲示板に続々と張り出された。あの子は早稲田に行ったらしい。あいつはギリギリ立教に入れたってさ。そんななか、5つ隣のクラスの、ショートカットの女の子が看護の専門学校に進学するらしいという噂が流れてきた。大学進学率99%を誇る我が校からは考えられない進路で、特に言葉に出しはしなかったけれど「きっといい大学に入れなかったから看護学校に行くしかなかったんだろう」みたいな性格の悪いことを普通に思ってた。それが私達の普通だった。今思えば、ちょっとでもそのカテゴリーを外れると"異端"とされてしまうその空間が異常だったのに、当時はそんなこと思いもしなかった。

選択肢がほしい。選べない選択肢でも、そういう生き方もあるんだってことを知りたい。心からそう思う。

最近グッときたのはこのツイートをシェアしまする。ポルトガル語で「恐れ、悲しみ、憎しみ、失望。」と書いてある。目だけで語る感情、すごい。



今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!