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孫の髪で筆を作る

先日の昼、祖母からLINEが来た。「じーじ(祖父)が●●(私の本名)の髪の毛で、筆を作るつもりでしたがかないませんでした」。最初は祖母が何言ってるのかよくわからなくて、「髪の毛送るよ? 今ちょうど伸ばしてる!」とノリで意味不明な返信をしてけど、写真が送られてきて意味がわかった。

4歳の私の髪の毛の写真。祖父は、認知症である。妻(祖母)のことも息子(父)のことも孫(私)のこともすべて忘れて、生活も困難になって施設にいる。祖母は今一人暮らし。家を片付けているときに私の髪が出てきたのであろう。孫の髪で筆をつくろうと思ったことでさえ忘れてしまった祖父のことを思って、「かなわなかった」と祖母は嘆いている。よくわからない感情になった。そんな重いことを私に言わないでよ。ねえなんて返すのが正解だった?「へー!」とかそっけないこと返すので精一杯。

ちょっと前まで、電話するたびに祖母は泣いていた。「じーじ(祖父)を施設に入れてしまった」と自分を責めて。悔やんで。認知症になった自分の夫を思って。誰もどうすることもできない状況なのに、自分のせいだと言う。祖父に違和感があったのは、60歳くらいだったらしい。忘れ物が増え、忘れっぽくなり、なんだかよくわからない間に祖父は認知症と診断された。私も認知症の本読んだりいろいろしたけど、結局祖母に何ができたのか、今なにができるのか、現在進行系でわからない。

小さい頃、祖父母の元(東京じゃない、遠い地方)に平気で一ヶ月滞在しちゃうくらいのいわゆるおじい&おばあちゃん子で、初めてひとりで飛行機に乗ったのも祖父母の元に行くときだった。大人になった今でもよく85を過ぎた祖母と連絡をとる。祖母はLINEも使いこなすコンピューターおばあちゃん。でも、THE 昔の女のひとって感じで、亭主関白気味の祖父と暮らしてた。

祖父の介護がまだ自宅でできていた頃、祖母の負担は相当だったと思う。いわゆる老々介護で、たまに父や母がヘルプに帰省していたけれど、ほぼ祖父と祖母ふたりっきりで過ごしていた。介護といっても、食べたり寝たり排泄したりはその頃できていて、いちばんきついのは同じこと何度も聞かれるとか徘徊とか。昨日今日のことはすぐ忘れちゃうけれど、自分が40〜50歳くらい(働いていたとき)のときの記憶だけが残っているようで、「○○さんが仕事で来るからここで待たないと」と言って外に突然出ていったり、「俺の金をあいつにとられた!」と騒いだり、よく認知症介護の現場で聞くような展開が多々あり。祖母は疲弊してるけど、世話は私がしないと、みたいな意識が強かったようで、その頃は頑なに祖父を施設に入れたりデイサービスに通わせたりしようとしなかったらしい(母から聞いた)。私は、祖母の愚痴を聞いたらいいのか、それとも認知症介護のアドバイスをしたほうがいいのか、孫としてどう接して良いのか正直当時はよくわからなかった。あるときの祖母は「もうほんっとうにひどいよ。朝4時に起こされて『今日は何日だ?』と聞いてくるから全然寝れないの」と愚痴ることもあれば、「もうどうすればいいかわからない」と電話の向こうでひたすら泣くこともあった。私はといえば、結局認知症の専門書で読んだか何かで「え〜そんなことすんの?ムカつくね。もうやんなっちゃうね」と共感してみたり、「あはは、また外行っちゃったんだ〜」と笑い飛ばしたりしていた。阿川佐和子も本で「明るく!介護にも笑いを!」と言っていたし。

あの頃の祖父と電話しても、私のことを忘れてしまっているから私のことをよく「お客さん」と言っていた。自分が認知症だってことをどこまで理解していたかわからならいけど、忘却していることには意識があるみたいで「お客さん」って言えば、私が傷つかないとわかっていたんだと思う。そういえば、認知症の症状がそこまでひどくない頃は、大学生になった私に「高校はどうだ?」と聞き、社会人になった私に「大学はいつ卒業なの?」と聞いていたな。「おしい!もう社会人なんだよね〜」みたいな冗談を言えていたころが懐かしい。ちょっとずつずれていた記憶が、いつの間にか全部なくなっていた。

私の父の、祖父への対応のことを考えると今でもずっと吐きそうになる。「じいさんはおかしくなってしまった」と少々粗雑に祖父、つまり自分の父親を扱っていた。あるとき、祖母をヘルプしに父が帰省すると、家族のグループLINEに祖父が怒鳴り散らしている動画が送られてきた。「俺の金を取ったんだ!」みたいなわけのわからないことを怒鳴りちらして祖母を困らせる祖父を、父が撮影しているってこと。「もうね、ほんとうにダメ。ほんとうにじいさんはおかしくなった。ばーばをずっと困らせるの」と父は半ば諦めたように、馬鹿にしたように、困ったように、正義感や義務感があるようなかんじで、悲しそうに、やるせなく私に言った。大学生の私はよくその話をされた。それって何を見せたいの? と当時の私はよく理解できなくて、ただただ父の行動をグロテスクに思っていたのだけど(だってどう反応していいのかわからないじゃない)、今思えば父は代わりゆく自分の親のことを直視したくなかったんだと思う。単純に疲弊する祖母を守りたかったんだと思う。あのとき私はどうすればよかったのだろう、今でも時々悩む。誰も悪くない。父も祖母も祖父も誰も悪くない。認知症のせいで、すべての人間関係を壊されたってだけの話。本当にムカつく病気だよ。

昨年、コロナ禍に祖父は施設に入った。どんな事情で、どんな状況で、ケアマネージャーとどんな話になって施設に入ることになったのか、詳細はわからないのだけど(あんまり聞ける空気じゃない)あんなに頑なに施設に入れることを拒んでいた祖母が了承したということは、症状が施設に入らざるをえないくらいまで進行したってことだろう。祖父が施設に入った頃、祖母はいつも泣いていた。私や兄弟、母、父、叔父、誰が電話しても泣いていた。「じーじ、可哀想にねぇ」って。祖母はいつも自分を責めて泣く。

コロナだから、面会は全然できない。たまにスタッフさんがビデオ通話をしてくれるらしく、その通話の動画が送られてくる。たぶん、祖父はビデオ通話してることすらわかっていないし、画面越しに写っているのが誰なのかもわかっていないと思う。送られてきた動画の中の祖父は、信じられないほどやせ細っていた。施設では、ひとが多くてとにかく入居者に対応しないといけないから、歩けるけど車椅子に乗せて、食べれるけど入れ歯とって流動食あげるんだって。でも祖父はニコニコしてた。筋肉が減って細くなった祖父を見てられなかった。小学校の頃、電話すると「君はかしこいから大丈夫だ。声を聞くとかしこいのがわかる」と私を励ましてくれた祖父。習字が好きで、字がうまくて、詩を書くのが好きで、辞書を読むのが趣味だった博識な祖父。私の髪を取っておいた祖父。あの頃は、何を聞いても全部答えてくれた。何でも知っていた。でも今はもう何も知らない。

でも私はそれを見て、死ぬのが怖いって前のnoteに書いたことがあるのだけど、「認知症になったら、あのとき死ぬのが怖いって思ったことすら忘れちゃうのかな」なんて縁起でもないことを考えたんだよな。サイテーだ。でも、私もどう捉えてどう考えればいいのかわからなかったんだ。何が正解だと思う?

今、祖母と電話すると、施設に入った祖父の話はほとんどしない。いや、まったくしないかも。イオンで無料鑑定があって家の骨董品持っていったら2000円になったとか、かわいいティッシュケースがほしいと話したらレースでブリブリのティッシュケースを送ってくれたりとかそういう話ばっかり。たぶん前より元気になってる。単純にコロナのせいで祖父の情報が入りづらいっていうのもあるだろうけど、祖母の周りにいる親戚の人たちがとっても優しくて、祖母を支えてくれているのもあると思う。この前、祖父の誕生日で、「お義兄さんに会えないけど僕たちだけでもケーキを食べよう」って叔父が言ってくれたみたいで、そのやさしい話を聞いて私泣いちゃった。私もできるだけ祖母に連絡したい。

今年、私の父は60歳になり還暦を迎えた。祖父の認知症の発症は60歳ごろだった。自分も自分の親みたいになるんじゃないかって父は恐れてる。私も怖いよ。たぶんみんな怖い。壊れて、泣いたり、見たくないものを見たくない。だから、お願いですから「認知症は誰にでもなる病気です」だなんて言わないで、医療のえらい人たち、頭がいい研究者の人たち、認知症っていう意味のわからない病気をどうにかできる、薬を開発してください。私みんなが大好き。ほんとうに大好き。だからどうかお願いします。


今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!