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【ノンバイナリーの妊活⑥】DINKsとして考えたほうがいい?

 毎週聴いているラジオのパーソナリティに子どもが生まれ、「子どもがすばらしい、子どもは宝だ」的な話ばかりをされ、嫌気が差してしまった。同時に誰かの幸せを単純に願えない自分にうんざりした。でもなんだか、遠くの別の場所に行ってしまったような気がしたのだ、そのパーソナリティが。

 この現象、メディアに接しているとたまに起こる。芸能人のひとや著名人など影響力を持ったひとたちが「子どもをもつことが幸せな当たり前のこと」「早くこっち側においでよ」的な語り口で話を進めていたり、子どもが生まれたときの感動を当たり前に共感されることとして泣きながら話したりされたとき、なんだかそれを強要されているような気になって、苦しくなるのだ。
 あなたたちが言う「ふつう」からは外れているからなのか、子どもを持つことが感動的なことだと、美談として語られるのがちょっとわからない。もう「ふつう」から外れすぎていて、よくわからなくなってきちゃったのだけど、誰にとっても子どもは宝なのか?

 子どもは、愛の形だとか証だとかいうが、もしそれが必須なのであれば私とパートナーはそんなものがなくても愛の形をたしかに証明できるし、子の存在こそ生きた証だというのならば、別の分野で生きた証を残したい。そういう意味では自分の名前がクレジットされた本をたくさんつくったし、助けられたといわれた経験、誰かにありがとうと言われたたいせつな経験があり、「生きてくれさえすればいい」と言ってもらえた私は、もう生きた証というものを手に入れているも同然なのではないか。さすがに言い過ぎか。

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 姪が生まれた。とてもかわいい。生まれてから、この子に私がしてあげられることを考えるようになった。すべての経験しなくていいことから守りたいし、あの本を勧めようとか、困ったときは味方でいられる人間でいようと思っている。そして、この子が安全に生活していける環境を大人として作っていきたいと思っている。
 子どもはいないが共同親権にも戦争にも反対で、子を持つ意思は今のところ生まれないが、世界中の子どもたちが安全に生きていってほしいと願ってやまない。私の姪も、パレスチナのガザにいる子どもも。先日衆議院でこの法案が可決されたときは体調壊すくらい落ち込んだし、人権が阻害されている状況が許せないわけだけど、じゃあ自分が子どもを持ちたいかといわれたらそうではない。子どもの未来を思う気持ちと自分が生殖したいかどうかの気持ちは別なのである。

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 どちらかといえば、これはノンバイナリーの悩みではなく、DINKsとして生きることを迷っているだけの悩みなのかもしれないと最近は思う。切り分けて考えなければならないのかもしれない。

 パートナーと一緒に出かけたとき、当たり前だが「家族連れ」というものに接する。見知らぬ子どもに笑いかけたり、見知らぬ子どもにすら愛おしい顔を見せるパートナーに申し訳ない。でも、どうしても自分の体の中から、子どもがほしいという気持ちが湧き上がらない。「自分の子どもに出会ってみたい」というのが彼の子どもが欲しい理由だというが、私はそう思わない。思えないのか、思わない。

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今度一人暮らしするタイミングがあったら猫を飼いますね!!