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水味のグミ

先日、「水グミ」というお菓子を発見した。

一瞬水の味を再現したグミが売られているのかと思い、お菓子売り場で一人で喜んでしまった。

このグミは実際は巨峰味なのだが、「透き通る果実感」という説明文が示す通り、食べてみると確かに水のようにピュアな食感がするグミだった。

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水の味ではなく巨峰味のグミだったのだが、勘違いとはいえ私はなぜ「水の味のグミ」が売られていたことに歓喜したのか。

今回は私の中に潜んでいた興味を、考察して言語化してみようと思う。


1つ目の興味ポイントは、水の味を再現する=味がないものの味を再現するという行為の面白さだ。

矛盾のような曖昧な構造が、完璧さが求められる商品として具現化されていることの違和感に、直感的に反応してしまったように感じる。


2つ目の興味ポイントは、水にも水の味があるという面白さだ。

味がないと思い込んでいたものにも、実は味があったという気づきが面白い。私は常々そんなことを考えてはいるのだが、今回水グミという商品を見つけて、そのことを再び考えさせられた。


これら2つの興味ポイントに私はなぜ心惹かれたのか、更に考察してみる。

「味がないものを再現した無味味」という概念と、「水にも味があることを再認識させてくれる水味」という概念。

常識や固定観念が壊れる驚きという言葉で括ることは簡単だが、その奥深くにあるもっと深い喜びと向き合いたい。


「無味味」という言葉は、「無音を聴く」ことや「目を閉じながらまぶたの裏側を観る」ことにも似ている。

私はそんな、『何かをしているのに同時にしてもいない』という重複構造や矛盾構造が大好きだ。それらに感じる面白さの本質は何だろう。


矛盾という本来起こりえない思考上の現象が、現実世界で成立してしまっている状態が面白い。思考実験のような空想上でのみ確認できる現象。それが具現化していることの面白さの要因は、思考や精神など、形がない情報を扱うときの神秘的な喜びが大きいかもしれない。

「無味味」というキーワードには、そんなメンタルとフィジカルを結ぶ架け橋になっている面白さがあった。しかし、これは頭で考えた面白さになっている気もする。

メンタルとフィジカルの境界線ももちろん面白いが、「無味味」の面白さの本質は本当にそういうことなのだろうか。

矛盾の面白さは、ありえなかったことがありえてしまったロマンという解釈もできるかもしれない。ある種それは、ドラゴンなんていないと思っていたのに実在していたという驚きに通じるかもしれない。

想像上のものが実は存在していた喜び。そういうことも、面白さを感じる大きな要因な気がする。


では、「水味」という言葉が発する面白さは何だろう。

水にも味があるという前提が更新される快感。水も味と定義する思考の拡張、やはり、味を意識していないものの味を意識させられる驚きが1番のポイントなのだろう。

私は常々、口の中にも歯茎や歯の裏側の味があるということを思い出す。割り箸にも割り箸の味があり、マグカップにもマグカップの味がある。歯ブラシにも歯ブラシの味があるということを考えては、嬉しくなる。

全てのものには味があるという気づきは、物事や世界は捉える角度によって、印象が大きく変わるということを教えてくれる。

そんな気づきが、私の心を豊かにしてくれるのだと思う。


一貫して、私にとっての大きな喜びは、物事や世界の捉え方が更新されるときの素晴らしい感覚だ。

その感覚に、私の人生の大きな意味やテーマが宿っている気がする。


思考と精神といった非物質と物質を結びつける行為、そして、世界の捉え方を拡張する行為。

これら2つのテーマの探求が、私にとっての喜びだなのだと思った。

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