コンセプトやバックストーリーを知ったら、モノや空間の見え方が変わるという不思議
「空間のカラーコーディネート、とてもいいですね!めっちゃ好きです。
ところで、このカラーコーディネートについて、上司の承認を得るためにコンセプトが必要なんですが、何かありますか?」
こんなやりとりが近年増えてきたように思います。
このような質問を受けた時にまず思うのは、
「あなたが好きと感じたのなら、それでよくない?」
です。
僕の好みとあなたの好みが一致した。良いと思える。
それをそのまま上司に伝えたが、その人には特に響かなかった。
だとしたら、ただそれだけのことなのではと。
しかし仕事の上ではそうもいかず、後付けでカラーコーディネートのコンセプトを考えたりする。
もちろん、プロジェクトスタート時に空間全体のデザインコンセプトを立てて、その下にぶらさがるかたちでカラーコーディネートを考えることもある。
こういうケースでは、コンセプトから導きだされる色が主役になるので、僕個人の好みはどうでもよくなる。
その色をどれくらい使い、他の色や素材とどう整合性をとって全体を美しく見せるか、といったプロの仕事を粛々とすれば良いので難しくはないけれど、その成果物がめっちゃ好みかと言われたらそうでもなかったりする。
個人の好みでつくるカラーコーディネート
コンセプトからつくるカラーコーディネート
どう違うのだろう。
なんのためにコンセプトはあるのか?
ビジネスをはじめるとき、デザインをするとき、商品開発をするとき、いかなるときも最初につくるべきとされているコンセプト。
いったいなんのためにあるのだろう?
①より多くの人に商品・サービスを売るため。
コンセプトを付与していない素のままの商品・サービス、それをとりまく空間があるとする。
それらの素のままを好きな人はもちろん一定数いるだろう。
しかしその人たちだけをターゲットにすると母数が少ない。
そこで登場するのがコンセプト。
素材をおいしくする魔法の調味料。
「この素材にはこういう意図があり、意味があり、意義がありできている」
という情報で味付けをする。
この味付けはほとんどの場合「共感」と呼ばれる味で、現代にはこの味付けが好きな人が多い。
そうしてできた商品やサービスが好きな人は、素のままを好きな人たちとは別の軸で存在するため、素材の持ち味を殺すことなく母数を増やすことができる。
結果コンセプトを付与する前と後では、成果物の見た目に変わりはないけど、買ってくれる人が増えるのである。
この手法は、マスメディアが発達し、その後に発明されたインターネットによって情報を多くの人に、個別化して伝達できるようになったために生まれたのだろう。
平たくいうと、現代におけるマーケティング手法のひとつだ。
②個人の感性よりも第三者が評価する概念に頼ると、議論の矛先が個人に向かわずに安心だから
冒頭のカラーコーディネートの話を思い出してください。
クライアント企業の担当者は、コンセプトの有無は関係なく、できあがったカラーコーディネートを良いと感じた。
しかしこれを上司に伝えるときにコンセプトが必要だと思った。
なぜか。
第三者になんらかの評価を仰ぐとき「自分の感覚・感性で良いと感じた」とは言わずに、「こういった理由があってこのカラーコーディネートは企画されていて、プロジェクトの方針にぴったり合っていると思うんですよね」
と一歩引いた視点に立って伝える。
こうすると、上司から得られるフィードバックが対象とするのは、担当者の感性に基づく評価ではなくコンセプトに向く。
つまり、本来評価しなければならないカラーコーディネートの良し悪しではないものに視点がすり替わる。
そうすると、上司から担当者個人に意見や批評の矛先が向くことがなくなるので、安心できるのだ。
ここで問題なのは、担当者がはじめは自分の感性でカラーコーディネートが良いものだと思っていたのに、評価の対象をコンセプトにすり替えたため、結局のところ本当に自分はこのカラーコーディネートが良いと思っていたのか曖昧になってくるところにあると思う。
自分が好きなものを何にも包まずに誰かに伝えて、共感を得たときの嬉しさはかけがえのないものだと思うのだけど。
なぜコンセプトがあると見え方が変わるのか?
コンセプトやバックストーリーは見た目を変えるのではなく、人の意識を変える。
コンセプトやバックストーリーを聞いた後で空間を見たときに、椅子が大きくなったり、床材が光を放ったりすることは当然ながら、ない。
でも意識下では対象が「良く」見えてくる。欲しくなる。
「今日は青いものを見つけましょう。」
と言われて1日を過ごすと、前日と全く同じ行動をしていても、昨日は見えていなかった青いものが無数に見つかることと同じように、人間は「意識するとそれがよく見える」動物である。
何より人間には「知的好奇心」がある。
コンセプトやバックストーリーを商品やサービスの開発に使うのは、この特性を利用している。
商品やサービスが生まれた背景や想い、どういう人に買ってほしいかというストーリーを耳にすると「共感」のアンテナが反応する。ピコピコ。
一度その意識をもつと、それまで商品やサービスに抱いていた感覚に戻ることはできず、ストーリーも「こみこみ」で対象を評価するようになる。
現代マーケティングが生み出した「共感消費」とはこういった仕組みである。
共感消費の時流はこのあとどのように変化していくか
「共感」を商材にしようと最初に考えた人はすごい。
人間なら誰もがもつ感覚であり物理的制限が無い。
人間らしい消費のあり方の一つであり、ビジネスを加速するために欠かせない要素だと納得する一方で、どこか腑落ちしない自分がいる。
ラーメンを食べて美味しくないと感じたが、
後に普段は行列ができるほど人気な店なんだと聞いて
「そうか、舌がおかしかったのは自分で、あれは美味しかったんだ!」とはならない。
雑貨屋でふと目にしたマグカップ。
デザインが好みでなく特段心が動かなかったが、
誰かに「このマグカップ、○○のリサイクル素材で作られてるんだって!すごくない?」
と言われても、買いたくならない。
「この空間のカラーコーディネートにはこれこれの理由、コンセプトがあるんですよ〜」
と言われても、クソダサいと感じた心は変わらない。
と歌ったのは槇原敬之ですが、この歌が発表されて33年経った今、改めてこの歌詞に共感した。
誰でもみんな自分の中に確固たる美への感じ方があって、それを評価するのはあくまで自分である。
これが好き!なんでって?だって好きなんだもの。
となんのしがらみもなく表現したい。
個人がさまざまなツールを駆使して、不特定多数に自分の主張を届けることが容易になってきた今、コンセプトやバックストーリーをわざわざ最上段におかなくて、共感する人たちが勝手に集まる場がつくられる今。
サービスやそれに付属するインテリア・空間は、モノや文章・漫画や映像コンテンツのように、場所を問わずすぐに手に入れられるものではないが、これも身近になりつつある。
技術の発展によって、一対多の消費構造は、物々交換のように個対個の取引に移行して、本当は要らなかったものを手にすることがなくなっていくのではと感じています。
と言いつつ、無駄なものを手にする喜びも「人間だもの」だし、楽しさの根源でもあるので全く無駄のない社会も窮屈かもしれない。
主張のない終わり方になってしまいましたが、言いたいこと書いたんでまぁいいか。
それではまた来週。
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