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強くなることは鈍くなること
成長は、退化だ。
そう断定するのは少し乱暴すぎるだろうか。
弊バンド、ノウルシの「ラピスラズリ」という曲の中に、次のような一節がある。
強くなることは鈍くなることだと
誰かがそう言った
それが誰かすら忘れてしまった
「成長」と言うと聞こえはいい。
僕らはとかく成長を求められがちだ。
社会の荒波は容赦なく、停滞は罪、前ならえ、前進あるのみ、というわけ。
確かに、それまでできなかったことをできるようになること、努力に見合った成果が返ってくることは気分が良い。
しかしそれは自分で望んだ成長の場合。
この社会にいると、望まぬ成長を強いられる場面も多いのではないだろうか。
本当は時間をかけてでもより良いものに仕上げることがベストの筈なのに、時間のない中で妥協することを覚える。
それなりのものをスピーディーに仕上げる、その場しのぎのスキルだけが向上する。
そんなプロセスに慣れてしまい、いつしか初心を忘れてしまう。
立場が上の人間から怒鳴られる。
いちいち傷ついていては心が持たないので感情に蓋をする。
やり過ごすのが上手くなる。
確かにある角度から見ればそれらは成長なのだろう。
でも別の角度から見た時、それはときに退化だったりする。
生きる上で要領だけが良くなり、大事な何かを忘れてしまう。
心が麻痺して、感じにくくなってしまう。
感動は薄くなり、心から笑うことも少なくなる。
どうもこの社会では
「最適化」=「成長」
という等式がやたらに信仰されているようだ。
最適化というのは、無駄なものを切り捨て、よりシンプルに、より一方向に特化するということ。
宝石は、その輝きを得るためにカットされ研磨されその美しさに磨きをかけるけれど、その時削り取られた部分のことをつい考えてしまう。
ギターの練習を始めた時、弦を押さえる左手の指はすぐに痛くなり、マメができたり、出血したりしていた。
しかし練習を重ねるうちに指の皮は厚くなり、長時間弾いていても平気になった。
僕は成長した。強くなったのだ。
しかし、カチカチ、ツルツルになった僕の指は、たまにピアノを弾こうと思った時に黒鍵の上でつるんと滑る。
以前は君の頬の産毛まで感じられたようなその指先の繊細な感覚は、今はもうない。
鈍くなったのだ。
思春期に、生まれた理由とか、自分の価値とか、アイデンティティの問題で悩み苦しみもがいていたかつての少年少女たちは、いつしかそういう悩みを抱かなくなる。
それらの疑問に対する明確な答えを手に入れたのか。
そうではなくて、生きるためにそういう繊細でやわな感性を切り捨てたのだ。
そんなことでいちいち悩んでいては、この社会ではあまりに生きづらいから。
心について。世界について。様々な哲学的関心。
そういった、込み入ったテーマについて熱く語り合ったこともある、独特な感性を持っていたかつての友人は、今久しぶりに会うと仕事の話、家庭の話で終始する。
僕が面白いと思っていた「彼」はもう失われてしまった。
でも彼にとっては「最適化」であり、「成長」なのだ。
きっと生きやすくなって、今の方が楽しいし幸せなのだと思う。
どっちが正解とかではない。
見る角度の問題。
何を重視するかという選択の問題でしかない。
そういう僕自身だって、昔に比べれば自分の内面的な問題で悩むことが少なくなったし、10代の頃と比較して今の方が確実に生きやすい。
わざわざあの頃のえもいわれぬ苦しみをもう一度味わいたいとは思わない。
でも、僕が詞を書き曲を書く人間だから、というだけではなく、
「変化」(成長と呼ぶのはやっぱり躊躇いがある)の途中にいる者として、
これまでに僕が失ったもの、これから先最適化されていく中で失うことになるであろうものたちのことは、できるだけ覚えていたい。
切り捨てられた欠片たちの方を、不器用ながらも愛していたい。
いつまでも自分の一部にしてはいられないのだとしても、行方知れずにはせず、きちんと宝箱に大切にしまってベッドの下に隠しておきたい。
最初に抜けた乳歯みたいに。
そう思うのはあまりに子どもっぽすぎるだろうか。
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