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ジョーカーが弱者のヒーローだと思わない理由

映画鑑賞前に読むと著しく楽しみを阻害してしまうような致命的なネタバレは(たぶん)ないですが、特定のシーンに対して言及してる箇所があるので、ネタバレが気になる方は映画鑑賞後に読むようにしてください。




まず、前提として僕自身はこの『ジョーカー』という作品をとても楽しめた。

予備知識としては、『ダークナイト』は鑑賞済。
ただし観たのが結構前で、細かいところは忘れている。
その他『ダークナイト』の続編や『バットマンシリーズ』、各種アメコミ作品はほぼ通っていない。

こんな状況下で観に行ったのだけど、まずは映画として純粋に楽しめた。
アーサーの不遇、社会全体に漂う暗い空気、鬱積した不満。
そんな中での、
序盤隠されていたある事情が悪い方向に明らかになる、であったり、
いわゆる「闇堕ち」をして暴力的な手段で状況を打破する、であったりという、
物語としての負の方向へのカタルシス。

ピエロメイクが、人々を楽しませる道化として、感情の読めない不気味な仮面として、泣きながら笑うしかない人々の壮絶な悲哀の表現として、様々に機能しているのも面白い。

吹っ切れた後、ピエロメイクを施して着飾って踊る、凄み。美しさ。

元々後味の悪い暗い映画が比較的好きというのもあるけれど、暗い快感を得ながら観られた。
独立した一作品として良作だと思ったし、少ないながらも事前知識を幾らか持った状態で鑑賞して、「繋がった」時の気持ち良さもある。

スターウォーズのエピソードⅠ〜Ⅲとも共通するけれど、
悪役のそれまで知られなかった過去を明らかにすることでシリーズ全体に深みが増す、っていうのはやっぱりファンとしては堪らないものがあると思う。

と、ここまでが一次的な感想で、ここからが作品が持つ社会性の部分に目を向けた感想。


まず観終えた時に思ったのは、人によって、これまで過ごしてきた環境によって、受ける印象は様々だろうな、ということ。

単純にエンターテイメントとして楽しめる人、過剰に感じ入ってしまう人、色々いるとは思うし、事実そうした様々な感想があちらこちらで散見される。

例えば、
アーサーのことを「狂ってる。自分たちとは決定的に違う、異端者」
と捉え、
「こんな狂った人に自分たちの日常が脅かされる理不尽さ」
を感じている人もいた。
これはある意味真っ当な、「倫理的な」感想かもしれないけれど、同時にその人自身がアーサーのような境遇に陥ることを想定していない、ある程度恵まれた環境にいる人の感想、という印象を受けた。
(否定の意図は全くないです。むしろ羨ましい)

逆に、社会的に虐げられたり、弱い立場に身を置いた経験のある人が
「痛いほど分かる。だからこそスカッとした」
という感想を呟いているのも目にした。
「心のどこかではジョーカーのような存在が現れるのを望んでいる」
という人も。
一方、同じ、共感を覚えた人の中でも「分かりすぎて辛い」という人もいた。


もちろん映画の感想なのだからどんな感想を抱くのも自由で人それぞれなのだけど、きっと「今の社会を色濃く反映し過ぎている」が故に、懸念を抱く人もいるのだろう。

例えばアーサーを「異常者だ」と、自分たちと区別して語る声が大きくなり、そんな空気が蔓延すると社会の格差は広がり、両者の溝はますます深まっていく、という見方もできるかもしれない。

逆に、「これこそが我々の声だ!」「社会的弱者の叫びだ!」とジョーカーを持ち上げる声が大きくなるのも、それこそゴッサムシティ状態でよろしくない。
失うものが何もない、それ故に過激な手段を行使する。
それは結局のところ今日問題視されている「無敵の人」問題に他ならないから。

だからこそ僕は個人的にはジョーカーを英雄視してしまうのも怖いなと思っていて。

社会の格差という問題が前面に押し出されているから、弱者であったジョーカーを
「自分たち側だ」
と感じる人は多いのかもしれないし、そう感じる人が多いことこそが一番の社会が抱える問題なわけだけど、
個人的にはジョーカーは社会が生み出し得る一つの「結果」であって「ヒーロー」ではないと捉えている。


そもそものスタート地点として、この作品で描かれているのは富裕層vs貧困層という格差の問題だけには集約されないと思っている。

アメリカではそれが今特に大きな社会問題ということもあるだろうし、舞台であるゴッサムシティが抱える最大の問題が格差社会である、という舞台設定なのだから、それは一つの要素として享受すればいいのだけど。

しかし地下鉄で女性に絡みアーサーに危害を加えた証券マンたちが一つの象徴的な出来事として描かれてるけれど、じゃあそういう非人道的な行動を貧困層の人々はしてこなかったのかという話もある。
この描写は、格差の問題からは少し浮いて見えた。
実際、ちょっとした弾みで警官に暴行を加える市民たちや冒頭でセールの看板を盗む若者たちに象徴されるように、人は数であったり、地位であったり、何かの要素で相手に勝ればすぐに過激な行動にも出れてしまうし、それは貧富の差とは関係がなく、自分よりも下位のものを虐げて笑わずにはいられない人間の本質のようなもので、その日生きるのに必死な市民たちも、何不自由ない暮らしをしている金持ちも、蓋を開けてみればみんな一緒だろ? という性悪説的な描写のような気がしている。

作品に込められた一つのテーマとして格差社会は間違いなくあると思うけれど、単に富裕層vs貧困層だけに留まらず、アーサーにとっては全ての人間が軽蔑の対象なのだと思う。
だからこそ、元同僚を見逃した時の「優しいのは君だけだった」という言葉が重い。

恵まれた人々が定義する「普通(社会に適合する)」の生き方ができない「普通(ありふれた)」の人々。
彼もあくまでその一人でしかなく、たまたま色々な要素が重なった結果だ、と見ることもできる。
「僕がブームの火付け役? 冗談じゃない」
という言葉は示唆的。
元々コメディアンになりたかった彼は、多くの人々の歓声に迎え入れられて一面では一つの欲求を満たした筈で、しかし一方でそんな「火をつけられた」人々に対する軽蔑の感情もあるように思えた。
その景色を美しいと表現したけれど、それは自分の与えた影響を噛み締める気持ち(初めて味わう、求められているという承認感も含む)と、
「ほら、結局みんな醜いじゃないか。そこに差なんてない。ああなんて喜劇なんだろう」という皮肉が込められていたように思える。

他人の不幸も、側から見れば喜劇、という表現も作中で出てきていたように。


「初めから逸脱していて理屈では説明がつかない、根っからの狂人」
ではなく、環境や些細なきっかけで「誰でもそうなり得る」
ことを描いていることこそが、この作品の最大の魅力であり問題作たらしめている点でもあると思っている。

まだ色々な考えが渦を巻いている最中なので変わっていくかもしれないけれど、今のところ感想としてはこんな感じ。
とにかく映画としての出来は凄く良くて、怪作であることは間違いないから、もしまだ観てない(のにこの文章を読んだ)人がいれば是非観て、自分なりに色々感じてみてほしいなと思う。

もう一回観に行こうかな。
また感想が変わりそう。

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