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#78 空き家課まぼろし譚

※この感想記事は、ネタバレを含みます。

本書の実質主人公といっていい小学五年生の少女は、
写真に触れるとその写真を撮った時の映像を見ることができます。

最後、彼女はその力を大切な方を目にすることにはあえて使いません。

ちなみに、写真という意味では
私は、あまり写真を撮る人ではないです。
今はそこまでではないですが、
料理を逐一写真撮ってる人を毛嫌いするタイプでした。

写真を撮らない理由は、その場面や想いを味わうことに集中したいし
写真は撮っても結局見ない。結局覚えていることは覚えている。
そう思っているからです。

けど最近、それだけではないよねって思うようになりました。

例えば、今書いているように、感想を記録しておくように
何かを残しておくことはいいことだなと思うようになってきました。

なぜなら人は成長し変化し、味覚が変わると思っているからです。
昔嫌いだったナスが食べれるようになったように、
感覚が変わると気づくものや見えるものが変わると思うようになったからです。

そう言った意味で、写真を撮ることで
その時の感情を思い出すタグになりつつ、その時の感情に対して
新たに今の自分から見て、「あー若かったな」とか
そういう風に、メタに見た感想を感じられることが豊かさなのかもしれないです。

本書でも、思い出したくない過去があり
一切写真を撮らない登場人物が出てきます。

その人に、
「今じゃなく、将来の自分のためにタグを残していくのも良いかもよ」
って伝えたい気分ですね今は。

改めて、写真って不思議だなと思います。
機能的には、その場面を記録するまさにスナップショットで
写真にするという行為はある意味その場面にその人を閉じ込めてしまう行為
うまく風化させてはくれない。

一方で、なんだか単なる記録媒体と捉えるのは惜しい感覚がある。
けど、絵画とかのような主観性がそこまで具体的に現れるものではない。
普遍的な事象が切り取られるけど、なんかそれだけでない気がする。

客観性に混じる少しの一味みたいな主観性?がある気がする。

そしてそれを私はうまく説明できていない気がしています。
主観と客観がうまく混ざり合っている何かであるとは思うのですが。

カメラでも買って写真初めて見ればわかるかなあ。


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