都会での暮らし。田舎での暮らし。

 都会で暮らしていると、つい空を見上げる事を忘れてしまう。常に光に包まれた私の頭上に、星の灯りを見つける事が出来ないからだ。

 気が付けば私は下を向くか、手に持ったスマートフォンの画面を眺め立ち止まる。過行く車のテールランプ、けばけばしいパチンコ屋のネオン、雑居ビルには人の出入りが常に行われ、空き缶の転がる音。
 何もかもが溢れている都会において、私たちはいつも自分を見失っている。氾濫する情報、或いは人の流れ、それらに押し出されるようにして、私は私を見失う。

 満天の星空の元で自分と言う存在を再認識しようとする事や、広大な海の向こうに見える水平線に言葉を投げかける。或いは、森の中で深く呼吸をする。これらの行為は都会では出来ない。それによって得られるはずの自分を見つめるための時間を、私たちは手のひらから溢してしまっている。

 自分が何者なのか、何処へ向かっているのか、それをきちんと理解している人は少ない。
 それでも都会にいると、理解しなくても自然と世の中の流れが自分自身を押し流してくれる。
 それでも田舎にいると、立ち止まり思考するタイミングに恵まれ、私は私自身についてわかるはずもないのに、否が応でも意識せざるを得なくなる。

 どちらが良いか、そんなものは個々人の好みの範囲内で決めて頂ければいい。
 そこに優劣など存在しない。
 どのように生きるかは自由だ、ただそれを他人に強要しなければいいだけの話。

 ところで、自分探しの旅、という実に陳腐なフレーズが私は好きだ。
 なんと言うべきか、青春味があってとてもいいではないか。
 十代の不安定な自我と、大人への過渡期に芽生える行動力とが重なり合い、その時にしかできない行動であるからこそ。もう十分いい大人になってしまった今、私はある種の憧れにも似た感情を抱いているのだろう。
 自分が何者であるか、それは生きている限り付き合い続ける問題だろう。私たちは日々のタスクをこなし、生を続けるために必要な事を考え生きる。生活の中で浮かんでくるその疑問は、とても小さく取るに足らない存在として、日々の中に埋没していく。ふとできた空き時間にそれについて考えようとも、次々とやってくる課題に向き合っているうちに忘れてしまう。
 それを、旅と言う莫大な時間と、広大な場所をもってして探し出そうとする。そこに答えが無かろうと、彼らは未知の世界にあるはずの自分を求め歩みを続ける。
 これは都会での暮らしではもちろん、田舎でも味わう事は出来ない。田舎での暮らしは思考の機会に恵まれるとも、その閉塞的な環境においては、思考そのものに偏りが生まれるからだ。

 だから彼らは旅をするのだろう。
 大人になれば、見えない荷物が否が応でも増えてくる。そうなると、旅先に財布一つで出かけたとしても、私たちは無意識に重いリュックサックを担いで歩くことになる。
 若いうちは思う存分旅をして、路地裏で道に迷い、されどその身軽な体で、自由に世界を見聞すればいい。その先に何が無くても、そこまでの過程には何かしら得る物があるだろう。

 これは、もうどこに出かけるにも「よっこらせ」という言葉が口癖になってしまった、その辺のオッサンによる羨ましさ100%のアドバイスである。

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