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【『パンと牢獄』連載⑦】歴史に翻弄されたノルギャさんの人生


『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』の著者、小川真利枝さんが、ご自身が体験したチベットにまつわるあれこれを語ります。今回は、第6回に登場した、一日300回五体投地を繰り返すおじいさん、ノルギャさんの、歴史に翻弄された壮絶な人生について。

『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』

 ダラムサラの寺院で1日も休むことなく黙々と五体投地をしているノルギャおじいさん(第6回)。わたしに「生きとし生けるものの幸せを願うんだよ」と、五体投地のやりかたを教えてくれました。朝夕、丁寧に丁寧にお祈りをし、ひっそりとひとりで暮らしています。あるとき、ノルギャさんに「どうしてダラムサラで暮らしているのか?」と問うと、壮絶な人生を語ってくれました。

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 1928年に中国の青海省で生まれたというノルギャさん。中国でもっとも大きい湖、青海湖のちかくで育ったといいます。ふるさとは、山々に囲まれ、田園の広がる穀物が豊かなところだったそう。緑の生い茂る美しい土地で、「生活は、ダラムサラより快適だったよ」と目を細めて語ります。

 チベットは中央・西チベットのウー・ツァン地方、東のカム地方、東北のアムド地方と3つの地方に分類されます。このなかで、ノルギャさんのふるさとはアムド地方、拙著『パンと牢獄』のラモ・ツォやドゥンドゥップもアムド地方出身。このノルギャさんの物語は、ラモ・ツォやドゥンドゥップの親世代が経験した苦難の道を教えてくれるのです。

 貧しいながらも平穏な生活を送っていたノルギャさんが、武器を持たざるをえなくなったのが1949年。毛沢東率いる中国共産党が中華人民共和国の建国を宣言し、中国人民解放軍がチベットに侵攻してきた年です。ノルギャさんによると、およそ1万人(※1)の兵士が村にやってきたといいます。60歳以下の男性は、みな、武器を持って戦い、抵抗したのだそうです。なんとかはじめは人民解放軍を食い止めたそうですが、十分な武器も戦力もないチベットのひとびとが勝てるわけがありません。まもなく制圧されました。

 軍が駐留した当初、村には信仰の自由はあったのだそうです。ただ、捕虜のように働かされ、苦しめられたといいます。そして、だんだんと自由がなくなっていき、寺院を壊され、罪のないひとが逮捕され、投獄され、殺害されていきます。
 
 その混乱のさなか、ノルギャさんは結婚し、子どもをふたりもうけたそうです。しかし、1958年に事態がさらに悪化し、ノルギャさんは西へおよそ1800キロのラサへと逃げるように旅立ちます。そのとき上の子どもは5歳、下の子どもは3歳、妻は28歳、ノルギャさんは30歳でした。

 「子どもたちが幼かったから、家族は泣く泣く村に置いてひとり旅立った。混乱が落ち着いたら迎えにいくつもりだった」

 これが、ノルギャさんと家族の永遠の別れになりました。

 こうしてノルギャさんは、ラサでゲリラ部隊「チュシガントゥク」に入隊します。

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 ※The Tibet Museum, DIIR 

 「チュシガンドゥク」とは、“4つの河、6つの山脈”を意味し、東チベットであるカム地方のひとびとが中心となって自然発生的に生まれた義勇軍の連合体です。メンバーには、ノルギャさんのようにラサへと逃げてきた中央チベットやアムド地方出身のひとも入っていました。「叛乱(1956年頃から各地で起きた中国軍への一揆のようなことも含む抵抗運動)」の後半1959年11月からは、アメリカCIAによってグアムやアラバマ砂漠で特殊訓練を受けたゲリラ要員が、自動小銃や無線機などとともに落下傘降下し、チュシガントゥクを援助したといわれています。東西冷戦の時代です。チュシガントゥクは、社会主義陣営と自由主義陣営で世界が分断されていた冷戦構造に組み込まれていきました。余談ですが、ダライ・ラマ14世が亡命し「叛乱」鎮圧後も、中国軍に抵抗しようとしたチュシガントゥクは、ネパールのムスタンへ逃げ込み戦いを続けます。ところが、1972年のニクソン大統領の中国訪問前後にCIAからの援助が打ち切られ、大半はネパール軍に降伏しました。(※2)

 ノルギャさんが、チュシガントゥクに入隊してまもなく、チベットのひとにとって運命のあの日がやってきます。1959年3月10日、ラサ蜂起です。ダライ・ラマ14世の命を中国軍から守ろうと、チベットのひとびとがノルブリンカ宮殿を囲みました。その混乱のさなか、ダライ・ラマ14世はインドへと亡命します。この秘密の亡命劇を陰で支えていたのが、チュシガントゥクでした。ノルギャさんも、護衛としてインドへ向かったのです。

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※ノルブリンカ宮殿を囲むチベットのひとびとThe Tibet Museum, DIIR

 山をいくつも越え、食料もなく険しい道のりだったといいます。また、ブータンへと続く国境沿いの町ロカ市(山南市・チュシガントゥクの本部があった)では、同じ隊にいた20人の仲間が中国軍に殺されました。それでもノルギャさんは、歩いてインドまで辿り着きます。インドに着いてから1年ほど、シムラーやマナリなど山岳地帯の道路工事をしていたそうです。当時、インドに亡命したチベットのひとびとは、山を切り拓く工事にかり出されました。危険なうえ、インドの気候が肌に合わないなどもあって多くのひとが命を落としました。

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 ※The Tibet Museum, DIIR

 その後、ノルギャさんはITBP(インド・チベット国境警備隊)に入隊します。インドと中国の国境沿いを警備する隊で、チベットから亡命してきた男性の多くが、この隊に入隊したといいます。「いつか、ふるさとチベットへ帰れる日が来るようにと祈りながら、インドの国境を守っていた」とノルギャさんは語ります。

 ノルギャさんは、数年したらチベットへ帰れるものだと思っていました。ところが、待てども待てどもそのチャンスは訪れません。その間、中国では文化大革命(1966〜1976)がおきます。このとき、ふるさとに残したノルギャさんの家族は、飢餓で亡くなったのだそうです。

 「人生はダラムサラで終えるつもりだよ。チベットに戻っても、誰もいないから。でもダライ・ラマ猊下がチベットに戻ったら、わたしも帰りたい」

 「チベットへ帰りたいか?」とわたしが聞くと、ノルギャさんは少し考えてから、笑顔で答えてくれました。1949年から、ずっと何かを守り続けてきたノルギャさんは、ようやくその荷を下ろし、ダラムサラで余生を送っています。毎朝毎夕、巡礼をして祈り、五体投地を300回続け、自宅でもお経を読み、ひとり静かに生活をしています。「生きとし生けるものの幸せを願うんだよ」と教えてくれた彼のその姿は、チベットが背負うことになった悲しい歴史をすべて受け止め、優しく前を向いているような、そうなふうにわたしの目には映りました。

 次回はチベットの料理について、ご紹介します。食べることは、生きること。わたしは映画や本のなかでも、料理や食事のシーンを大切にしています。

※1 本人が1万人と言っていましたが、確証はありません。
※2 参考文献『ナクツァン――あるチベット人少年の真実の物語』(ナクツァン・ヌロ著 棚瀬慈郎訳 集広舎)、『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』(ツェワン・イシェ・ペンバ著 星泉訳 書籍侃侃房)

参考文献:2020年、1950年代のチベットを描いた書籍が3冊も出版されました。アムド地方出身の著者が少年時代を書いた回想録『ナクツァン――あるチベット人少年の真実の物語』(集広舎)。そしてチュシガントゥクを生んだカム地方のことが書かれた小説『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』(書肆侃侃房)、漫画『月と金のシャングリラ』(イースト・プレス)です。どの書籍(2冊はフィクションですが)も、史実が丁寧に描かれていて、当時の市井のチベットのひとびとの生活や考えを手に取るように知ることのできる作品です。ノルギャさんの物語と重なるところもたくさんあります。今回、こちらの書籍を参考にしながら、ノルギャさんのインタビューをまとめました。
 
■著者プロフィール
小川真利枝(おがわ・まりえ) 
ドキュメンタリー作家。1983年フィリピン生まれ。千葉県で育つ。早稲田大学教育学部卒業。2007年テレビ番組制作会社に入社、2009年同退社、フリーのディレクターに。ラジオドキュメンタリー『原爆の惨禍を生き抜いて』(2017)(文化庁芸術祭出品、放送文化基金賞奨励賞)、ドキュメンタリー映画『ラモツォの亡命ノート』(2017)などを制作。 『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』が初めての著作。

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