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新 戦国太平記 信玄 第八章 上洛無常(じょうらくむじょう) 1/海道龍一朗

 九十二 

 永禄えいろく十二年(一五六九)十月、ませ峠の戦いでたけ勢がほうじょう家に勝利する間、別働隊として駿するで動いていた秋山あきやま信友のぶともが北条方の蒲原かんばら城を囲んだ。
 その一報を、信玄は帰還した甲斐かいちゅうで受け取る。
 ──われらがわらにまで出張った理由は、単なるかくではない。蒲原城を制し、さがと駿河を分断するための大掛かりな陽動だ。いくさ続きとはいえ、ここで手をこまぬいてはおられぬ。
 そして、間髪をれずに、再び駿河への出陣を決意する。
 ──こたびこそ、北条が西へ出てこられぬよう拠点を潰し、駿河一帯をわが領地といたす。
 十一月九日、信玄は甲斐の府中を進発し、二十二日に北条家から奪取したじのみや大宮おおみや城へ到着した。
 その城を拠点に、二十七日まで諜知を行い、結果を受けていくさ評定を開く。
がのかみ、蒲原城の状況を報告してくれ」
 信玄が諜知頭のあと信秋のぶあきに命じる。
「はっ、承知いたしました。すっの報告によりますれば、蒲原城の守将は北条幻庵げんあんちょうこう)の次男、北条氏信うじのぶとその実弟の長順ちょうじゅんにござりまする。秋山信友の別働隊が城に寄せてからは、一千余の兵で籠城の構えをとっておりまする」
「さようか。一千余の城兵ならば、力攻めでも押し切れそうだな」
 信玄は一同を見廻した後、武田勝頼かつよりに言い渡す。
「勝頼、こたびの城攻め、そなたが総大将を務めよ」
かしこまりました」
 勝頼がうなずく。
「さらに、先陣大将は信豊のぶとよ、そなたに任せる。さな兄弟を補佐に付けるゆえ、奮闘を期待する」
 信玄が指名した武田信豊は、四度目の川中島かわなかじま合戦で命を落とした実弟、武田信繁のぶしげの次男である。
 望月もちづき家に養子へ入った長兄の信頼のぶよりも早世していたため、信豊が武田てんきゅう家をいでいた。
「有り難き仕合わせにござりまする。精一杯、務めさせていただきまする」
 武田信豊が深々と頭を下げる。
さぶ、そなたは富士ふじがわの沿岸で北条の援軍に備えてくれ」
 信玄が山縣やまがた昌景まさかげあかぞなえ衆に命じる。
「承知いたしました」
 こうして蒲原城攻めの陣容が定められた。
「されど、こたびの戦いは蒲原城を落とすためだけのものではない。今川いまがわ家残党のおか正綱まさつな駿すん館を再び占拠し、再興しようとしているらしい。これを見過ごすわけにはいかぬゆえ、わが本隊はさっ峠から駿府へ向かうつもりだ。各々、それぞれの役割を理解し、全うしてくれ」
「はっ!」
「では、評定はこれにて仕舞いとする」
 この軍評定が行われた翌朝、まずは城攻めの先陣大将、武田信豊が率いるくろぞなえ衆、総大将となった世子の武田勝頼が東海道への移動を開始した。
 それに続き、山縣昌景の赤備衆が富士川の西岸へと向かう。
 信玄の本隊は城攻めの布陣が整うまで大宮城で待機することになった。
 こうした武田勢の動きを知り、北条氏康うじやすちゃくなんの北条氏政うじまさと四男の氏規うじのり伊豆いず韮山にらやま城へと向かわせる。
 北条氏規は一軍を率いて興国こうこく城まで出張ったが、富士川西岸に堅固な陣を築いた武田赤備衆に阻まれ、それ以上は動けなかった。
 そして、永禄十二年(一五六九)十二月六日のふつぎょうより、蒲原城への総攻撃をかけることが決まる。
「御大将、まずはわれら先陣がふもとからみねとりでと三のくるを制し、そこを足場にしまして二の曲輪を落としまする。本丸が見えましたならば、使番を出しますので城内へお入りくださりませ」
 先陣大将に任命された武田信豊が具申する。
「承知した、まのかみ。武運を祈る」
 総大将の武田勝頼が言った。
 蒲原城は、北側の山頂にある本曲輪を中心に、尾根沿いに出曲輪を配置しているが、南の麓から攻め上がるならば、小峯砦、三の曲輪、二の曲輪の上段と下段と続いていた。
 城攻めの先鋒は、真田信綱のぶつな昌輝まさてるの兄弟が担い、それぞれ一千余の兵を率いている。
「峠攻めの次は、城攻めの先鋒せんぽうとは、かたさまも人使いが荒い」
 真田信綱が苦笑を浮かべながら言う。
「それだけ、われらが信頼されているということであろう。それに童の頃からいし城やまつ城を遊び場としてきたわれらにとっては、この程度の山城攻めなど造作もないではないか」
 弟の昌輝が自信に満ちたおもちで答える。
「まあ、それはそうだな」
「一気に本丸まで攻め上がろうぞ、兄者」
「おう」 
 先鋒の真田兄弟は、まず南の麓にある根小屋に火をかけ、力攻めに出る。
 兵数に勝る武田勢の先陣は、小峯砦に籠もっていた百余りの北条勢を撃破し、守将の狩野かのしんぱちろうを討ち取った。
 さらにそこから北西に位置する三の曲輪へ攻め上がり、みずろうもんが率いる北条勢百余を撃ち破る。
 小峯砦と三の曲輪は平坦に切り崩され、盛土されているため兵を溜めやすく、足場として使うのに最適だった。
 真田兄弟から報告を受けた武田信豊は、麓から先陣を押し上げ、小峯砦と三の曲輪に陣取った。
 真田信綱と昌輝の兄弟は、ここを拠点として北の尾根にある二の曲輪の上段と下段の様子を窺う。
 ここを制してしまえば、残るは本丸と善福ぜんぷく曲輪と呼ばれる奥の院だけだった。
 真田信綱が先陣大将の武田信豊に確認する。
「御大将、ここまでの戦いで敵方を二百ほど討ち取りましたので、城内には八百程度の兵しか残っていないと推しまする。ならば、この上にあります二の曲輪には三百から四百ほどの守兵、本丸と奥の院に五百程度の敵兵がいると考えるのが妥当と存じまする。われら先陣の兵数からしますれば、二の曲輪まで一気に制圧できると思いまするが」
「そなたの具申は正しいと思う」
 武田信豊が言葉を続ける。
「いかような策で二の曲輪を?」
「策を弄するまでもありませぬ。力攻めにて、下段と上段を一気に落としまする」
 その言葉に、弟の昌輝が言を添える。
「兄者、われらの隊が下段を落とすゆえ、その間に二の曲輪上段へ向かってくれぬか」
「昌輝、それでよかろう。われらの隊は、西へ廻り込んで上段へ攻め寄せる」
「承知した」
「御大将、われらが二の曲輪を制しましたならば、すぐに勝頼様へ伝え、先陣の本隊を三の曲輪へ入れるよう進言していただけませぬか」
 真田信綱の言葉に、武田信豊が頷く。
「承知した。そなたらが二の曲輪を制したならば、われらと勝頼様の先陣本隊で本丸を囲む」
「もう一息、頑張りましょうぞ。昌輝、行くぞ」 
「おう!」
 真田昌輝の隊は二の曲輪下段の攻略に向かい、兄の信綱は北西の方角から上段に廻り込む。
 この時、二の曲輪の下段には北条方の荒川あらかわ長宗ながむねが率いる二百余、上段に笠原かさはら為継ためつぐが率いる二百余の守兵がいた。
 しかし、武田勢先鋒は兵数にまかせて猛攻を加え、まずは真田昌輝が敵将の荒川長宗を討ち取り、二の曲輪下段を制圧し、それに続いて真田信綱の隊が上段に攻め入る。
 敵将の笠原為継は、執拗に抵抗を試み、最後は討死した。
「兄者、無事か!」
 弟の昌輝が下段から駆けつける。
「大丈夫だ。少しばかり強引に攻めすぎたが、傷は負うておらぬ。これで二の曲輪は完全に制した。あとは、本隊に任せよう」
 真田信綱は三の丸で待機している武田信豊に伝令を走らせた。
 二の丸制圧の報告を受けた信豊は、総大将に指示を仰ぐ。
「残るは敵の総大将が籠もる本丸のみぞ! 一気に攻め落とすぞ!」
 武田勝頼は総攻めの命令を下す。
 本隊も城内に入り、本丸と奥の院を囲む。
 武田勢は東西と北の三方に兵を廻し、一気に攻め寄せる。
 敵の総大将、北条氏信と弟の北条長順をはじめとする城兵は、あくまでも戦う姿勢を崩さず、北条勢のほとんどが討死し、蒲原城は半日あまりで落ちた。
 が落ちる前に、総大将の武田勝頼と武田信豊が勝鬨かちどきを上げる。
 翌日、蒲原城陥落の一報を受けた信玄は、大宮城を出立し、蒲原城へと入った。
 ひとしきり城内を検分した後、同行した馬場ばば信春のぶはるに言う。
「うむ、この城は使い手がありそうだ。われらの支城として再普請いたし、大宮城と連係させよう。みん、そなたに奉行を任せたい」
「承知いたしました。御屋形様、この後は?」
「駿府館を占拠している岡部正綱を討つ。ここまで来たならば、駿河全域を制覇せねばなるまい」
「さようにござりまするか」
「民部、駿河での越年も見据えて手配りを頼む」
「わかりました」
「さて、まずは峠を越えるか」
 信玄は蒲原城を落とした武田勝頼の隊を引き連れ、薩埵峠へと向かった。
 そして、十二月十二日に駿府へ入り、二万余の大軍で今川館を囲む。
 当初、今川家の旧臣、岡部正綱は籠城の構えをとっていた。
「まずは勝頼、総大将のそなたより岡部に降伏を勧告せよ」
 信玄は今回の戦で最後まで世子の勝頼に花を持たせるつもりだった。
「承知いたしました。期限は半日といたしとうござりまする」
「構わぬ。思うたようにするがよい」
「有り難き仕合わせ」
 武田勝頼は使者を立て、岡部正綱に無血での開城を呼びかける。
 ただし、うまの刻(正午)までに降伏を申し出なければ、一切の助命は行わないという条件を付けた。
 幾重にも城を取り巻く武田勢の軍容を見て、岡部正綱は一戦も交えることなく降伏することを選ぶ。
 十二日の正午に無血での開城が行われた。
 捕縛された岡部正綱は、信玄と武田勝頼の前に引き出される。
「おい、縄を解いてやれ」
 信玄の命令で縄が解かれる。
「岡部正綱、そなたにきたいことがある。心して答えよ」
「……はい」
「なにゆえ、そなたは駿府館に戻り、占拠した?」
「……占拠しようというつもりではありませなんだ。長きにわたり東海道の誉れでありました駿府館を、このまま廃墟はいきょにしておくのは、あまりにも忍びなく、この手で修復できぬかと思うた次第にござりまする」
「修復したならば、どうするつもりであったのか?」
「……考えておりませなんだ」
「今川氏真うじざねを呼び戻そうとしていたのではないのか?」
「……今川家の再興は……望むべくもないと思うておりました。再興を考えるくらいならば、最初から駿府館を捨てるべきではなかったのではないか、と」
「さようか……」
 信玄はうつむいたままの今川家旧臣をじっと見つめる。
「……岡部、おもてを上げよ。そなたはわが家臣と共に駿府館を修築する気はあるか?」
「……それは、いかなる仰せにござりましょうや?」
「そなたは当家の誰よりも駿府館の栄華を知っているのであろう。ならば、余の下につき、ここを再普請してはどうかと申しておる」
「ま、まことにござりまするか?」
「まことだ。まずは余が任じる普請奉行の補佐として働くがよい」
「あ、有り難き仕合わせにござりまする」
 駿府館の修築を条件に、岡部正綱は武田の軍門にくだることになった。
 ──思わぬ人材を拾った。この際、駿府館の再興をめざすのも悪くはなかろう。
 信玄は新たな拠点の構築を始める。
 後に、岡部正綱は臨済りんざい寺の鉄山てつざんそうじゅんを介し、武田家への臣従を申し出て、信玄にこれを許された。
 年末を迎え、蒲原城陥落の影響は極めて大きく、富士川の手前まで出張った北条勢は、退却を余儀なくされる。
 その後、武田勢は駿府と駿東を固め、年を越すことになった。
 信玄が駿河で越年を決意したことには理由がある。
山西さんせい」と呼ばれる駿河国西部のまし郡、志太しだ郡にある城を攻略するためだった。
 ここにはやい花沢はなざわ城と藤枝ふじえだ徳一色とくいっしき城(※後のなか城)という今川家残党の拠点があり、信玄は跡部信秋に命じて内情を探らせていた。
 ──こうで新年の祝賀も行わず、いくさにいるのは久方ぶりのことだ。されど、なにゆえか心地良く、戦いに身を投じているたかぶりを改めて新鮮に感じる。
 信玄は不思議なたぎりを覚えていた。
 年が明けて永禄十三年(一五七〇)正月となり、駿府館で武田家の評定始めが行われる。

(次回に続く)

【前回 】

プロフィール海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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