![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/140502106/rectangle_large_type_2_0ff4f99744b5b8195495887025607b5b.png?width=800)
本バカ一代記 ――花の版元・蔦屋重三郎―― 第十話(中)
*
歌麿と袂を分かって二ヵ月余り、年が明けて寛政六年(一七九四)となった。
一月の新刊は、まずまずの売れ行きである。もっとも絵の方は大きく落ち込んでいた。歌麿との手切れは、痛手には違いなかった。
これを盛り返すには、やはり役者絵が良い。幕府に睨まれることなく、かつ役者の贔屓筋が多く買い求めるからだ。
とは言え、通り一遍のものを売り出す気はない。歌麿と同じような、本当の本物と言える絵師を探す必要がある。
さて、如何にすべきか。思案を重ね、重三郎はひとつの結論に行き着いた。
「で、歌舞伎の芝居小屋を回るっての?」
「そう。今日からね」
二月一日のこと、お甲と朝餉を共にしつつ、それを告げた。役者絵の絵師は、概ね稽古の時に粉本――下描きを作る。そこを訪ね、絵師たちの力量を見るためであった。
「これだ! って人がいたら、うちで描いてくれるようにお願いするんだ」
「春章先生が生きてたら、苦労はなかったのにね」
「それを言ったら、きりがないよ」
軽く笑って、飯の茶碗を膳に置いた。が、まだ半分も残っている。
「どうしたの? もう行くのかい?」
お甲の怪訝な声に、軽い溜息で応じた。
「まだ出ないよ。ただ、ちょっと手が疲れたから」
飯茶碗を持ち続けただけで手が疲れたと聞き、お甲が「あれまあ」と眉を寄せた。
「何か心配だね。疲れやすいって、年明けくらいから言ってたけど」
「うん、まあその。何てえのかね」
両手を握り、開きを繰り返しながら、重三郎はまた溜息をついた。
「こう……力が入りにくい。ちょっとだけど指も痺れててさ。そんなんだから、茶碗を持ったまんまだと疲れちまうんだよ」
加えて言えば、最近では足の動きも鈍い。何でもない道で躓きそうになる。
「歳なのかも知れないね。あたしも当年取って四十五だ」
お甲は幾らか和らいだ顔で「はは」と笑い、先ほど重三郎が膳に置いた茶碗を取った。そして半分残った飯の上に山と盛り付け、さらに自分の膳から目刺を二尾取って、その上に乗せる。
「休むのが一番なんだろうけど、そういう訳にもいかないんだろ? だったら、まずはしっかり食べることさ。力を付けとかないと参っちまうよ」
「そうだね」
苦笑いで茶碗を受け取り、それを平らげる。いつもの朝餉より、だいぶ長くかかった。
「食った食った。さて、飯を食った上で時まで食っちまったし、そろそろ行かないと」
「はいよ。気を付けてね」
お甲の声に頷き、立ち上がって障子を開ける。が、廊下に出ようとしたところで、あろうことか敷居に躓いてしまった。
「うわっとと!」
どた、と音を立てて転ぶ。お甲が驚いて腰を浮かせた。
「大丈夫?」
「やれやれ、これだよ。おまえの言うとおり、もっと食って力を付けないといけないらしい」
よっこらしょ、と立ち上がる。膝を強く打ったのだが、不思議なことにそれほど痛みを感じない。ただ、立ち上がって歩き始めると、やはり足の動きは重かった。
相当に疲れている。が、疲れを口にしている暇はない。見世を出て、自らの足を励まし、同じ日本橋の堺町を目指した。
堺町は歌舞伎の町で、ここには幕府公認の三座があった。中村座、森田座、市村座である。が、森田座は七年前に借財が嵩んで休場となり、昨年には中村座と市村座も大借を抱えた末に休場の憂き目を見ている。
これら三座を「本櫓」と呼ぶが、本櫓が舞台を張れない時には、代わって「控櫓」が興行する決まりであった。森田座の控櫓は河原崎座、中村座と市村座はそれぞれ都座と桐座が控えていた。
今日、重三郎が訪ねたのは桐座である。到着すると、そう暖かくない日にも拘らず、額には汗が浮いていた。
「ふう……。こんな近いとこに来んのに、けっこう疲れちまったな」
呟いて、懐の手拭いで汗を抑える。次いで入り口の中を覗き込み、そこにいた若い者に声をかけた。
「こんにちは。蔦屋ですけど」
「あ、はいはい。稽古場のお話ですね」
先んじて来訪を伝えていたため、すぐに中へ通された。舞台の上は通し稽古の最中である。一番前の客席には五人の絵師がいて、役者たちの顔や動きを熱心に見ながら筆を走らせていた。
それらの後ろに進み、小声で「どうも」と挨拶する。付き合いのない、或いは薄い絵師たちだが、重三郎の顔は皆が承知していて、すぐに「どうも」と返ってきた。
絵師たちの後ろに回り、ひとりひとりの腕を確かめてゆく。どの人も巧い。しかしながら、絵師である以上それは当然だ。重三郎が求めるもの、突き抜ける何か――歌麿が持つような熱を感じさせる人はいなかった。
明くる日は都座に出向き、同じように絵を見させてもらう。そして、やはり落胆して家路に就いた。
「あたしが探してるような人って、本当にいるのかね」
夕餉を取りながら、お甲に愚痴を零した。歌麿並みの力を秘めた絵師がいるのなら、とうにその絵を見ているか、少なくとも名前は聞いているはずなのではないか、と。
「無駄なことしてんじゃないかって、思っちまうんだよ」
お甲は、少し困った顔で「何言ってんだい」と笑った。
「名前の売れてない絵描きなんざ、山ほどいるだろ。歌麿さんだって、そういうとこから売れっ子に押し上げたんじゃないさ」
大手の版元になったがゆえに、かえって知り得なかったということもある。お甲はそう言って励まし、重三郎の茶碗が空になったと見るや、当然とばかりに二杯目を盛った。
「とにかく、たんと食べて元気出しな。あとは、しっかり寝るこったよ」
*
しっかり食って、しっかり寝た。だが相変わらず足は重いし、手にも力が入りにくい。
それでも重三郎は、今日も歌舞伎の稽古場を訪ねた。控三座の最後は河原崎座である。
「ようこそ、いらっしゃいまし」
出迎えたのは座頭の河原崎権之助であった。鼻の潰れた丸顔が土佐犬を思わせる。この男に連れられて稽古場に入れば、舞台間近の客席では四人の絵師が下描きに勤しんでいた。
その中に、ひとり見知らぬ顔があった。目元が凛とした男前だが、唇が分厚いのが玉に瑕といった具合である。
「権之助さん、あの人は? 絵描きさんですよね」
薄笑いで「いえいえ」と返ってきた。
「ちょいと違ってね。まあ絵は達者なんだが、おかしな人ですよ」
聞けば、何と阿波徳島藩お抱えの能役者なのだとか。名は斎藤十郎兵衛というそうだ。
「自分が能の役者なのに、歌舞伎の芝居見物が大好きってえ変わり者でさあ」
そのためか、芝居小屋で働く身なら誰もがこの男の顔を知っているという。数日前、その十郎兵衛が稽古場で描かせて欲しいと頼んできたらしい。
「そうなんですか。絵は、どうして?」
「好きで描いてんだそうで。まあ上得意のお客ですから、そのくらいの頼みなら聞こうじゃねえか、って訳でしてね」
「なるほど。でも徳島藩お抱えでしょ? 自分の舞台は放っといていいんですか?」
問うと、権之助は呆れ顔で「さあね」と応じた。
「お抱えの能役者ってのは、一年交替で舞台を務めるらしくてね。今年は非番だって言ってましたよ。ま、稽古だけはしてんだろうと思うけど」
重三郎は「なるほど」と応じ、改めて十郎兵衛に目を向けた。見遣る面持ちにはどこか陰があり、それに衝き動かされているような、何とも言えない気配を纏っていた。
どうにも、気になる。が、まずは他の絵師たちを検分しなくてはいけない。重三郎は昨日までと同じように、絵師たちの後ろから下描きの様子を眺めていった。
「どうです?」
権之助の小声に、黙って首を横に振った。昨日、一昨日と同じだ。どの絵師も巧いが、ぐいと胸に迫るような力に欠ける。歌麿ほどの才を持つ者など滅多にいないのだから、やはり高望みをし過ぎなのだろうか――。
「え?」
落胆しかけたところへ、目に飛び込んできた絵があった。先ほどの斎藤十郎兵衛である。あまりの驚きに、軽く身震いした。
「こいつは……」
絵は、三代目・大谷鬼次の演じる奴江戸兵衛であった。先ほどの舞台稽古、江戸兵衛が市川男女蔵の演じる奴一平を襲い、金子を奪い取ろうとする場面を描いたものらしい。
実に、型破りな絵であった。
襲い掛かろうとした時の江戸兵衛は、両手を大きく広げていた。しかし十郎兵衛の絵は、左右の手が前に向いている。一方で、描かれた手の形が、おかしな具合にひしゃげていた。あまりに力が入り過ぎ、まともな形を保っていられないといった按配に。
江戸兵衛の顔も、これまたすごい。見栄を切る時の役者は顔に力を込めるものだが、この絵にはそれ以上の力が溢れていた。目は小さく描かれていながら、そこから撒き散らされる迫力は桁外れで、隈取りの凄みさえ打ち消してしまいそうである。への字に結ばれた口元も、今まさに人を襲わんとする男の覚悟、罪を犯す直前の緊張に満ち満ちていた。
「どう見ても」
呟いて、重三郎は唸った。大谷鬼次は、こんな極端な顔をしていない。どう見ても違う。にも拘らず、誰が見ても「これは鬼次の江戸兵衛」と分かる絵ではないか。それはきっと、役者の面差しの癖をことさらに目立たせる描き方だからだ。
十郎兵衛の絵は、総じて熱の塊である。それも歌麿の如く、自らを高めようとする真っすぐな熱ではない。火薬に火が回り、ドカンと爆発する時のような――もしかしたら描き手を壊すかも知れないほどの、暴れる熱だ。
「見付けた……」
固唾を呑んだ。脇にいる権之助も捨て置いて、ふらふらと十郎兵衛の許へ足を運ぶ。
「もし。斎藤さんと仰るそうですが」
声をかけると、十郎兵衛が「はい」と訝しげな眼差しを寄越す。重三郎はその近くの客席に腰を下ろし、高鳴る胸を必死で捻じ伏せて、落ち着いた声を保った。
「あなたの絵、いいですね。いや、そんなもんじゃない。すごいですよ」
「そりゃ……どうも。ところで、お宅は?」
と、権之助がにやついた顔で歩を進めて来て、代わりに答えた。
「十郎さん、聞いて驚きな。天下の耕書堂、蔦屋重三郎さんだぜ」
「ああ……あなたが、あの蔦重さんですか」
少し驚いたようだが、なぜ重三郎に声をかけられたのかは察していないらしい。そこへ向け、丁寧に頭を下げて切り出した。
「こんな絵は見たことがない。好き嫌いは分かれるかも知れないけど、本当にすごい絵だ。どうでしょう、これ、うちで描いちゃくれませんか。どうしても売り出したいんですよ」
十郎兵衛は「え?」と戸惑った声を漏らし、しばし黙った。そして重三郎が顔を上げると、ひとつ頷いて溜息をつく。
「褒めていただくのは嬉しいんですがね。俺は能役者で、絵描きじゃない。この絵は……」
何と言ったら良いのだろう、という顔をしている。困ったような、辛そうな。そういう逡巡を経て、言葉が続いた。
「この絵は自分のために描いてんです。それに、俺の絵なんて売り出すようなものじゃないでしょう。絵描きさんの方が、よっぽど巧いじゃないですか」
重三郎は大きく頷いた。自分のために描いていると聞いて、得心したところがある。
「確かに仰るとおりです。だけど巧い下手で言やあ……そもそも巧く描こうとしてない。あたしには、そう見えます」
十郎兵衛が、ぎくりとした顔を見せる。やはり、そうか。どこか陰のある面持ち、爆発しそうな熱から、この人の心には何かがあると思っていた。
「斎藤さんの筆の使い方を見てるとね、本当はもっと巧く描けるんだろうな、って。できるのに、やらない。そこがいいんですよ。こう……得体の知れないものが迫って来る」
今までの役者絵は、ただ贔屓筋を喜ばせるためのものだった。しかし十郎兵衛は、心の内から弾き出されるままに描いていて、贔屓筋云々を考えに入れていない。だからこそ、役者絵に人としての真実が浮き彫りになる。亡き勝川春章の絵――役者のありのままを描いた絵とは、また違った味わいがある。
「皆が喜ぶからって、それに合わせるだけじゃ、いつか駄目になるんです」
自分がそうだった。世の中に流され、その果てに咎を受けた身だ。自分が世の中を動かそうと思ってきたのに。
十郎兵衛の絵を見ていると、若い日に持っていた気持ちが再び湧き上がってくる。そして、止め処なく溢れてくるのだ。これを世に送り出したい、この絵で勝負したいという、心の奥底からの望みが。
「あなたのは、世の中に流される絵じゃない。行儀の良すぎる錦絵に風穴を開けるような、とんでもない強さがある。どうか、うちで描いてくださいな」
十郎兵衛は軽く唸り、静かに沈思する。
そして、首を横に振った。
「お話は分かりました。ですが俺は一応、阿波公のお抱えでして。立場の上では武士と同じになるんですよ」
「ええ、それは権之助さんから聞きました」
「蔦屋さん、確か恋川春町の一件に絡んでおられたでしょう。あれと同じには、なりたくない。なる訳には……いかないんです」
苦渋の面持ちであった。胸に抱えた何か、それも恐らく心を苛む何かが見え隠れする。それでも重三郎は、なお粘った。この人を逃せば、本当の本物と言える絵師を探すこと自体、諦めねばならない。
「春町先生は、将軍家の分家筋の年寄でした。それがお上の政を腐す本を書いたから……うちがそれを売り出したから、あんなことに」
春町が切腹に追い込まれた一件は、消えない傷となって心に残っていた。それを口に出せば、今なお面持ちにも悔いの色が浮かぶ。
ところが、どうしたことか。重三郎のその面持ちを見て、十郎兵衛の目が軽い驚きを湛えた。
互いの間に、細い、細い糸の繋がりが生まれたような気がする。
重三郎の心中に「あ」と声が上がった。ここだ。勝負どころだ。仕掛けろ――。
「あなたに頼みたいのは、そんな危ないことじゃない。ただの役者絵なんです。これほどの腕を、みすみす埋もれさせるなんて冗談じゃない。版元として見過ごせるもんですか」
そして、土下座の体になった。
「ねえ斎藤さん、お能は向こう一年お休みなんでしょ? その間だけで構いません。耕書堂はその間、あなたの絵しか摺らない。そのくらいの気持ちなんですよ」
十郎兵衛の絵が熱の塊なら、こちらも熱の塊である。歌麿に代わる絵師を見付けるという目的さえ、既に超えてしまっていた。
「もしご心配なら、斎藤十郎兵衛の名前を出さなけりゃいい。謎の絵描きでいいんです。手前も決して、あなたの素性は明かしません。男に懸けて約束します。ですから、どうか!」
見上げる眼差しに、十郎兵衛が息を呑んでいる。河原崎権之助、下描きの絵師たち、さらには舞台の上の役者までこちらを見て、言葉を忘れている。
十郎兵衛が、静かに頷いた。
「……分かりました。こうまでされちゃ、断れませんよ」
押しきった。折れてくれた。重三郎の右目から、喜悦の涙が落ちた。
絵師たちは、ざわついていた。本職を差し置いて能役者に描かせるという話が、面白くないのかも知れない。しかし、それを口にする者はいなかった。本職の絵師だからこそ、十郎兵衛の力を認めざるを得ないのだろう。
対して、舞台の上からは拍手が送られた。権之助も、重三郎の傍らで満面の笑みである。
「いいねえ。実にいい! そういうことなら、うちはもちろん、他の櫓にも釘刺しとくよ。十郎さんの素性は明かすなって」
そして権之助は、十郎兵衛に嬉しそうな声を向けた。
「まあ謎の絵師って言っても、名無しじゃ話になるめえ。画号ってえのかい? 俺が考えてやるよ。あんた八丁堀に住んでんだから、八丁堀謎之助でどうだい」
権之助はひとり調子に乗って、歌舞伎の台詞のように声を張り上げ始めた。
「どこの誰かは存じません。謎、謎、謎の謎之助。黴の生えたる錦絵に! 見事、風穴ぁ! 開けて見せらぁい! ってね」
重三郎の口が、ぽかんと開いた。八丁堀謎之助とは、何と垢抜けない。十郎兵衛も、この上なく嫌そうに「やめてくれ」と眉を寄せている。
「そんな馬鹿みてえな画号があるもんかい。だいたい俺ぁ、錦絵に風穴だの何だのは考えちゃいねえんだよ。洒落臭えや」
徳島藩のお抱えではあれ、江戸詰めで今までを生きてきたのだろう。身に染み付いた江戸言葉が口を衝いて出て来ている。その小気味良い響きが、重三郎の胸を打った。
「洒落臭え! ですよねえ、斎藤さ……。え? いや」
「蔦屋さん?」
怪訝な顔の十郎兵衛に軽く頷きつつ、重三郎は「あれ」「でも」と腕を組む。
そしてしばしの後、じわりと目を見開いた。
「洒落臭え。しゃらくせえ……。そうだ、写楽! 斎藤さんは八丁堀、江戸の東の洲にお住まいなんでしょ? 画号、東洲斎写楽で行きましょう」
舞台の役者が「お、いいねえ」「座頭とはえらい違いだ」と笑った。絵師たちもそれに釣られている。権之助だけが「うるせえや」と仏頂面であった。
*
そして、二ヵ月後。
寛政六年五月初旬、写楽の役者絵が刷り上がって耕書堂に届けられた。本の新刊は概ね一月と七月だが、役者絵の新作は歌舞伎興行に合わせるのが常で、五月興行に際して売り出すためのものであった。
「どうだい、お甲。すごい絵だろ?」
刷り上がった絵は実に二十八作、そこから幾つか取って手渡す。お甲は一見して、ぎょっとした顔になった。が、すぐに食い入るように見入り、次第に顔を紅潮させていった。
「……確かに。こんなの見たことないね」
顔の癖を大袈裟なまでに強調するのが写楽の特長である。それをさらに明らかに示すべく、大首絵で描くよう注文を付けた。
背景は何も描かず、黒雲母刷りに仕立ててある。歌麿の美人画では、女の色香を匂わせるために煌びやかな白雲母刷りで仕立てた。写楽の絵に黒雲母を使ったのは、厚みと深みを与え、迫力を増すためである。
「これ、河原崎座の『恋女房染分手綱』だよね? 右のは男女蔵だろ」
「そう。役どころは奴一平」
「で、こっちは鬼次か。相手が一平なら、鬼次は奴江戸兵衛だ」
重三郎はひとつ頷いて問うた。
「どう思う?」
「何か……すごい。いやまあ、馬鹿みたいな言い種だけどさ。本当にすごいものは、すごいとしか言いようがないよ」
お甲は明らかに昂っていて、次々と他の絵を手に取ってゆく。
「これは市川蝦蔵だ。次は中山富三郎だね。あっはは! にたにたした顔で、まさに『ぐにゃ富』の綽名どおりじゃないさ」
あれこれ言いながら絵を味わっていき、やがて少し疲れたように、かつ満足そうに「はあ」と息をついた。
「改めて、すごい絵だね」
市川蝦蔵は鉤鼻を大きく描き、中山富三郎は目が離れた馬面、嵐龍蔵の顎は不格好に大きい。どれも人の顔が崩れ、役者当人とは似ても似つかない。
「なのに誰が誰か一発で分かる。それに、小っさく描かれた目がいいね。この目が鉤鼻と合わさりゃ、きりっとして見えるじゃない。そうかと思やあ、三枚目の団子っ鼻と合わさると愛嬌たっぷりだ。何てえのか、この絵は生きてんだね。あたしには、そう見える」
評を聞いて喜びが湧き上がる。重三郎は座布団から腰を浮かせ、妻に抱き付いた。
「さすがだよ、お甲!」
「え? やだね、何してんだい」
「だって、おまえ。この絵の良さが分かるんだから、嬉しいじゃないか」
抱き締めた腕を離し、お甲の口を吸う。少し驚いた顔を見せられた。
「あれま……久しぶり」
「このくらい、したくなるさ。おまえの太鼓判なら間違いない。こいつは売れるよ」
敢えて歌麿を手放し、その直後に本物の力を探し当てた。役者絵なら出版取締令に引っ掛かることもない。自分には運がある。
「一年間、うちは写楽さんで大勝負だ。この絵なら世の中を動かせる」
「そうなるといいね。売り出しは?」
「明日っからにしよう。今夜辺り、ちょっと前祝いをしてからね」
「酒かい?」
重三郎は「そうじゃなくて」と首を横に振り、お甲の女の部分にそっと手を置く。
「こっちだよ。どうだい?」
「まぁた、この人は」
照れ笑いに交ぜて返しつつ、しかし、お甲はすぐに心配げな顔になった。
「まあ久しぶりだし。あたしも、したいんだけど……おまえさん大丈夫かい? 足に力が入りにくいって話、ずっとだろ?」
「大丈夫だよ。まだ男だってとこ、見せてやるから」
などと話していると、見世先から足音が近付いて来る。部屋の少し手前から、障子越しに「旦那様」と声が向けられた。
「すみません。山東京伝先生がお越しです」
七月の新刊で売り出す本が、仕上がったのだという。
「ほら、応接間だろ。夜のことは夜でいいから、行っといで」
お甲に促されて「はいはい」と腰を上げる。ところが、一歩進んだところで派手に転んでしまった。慌てて伸ばした手が障子に引っ掛かり、桟が二つ壊れた。
「ちょっと。本当に大丈夫?」
重三郎は「あ痛たた」と身を起こし、左右の太腿を忌々しげに叩いた。
その晩、お甲と睦み合うことはなかった。しっかり食って休め、体が第一だろうと叱られて、従う以外になかった。
明けて翌日、耕書堂は写楽の絵を大々的に売り出した。
『謎の新人絵師、現る』
『全く新しい役者絵、登場』
『見て驚け、この大才』
などなど、売り文句、煽り文句を大書して見世先に掲げている。
しかし、売れなかった。
もの珍しさからであろう、初めのうちは少しばかり売れていた。それが六月を待たずして完全に勢いを失っている。
どうしてだ。なぜ、これほどの絵が売れない。日を追うごとに焦りが募る。
その果てに、重三郎は北尾重政を訪ねて助言を請うた。
「分かんないんですよ。歌麿さんの時は、お客も新しい絵を喜んだのに」
正面の北尾は茶をひと口含み、重三郎が持参した写楽の絵を一瞥して溜息をついた。
「俺も絵描きだからな。売り出されてすぐに絵は見たよ。すげえ奴が出てきたって、正直なとこ驚いたぜ。だがなあ……」
「はい。だが、何でしょう」
北尾は軽く眉を寄せ、首を傾げた。
「気が付いてねえのか? すご過ぎんだよ、写楽は。この絵は巧いとか下手とか、そういうんじゃねえ。もっと深いとこから、うわあ、ぎゃあ、って飛び出して来てんだ」
重々承知している。そこに惚れて拝み倒したのだ。
「先生の見立て、あたしと全く同じですよ」
「だから、気が付いてねえのかって訊いたんだ。おめえさんも版元なら散々見てきはずだぜ。物書きや絵描き自身が『本当にいい』って言うものこそ売れねえ。よくある話だろ」
確かにそのとおりだ。そして、それは――。
「あ……。じゃあ」
重三郎は少し震えた。言葉を失った顔を見て、北尾が苦々しく頷く。
「そういうことさ。物書きは暇がありゃ何か書いてる。俺たち絵描きは、来る日も来る日も絵ばっかりだ。そんなんだから目が肥えて、本当にいいものは一発で分かる」
「写楽さんの絵……先生は『すご過ぎる』って仰いましたが」
「言っちまえば、難しいんだよ。客がこれを呑み込めるようになるには、ちっとばかり長くかかるんじゃねえか?」
時が過ぎる間には、様々な絵が世に送り出される。それらに触れるたび、客が絵を見る力も磨かれてゆくだろう。写楽の良さが広く解されるには、その時を待つしかない。ただし十年先か、二十年先か。或いはもっと先かも知れない。写楽の絵を正しく味わうのは、そのくらい大変なのだと北尾は言う。
「確かにこの力は本当の本物だ。俺なんぞ敵いやしねえ。けど、そいつを今すぐ分かる客ってのが、どれだけいる?」
加えて言えば、役者絵の一番の客は、個々の役者の贔屓筋だ。それらは押し並べて「役者は格好いいもの」という考えに凝り固まっている。顔の癖を強調した写楽の絵は、贔屓筋には邪道と映るだろう。
「売れねえのは、そこらへんじゃねえのかな」
重三郎は愕然として、唇を震わせた。
本当に良いものが必ず売れるとは限らない。作者がそれほど自信を持てないものが、山ほど売れることもある。知っていたはずなのに。幾度も、見てきたことなのに。
「なまじ……絵を知ってたから」
ようやく、それだけ発した。北尾が苦い面持ちで「かも知れねえな」と呟いた。
そうなのだ。良い絵に触れ続けてきたからこそ、写楽の力を正しく受け取れたのだ。自分もお甲も、正しく受け取ったからこそ圧倒されて、見えなくなっていた。客がこの絵をどう思うかという、大事なことが――。
「ねえ先生。お客が写楽さんの絵を分かるには、長くかかるって仰いましたけど」
「ああ、言ったな」
「でも時が過ぎれば、きっと分かってもらえますよね?」
「どうかな。必ず、とは言いきれねえぞ」
「そう……ですよね。ともあれ、ありがとうございました」
重三郎は篤く礼を述べ、北尾の家を辞した。
帰り道、少し足を延ばして河原崎座の芝居小屋を訪ねた。
座頭の河原崎権之助は、憂えていた。重三郎と写楽が河原崎座で出会った以上、うちは何を言うこともできない。しかし桐座や都座では、顔の癖を強く描き過ぎだと言って、役者たちが写楽の絵を嫌がっているという。
「何てこった」
芝居小屋を後にして、重三郎は力なく呟いた。打ちひしがれた身には、夏五月の風さえ冷たく感じられた。
〈次回に続く〉
【第一話】 【第二話】 【第三話】 【第四話】 【第五話】
【第六話】 【第七話】 【第八話】 【第九話】
【プロフィール】
吉川 永青(よしかわ・ながはる)
1968年、東京都生まれ。横浜国立大学経営学部卒業。2010年『戯史三國志 我が糸は誰を操る』で第5回小説現代長編新人賞奨励賞、16年『闘鬼 斎藤一』で第4回野村胡堂文学賞、22年『高く翔べ 快商・紀伊國屋文左衛門』で第11回日本歴史時代作家協会賞(作品賞)を受賞。著書に『誉れの赤』『治部の礎』『裏関ヶ原』『ぜにざむらい』『乱世を看取った男 山名豊国』『家康が最も恐れた男たち』など。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?