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おかえり ~虹の橋からきた犬~ 第十五話/新堂冬樹

【前回】 

 大丈夫……大丈夫……大丈夫……大丈夫……大丈夫……大丈夫……。

おか動物病院」へ向かう道すがら、菜々子ななこは心の中で自らに言い聞かせるように何度も繰り返した。
 池尻大橋いけじりおおはしの商店街を元気に歩く武蔵むさしが病魔にむしばまれているなど、ありえなかった。
 茶々丸ちゃちゃまるからの贈り物に、もしものことなどあるはずがない。
 小武蔵が振り返り、笑顔で菜々子を見上げた。

 ママ、心配しないで! 僕は大丈夫だから!

 小武蔵の声が、聞こえてくるようだった。
 そう、自分がしっかりしなければならない。菜々子が不安になれば、小武蔵も不安になるのだ。
 小武蔵が小走りになり、路肩に寄り腰を丸めた。どうやら、排便のようだ。
 菜々子はティッシュとレジ袋を用意して待った。
「え……」
 小武蔵の肛門こうもんから勢いよく排出された液状の便に、菜々子は声を漏らした。
 液状の便は何度も排出され、アスファルトに広がった。
「大丈夫!?」
 菜々子は腰をかがめ、ティッシュで便をすくい取ろうとした手を止めた。
 直径一メートルほどに広がった便は、数枚のティッシュで拭いとることができる量ではなかった。
「いつものフードしか食べてないのに、どうして下痢なんか……。なにか拾い食いでもした?」
 菜々子は小武蔵の肛門の周辺に付着した便を、ティッシュで拭い取りながらたずねた。
 便が黒色なのも気になった。まるで、タールのような便だった。
「ちょっと、あなた、人の家の前でなにしてるのよ!」
 戸建ての家から出てきた中年の女性が、目尻をり上げ菜々子に歩み寄ってきた。
「すみません、この子が急におなかを壊してしまって……」
「まあまあまあ、汚いわね! 早く掃除してちょうだい!」
 女性がヒステリックな声で言った。
「あの、申し訳ないのですが、なにか拭き取る物をいただけませんか?」
「犬を散歩させるのに、ふんを取る物も用意してないの!? まったく、あなたみたいな人がいるから街が汚れるのよっ」
 女性が吐き捨て、自宅に戻った。
「大丈夫よ。あなたは、なにも悪くないんだからね。私の用意が足りなかったの。このおっちょこちょいの性格、なんとかならないかしら」
 菜々子は、申し訳なさそうに上目遣いで見上げる小武蔵に笑いながら言った。
れいには拭き取れないから、真岡先生のところで洗ってあげるからね」
 菜々子は、茶色く染まったティッシュペーパーをレジ袋に入れた。
「元通り、綺麗にしてよ!」
 自宅から出てきた女性が、水の入ったバケツ、デッキブラシ、ロールのキッチンペーパーを二本、七十リットルのゴミ袋を菜々子の前に置きながら命じた。
「ありがとうございます。助かります」
 菜々子は礼を言うと、小武蔵をガードレールの支柱にくくりつけた。
「掃除が終わるまで待っててね」
 菜々子は小武蔵に語りかけ、アスファルトに広がる液状の便をキッチンペーパーで吸い取った。
 ロールを一本使い切っても、すべてを吸い取ることはできなかった。
 菜々子は汚れたキッチンペーパーをゴミ袋に詰め終えると、バケツの水をアスファルトにいてデッキブラシで汚水を排水溝に流した。
 相変わらず上目遣いで菜々子をみつめていた小武蔵が、ふたたび腰を丸めくるくると回転し始めた。
 嫌な予感がした。
 すぐに予感は的中した。
 さっきのリプレイ映像をているかのように、小武蔵がものすごい勢いで下痢を始めた。
「小武蔵……大丈夫!?」
 菜々子は、小武蔵のもとに駆け寄った。
 さっきと同じ、黒くタール状の便がアスファルトに広がっていた。
 小武蔵は便から離れた場所にお座りし、菜々子の顔色をうかがっていた。
「怒ってないからね」
 菜々子は優しく言いながら小武蔵を立たせ、キッチンぺーパーの残りで肛門周辺の汚れを拭いた。
 液状なので、うしろあしの被毛にも便が付着していた。
「あーあーあー、またやったの!? 人の家の前で、どういうつもりよ!」
 女性が血相を変えて歩み寄ってきた。
「すみません。お腹を壊しているみたいで……すぐに、掃除しますから」
 菜々子は、何度も頭を下げた。
 通行人の中には、アスファルトを汚す便を見て顔をしかめる者もいた。
「とにかく、これ以上、ウチの前を汚物まみれにしないでちょうだい! 汚い犬ね! 病原菌とか持ってるんじゃないの!? ウチには小さな子供もいるんだから、変な病気とか感染しないでしょうね!?」
 女性のとがめる声が、ガラス片のように降ってきた。
「小武蔵は、変な病気とか持ってません! この子に伝わりますから、そういうことを言わないでください!」
 菜々子は小武蔵を抱き締め、強い口調で言った。
「まあ、あきれた! 人の家の前を汚物だらけにしておいて、開き直るつもり!? だいたいね、うんこも我慢できないなんて頭が悪いんじゃないの? その馬鹿犬を、もっと遠くにつなぎなさい!」
 女性が数メートル先を指差し、ヒステリックな声で命じた。
「小武蔵は馬鹿犬じゃありません! 賢い子です! いままでトイレに行きたくなったらちゃんと伝えてきたし、粗相をしたことは一度もありません! ご自宅の前を汚したのは申し訳ありませんが、お腹の具合が悪いんですから仕方がないじゃないですか!」
 菜々子は引かなかった。
 感情的になって、言い返しているのではない。
 我が子が同じような目にあったら、彼女も守るはず……人間の子供も犬も、同じ感情を持つ生き物なのだ。
「なんですって……盗人猛々ぬすっとたけだけしいとは、あなたのような人のことを言うのよ! 掃除が終わったら、二度とここには近づかないでちょうだい!」
 女性は捨て台詞ぜりふを残し、家の中に入った。
「気にしないでいいのよ。あなたは、なにも悪くないからね」
 菜々子が声をかけると、ガードレールの陰に隠れるようにしていた小武蔵が、遠慮がちに顔をめてきた。
「お腹が痛くなったら、我慢しなくて、してもいいのよ。悪い物を外に出さなきゃならないからね。何度でも、私が掃除するから安心して。じゃあ、もう少し待っててね」
 菜々子は小武蔵に言い残し、腰を上げ掃除を再開した。

     ☆

 小武蔵の排便の掃除に、三十分を費やした。
 菜々子は小武蔵を抱っこしていた。また排便をしてしまえば、掃除に時間を取られてしまう。掃除するのは苦にはならないが、少しでも早く小武蔵の容態を真岡に診せたかった。
 小武蔵と生活を始めてから、こんなにひどい下痢をしたのは初めてのことだった。
 どこか具合が悪いところがあるのならば、早めに発見しておきたかった。
 万が一手遅れになれば……。
 菜々子は、脳裏に浮かんだ不安を慌てて打ち消した。いい思考も悪い思考も現実になると、なにかの本で読んだことがあった。
 心配する必要はない。
 小武蔵は、手遅れになるような病を患っているはずがないのだから。
 腕の中で小武蔵が身をもじった。
「もう少しで着くからね」
 小武蔵は後肢を激しく動かし、首を左右に振った。
 便意を催しているのかもしれない。
「真岡動物病院」までは、あと百メートルほどある。
 迷ったのちに、菜々子は小武蔵を地面に下ろした。腹を下している状態で、排便を我慢させるのは酷だと思ったのだ。
 小武蔵は地面に立ったまま、動かなかった。
「どうしたの? うんちじゃないの?」
 菜々子は訊ねたが、小武蔵は立ったまま地面をみつめていた。
「違ったのかしら……」
 小武蔵が突然、背中を波打たせた。
「どうしたの!?」
 小武蔵が四肢を踏ん張り、大きく口を開けると未消化のドッグフードをしゃした。 
「あららら……大丈夫!?」
 菜々子は屈み、小武蔵の背中をでた。
 二回、三回と小武蔵が立て続けに吐瀉した。見ている菜々子まで、体力を奪われそうだった。
 三回目の吐瀉物にフードは混じっておらず、白い泡状の液体だった。
「きついね……いったい、どうしちゃったの? フードが悪くなっていたのかしら……」
 てのひらよみがえる腹部のしこりの感触――菜々子は、慌てて打ち消した。
「早く真岡先生に診てもらおうね」
 菜々子は小武蔵の口の周りをキッチンペーパーで拭い、抱き上げた。

     ☆

 待合室のベンチソファ――小武蔵が診療室に入っておよそ二十分、菜々子はスマートフォンで小武蔵の症状を調べていた。
 打ち消しても打ち消しても、嫌な考えが菜々子の心を支配するように浮かんできた。
 下痢とおうが見られる症状として一番考えられるのは、消化器官の疾患だ。 

  急に嘔吐や下痢が起こり、食欲不振や元気消失、腹痛などが見られる。
  胃炎では嘔吐、腸炎では下痢の症状が起こる。
  多くは一日から三日で自然に治まる。 

 菜々子は、犬の急性胃腸炎の症状について書かれた文章を読んだ。
 昨日までなにも症状がなかったことから、急性胃腸炎の可能性が高い。だが、最悪の場合は別の病気の可能性もある。
 菜々子は、その病名を思い浮かべないようにした。考えただけで、足が震えた。
「菜々子ちゃん」
 診療室のドアが開き、真岡が顔を出した。
 菜々子は緊張の面持ちで診療室に入ると、真岡のデスクの前に置かれたキャスターチェアに腰を下ろした。
「小武蔵はいま、奥の部屋のケージで点滴を受けているよ。下痢と嘔吐で、水分を失っているからね」
「小武蔵は急性胃腸炎ですか?」
 菜々子は祈りを込めて訊ねた。
「このエコー画像を見てほしい」
 真岡が、壁にかかったモニターをボールペンの先端で指した。
「これは小武蔵の大腸の画像だが、ここに黒い影があるだろう?」
 真岡が指すボールペンの先に映るえん形の黒い影に、菜々子の心臓の鼓動が早鐘を打ち始めた。
「まさか……腫瘍じゃないですよね?」
 菜々子はかすれた声で訊ねた。
 両膝が震え始めた。
 違う……絶対に違う。小武蔵に腫瘍など、できるはずがない。
「少なくとも胃腸炎では、こんなに大きな影は見えない。残念ながら、腫瘍である可能性は非常に高い」
 真岡が菜々子の瞳をみつめながら、物静かな口調で言った。 
「もしそうだとしても、悪性とはかぎらないですよね!? 良性かもしれませんよね!?」
 菜々子は、膝の上で重ね合わせた両手に力を込めた。
 左の手の甲に、右の親指の爪が食い込んだ。
「そう思いたい気持ちはわかるが、悪性である可能性が高い」
 真岡の言葉に、菜々子の視界が暗くなった。
「どうして悪性だと決めつけるんですか!? 良性かもしれないじゃないですか!?」
 菜々子は、強い口調で抗議した。
「悪性だと決めつけているわけじゃないよ。その可能性が高いと言っているだけさ」
 菜々子とは対照的に、真岡は落ち着いた声音で言った。
「この画像だけで、どうして腫瘍が悪性の可能性が高いとわかるんですか!? こんな黒い影の画像だけで、どうして良性じゃないと言い切れるんですか!?」
 菜々子は真岡を問い詰めた。
「大腸にできる腫瘍で、これだけ大きくなるケースはまれだ。もちろん、良性の可能性はゼロじゃない。ただ、数パーセントの希望にすがって時を浪費したら、取り返しがつかなくなるかもしれない。菜々子ちゃん、こんなときだからこそ冷静にならなきゃね。ウチの病院の設備では、ここまでの検査が限界だ。紹介状を書くから、消化器官専門の獣医師がいる病院で内視鏡やCT検査を……」
「小武蔵はがんじゃありません! 先生は、小武蔵まで私から奪いたいんですか!?」
 菜々子の声が、診療室に響き渡った。
 真岡は、無言で菜々子の瞳をみつめた。
 憐憫れんびんとは違う、同情とも違う……しかし、真岡の菜々子をみつめる瞳はとてもかなしげだった。
「言い過ぎました……すみません」
 真岡が悪いわけではないのに、思わず八つ当たりしてしまったことを菜々子はびた。
「いやいや、詫びる必要はないよ。誰だって、同じ状況になればそういう気持ちになるさ。でもね、こういう状況だからこそ気をしっかり持ってほしい。小武蔵の腫瘍が悪性だった場合、外科手術なり化学療法なり放射線治療なりをすぐに始めなければならない。小武蔵は七歳になったばかりだから、まだ若い。悪性腫瘍なら物凄い速さで進行するだろうから、もたもたしていると手遅れになってしまう。腫瘍が良性なら、それに越したことはないのだからね」
 真岡が諭すように言った。
 たしかに、真岡の言う通りだった。
 いまは、現実逃避している場合ではない。もし小武蔵が悪性腫瘍に侵されているならば、一刻も早く治療しなければならない。
「紹介状を……書いていただけますか?」
 菜々子は、か細い声で訊ねた。
「わかった。その間、小武蔵の様子を見てくるといいよ」
 菜々子は腰を上げ、入院室に向かった。
 ケージの中――エリザベスカラーをつけた小武蔵が、菜々子の姿を認めると激しく尻尾を振りながら立ち上がった。
 右の前肢に刺された点滴の針が痛々しかった。
「針が外れちゃうから、あんまり動いちゃだめよ」
 菜々子はそう言いながらも、元気のいい小武蔵を見て安心した。
 目力も強く、表情も生き生きとしていた。
 こんなに元気な小武蔵が、悪性腫瘍を患っているはずがない。
「いまから別の病院に行って、診てもらおうね」
 菜々子は、小武蔵に笑顔で語りかけた。
 明るく振る舞うのは、自分を鼓舞するためもあった。
「いまから、診てくれるそうだ。ご主人を呼ぶかい?」
 真岡が背後から声をかけてきた。
「いいえ、今日は『セカンドライフ』のスタッフも少ないので、ペットタクシーを呼びます」
 菜々子は即座に言いながら、記憶を巻き戻した。

『菜々子、どうしたの?』
 小武蔵の腹部にしこりのようなものを感じた菜々子に、瀬戸せとが心配そうに訊ねてきた。
『ううん、なんでもない。ちょっと、考え事をしてただけよ。小武蔵と散歩してくるわ』
『僕も行くよ』
『あなたは、お店に戻ってて』
『お義姉ねえさん、お店のほうは大丈夫だから、夫婦水入らずで小武蔵君とラブラブ散歩しておいでよ』
 あさが冷やかすように菜々子に言った。
『お気遣いどうも。でも、たまには小武蔵と二人きりでデートしたいの』
 菜々子は不安な気持ちを押し隠し、冗談めかして切り返した。
『寂しいな。僕はのけ者か?』
 瀬戸がねた顔で言った。
『あなたって、意外と子供っぽいところもあるのね。じゃあ、行ってくる!』
 菜々子は努めて明るく振る舞い、屋内ドッグランをあとにした。

「セカンドライフ」のスタッフの数は足りていた。
 瀬戸や麻美には、知られたくなかった。二人に言ってしまえば、菜々子の不安が現実になりそうで怖かったのだ。

「ペットタクシーなんてあるのかい?」
 真岡の問いかけに、菜々子は現実に引き戻された。
「はい。車内にトイレスペースもあり、粗相しても大丈夫なので安心なんです」
 菜々子は言いながらスマートフォンを手にし、ペットタクシーのアプリで予約を入れた。 
 とくに小武蔵はいま腹を下しているので、普通のタクシーは使えない。
「ペットのタクシーだなんて、便利な時代になったものだね。どのくらいできてくれるんだい?」
 真岡が興味津々の顔で訊ねてきた。
「一時間くらいかかるそうですが、先方の病院は大丈夫ですか?」
 菜々子は質問を返した。 
「ああ、四時から手術が入っているらしいから、それまでだったら大丈夫だと言っていたよ。もう少し点滴がかかるから、タクシーがくるまで小武蔵のそばにいてあげるといい。それだけで、小武蔵も免疫力が上がるからね」
 真岡が微笑ほほえみを残し、診療室に戻った。
 菜々子はケージの扉を開け、小武蔵の鼻に鼻をくっつけた。
「今度は、私がお前を守るからね」
 菜々子は小武蔵の瞳をみつめて誓った。
 そして、茶々丸に……。

     ☆

 初台はつだいの「東京犬猫医療センター」を出た菜々子は、薄曇りの空を見上げた。
 小武蔵の検査の時間がどのくらいかかるか読めなかったので、ペットタクシーは片道しか予約していなかった。
 通りに空車のタクシーが頻繁に往来していたが、すぐには乗る気になれなかった。
「少し歩いて行こうか?」
 菜々子は、足元の小武蔵に視線を移して語りかけた。
 小武蔵はキラキラした瞳で菜々子をみつめ、大きく尻尾を振った。
 目の前の小武蔵は、昨日までの小武蔵となにも変わらなかった。だが、昨日までの小武蔵とは違うという事実を三十分前に突きつけられた。 

『細胞診の検査結果を待たなければ断定はできませんが、小武蔵君の大腸の腫瘍は悪性の可能性が高いです』
 西沢にしざわという三十代とおぼしき男性の獣医師の言葉が、菜々子の脳裏に蘇った。
『そんな……でも、まだ細胞診の結果次第では悪性じゃない可能性も残ってるんですよね?』
 菜々子は、わらにも縋る思いで西沢獣医師に訊ねた。
『はい。残っています。ですが、それはかぎりなく低い可能性だと思ってください』
『低いって……どのくらいの可能性ですか?』
『一パーセント以下です』
 西沢獣医師がきっぱりと言った。
『一パーセント以下……』
 菜々子は絶句した。
『細胞診の検査結果が出ていないので確定できないだけで、小武蔵君が癌であるのはほぼ間違いありません』
 追い討ちをかけるように、西沢獣医師が言った。
『確定できないのなら、まだ良性の可能性はあるということじゃないですか!?』
 菜々子は、語気を荒らげて食い下がった。
たにさんの目の前で車にねられた男性がいるとしましょう。男性の膝から下は不自然に曲がり、足の甲が内側に向いています。誰が見ても、男性が骨折しているのは明らかです。しかし、私がその場で小谷さんに骨が折れているかどうかをかれたら、断定はできませんが骨折している可能性が高い、としか答えられません。理由は、エックス線画像で確認できていないからです。小武蔵君の腫瘍を百パーセント悪性と断定できないのは、いまのたとえと同じような理由だと受け取ってください』
 そのとき菜々子には、西沢獣医師が悪魔に見えた。
『じゃあ、一刻も早く手術をしてください!』
『そうしたいのは山々ですが、腫瘍がかなり大きいのでいきなり手術では取り切れない可能性があります。なので、ステロイド剤を投与して腫瘍を維持します』
『腫瘍の維持って、退治しないんですか?』
 菜々子は、げんな顔を西沢獣医師に向けた。
『ステロイド剤では腫瘍は縮まないので、抗癌剤が投与できるまで進行しないように維持するという意味です』
『どうして、すぐに抗癌剤を投与しないんですか!?』
 菜々子は、ほとんど問い詰める口調になっていた。
『小武蔵君の腫瘍が悪性だと確定しなければ、抗癌剤は使用できません』
『形式的な検査結果が出てないだけで、小武蔵の腫瘍は悪性なんですよね!?』
『お気持ちはわかりますが、決まりなのです』 

 菜々子は立ち止まり、頭を振った。
 いくら考えても……運命を呪っても、結果は変わらない。
 細胞診の検査結果が出るのは、一週間前後だという。
 その間、処方されたステロイド剤で腫瘍の進行を遅らせ、悪性だと確定したら抗癌剤を投与する。
 一度の投与で腫瘍が縮小したら外科手術で摘出した後に、一週間の入院という流れだ。
 小武蔵が後肢で立ち上がり、前肢の肉球で菜々子の膝をたたいた。
「なになに、どうしたの?」
 菜々子は腰を屈め、小武蔵の前肢を両手で握りながら語りかけた。
 小武蔵は笑いながら、菜々子をみつめていた。

 心配しないで。僕は大丈夫だよ!

 小武蔵は、まるでそう言っているようだった。
「そうだよね。お前が、病気なんかに負けるわけないよね! お前のやんちゃぶりに、癌のほうが逃げちゃうわ」
 菜々子は、努めて明るく言った。気を抜けば、泣き出してしまいそうだった。
 涙は流さない……流す必要もない。小武蔵は、これまで通りずっと菜々子のそばにいるのだから……。
「疲れたでしょう? そろそろ、タクシーに乗ろうか?」
 いまは下痢止めを注射しているので、車内で粗相をすることもないだろう。
 抱き上げようとした菜々子の腕からするりと抜け出した小武蔵が、耳を後ろに倒して全速力で歩道を駆けた。
「あ、待ちなさい……待ちなさいったら!」
 菜々子は、小武蔵を追いかけながら願った。 

 この元気が、ずっと続きますように……。

     ☆

「モップにも、ようやく家族ができそうでよかったよ」
 リビングルームのソファに座った瀬戸が、あんの吐息を漏らした。
「セカンドライフ」の閉店間際に里親希望者が訪れたので、帰宅したときには十時を回っていた。
 小武蔵は、リビングルームの隅にあるケージの中でヘソ天の姿勢で熟睡していた。
 早い時間から、検査の連続で疲れているのだろう。
 里親希望者は四十代の歯科医で、十年間飼っていた保護犬が去年亡くなり「セカンドライフ」に新たな出会いを求めてきたのだ。
「モップは高齢だから、本当によかったわ」
 菜々子はサイフォンのコーヒーを注いだ二つのマグカップのうちの一つを、瀬戸に渡しながら隣に座った。
 モップは十歳のオールドイングリッシュシープドッグで、高齢の上に白内障を患っているのでなかなか引き取り手が現れなかった。
 ちなみに、毛むくじゃらでモップみたいだから、というのが名前の由来だった。
「小武蔵君も、大事にならなくてよかったね」
 瀬戸が、ケージの中で熟睡している小武蔵を見ながら言った。
「そのことで、話があるの」
 菜々子は本題を切り出した。
 麻美を始めとする「セカンドライフ」のスタッフ達を動揺させたくなかったので、瀬戸には小武蔵は急性胃腸炎だと伝えていた。
「ん? なに?」
「実は、小武蔵は急性胃腸炎じゃなかったの」
「え? どういうこと?」
 瀬戸が首をかしげた。
「小武蔵は、大腸の癌なんだって」
「え……」
 菜々子の言葉に、瀬戸が絶句した。
「正式には、細胞診という検査結果が出ないと確定ではないらしいんだけど、九十九パーセント悪性だと言ってたわ」
 菜々子は、深刻になり過ぎないように告げた。
 瀬戸を不安にさせたくなかった。また、深刻になる必要もなかった。
 小武蔵は手術を受ければ、すぐに全快するのだから……。
「悪性の腫瘍……」
「深刻にならないで。手術すれば治るんだから」
 菜々子は、笑顔で瀬戸に言った……同時に、己にも言い聞かせた。
「こんなに元気なのに、小武蔵君が癌だなんてとても信じられないよ」
 瀬戸が、小さく首を横に振りながら言った。
「私も最初は驚いたけど、早期の発見でよかったわ」
 マグカップを口元に運ぶ菜々子の手が震えていた。
「それで、手術はいつ?」
 瀬戸が訊ねてきた。
「細胞診の結果が出てから、抗癌剤治療を始めるそうよ」
「え? 手術じゃないのかい?」
 怪訝な顔を向ける瀬戸に、菜々子は西沢獣医師から聞いた手術までの流れを説明した。
「そんなに大きな腫瘍なのか……」
 瀬戸が、ヘソ天の姿勢で寝息を立てる小武蔵に視線を移しながらつぶやいた。
「ほらほら、暗い顔をしないで! ワンコ達は私達の心を敏感に察するって……あなたの口癖よ」
 菜々子は、無理に口角に弧を描いた。
 口ではそう言っているが、菜々子の心の糸は切れてしまいそうだった。
 お気に入りの食パンの大型クッションに横たわる茶々丸……冷たく硬くなった茶々丸を抱き締め、池尻大橋の商店街を駆けたあの夜の悪夢が菜々子の頭から離れなかった。 

 茶々丸だけでは、物足りないのですか?
 ぽっかり空いた心の穴を埋めてくれた小武蔵のことも、連れ去るつもりですか?
 それならば、なぜ小武蔵との出会いを与えてくれたのですか?
 一時的な慰め? それとも懲らしめですか?
 私のせいですか?
 たしかに、私は問題の多い人間です。この性格のせいで、これまでに多くの人を傷つけ、迷惑をかけてきました。
 それとも、私のきゅうけいがんが治った代わりですか?
 あるアニマルヒーラーがテレビで言ってました。
 犬や猫があなたのもとにくるのは、二つの理由からだと。
 一つはあなたに癒しを与えるため……そしてもう一つは、あなたの罪や病気を背負うため。
 もし、罪が原因なら……私を罰してください。
 どうか、私の罰を小武蔵に与えないでください。
 もし、病が原因なら……私に背負わせてください。
 どうか、私の病で小武蔵を苦しめないでください。
 菜々子は祈った。
 果たして、意味があるのだろうか?
 茶々丸に続き小武蔵まで奪おうとする、神に祈ることが。
 そもそも、神は存在するのか?

「いいんだよ」
 不意に、瀬戸が言った。
 菜々子は無言で、瀬戸をみつめた。
 優しさに満ちた瞳……瀬戸が言わんとしていることは、すぐにわかった。
 頼ってくれて……。
 できるなら、そうしたかった。ほかのことなら、瀬戸の言葉に甘えたかもしれない。だが、小武蔵のことで瀬戸に頼りたくなかった。
 瀬戸に遠慮しているわけではない。
 小武蔵が一番苦しいときに、自分だけ楽になりたくなかった。
「ありがとう。わがまま言っても、いいかしら?」
 菜々子は言った。
「もちろん! いくらでも、言ってくれよ」
 瀬戸の瞳が輝いた。
「小武蔵の件は、私に頑張らせて」
「え?」
 一転して、瀬戸の顔が曇った。
「誤解しないでほしいんだけど、誰にも頼りたくないの」
 誤解するなというのは、無理な話かもしれない。
 瀬戸とは以前までの雇い主と従業員の関係ではなく、いまは夫婦なのだ。
 妻の言葉は、夫を傷つけるのに十分なものだった。
「ごめん……いつだって私と小武蔵を支えてくれたあなたに、ひどい言い草よね」
 早くも、菜々子は後悔していた。
 小武蔵の件で、誰にも頼りたくないという気持ちは本当だった。だが、言いかたがあったはずだ。
 心に思ったことをオブラートに包まずに口にする……。またひとり、大切な人を傷つけてしまった。
「うん、間違ってなかった」
 菜々子の予想に反して、瀬戸が笑顔でうなずいた。
「なにが?」
「不器用で、うそが下手で……でも、誰よりも純粋でまっすぐな女性。僕の思っていた通りの人だよ」
 瀬戸が、優しい瞳で菜々子をみつめた。
「じゃあ、わがままを聞いてくれるの?」
「もちろん。君の小武蔵君へのおもいの深さだよ。わがままでもなんでもないさ。僕もこれまで保護犬達の世話をしてきたから、菜々子ちゃんの気持ちはよくわかるよ」
 菜々子の胸が震えた。
 菜々子のほうこそ、間違っていなかった。
 瀬戸を、生涯のパートナーとして選んだことを。
「ありがとう……」
 涙声で、菜々子は言った。
「なに言ってるんだよ。水臭いな。困ったときには、支え合うのが夫婦じゃないか。それで、小武蔵君の細胞診……あ、起きてきたよ」
 瀬戸がケージに視線を移した。
 ヘソ天の体勢で熟睡していた小武蔵が急に立ち上がり、宙をみつめていた。
「小武蔵、寝ぼけてるの?」
 菜々子は声をかけた。
 小武蔵は菜々子の声に反応せずに、宙を凝視し続けていた。
「どうしたの? 小武蔵……」
 菜々子は、言葉の続きをみ込んだ。
 小武蔵が背中を丸め、ゴボッ、ゴボッ、ゴボッという音を立てながら嗚咽おえつを始めた。
 続けて、大きく開けた口から吐瀉物がほとばしった。
「大丈夫!?」
 菜々子はケージに駆け寄り、扉を開いた。
 小武蔵の肢元には、一時間前に食べたばかりのドッグフードが白い粘液とともにまっていた。
 二度、三度、四度……立て続けに、小武蔵は嘔吐した。
 吐瀉物が粘液だけになっても、小武蔵はゴボッ、ゴボッという音とともに背中を波打たせていた。
「どうしよう……」
 菜々子が伸ばしかけた手を、瀬戸が押さえた。
「最後まで、出し切らせたほうがいい」
 瀬戸が小武蔵をみつめたまま言った。
 五度、六度、七度、八度……小武蔵の嘔吐は続いた。
 菜々子は拳を握り締め、唇をんだ。結局小武蔵は十度も吐き、最後には胃液も出なかった。
「きつかったでしょう?」
 菜々子はウエットティッシュを手に、小武蔵の口元を拭った。
 小武蔵が顔をらし、ふたたび背中を波打たせ始めた。 

 茶々丸、小武蔵を救って……お願い……守って……。
 もし……小武蔵があなたなら、今度は私を置いていかないよね? 

 菜々子は悲痛にゆがめた顔で、嘔吐する小武蔵に心で語りかけた。 

 (第十六話に続く)

プロフィール
新堂冬樹(しんどう・ふゆき)
小説家。実業家。映画監督。98年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から、“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『ASK トップタレントの「値段」(上・下)』『枕アイドル』『極悪児童文学 犬義なき闘い』『虹の橋からきた犬』(全て集英社文庫)など、著書多数。芸能プロダクション「新堂プロ」も経営し、その活動は多岐にわたる。

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