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下町やぶさか診療所 5 第三章 運命の人・前/池永陽

【前回】

 初診票に目を通していると、小柄な老人が入ってきた。
 りんろうはすぐに老人を診察室のイスに座らせ、さらに初診票を目で追う。
「ええと、名前はあら静一せいいちさんで年は七十一歳。住所は浅草警察に近い、公団住宅ですか」
 独り言のようにいってから、視線を目の前の老人に向ける。まともに顔を見た麟太郎の口から「あんたは――」という言葉が飛び出した。
 麟太郎の声に、ほんの少し静一という老人の顔に笑みが浮ぶ。
「はい。言葉をかわしたことはありませんが、時折り『田園』のランチでおお先生とは顔を合せたことが」
 ぼそっといった。
 そうなのだ。この静一という老人は『田園』のランチタイムで時々顔を見かける客だった。くるときはいつも一人で、静かにランチを食べて店を出ていく、おとなしい客だった。
「これは気がつかなかったとはいえ、大変失礼しました」
 素直に頭を下げる麟太郎に、
「いえ、こちらこそ。店では、挨拶もしないで、失礼しました」
 律義な性格のようで、静一も麟太郎に向かって深々と頭を下げる。
 そんなやりとりがあったあと「ところで今日は、どんな」と麟太郎は声をかける。
「はい、何といったらいいですか。胸焼けがするといいますか、胃が重たいといいますか。近頃、食欲もあまりなくて」
 情けなさそうな声をあげる静一に、さらに問診をつづけてから、シャツをまくってもらう。麟太郎は聴診器を手に取り、胸から腹部にかけて丁寧に音をひろうが、どこといって異常は感じられなかった。
「特段の異常は感じられないようですね。まあ、これから真夏に向かっては胃腸の調子がおかしくなる季節でもありますから、そのせいかもしれませんね」
 穏やかに麟太郎が診察の結果を告げると、
「そうですか」
 といったきり、静一は視線を落してうつむいた。
「念のため薬は出しておきますが、それをしばらく服用してもらって様子を見てください。投薬は穏やかな漢方にしておきますので飲み方に注意してください。普通の薬は大抵、食後に飲みますが、漢方は食前というのが基本ですからね」
 処方箋を書きながら麟太郎がいうと、
「実は私、今回の体の異常の原因には心あたりが」
 聞きとれないほどの声でいった。
「と、いうと、すでに大きな病院で精密検査を受けてきた――そういうことならその結果をぜひ」
 かせるように麟太郎がいうと、
「いえ、そういうことではないんです。気持のほうの問題です。その、気疲れといいますか、何といいますか。精神の重圧が体のほうにあらわれてきてるんじゃないかと」
 やっぱり蚊の鳴くような声でいった。
「確かに古来より、病は気からとよくいわれますが、ある意味これは的を射た言葉で――人間、毎日、あはら、あはらと笑って過ごせば大抵の病気は逃げていく。これは私もそう思っています」
 麟太郎の持論だった。
 よく笑い、よくしゃべる――人間にとってこれがいちばんの健康法であり、長寿の秘訣だと麟太郎は信じて疑わない。それに加えて、あと必要なのは適度な運動だ。これを毎日実践すれば……。
 そんなことをざっと説明すると、
「すべてに渡って、私は落第です」
 と、静一は肩を落した。
「それで、その原因というのは」
 単刀直入にいてみた。
「それは……」
 そういったきり、静一は黙りこんだ。
 こうなったら、待つしかなかった。
 静一が口を開いたのは、五分ほどが過ぎたころだった。
「妻が浮気を……」
 びっくりするような言葉を口にした。
「奥さんが浮気って――静一さんの奥さんの年はいったい」
 うろたえた声を出した。
「私と四つ違いの六十七です」
 静一は肩を落したままだ。
「六十七歳の奥さんが、浮気ですか」
 麟太郎はそういって壁際に立つ八重子やえこに、
「なあ、八重さん」
 困惑の表情を向ける。
「それは――」
 と八重子は一瞬絶句してから、
「色恋に年は関係ないと思います。どんな人間でも、七十歳でも、八十歳でも。環境が整っていて、あとはちょっとしたキッカケさえあれば、誰だって恋に落ちるはずです。それは大先生にだって、よくおわかりのはずだと」
 言葉を選ぶようにして八重子はいった。
「男はわかる。いくつになっても、煩悩の塊のようなもんだからよ。けど、女は――」
 しわがれた声を出すと、
「女だって、いくつになっても煩悩の塊です。男の方と一緒です」
 きっぱりした口調で八重子は返した。
 その言葉に「そうか」と麟太郎がつぶやいたとき、静一の肩が大きく震えるのがわかった。両の拳を握りしめて何かに耐えているような様子だった。涙だ。静一は涙をこぼすまいと懸命に耐えているのだ。
 なすすべがなかった。気持が落ちつくのを待つしかなかった。
「すみません。お見苦しいところを、お見せしまして」
 しばらくして静一は、はっきりした声でこういい、
「定年後、五年間はしょくたく社員として勤務し、六十五歳で会社を退職してから私は妻以外の人間とはほとんど接触がなく、話し相手も妻がほとんどでした。妻は今はパートの仕事に出ていて、帰ってくるのはシフトの関係もあって夕方か夜遅くです。ですから、社交性のとぼしい私は毎日一人で、ぼうっとしているのが常です」
 静一はこんなことを一気にいった。
「奥さんは今、パートだっていいましたけど、それはいつからのことなんだろうね」
 気になったことを訊いてみた。
「一年ほど前からです。それまではいつも一緒にいて、けっこう楽しくやっていたんですが、それが急にパートに出るといい出して」
「なぜ急に、パートに。それは生活費の問題なんでしょうか」
 優しく訊く麟太郎に、
「いえ、年寄り二人の生活なので、生活費はそれほどかかりません。大した額ではないですが預金も多少はありますし、贅沢さえしなければ何とか年金だけで生活はできます」
「それが急に、パートに――そのあたりの事情はわかってるんでしょうか」
「それが、まったくわからないんです。あいつが、なぜ急に仕事をやり始めたのか」
 静一は大きな吐息をひとつつき、
「ここいら界隈かいわいの話では、大先生は仏様のような人だと――ですから話を聞いてもらいたくて、ここへ。私の詳しい話を聞いてもらえませんか、大先生」
 すがるような目を向けた。
 ちらっと八重子のほうを見ると、
「荒井さんは今日の最後の患者さんですから、時間は大丈夫です」
 うなずきながらいった。
「私でよければ、どんな話でも聞きます。遠慮なしに、ぶちまけてくれてけっこうです」
 いたわるような声を麟太郎は出した。 

「出来事はつづくというけど、まさにその典型ともいうべきものだな」
 崩れて形を成さない肉じゃがを、スプーンで口に運びながらじゅんいちが声を出す。
「えっ、どういうことだ、潤一」
 麟太郎が手にしているのも箸ではなく、スプーンだ。
「つい先日、心の病で若い女性がきたと思ったら、今度は老人の心の病だろ。ひょっとしたら親父は、外科医よりもセラピストのほうが向いてるのかもしれないな」
 あっけらかんとした調子でいった。
「茶化すなよ」
 とたんに潤一の隣に座っていた麻世まよが、叫ぶような声をあげた。潤一の体が、びくんと震えた。まったくこいつは一言多いというか、何というか。
「いや俺は、何もそんなことは。ただちょっと頭にそんなことが浮んだから、それで」
 何とも情けない声を潤一はあげた。
「そのおじいさんはさびしいんだよ。本物の心の痛みを抱えてるんだよ。ちゃんと心情を察してやれよ。空気を読めよ。子供じゃないんだから」
 珍しく麻世が自分の意見を口にした。どうやら本気で怒っているようだ。麻世は本物の淋しさも、本物の心の痛みも知っている女の子だった。
「それに、まだ話は始まったばかりじゃないか。ちゃんと最後まで聞いて、自分の考えをいえよ」
「はいっ」
 固まったまま、潤一は小さくうなずく。
 あのあと静一が語ったことは――。
 静一は茨城県の日立市で生まれた。
 地元の商業高校を出た静一は東京に出て、上野にある小さな製紙会社に就職し、退社するまで経理の仕事を任せられた。
 妻の可奈枝かなえと知り合ったのは入社して三年目のことで、場所はアメヤ横丁の裏通りにあるスナックだった。この店の女の子の一人が可奈枝だった。
 同僚と一緒に初めてこの店を訪れた静一は、可奈枝を一目見て息をのんだ。胸が躍った。このとき静一の心に浮んだ言葉は、
 運命の人――。
 この四文字だった。
 ショートカットに、くりっとした大きな目。やや厚めの唇に小さな顎――小柄だったが可奈枝の全身は輝いて見えた。
 この夜から静一は毎日のようにこの店に通い、三カ月ほどあとには何とか可奈枝とつきあうまでにこぎつけた。静一の心は天にも昇る思いだった。あとは結婚だ。この運命の人を一生の自分の伴侶にするのだ。
 だが難関があった。
 仙台生まれの可奈枝は母親を幼いころに亡くし、このあと父親と再婚した女性とは折り合いが悪かった。そして高校二年のときにとうとうおおげんをして家を飛び出し、東京にきてアメヤ横丁の裏通りにある、この店に職を求めた。
 昭和五十年代のこのころ。まだまだ水商売に勤める女性は世間から白い目で見られがちで、静一の両親は二人の結婚を決して許そうとしなかった。このため、静一と可奈枝は互いの家の承諾を諦め、二人は区役所に婚姻届を出して一緒に暮し始めた。家族からの祝福は得られなかったが、二人は幸せだった。静一が二十四歳、可奈枝はちょうど二十歳のときだった。
 しかし、このとき静一の胸にはひとつの大きな後悔が残った。二人のための結婚式を挙げられなかったことだ。一緒になろうと二人で決めたとき、可奈枝は目を輝かせて「真白なウエディングドレスが着たい」と静一に訴えた。それが不可能になった。いくら反対されたといっても家族をないがしろにして式を挙げることはできなかったし、第一、若い二人には金がなかった。貧乏だった。
「いいわよ、ウエディングドレスなんて。結婚式なんて無駄遣いに等しいし、本当にお金がいるのはこれからなんだから」
 あとで可奈枝はこんなことをいっていたが、これが静一の大きな負い目になったのは確かだった。
「その代り、俺は可奈枝を一生大事にする。幸せにする。一生可奈枝を愛しつづける。何たって可奈枝は俺の運命の人だから」
 そんな可奈枝に静一はこう答えたが、それからこの運命の人という言葉は可奈枝の代名詞のようなものになった。
 すぐに二人の間には女の子が一人授かり、やがて成長するといい相手を見つけて浦安のほうに嫁いでいって孫も二人できた。その後、大きな出来事はほとんどなく、静一は無事定年を迎え、さらに五年間その会社にいて六十五歳で年金生活者になった。
 これが静一のこれまでだった。
「すみません。長々と、つまらない話をしてしまって」
 話し終えた静一は、ほんの少し照れたような顔をして麟太郎と八重子に頭を下げた。
「いやいや、なかなか感動的な話でしたよ。特にウエディングドレスより、これからの生活にお金がかかるからという、あのくだりは。なかなかできた奥さんですよ。実は私も、結婚式なんて、どちらでもいい、問題はそれからだと思っている人間ですから」
 我が意を得たりとばかりに、麟太郎はいう。
「いえ、男のほうはそう思っても、なかなか女性のほうは、それでは」
 肩を落しながら静一はいう。
「それの罪ほろぼしに、事あるごとに可奈枝さんには運命の人と呼びかけたのですか。なかなか考えましたね、荒井さん」
 感心したようにいう八重子に、
「考えるも何も、私は可奈枝に初めて会ったときからそう思っていましたから。ごくごく自然な感情ですよ。でも、夫婦喧嘩をしたときなんかはご機嫌取りに、けっこうこの言葉を使ったことは確かですけどね」
 ちょっと恥ずかしそうに静一はいう。
「そんなとき、奥さんはどんな顔をするんですか」
 さりげなく八重子が訊いてきた。
「普通に使えばうれしそうな顔をするんですが、さすがにご機嫌取りのときは、むっとした表情をしてましたね」
 神妙な顔をする静一に、
「ところで、肝心な話に移りたいんだが」
 と、これも神妙な顔つきで麟太郎はいう。
「奥さんは一年ほど前からパートに出たということだけど、その前はずっと専業主婦をやってたんだろうか」
「とんでもない。私の勤めていた会社は小さなものでしたから、私の給料だけではとてもちゃんとした暮しはできませんので、妻はずっと近所のスーパーでパートをしていました。老骨にむち打って」
「なるほど、それが」
 麟太郎は先をうながす。
「私が会社をやめたとき、思い切って妻にも仕事をやめてもらったんですよ。これからは時間もいっぱいあるし、二人仲よくなるべく金のかからない、いろんな所へ行って楽しもうといって。それでたまには温泉旅行にも行きましたが、普段は近場の公園や名所、それに割安な店を探して食事とか……そんな状態が四年ほどつづいて」
 静一はちょっと言葉を切ってから、
「そのあと急に、万が一のために稼いでおいたほうが安心だからと可奈枝はいって、以前働いていたスーパーへまた。もうすぐ七十の、ばあさんだというのに」
 かすれた声でいった。
「しかし、今のところ万が一はありそうもないし、毎日の暮しは年金で何とかやりくりはできる――だから急に働き出した原因がまったくわからない。そういうことか」
 麟太郎は太い腕をくむ。
「妙なことは確かですけれど、それがなぜ可奈枝さんの浮気に結びつくんですか。そこのところがちょっと」
 いつのまにか八重子が麟太郎のすぐ横に立っていた。そして肝心要の言葉を静一にまともにぶつけた。
「そうそう、それなんだよ」
 麟太郎も思わず身を乗り出す。
「それは……」
 静一の体が縮んだように見えた。
「働きに出るようになってから、可奈枝の化粧が濃くなったんです。それに肌の手入れを入念にするようになったんです。これってどう考えても……」
「それは、お客さんに対する身だしなみなんじゃないですか。やっぱり客商売ですから、そういうところは」
「客商売といっても、あの年ですから可奈枝の仕事は裏方がメインで、お客さんの前には。それに」
 八重子の問いに静一はこう答えてから、
「以前は、それこそ、ほんの身だしなみ程度でほとんど化粧はしてなかったんです。それが今になって急に」
 泣き出しそうな声だった。
「それに、早番のシフトのときでも遅く帰ってくることが時々――可奈枝がパートに出るようになってから、夕食は私がつくるようになったのですが、メールで急に”晩ごはんはいらない”ということが度々。これって大先生、どう思いますか」
「それは……」
 といったきり、麟太郎は次の言葉が出てこない。八重子も同様で、口を引き結んで天井をにらみつけている。
「私の考えでは――」
 ぼそっと静一が声を出した。
「会社をやめて、毎日毎日、私と一緒にいるのが可奈枝は嫌になった。私は律義で真面目一方なだけの、何の取柄も面白みもない、無味乾燥な人間です。そんな人間と毎日顔をつきあわせていて、楽しいと感じる人間なんてそうはいません。可奈枝の気持は、私には充分にわかります」
 静一は大きく肩で息をした。
「そんな可奈枝が、以前いたスーパーに買物に行って何かを見つけたんです。そう、何かを。可奈枝好みの何かを。その何かに可奈枝は一瞬で惹きつけられたんです。そうなんです、可奈枝は一瞬で恋に落ちたんです。かつての私がそうだったように、運命の人を見つけたんです。可奈枝にとっての運命の人を。ですから可奈枝は……だけど私は、何があろうと、どうなろうと、可奈枝が好きなんです。大好きなんです。可奈枝なしでは生きていけないんです」
 静一はそういって、大粒の涙を床に落した。
 子供のように泣きじゃくった。
 何をいっていいのか、わからなかった。
 どこからどう考えても、可奈枝の身に何らかの変化がおきたことは確かだった。得体のしれない何かが。麟太郎は固まったまま、身動きができなかった。
 無言の時が流れた。
 ふらっと静一が立ちあがった。
「すみません。お見苦しいところを見せてしまって。何分私は孤独そのもので、こんなことを話せる相手は一人もいません。だから何も考えないまま、押しかけてしまって。ご迷惑をおかけしました」
 弱々しく頭を下げた。
「迷惑なんぞ、かけてねえ。明日でも明後日でも、いつでも。私たちは静一さんのくることを歓迎するから、胸を張ってここにくるといい。何でも相談に乗るつもりだから」
 怒鳴るように、こういうのが精一杯だった。
「ありがとうございます」
 ぽつりといって、静一は八重子の差し出した処方箋を手に、肩をすぼめて診察室を出ていった。
「大先生。可奈枝さん、浮気なんでしょうか」
 八重子が低い声をあげた。
「わからねえ、どう考えたらいいのか、まったくわからねえ」
 頭を振る麟太郎に、
「ひょっとしたら、本当に万が一に備えて可奈枝さんは働きに出た。そして単なる気まぐれで化粧を濃くして、肌の手入れを始めた。そう考えることも」
 早口で八重子はいった。
「わからねえ、まったくわからねえ」
 同じ言葉が麟太郎の口から出た。
 麟太郎は途方に暮れていた。 

「この話を聞いて、お前たちはどう思う。情けない話だが、俺にはさっぱりわからねえ。今度、静一さんがきたら、どう答えたらいいのか」
 麟太郎は麻世と潤一の顔を交互に見る。
 三人とも、すでに食事は終えていた。
「俺は――」
 まず潤一が口を開いた。
「やっぱり、その可奈枝さんに何かがあったことは確かだと思う。可奈枝さんに濃い化粧をさせ、肌の手入れをさせる何かが」
「それぐらいは俺にもわかっている。その何かがどういうものなのか、さっぱりわからないから訊いてるんだろうが」
 重い声で麟太郎はいう。
「わからないんじゃなくて、わかりたくないんじゃないか、親父」
 イミシンなことを潤一がいった。
「つまり、どう考えてもその何かは、男がらみのこと。そう考えれば何もかもに落ちるんだけど、誰もがそれを考えたくない。そういうことなんじゃないか」
 潤一は正論を口にして、
「だけど、こんな考え方もある。それを浮気と決めつけるのは、ちょっと早とちりじゃないかという」
 妙なことをつけ加えた。
「何だ、それは。どういうことか、わかるように話してくれ」
 麟太郎は身を乗り出す。
「確かに可奈枝さんは、毎日毎日家にいる静一さんに鬱陶しさを感じていた。そんなところへ、いつも行くスーパーで自分好みの男に出会って胸がときめいた」
 そこでぷつりと言葉を切る潤一に、
「それで、どうなったんだ」
 麟太郎はいらった声をぶつける。
「どうなったって――それで終りだよ。自分好みの男を見つけたとしても、七十に近いお年寄りにどうにかできるもんじゃないだろ。精々、顔をれいにこしらえて好感度を上げる。その程度なんじゃないのか」
 あっさりいった。
「なるほど。そういうことも充分に有り得るな。それで終ってくれれば一件落着で、丸く収まる。といっても、それだけでも静一さんには大きなショックだろうけど。まあ、我慢してもらわねえとな。その程度のことは、どこにでも転がっている話だからよ」
 麟太郎は何度もうなずいてから、
「麻世は、どう思うんだ。この件を」
 麻世のほうに視線を向ける。
「私は八重子さんの意見に賛成する。女って何の理由もなしに化粧を濃くしたり、肌の手入れをしたいと思うことがあるんじゃないかって。だから、ことさら深く考えずに、単なる可奈枝さんの気まぐれじゃないかって。そんな気がする」
「おう。それはいいな。そうなると、静一さんの心配はまったくのゆうで、単なる取越し苦労ということになる。それはいい、実にいい。しかも、女性二人の意見が一致するということはしんぴょうせいもな」
 機嫌よくいう麟太郎に「だけど、親父」と潤一が声をあげた。何だこいつ、また余計なことをいわなければいいがと思っていると、
「麻世ちゃんは化粧なんか面倒だからといって一度もしたことのない女の子だから、そんな女の子が、化粧のあれこれを語っても」
 みごとにいってのけた。
「あのね、おじさん」
 と麻世が怒りの声をあげたところで、麟太郎は重大なことに気がついた。
「おい、潤一。お前のさっきの意見だが。あれでいくと、早番のときでも可奈枝さんは夜遅く帰ってくるという、あの件はどう解釈したらいいんだ」
「それは、親父」
 潤一は困ったような顔をしてから、
「人間、誰しもいろいろあるんじゃないか、野暮用が」
 妙に乾いた声でいって、うつむいた。

               (つづく

【第一章】

【第二章】

池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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