下町やぶさか診療所 5 第二章 居場所がない・前/池永陽
「大先生。次は元子さんなんですけど……どうしましょうか」
奥歯に物が挟まったようないい方を、八重子がした。
「どうしましょうかって――どうせまた、胸やけがするとか何とか、わけのわからんことをまくしたてるんだろうが、きている以上は診ないわけにはよ」
うんざりした思いで麟太郎はいう。
「それはいいんですけど。さっきちらっと待合室を見たんですが、何だか元子さん、怒っているようなかんじで、顔も険悪そのもののように見えましたから、それでちょっと」
困ったような顔の八重子に、
「険悪なあ――どんなときでも愛想だけはよかった元子さんだったが。まあ、何はともあれ、なかに入れてくれ」
首を傾げながら麟太郎はいう。
しばらくして元子が診察室へ入ってきたが、八重子のいう通り、表情には険があった。
「やあ、どうした、元子さん」
できるだけ明るく声をかける。
「いつもの胸やけですよ。胸がムカムカするんですよ」
いうなりイスに、どかっと座りこむ。
「胸がムカムカか。何か悪いものでも食べたのかな」
「何か悪いものというより、悪いものに出会ったんですよ。いつもとまったく違う、若先生に」
一気に元子はいった。
すぐにピンときた。先日の出雲行きだ。一人残された潤一は、いい加減な診療を元子に――そうとしか考えられない。
「先週も胸やけできたんですけどね。若先生ったら、ろくに症状を訊きもしなくて診もしなくて、たった一言――」
ぽつんと元子は言葉を切った。
「たった一言――何ていったんだ、あいつは」
麟太郎は思わず体を乗り出す。
「いつものやつですね。お薬を出しておきますから、お大事に。なら、次の人をって――たったそれだけですよ。それで私……」
それは駄目だ。どう考えても、あいつが一方的に悪い。いくら元子が面倒臭い患者だといっても通らない。
「すまなかった、元子さん」
麟太郎は深く元子に頭を下げ、
「今後、俺が留守にするときは、あいつじゃなくて極力、他の人間に頼むことにするから。それで今回は許してほしい」
はっきりした調子でいった。すると、
「あっそれは、別に他の人を頼まなくても今まで通り、若先生でいいんです。ただちょっと、こちらの気持もわかってほしいだけで」
今度は元子が潤一をかばうようなことを口にして、麟太郎は少し慌てたものの、まあ世の中はこんなものかと妙な納得をする。
「そういってもらえると助かるよ。何分あいつは今、重大な心配事をいろいろと抱えていて、そんな対応になったんじゃないかと」
しんみりした口調でいうと、
「えっ、若先生、何か大きな心配事を抱えてるんですか。それっていったい、どんな」
叫ぶようにいって元子は座っていたイスから体を浮かす。
「それは個人のプライバシーに関わることで、いくら元子さんでも、そいつを明かすわけにはいかねえけどよ」
「教えてもらえないんですか」
膨れっ面でぺたんと座りこむ元子に、
「そんなことより、今日は元子さんの症状をじっくり聞かせてもらって、きちんと診させてもらうからよ」
麟太郎はできる限り優しい声でいう。
「あっ、それはまたでいいです。何だか胸やけのほうも治まってきたようですし」
元子はそういってさっと立ちあがり、麟太郎の前から診察室のドアに向かった。
「元子さんも、いろんな意味で大変ですねえ。いくら贔屓の若先生だといっても」
ドアの閉まるのを確かめて、八重子が同情の声を出す。
「それにしても、もう少し潤一にも大人になってもらわねえとな」
「よっぽど、あの出雲行きの留守番役がこたえたんでしょうね――それはそれとして、次の患者さんを入れてもいいですか」
急かせるようにいう八重子に「そうしてくれ」と麟太郎は微かにうなずく。
ドアをノックして入ってきたのは、まだ若い女性だった。受診票を見ると、吉沢明菜、二十二歳――住所は東上野のアパートで一人暮し、病状は全身の痛みとあった。
「全身の痛みとあるけれど、これは具体的にいうと、どんな痛みなのかな」
診察室のイスに座った明菜という若い女性に、麟太郎はすぐに問診を始める。
「寒気がしたり、チクチクとした痛みが全身に走ったり……そんなところです」
「寒気と全身にチクチクした痛みか」
麟太郎が視線を宙にやると、
「あの、原因はわかっています」
明菜が妙なことを口にした。
「精神的なものです……ここのところ、ずっと精神が落ちこんでいて、それでこんな症状が出てきて」
ざらついた声で明菜はいう。
「精神的なものって、それは専門医の指摘なのか、それとも明菜さん自身の診断なのか」
「いちおう、専門の先生にも診てもらいましたが、私が今いったのと同じ結果が。ですから――」
明菜の言葉を聞いて麟太郎は唸る。
「そうなると明菜さん。俺の出る幕はないような気がするんだが」
「専門医の先生のところにいっても、なかなか埒が明かないので、ようやくの思いでここにきたんです。最後の頼みの綱として、最後の……」
ふいに苦しそうな声でいった。
「最後の頼みの綱って、それは」
「噂では、ここの大先生は仏様のような人だからって、どんな話でも親身になって聞いてくれるからって、だから私は」
明菜はこれだけいって、うつむいた。
「そういうことなんですよ、大先生」
突然、それまで無言だった八重子が口を開いた。
「ここは体はもちろん、心を病んだ人たちの最後の砦。そして、そういった人たちに優しく寄りそっていくというのが大先生の今までの口癖じゃないですか。それに今までも、そうしてきたじゃないですか、町医者として」
八重子の言葉に、恐る恐る明菜が顔を上げた。すがるような目だ。
確かに体はむろんのこと、心を病んだ人たちにしっかりと寄りそうというのは、麟太郎の町医者としての信条のようなものだった。
しかし麟太郎は外科医であって、決して精神科医ではない。そこのところがちょっと面映ゆい気もしたが、そんなことはささいなことで、とにかく患者と腹を割って向かいあう。それが町医者として一番大切なことだと麟太郎は信じて疑わない。
「それはそうだ。なら明菜さん。腹を割って俺と話をしてくれるか。その精神的な病いのことを」
はっきりした口調でいう。
「はい。専門医の診断では、私は初期の双極性障害だということでした」
蚊の鳴くような声でいった。
「つまりは躁鬱病ということか。俺は専門医じゃないからよくわからねえが、躁状態と鬱状態が交互にやってくるということか」
「周期は決まっていませんが、精神が昂る躁状態と逆に落ちこんでしまう鬱状態が交互にやってくるのは確かです。そして躁状態のときは肌がチリチリとした感覚になり、鬱状態のときは体中に寒気が走ります」
落ちついてきたのか、明菜は淀みなく言葉を口から出した。
「でも」
言葉がぴたりと止まった。
「それはいいのです。もう慣れてきていますから。それよりも……」
また妙なことを口にした。
麟太郎の胸がざわっと騒いだ。
「それよりもとは、どういう」
「それはまだ……」
明菜は言葉を濁した。
「しかし、それでは」
と麟太郎が声を出すと、
「大先生、それ以上は」
八重子が、さりげなくいった。
「そうか、そうだな」
「すみません。今度きたときには必ず話しますから、今はまだ」
明菜はまたくるつもりなのだ。
「なら、その躁鬱病の原因だという、精神的なものというのを聞かせてくれるか。わかっていればの話なんだが」
単刀直入に訊くと「わかっています」といって明菜はぽつぽつと話し始めた。
明菜は水戸市で生まれ、地元の高校を卒業後、東京の短大を受けて合格し、上野署裏にアパートを借りた。短大にはそこから通い、卒業後は大手のアパレル商社で総務の仕事についた。
そのころ丁度、取引先の島崎久という二歳上の男と知り合い、二人は恋愛関係になって上野署裏の明菜のアパートで同棲生活を始めた。それから二年。明菜は島崎と結婚するつもりだったが――。
「三月ほど前、久はアパートを出ていきました」
と明菜はいった。
「出ていったって、どうして」
さりげなく麟太郎は訊く。
「その日、仕事から私が帰ってくると、突然……」
そのとき久は、こんなことをいったという。
「今まで何とか一緒に暮してきたけど、俺にしたら明菜は地味でおとなしすぎる。本当のことをいえば、俺はもっと派手で活動的な女が好きなんだ。そして俺はようやく、そんな女を……」
ちょっとすまなそうな顔はしたものの、久はこの日の夜、さっさとアパートを出ていったという。
明菜の目は潤んでいた。
「すると、躁鬱病の原因というのはそれが」
掠れた声を出す麟太郎に、
「そうだと思います。それから様々な症状が出てきましたから」
「明菜さんは、よほどその久さんという人が好きだったんですね」
八重子が柔らかな声を出した。
「結婚するのが、当然だと思っていましたから」
といったとたん、明菜は顔を両手でおおって泣き出した。号泣だった。すかさず八重子がそばに寄り、明菜の背中をゆっくりとさすり出す。
どれほどの時間が過ぎたのか。
「居場所がないんです」
洟をすすりながら、明菜がぽつりといった。
「居場所がないっていうのは、どういうことなんだ。俺にはよくわからねえんだが」
勢いこんで麟太郎はいう。
「久は取引先の社員ですから、私たちが別れたというより、私がすてられたことはいつのまにか会社中に知れわたっていて。だから私、会社にいてもいたたまれない思いで、外に出ても落ちつきませんし、どこに行ってもどこにいても、そんな切羽つまった気持に陥って」
すすり泣きながら明菜はいう。
「学生のころから住んでいたアパートでも、そんな気持になるの? 住みなれた、一番の居場所じゃないの」
これは八重子だ。
「駄目です。あそこは久との思い出がつまりすぎていて、余計に駄目です」
「なら、引越しっていう手も、あるんじゃねえのか」
思わず麟太郎が口を開くと、
「引越しは嫌です、絶対に嫌です。久とのいろんな思い出がなくなってしまいます。私の胸のなかが空っぽになってしまいます」
矛盾した言葉を口にして、明菜は激しく首を振った。
「ああっ……」
と八重子が大きな吐息をもらした。
麟太郎にも打つ手がなかった。
何をどういっていいか、わからなかった。
麟太郎は宙を睨みつけた。
「それなら、ちょっと情けないことを訊くけどよ」
切羽つまった声を出した。
「さっきもいったように、俺は精神科医でも何でもないし、こういった場合の対処法はまったくわからねえ。だから正直なところ、俺は途方に暮れている」
「はい、わかっています」
細い声を明菜は出した。
「そんな俺が明菜さんの役に立つには、何をどうしたらいいのか。そこんところを教えてもらえると助かるんだがよ、はなはだ心細い話で面目ねえがよ」
拝むような気持でいった。
明菜が顔をあげて麟太郎を見た。両目が吊りあがっていた。怖い顔だった。
「大先生にできることはあります。いえ、大先生にしかできないことが」
押し殺した声だった。
「俺にしかできないことって、それはいったいどんな」
麟太郎は、ごくりと唾を飲みこむ。
「それはさっきいったように、今度ここにきたときに話します。よく考えてから、よく考え抜いてから、よく……」
明菜の声が段々細くなった。
「そうか。それは嬉しいな。なら取りあえず、頓服用に精神安定剤を処方しておくから、数日後にまた、ここにきてくれるかな」
大きくうなずく麟太郎に、
「ありがとうございます。私の勝手な話を聞いてもらって、少しは胸のつかえもおりたようです。それなら、少ししたらまたきますから、よろしくお願いいたします」
明菜はふらっと立ちあがり、頭をぺこっと下げて麟太郎に背を向けて歩き出した。
「あっ、薬はエチゾラム錠ですね。大先生、処方箋を」
八重子は明菜を呼び止め、麟太郎に処方箋を要求する。麟太郎は手早くそれを書き、八重子が受け取って明菜に渡す。
ドアの閉まる音を聞きながら、麟太郎と八重子は大きな溜息をつく。
「相当、エキセントリックな、子のようですね」
八重子が心配そうな声をあげる。
「おそらく病気のせいだとは思うが、それにしても心配は心配だな」
独り言のように麟太郎は呟く。
「若い女性の恋愛の悩みは、深刻ですからねえ……」
八重子も独り言のように呟き、
「それにしても、数日後にこられるんでしょうかね。病気が病気ですから」
「今日は躁と鬱との狭間のようだったから、まだ大丈夫だったが、これが鬱の真っ只中ということになると、くるのはちょっと無理かもしれねえな」
「そうですね。何とかきてくれるのを待つよりしょうがないんですけどね」
八重子はこういってから、
「ところで、あの子がいった、大先生にしかできないことって。あれはいったい何なんでしょうね」
首を傾げていった。
「さあ、それだ」
麟太郎は白衣の腕をくみ、
「俺はそれが心配でならねえ」
絞り出すような声を出した。
「と、おっしゃいますと」
そういってから八重子は「あっ」と声をあげた。
「前に一度、若い女性がここにきて口にした、人の殺し方を教えてほしいと大先生に頼んだ、あれですか」
低い声でいった。
「状況があのときと酷似しているような。俺には、そんな気がよ。まさかとは思うが、ひょっとしたらよ」
吐息まじりの声を出した。
「もし、そういわれたら、大先生は何て答えるつもりなんですか」
「あのときは相手の男が半グレだったから、荒事まじりで何とかなったが。今度の相手は普通の男のようだから、荒事は通用しないだろうし」
「すると、どういうことに」
八重子の表情は硬くなっている。
「わからねえ、まったくわからねえ。成りゆきまかせというしか、答えようはねえ」
麟太郎の両肩が、すとんと落ちた。
今夜の献立は、スパゲッティのナポリタンのようだ。これは多分、冷凍食品のはずだからまず大丈夫だ。
そのナポリタンを食卓の前で、麟太郎と潤一は向かい合って待っている。
「ところで潤一。元子さんが今日やってきてな。ちょっと大変だったぞ」
と潤一に水を向ける。
「えっ、元子さんが。いったいどこが悪いってやってきたんだ」
何でもないことのようにいう潤一を見て、ひょっとしてこいつは、先日の代診のときに元子を診たのを忘れているのでは……そんな危惧が麟太郎を襲う。
「どこが悪いって、胸やけに決まってるだろうが。大体、お前も先日、元子さんの胸やけを診ているだろうが」
はっきりこういってやると、
「そうだったかな。あのときはけっこう患者も多かったし、俺も一人だけ置いてけ堀の真っ只中で落ちこんでいたから、あんまりよく覚えてないんだけど」
置いてけ堀で落ちこんでいたというのはよくわかる。しかし潤一は医師である。何があろうと真摯に患者を診るのが医者のあるべき姿なのだ。
そのことと、元子の今日の様子を詳細に潤一に話して聞かせると、
「そんなことを俺が……まったく覚えていないな。しかし、もしそうだとしたら、元子さんには悪いことをしたな。今度きたら、よく謝っておいてくれよ。まだまだ俺は、修行が足らないな」
まだ医者としての矜持が残っているとみえ、潤一は素直に反省の言葉を口にした。
まあこいつも結局、出雲のミヤゲを俺にも麻世にも忘れられて、帰ったときには相当落ちこんで涙目になっていたくらいだから、そうそう責めてもと思っていたら――。
「しかし考えてみれば、元子さんなんて、俺がちょっといい顔をしてかまってやれば、すぐに喜んで機嫌を直すんだから心配なんていらないよ」
しゃあしゃあといった。
「あのなあ、お前。そういうことじゃなくて医者としてのあるべき姿と――」
といったところで、台所から「できた」という麻世の声があがって、この件はこれで落着になってしまった。
すぐにテーブルの上に皿に盛ったナポリタンやらコーンスープやら、その他のお菜が運ばれてきて、麻世も腰をおろす。
「これは、おいしそうだ」
潤一が感嘆の声をあげる。
「おいしそうじゃなくて、おいしいはず。何たってこれは冷凍食品なんだから」
さらっと麻世がいう。
「いくら冷凍食品だからって、腕の悪い人間がつくればまずくなる。その点、麻世ちゃんなら安心して、おいしいといえる」
潤一も麻世に対してだけは、かなり気を遣っている。
「私だから危ないんじゃないの。何たって私の料理の腕は折紙つきの悪さだから」
「いや、おいしい。かなりおいしい。文句の出しようがない」
麺を頬張りながら、さらに潤一は誉める。
こんな調子で食事が進むなか、麟太郎は今日の明菜の件を潤一に話して意見を聞こうとフォークの動きを止めた。
「実はな、潤一。お前にちょっと相談したいことがあるんだがよ」
真剣な口調でいった。
潤一のフォークも、ぴたっと止まった。
「親父が俺に相談事か。なるほど、それは賢明だと俺は思うよ。何たって俺は大学病院では一目置かれている存在でもあるしな」
得意げにいって隣にちらっと目をやるが麻世には何の変化もなく、ひたすら口とフォークを動かしつづけている。とたんに潤一の体が縮んだように見えた。
そんな潤一に麟太郎は今日の明菜との一部始終をできる限り正確に話す。
「これを、お前はどう思う。あの娘は、いったい俺に何を要求してくると思う。そのあたりの考えをお前に訊きたいんだが」
おもむろに潤一が腕をくんだ。
何かにつけて芝居がかったやつだ。
「居場所のない、躁鬱病の若い女性の親父に対する要求か」
ことさら声を張りあげる潤一の言葉に、麻世のフォークが止まった。どうやら、居場所という言葉が麻世の神経に引っかかったようだ。麻世もかつては居場所のない、女の子だった。
そんな麻世の反応に気づいたのか、潤一は宙を睨んでううんと唸るが、そのときはすでに麻世のフォークは動き始めている。
「俺の判断では、以前診療所にやってきた、親父に人の殺し方を教えてほしいと頼んだ若い女性。その女性と同じことを要求するんじゃないかと」
大きくうなずきながらいった。
「そうか。お前もそう思うか。実は俺もそう思って八重さんに話したら、そのとき大先生は何て答えるんですかと訊かれて返答に困ってな」
と、そのときの話を潤一にすると、
「なんだ。親父もそう思ったのか。同じなのか。だけど俺には、もうひとつの答えがある。ひょっとしたら、こっちが本命なのかもしれない」
薄い胸を張った。
「なんだ。そのもうひとつの答えというのは。早くいえ、潤一」
急かせる麟太郎に、
「自殺願望――」
ぽつりと潤一はいった。
「あっ」
とたんに声があがった。
麻世だ。フォークの手を止めて潤一の顔を見ている。珍しいことだった。それに気づいた潤一の顔が嬉しさで一杯になる。
「どうした、麻世」
思わず声をかける麟太郎に、
「いや、何でもないよ」
麻世はフォークをすぐに動かし始める。
「自殺願望ということは……」
麟太郎の視線が潤一に移る。
「どうしたら、確実に死ぬことができるか。または楽に死ぬことができるか。まあ、人の殺し方と同じようなもんだけど、根の部分が大きく違うから」
得意満面の表情で潤一はいう。
「人を殺すか、自分を殺すか――潤一、お前なら、どう答える」
麟太郎は潤一の顔を睨むように見る。
「俺なら、それは……わからない」
ぼそっとした答えが返ってきた。
「しかし、何にしても居場所がないというのは困るな。女子高生たちのいう居場所とはちょっと意味あいが違うようだけど、それにしても大変だ」
こんなことを口にする潤一に、
「おじさん」
ふいに麻世が、すがるような声をあげた。
びくっと潤一の体が震えた。
麻世からこんな言葉をかけられたのは、潤一にとって初めての出来事に違いない。目が点になっている。
「私のお母さんにも、自殺願望はあるんだろうか」
真剣な表情で訊いてきた。
「それは、ないとは、いえないというか。何というか」
しどろもどろで答える潤一の言葉を追いやるように、
「どうしたんだ、麻世。ひょっとしたら、例の散骨の件か。それを話す気になったのか」
麟太郎は叫ぶようにいった。
そう、東京に帰ったら話すという件を、麻世はまだ実行していなかった。それが、潤一の自殺願望という言葉が引き金になって。
「あれは、お母さんが絡んでいるのか、麻世」
体を乗り出すようにして麟太郎はいう。
「うん」
掠れた声で麻世はうなずいた。
「それを今、ここで話すのか。潤一が同席していてもいいのか」
「そのほうが、いいかもしれない」
麻世の言葉に潤一の顔に緊張が走る。
「よし、話せ、詳しく話せ」
麟太郎の言葉に麻世の重い口が開いた。
出雲へ行く五日前のことだという。
麻世は久しぶりに、母親の満代の入院している精神病棟を訪ねた。
満代は眠っているようだった。麻世はベッド脇のイスに座って満代の顔を黙って見ていた。そのとき満代が、うっすらと目を開けた。ベッド脇にいる麻世の姿を捉えて、満代はこんな言葉を口にしたという。
「看護師さん、いつもありがとうね」
そして麻世の顔をじっと見つめ、
「私が死んだら、散骨でいいですからね。どこへでもいいですからね。お願いしますね、看護師さん……」
それだけいって、また眠りに落ちていったという。
こう話す麻世の両目は潤んでいた。
今にも涙が滴り落ちそうだった。
「だから麻世は、散骨にこだわったのか。そういうことか」
柔らかな麟太郎の言葉に、
「うん。行くのを迷った」
とうなずく麻世の目から涙がこぼれた。
「それは、あれだよ」
潤一が上ずった声をあげた。
「麻世ちゃんに看護師さんになってほしいという、満代さんの願望の表れだよ。看護師さんになって、自分を見守ってほしいという。そのとき満代さんはほんの少し、おぼろげながら正気に戻っていたんだ。決して、自殺願望なんかじゃないと思うよ」
珍しく潤一が気の利いたことを口にした。
「そうだな。俺もそんな気がするぞ。お母さんは死ぬまでずっと、麻世に見守ってほしいんだ。看護師になった麻世に。それを朦朧とした頭で何とか麻世に伝えたかったんだ。それが看護師とか散骨という言葉になって出てきたんだと思うぞ」
無理のある解釈かもしれなかったが、そうとれないこともなかった。いや、そうに違いないと麟太郎は思いたかった。
「私が看護師になって、お母さんを」
ぽつりと麻世はいった。
幾筋もの涙がこぼれて麻世の膝を濡らした。
(つづく)
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