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下町やぶさか診療所 5 第三章 運命の人・後/池永陽

【前回】

  念のために腕時計を見ると、ちょうど一時三十分。
 まだまだ大丈夫だ。『田園』のランチは二時までで、それを過ぎるとママのなつは決していい顔をしない。
 ただし、イケメンのじゅんいちなら、たとえ三時を回っていても上機嫌で迎え入れてくれるというから、けっこうしゃくにさわるが仕方がない。とにかく素早く昼を終えて、さっさと帰らなくては。午後の診療は二時からだった。
 扉を開けると昼時を過ぎているせいか、客はまばらだったが、奥の席に気になる顔が見えた。静一せいいちだ。
 奥の席でコーヒーカップを前に、うなだれて座っている。むろん一人だ。りんろうがそちらに歩こうとすると、夏希がすっと寄ってきた。
「ぎりぎり、セーフですね、大先生」
 うれしそうにいった。
 夏希にはどうも、麟太郎をいじめて楽しむ癖があるようだ。
「夏希ママには逆らえねえからな。だから、俺は時間厳守の優等生だよ。出入禁止になるといけねえからよ」
 嫌みまじりにいってやると、
「それってやっぱり、れた弱み?」
 ためらいもなく、ずばりというが、こういう夏希の性格が決して嫌いではないのが麟太郎には情けない。
「そいつは、まあ、何といったら……」
 ぼそぼそと声を出す麟太郎に、
「あら、可愛い」
 これも嬉しそうに夏希は声をあげるが、こんな会話で時間をつぶしている訳にはいかない。
「俺はあらさんのところに同席するから、ランチはそこによ」
 麟太郎は奥の席の荒井を目顔で差す。
「あっ、荒井さん――」
 と夏希は名前を口にしてから、
「時々ランチを食べにきてくれるんですけど、今日はちょっと様子が変で、お昼にきてからずっとあの調子で沈みこんだまま。前は奥さんとよく一緒にきてたんですけど、ここんところはずっと一人ですしね」
 声をひそめていった。
「そうか。前は奥さんと一緒にきてたのか。そういうことか」
 麟太郎はつぶやくようにいい、夏希に小さくうなずいて静一の席に向かう。
「こんにちは、静一さん」
 といって麟太郎は前のイスに座りこむ。
「あっ、おお先生――先日はいろいろと親身になっていただいて、ありがとうございました」
 その場に立ちあがり深々と頭を下げて、そっと座った。律義な人なのだ、この人はやっぱり。
「その後、奥さんの様子はどうですか」
 気になっていたことを口に出す。
「相変らずです。濃いめの化粧でパートに出かけ、一昨日も早番で六時頃には戻るはずなのに遅く帰ってきたので、それで私、思いきって――」
 といったところで、夏希が麟太郎のランチを持ってきた。
「今日は大先生の大好きなメンチカツですからね――それから食後の飲物はコーヒーでよかったですね」
 さらっという夏希に、
「ああ、それでいいよ。それから静一さんにも、お代りのコーヒーをよ、もちろん、俺のツケでよ」
 麟太郎は最後の言葉を小さくつけ加える。
「はあい、それなら荒井さんのコーヒーは、すぐに持ってきまあす」
 夏希がその場を離れると同時に「恐縮です」といって静一はまた頭を深く下げた。そのあとすぐに静一のコーヒーがテーブルに並べられ、麟太郎はメンチカツを口にしながら、話のつづきを聞いた。
 一昨日の夜。
 可奈枝かなえが帰ってきたのは、九時半頃だった。
 居間でテレビを観ていた静一は、このとき可奈枝に思いきって声をかけたという。
「なあ、ちょっときたいんだけど」
 というと、さっと可奈枝が身構える気配が伝わった。
「何、訊きたいことって」
 ざらついた声を出した。
「いや、大したことじゃないんだけど」
 と静一は前置きをして、
「店が早番のときでも、可奈枝は時々こうして遅く帰ってくることがあって……それがなぜなのか、私にはどうしても不可解で、それで少し気になって、それで」
 ようやく、つかえつかえ、いった。
「あら、そんなことなの」
 やっぱり、ざらついた声だった。
「それは、あれよ。よねさんの奥さんから時折り、ケータイに連絡が入って近くのファミレスに寄って、いろいろ話をね。あなたもよく知っているでしょ、米田さきさん」
 よくとはいえないが、知っていることは確かだった。
 娘の小学校時代の可奈枝のママ友で、静一も何度か顔を合せたことがある。確かいま神社裏のちゃんとした持ち家に住んでいて、上品そうではあるがはっきりした気性。着るものも化粧もかなりオシャレな感じの女性だった……静一にしたら苦手な部類の人間だったが、いずれにしても、もう二十年以上も前のことだった。
「米田さんの奥さんて――」
 静一は驚いた声をあげ、
「可奈枝は今でも、米田さんの奥さんとつきあいがあったのか」
 まじまじと顔を見た。
「咲子さんは、私が勤めていたスーパーの常連さんだから。それでね、時々会って話をね」
 なぜか勝ち誇ったような顔でいった。
「あの奥さん、確か年のほうは」
「私より五つ下――でも、まだまだ若々しくて、見たらびっくりするわよ。どう、あなたも一度、会ってみる」
 さらっといった。
「いや、私はそういうことは苦手だから、遠慮しておくよ」
 慌てて顔の前で手を振ると、
「ふうん、それならいいけど」
 あっさり、可奈枝は納得した。
「しかし、咲子さんとはなあ」
 静一が独り言のように呟くと、
「ひょっとして、あなた。私が誰か男の人と浮気でもしてるんじゃないかって、疑っているの」
 核心をずばりとついた。
「いや、そういうことでは……」
 言葉を濁す静一に、
「そんなことを考えるひまがあったら、何か体でも鍛えたら。今のまま、ぼーっと毎日を過してたら、老けこむだけよ。せめてウォーキングぐらいは」
 ぴしりといった。
「ああ、そうだな。なるべく老けこまないようにしないとな」
 先生にいいくるめられた生徒のように、静一はひしゃげたような声を出した。
「なら、これからも遅くなることがあると思うけど、お願いしますね」
 そういって可奈枝は笑みを浮べ、この件は落着となった。
 静一の話を聞いた麟太郎は、
「なんだ。結局丸く収まって、めでたしめでたしじゃないですか」
 ほっとした思いで口に出すが――しかし、それなら静一のこの落ちこみようは。
「私にしたら丸く収まったとは、到底」
 麟太郎のいぶかしげな様子に気がついたらしく、静一はこんな言葉を口にした。
「と、いいますと」
 身を乗り出す麟太郎に、
「最後の可奈枝の笑みです。これが、どこからどう見ても私には、狡猾こうかつそうなというか、何か得体の知れない笑いにしか感じられなくて」
 絞り出すような声だった。
「ああっ」
 と麟太郎はうめくような吐息をもらす。
 また笑みだ。先日訪れてきたあきの一件がすっと胸をよぎる。
「やっぱり、モナリザの微笑ですか」
 思わず口に出す麟太郎に静一が怪訝な表情を向けたとき、隣の席に誰かがどかっと座りこんできた。なんと風鈴屋の徳三とくぞうだ。
「麟太郎、元気か。俺は益々ますます元気だけどよ」
 いったとたん、麟太郎と徳三の前に夏希の手でコーヒーカップがとんと置かれる。
「みんな、仲よしこよしでいいですね。私なんか、頼りになるような殿方はまったくのゼロ。ああ、いやだ、いやだ」
 うそか本当かわからないことを口にし、食べ終えた麟太郎の器をトレイにのせて夏希はさっさとその場を離れていった。
「静一さん、久しぶり。前はよく奥さんと一緒にこの店にきてたけど、近頃はあんまり見かけねえが」
 どうやら、徳三と静一夫婦は顔馴染なじみのようだ。
「ええ、以前は女房もひまでしたから、あっちこっちと一緒に出かけたんですが、今は昔勤めていたスーパーにまた行くようになりましたから、それで」
 弁解するようにいう静一に、
「ああ、そういえば一昨日、そのスーパーの辺りで奥さんの可奈枝さんを見かけたな。多分勤めが終って店から出てきたところだったんだろうな。挨拶だけはしたけどよ」
 何でもない口調で徳三がいった。
 一昨日といえば、可奈枝は早番だったが遅く帰ってきた日だ。
「可奈枝さん、相変らずれいだったぜ。化粧もばっちりで肌の色艶もよくなって、何となくウキウキした感じでよ。いや、久しぶりに見て惚れ惚れした思いだったよ」
 徳三は能天気なことをいってから、
「麟太郎。おめえは知らねえだろうが、可奈枝さんという女性は正統派の美人タイプでな、若かりしころは、さぞや周りの男連中から騒がれたんじゃねえかという、お姫様だ。なあ、静一さん」
 さらに可奈枝を持ちあげた。
「あっ、いや、それは」
 静一は曖昧な返事をしてから、
「あのそれで――可奈枝は店から出てきて、どっちの方へ向かったんでしょうか」
 恐る恐るといった口調で、静一は徳三に訊いた。
「ありゃあ、千束せんぞく商店街のほうだな。何か用事でもあったんだろうな」
 とたんに静一の肩が、すとんと落ちた。
 千束商店街は可奈枝が静一に話したファミレスとは、まったくの逆方向だった。
 そんな静一の様子を見て、
「えっ、俺は何か、まずいことをいったのかな。何か、とんでもねえことをよ」
 徳三はわかりやすく、うろたえた。
「いや、二、三日前から静一さんと可奈枝さんは夫婦げんの真最中でな。それで、いろいろとよ」
 慌てて麟太郎は助け舟を出す。
「何でえ、犬も食わねえっていう、あれか。そんなものはちょいと頭をなでてやりゃあ、すぐ収まらあな」
 今度は発破をかけるようにいう徳三に、
「ところで、親方。こんな時間にここにくるなんて珍しいんじゃないか。親方のほうこそ、何かあったのか」
 話を変えるようにいうと、
たかの野郎が物覚えが悪すぎてよ。このまま一緒に仕事場にいたら怒鳴りつけるんじゃねえかと思って、頭を冷やしにここへよ」
 しかめっ面をして、こういった。
 このあとは江戸風鈴の話になって事無きを得たものの、麟太郎は午後の診療に二十分ほど遅れることになった。 

 この話を夕食のとき、麻世まよと潤一に話してみると――。
「へえっ、可奈枝さんという女性は美人なのか。それは大変だ。いくら年を取っているといっても、それじゃあ、お年寄りたちのアイドルになる可能性は充分だよな。何となく、静一さんの焦燥感は、わかるような気がするな。うん、よくわかる」
 まず最初に潤一がこんなことをいい、隣の麻世のほうをちらっと見るが、反応はまったくない。
「いや、俺のいっているのはそんなことではなく、いったい可奈枝さんはファミレスではなく、どこへ行ったんだろうということだ。静一さんに嘘までついて」
 麟太郎は麻世のれてくれた、インスタントコーヒーをごくりと飲みこむ。
「嘘までついてということになると……」
 ぼそりと麻世が口を開いた。
「おう、麻世はどう思うんだ」
「わからない。ひとつだけ確実にいえることは、静一さんにはいえないところ――そうなると何が何だか」
 困ったような表情を浮べる麻世に、
「そうなると、やっぱり男がらみという線がいちばん濃くなるな。まず、それしか考えられない」
 断定した口調で潤一はいう。
「なんで、そんなこと断定できるんだよ。いくら夫婦の間だって、隠したいことのひとつやふたつ、あるだろ」
 じろりと麻世は潤一をにらむ。
「えっ、麻世ちゃんて、夫婦になっても相手に隠しごとをするタイプなのか。それはちょっと駄目なんじゃないか」
 何を考えているのか、潤一は情けなさ全開の表情でいった。
「いくら夫婦だからって、隠しごとなしで暮すなんて考えられないよ。そんな窮屈で面白みのない毎日なんて、まっぴらだよ。少なくとも私は、そう思うよ」
 はっきりした口調の麻世に、潤一の顔が見る見るうちにしょげ返る。いったいこいつは、何を想像しているのか。
「そんな話は置いといて、あとは静一さんのいう可奈枝さんの狡猾そうなという笑いだ。これが俺にはよくわからねえ」
 話を変えた。
「狡猾は狡猾だよ。やっぱり、人には知られたくない何かをごまかす笑いで、前に麻世ちゃんのいった、モナリザの微笑と同様、女性の覚悟の笑いなんじゃないか」
 いい終えて潤一もコーヒーを口に流しこむが、麟太郎のブラックとは違って砂糖もミルクもたっぷり入っているやつだ。
「違うと思う」
 とたんに麻世から異議が入った。
「それが覚悟の笑いなら、可奈枝さんは静一さんと別れる決心をしていることになってしまう。そんな大それたことを可奈枝さんは考えていない。もっと全然違うもの――私たちがいくら考えても思い浮ばないような異質なもの。その場に居合せた訳じゃないから、はっきりとはいえないけど。話の流れから、私はそんな気がする」
 演説をするようにいって、麻世もコーヒーをごくりと飲む。麻世も砂糖とミルクを入れたものだが、潤一のものよりはうんと少ない。
「そこで、俺の結論をいうよ」
 潤一が自信満々の声をあげた。
「さっき俺は男がらみという言葉を使ったけど、これには深い意味がこめられている」
 勿体もったい振った、いい方をした。
「美人だった可奈枝さんは、今でも一部のお年寄りの男たちからはモテモテで、あっちこっちから声がかかっていた。その何人かの男連中のなかから可奈枝さんは自分好みの男性を選び、そして――」
 ぽつんと言葉を切った。
「何だよ、潤一。肝心なところで黙らねえで、はっきり、何がどうしたかいえよ。はっきり、結論をよ」
 いらった声を麟太郎はあげる。
「つまり、茶飲み友達だよ。浮気なんかじゃなくて、茶飲み友達をつくってチヤホヤされ、可奈枝さんは幸せな時間を味わっている――そんなところじゃないかと、俺は思うよ。これなら麻世ちゃんのいう、異質なものに当てはまるんじゃないか」
 得意満面の顔だ。
「茶飲み友達なあ」
 麟太郎は呟くように口にしてから、
「麻世のいう異質なものとはまるで違うとは思うが、そう考えてみると辻褄つじつまが合うことは確かだよな。しかし、この大騒動の結末が茶飲み友達とは――むろん、それでも静一さんにとっては青天の霹靂へきれきだろうけど。それにしてもなあ」
 首をひねってから「どうだ、麻世」と問いかける。
「私も何か、しっくりこない。一緒に暮している静一さんが、あれほど深刻に悩んでいた結果が茶飲み友達だなんて。私は一部始終を見てきた静一さんの気持をもっと重要視したほうがいい気がする」
 かすれた声で麻世はいった。
「それってつまり。やっぱり、浮気ということなのか」
 むきになったような声を、潤一があげた。
「そうは思いたくないけど」
 麻世の低い口調に、
「そうだな。俺もそうは思いたくないが。となると、いったい、どういうことになるんだろうな」
 麟太郎は太い腕をくんで、宙を睨みつけた。 

 それから四日後。
 静一が診療所にやってきた。今日も午後の一番最後だ。
 疲れきった表情そのものという様子で、静一は診療室に入ってきた。
 麟太郎の前のイスに腰をおろすと、深い溜息をついて静一は縮こまった。
「どうですか、静一さん。あれから何か変ったことは」
 恐る恐る麟太郎は静一に問いかける。
「特に何もありませんが、あのときの話し合いで、可奈枝は私の了解を得たと思ったのか、何だかいつも楽しそうで、そして――」
 ぷつりと静一は言葉を切った。
「そして、どうしたんですか」
 できる限り、優しく訊いた。
「実は昨日も可奈枝は早番だったんですけど、それが」
 すでに静一の目は潤んでいた。
「もう、何がどうなっているのか。私にはまったくわかりません……実は私」
 そういって静一は口を引き結んだ。
 こうなったら待つしかなかった。
 壁際に立つ八重子やえこに目をやると、こくりとうなずくのがわかった。
 どれほどの時間が過ぎたのか。
「昨日の夕方、可奈枝から遅くなると連絡があったので……」
 静一はごくりと唾を飲みこんだ。
「帰る時間を見計らって店の前で可奈枝が出てくるのを待ち、ひそかに跡をつけたんです。恥かしい行為だとわかっていましたが、どうにも胸のもやもやがやまなくて」
 静一は打ちひしがれていた。
「わかります。それで――」
 麟太郎は先をうながした。
 徳三がいった通り、可奈枝はまっぐ、千束商店街のほうに向かって早足で歩いていったという。そして商店街の裏通りにある、雑居ビルの前で立ち止まり、躊躇ためらうことなくなかに入っていった。
 静一はしばらくそのビルの前に立っていたが、可奈枝が現れる様子もなく、すごすごとアパートに帰ったということだった。
「そのビルは、どんなビルなんです」
 すかさず麟太郎が訊くと、
「バーやスナック、それに美容エステやカラオケボックスなどが入るビルでした」
 泣き出しそうな声でいった。
「それは、しかし、そんなところで可奈枝さんはいったい何を」
 ようやく、これだけいえた。
「カラオケボックスなら密室状態です。そこで何をやろうと……スナックで待ち合せて、それから二人でどこかへということも……」
 叫ぶような声を静一は出した。
僭越せんえつながら――」
 ふいに声を出したのは八重子だ。
「失礼とは思いますが、昔とった杵柄きねづかで、老後のお金を稼ぐためにスナックかバーでアルバイトということも考えられる気が」
 恐る恐るといった調子でいった。
「いくら何でも、あの年では。それに水商売のアルバイトにしたら、帰ってくる時間が早すぎます」
 喉につまった声でいった。
「そうなると、どう解釈したら……」
 重苦しい時間が過ぎていく。
 沈黙を破ったのは静一だ。
「そこで私、腹をくくりました」
 ぽつりといった。
「明日の夜、すべてを話して可奈枝から事の次第を訊こうと思っています。嘘偽りのない真実を。そうでないと、もう私の心がもちません。疑心暗鬼にかられていてもらちが明きませんので、そうすることにします」
 掠れてはいたが、きっぱりといい、
「何といっても、可奈枝は私の運命の人ですから」
 こうつけ加えた。
「あの」と麟太郎は、か細い声を出す。
「大丈夫ですか、静一さん。ひょっとしたら、とんでもない結果が待ち受けているかもしれませんが。もちろん、これは、ひょっとしたらの話ですが」
 言葉を選びながら麟太郎がいうと、
「大丈夫じゃないかもしれません」
 弱々しい声が返ってきた。
「ああっ」とうなり声を出す麟太郎に、
「そこで大先生に頼みがあります。どうか立会人として、その場に同席してもらえませんか。何とぞお願いします」
 静一は膝に額がつくほど頭を下げた。
「立会人として、俺がその場に!」
「お願いします。もしもの場合、私は逆上して、とんでもない振舞いをするかもしれません。それを阻止するためにも……」
 震え声でいった。
「それはまあ、いいけど。いったい静一さんはどこでその事情を可奈枝さんに問いただすつもりですか」
「可奈枝が米田さんと会っていたという、ファミレスにしようと。実をいいますと、そのファミレスは以前、可奈枝と一緒によく行った場所でもありますから」
 一気に静一はいった。
「そんな人目のあるところを、重大な話し合いの場にして大丈夫ですか」
 危惧したことを口に出す。
「人目があるからこそ、私も自制心が精一杯、働くんじゃないかと思って。それでも駄目な場合は大先生が力ずくで私を……」
 頭を下げたままいった。
「わかった。そういうことなら、思う存分に俺を使ってください」
 下腹に力をこめていうと、
「ありがとうございます。それで、大先生は何時頃なら、そのファミレスにきていただけますか」
 ようやく頭を上げて静一は麟太郎を見た。静一の顔は涙でべたべただった。
「そうですね、八時頃なら」
「それなら、その時間に可奈枝を連れて待っていますから、どうかよろしく」
 静一はこういい、何度も頭を下げて鼻をすすり、診察室を出ていった。
「大変なことになりましたね、大先生」
 静一の姿がドアの向こうに消えたあと、沈痛な面持ちで八重子が声をかけた。
「そうだな。いったいどんな、展開になるのか」
 肩を落していう麟太郎に、
「どんな結果になったとしても、荒井さんの性格からいって暴れることはないと思いますよ。荒井さんは慰めてほしいんですよ。ずたずたになった心の傷を」
 柔らかな口調でいった。
「そして、もうひとつの大先生の役目は」
 今度は強い口調だった。
「あの性格ですから、ひょっとしたら自殺ということも考えられます。それを止めるのも大先生の大切な役目です。というより、それが立会人の大先生の一番の役目です」
「そうだな。そういうことだな。それが一番の役目だな」
 麟太郎は両の手を、ぎゅっと握りしめた。 

「親父、少しは落ちついたらどうだ」
 潤一が首を振りながら声をかける。
「そうだよ。じいさんがそんなにそわそわしていたら、イザというときに何にもできず、役に立てないよ」
 これは麻世だ。
 麟太郎はさっきから、ソファーに座ったり立ったり、体を揺すったり。落ちつかない態度を全開にしている。
 時間は七時少し過ぎ。診療所の居間兼食堂だった。
「わかっている。わかってはいるが、人の命が懸かっているとなると、やっぱりな。ところで潤一。お前は今夜の結果を、どう予測している」
「悪いが、俺はやっぱり茶飲み友達か、残念ながら浮気の線だな」
 淡々とした調子でいった。
「なら、麻世はどうだ」
「私は――」
 と低い声をあげてから、
「おじさんがいうような結果には、ならないと思う。とんでもない結果ではあるけど、そんなことには」
 早口で一気にいった。
「お前のいっていた、何か異質なものか」
「それが何かはわからないけれど、私にはそう思えてならない」
「そうなると、俺も嬉しいんだけどよ」
 独り言のようにいうと、
「それはそれとして、そろそろ出かけたほうがいいんじゃないか」
 麻世の言葉に「そうだな」といって麟太郎は両頬をぱんとたたき、「行ってくる」と大声をあげて玄関に向かった。
 約束のファミレスに着くと、ちょうど八時だった。扉を開けてなかをのぞくと、奥の四人席に静一と可奈枝らしい女性が向きあって座っているのが見えた。すぐそばまで行くと、すぐに静一が立ちあがった。テーブルの上にはコーヒーカップが並んでいるだけだった。
「すみません。無理なことをお願いして」
 と静一はいって隣の席をすすめた。
 席に腰をおろすと、可奈枝らしい女性が不審な目で麟太郎を見ているのがわかった。そんな様子に慌てて静一が、麟太郎と可奈枝をそれぞれ簡単に紹介する。すると、
「お会いするのは初めてですけど、大先生のおうわさは私も聞いています。仏様のような性格で、しかも無類のお節介焼きだという」
 められているのかけなされているのかわからないが、「恐縮です」といって麟太郎は素直に頭をさげる。
 徳三がいったように可奈枝は正統派の美人だった。それに年とはいえ、まだ肌に張りがあったし、化粧の仕方もうまかった。なるほどこれなら静一がやきもきするのも、よくわかると思っていると、
「その大先生が、今夜ここにいらっしゃったということは――」
 可奈枝の視線が、麟太郎の顔からゆっくりと静一に移った。どうやら可奈枝は何かを感じ取ったようだ。
「あの件ね」
 ぽつりといった。
「今日は事の次第が知りたくて――そのために立会人として大先生に同席してもらった。結果によっては私がどんな態度に出るか、それが心配で」
 蚊の鳴くような声で静一がいった。
「わかりました。それで、あなたはどこまで知っているの」
 という問いに「嫌な行為だとは思うけど」とまず謝ってから、静一は可奈枝の跡をつけたことを正直に話し、
「可奈枝は私に嘘をいった。米田さんの奥さんと会っていたんじゃなくて、千束の雑居ビルのなかに入っていった」
 と掠れた声でいった。
「米田さんのことは半分本当で、半分嘘――これはまた後で話しますけど、とにかく千束の雑居ビルの件まで知っているということなら……」
 可奈枝はふわっと笑った。
 これがひょっとして静一のいっていた、狡猾な笑い――麟太郎にはそうは見えなかったが、人間疑うと何もかもが違って見える。
「そういうことなら、今夜はすべてお話しします」
 そういったとき、ウェイトレスが麟太郎の注文を取りにきた。麟太郎は二人と同様、コーヒーだけを頼む。それを見て、
「大先生のコーヒーがきてから、話しましょうか」
 こう可奈枝がいって、話はしばらくオアズケになった。やがて麟太郎のコーヒーが届き、可奈枝はつづきを話し出した。
「きっかけは、半年後に迫った金婚式なの」
 妙なことをいった。
「半年後の金婚式が、今度の件にどう関わってくるというんだ」
 静一は顔一杯に怪訝な表情を浮べる。
 麟太郎も同様で、可奈枝が何をいいたいのか、さっぱりわからない。
「あなたにはその直前に話して驚かせようと思って黙っていたけど、娘夫婦とも相談して金婚式に――」
 可奈枝が凝視するように静一を見た。
 キラキラする目だった。
 ひょっとして可奈枝は泣いているのでは。
 そんな気がした。
「結婚式を挙げようと思ったのよ」
 とんでもない言葉が飛び出した。
「ああっ」
 悲鳴のような声を静一があげた。
「七十四歳のあなたと、七十歳の私の……もちろん、ちゃんとした式場で、ちゃんとした格好で、ちゃんとした料理で。知っている人たちも呼んで、きちんとした結婚式を」
 可奈枝の言葉に麟太郎の胸がすっと軽くなった。この分なら、自分の出る幕はなさそうだ。祝事なのだ。
「娘夫婦も助けてくれるといったけど、あの子たちに全面的に頼るわけにはいかない。だから私もせっせとお金をめようと。それで古巣のスーパーに通い出したの」
 静一は口をぽかんとあけて、言葉も出ない様子だ。
「それなら、あの雑居ビルの件は」
 こんなことを静一はいった。
「さっきもいったように、私は今も時折りこのファミレスで咲子さんと会っていた。そのとき、この計画をぽろりと咲子さんにしゃべったの、そしたら」
「………」
「どうせ式を挙げるのなら、エステに通って顔のほうのケアもしてもらったらって――そして自分のよく知っているエステがあって、そこのエステでは、お客がこないときには半分以下の値段でやってくれるからって」
 ここで可奈枝は一息入れ、
「ただし、お客のこない時間がいつできるかわからないから、突然連絡が入ることになるけど、それでいいのなら紹介するわって。それがあのビルのエステサロン」
 ちょっと申し訳なさそうにいった。
「ああ、そういうことだったのか」
 ほっとしたような顔で静一はいう。
「そんな話を聞いたら、私もやっぱり女だから欲が出て……それに、どうせならできるだけ、ちゃんとした顔で式に出たかったから。ごめん、余計な心配をさせて。それに出費も」
 ぺこりと可奈枝は頭を下げた。
「いいよ、そんなこと。私もどうせ式を挙げるなら、最高の可奈枝が見たいから。でもこれで――」
 静一の目は潤んでいた。
「可奈枝の念願だった、真白なウエディングドレスが着られるんだ。本当によかった、本当に」
 震え声でいう静一に、
「違うわ、あなた。それは違う」
 突然、可奈枝が叫び声をあげた。
「私のウエディングドレスなんて付録のようなもの。結婚式が挙げられなかったのは、あなたのせいじゃなく、水商売で働いていた私のせい。でもあなたは事あるごとに、それを気にして私に謝っていた。私にはそれがすごく申し訳なくて、本当にすまなくて」
 可奈枝の声は涙まじりだった。
「もちろん、さっきのエステのように私も欲が出て、今ではウエディングドレスを着ることを楽しみにしてるけど。私の本当の目的は、あなたの負い目を取り払って楽にしてあげることだった。それが本来の目的だった」
 とたんに静一の目から、大粒の涙があふれ出た。可奈枝の目も涙で一杯だ。二人は声をひそめてすすり泣いていた。
「大先生っ」
 静一が叫ぶような声をあげた。
「やっぱり可奈枝は私の運命の人でした。私の勘は当たっていました」
 同時に可奈枝も声をあげた。
「私だって。この人は私の運命の人だと思って、一緒になったわ」
 二人は顔を見合わせて何度もうなずきをくり返す。そんな静一と可奈枝の様子を見て、麟太郎は初めて声をあげた。
「運命の人などという存在は、この世の中にはいない」
 厳かな声でいい放った。
 二人の顔に怪訝な表情が浮ぶ。
「神様が決めた運命の人など、この世にはいない。神様はそんなにひまではない。運命の人というのは神様頼りではなく、一緒になった二人が創りあげていくものです」
 二人の顔からは、まだ怪訝な表情は消えていない。
「一緒になって十年、二十年、三十年。そして四十年、五十年。その間には喧嘩もするし、不和もある。憎しみもあれば離婚の危機もある。そんな困難な永い年月を何とか乗りこえて添いとげたとき。そのとき、ようやく運命の人というのが誕生するんです。いわば二人の努力と我慢が運命の人を創りあげるんだ。これは決して生半可なことではないと思うよ」
 一気に喋ってから麟太郎は頭をき、
「すまない。偉そうなことをいって。しかしその考えでいけば静一さんも可奈枝さんも、正真正銘の運命の人――これは間違いないと俺は思いますよ。これからも二人で助けあって、幸せになってください」
 いったとたん、静一と可奈枝は声を出して泣き出した。店のなかの客が一斉にこちらを見たが、二人の泣き声はとまらなかった。
 いい光景だった。
 麟太郎も目頭が熱くなった。
 その場をそっと立って出口に向かった。
 麟太郎はこの場には不要の人間だった。
 そのとき麟太郎の胸に麻世のいっていた、異質なものという言葉が浮んだ。金婚式に結婚式――これはまったく、異質なものだった。
 これを麻世に話してやったら、何というだろう。多分、
「よかったよ」
 といって、ふわっと笑うだろう。
 そして潤一はそれを見て、狡猾な笑いだというかもしれない。
 何にしても心が揺れるほど、いい気持だった。

               (つづく)

【第一章】

【第二章】

池永 陽(いけなが・よう)
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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