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海路歴程 第七回<下>/花村萬月

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 前夜の吹雪はおさまったが、黒灰色の空から雪が思いだしたように落ちてくる。海面は小刻みに乱れているが、波高はたいしたことがない。
 巴湊を出るとき船頭が進行方向右に顎をしゃくったので、行き先もわからぬまま貞親は操船の指図をし、舳を北海こと日本海に向けた。潮の加減から、龍飛崎を掠めて抜けることにした。
 貞親は船首に立って進行方向を凝視している。揃って並んで白い息を吐きながら湊で見送りに立っていたアイヌたちの眼差しを反芻はんすうする。
 和人でも船頭のような奴がいる。
 同じくアイヌでも、どうしようもない奴がいる。
 このあたりは和人だろうがアイヌだろうが人間であるから如何ともしがたい。
 アイヌには船頭と同様に酒精にやられてしまっている者もいれば、いかに作業をさぼるかに腐心する者、さらには盗癖が目にあまる者もいる。
 それでも貞親に言わせれば、なにか不始末をしでかしたときにアイヌだからというくくりですませてしまう遣り口のほうが、薄気味悪い。
 厭な奴に身分や民族出自は関係ない。ごく個人的な問題にすぎないということだが、それでもおおむねずるいのは和人だ。
 昨夜一緒に飯を食って呑み交わしたアイヌたちは実直で、気の好い奴らだった。貞親は駄賃をはずんだのだが、どうしたことか妙に気恥ずかしかった。
「なんだかんだいっても詰まるところは、利用してるだけか」
 貞親が苦く独白すると、座りこんでいかりに附着した藻や貝を削り落としていた碇捌が目をあげた。
「解せねえですな」
「なにが」
「なぜ、昆布だけ?」
「さあな」
「知工も知らねえと言ってた。帳面、附けようがねえって」
 貞親は苦笑いを泛べた。
「表も知らねえと?」
「知らん。それどころか行き先もわからん」
 碇捌の手が止まった。
「敦賀かどっかじゃねえんですかい」
「だったら、いいが」
 目的地が敦賀だったら隠す必要もないが、敦賀から陸路で京大坂を目指すとすれば、どう足掻いても正月には間に合わぬ。
 碇捌は錆の浮きかけた鈍色の碇を凝視し、投げた調子で呟いた。
「大きな声では言えねえが、船頭はいよいよ酒の毒が回ってるんじゃねえかな」
「毒か。いまに始まったことじゃねえだろう」
「ははは。ちげえねえ」
 碇捌の乾いた笑い声に、貞親も笑いにまで至らぬ笑顔のような歪みを返す。
 爨が味噌の握り飯をもってきた。船頭は挟で火鉢を抱えて二日酔いに耐えているはずだから、朝飯どころではないだろう。
「味噌にうじが涌いてたんでねときました」
 貞親と碇捌が顔を見合わせる。碇捌が吐き棄てる。
「んなことぁ、いちいち報せんでもいい」
「すんません」
 一応は謝るのだが、爨はなんで叱られたのかわからない。万が一、握り飯に蛆が残っていたら、それこそ何を言われるかわかったものではない。それどころか加減せずに殴打されるに決まっている。だからこそ叮嚀ていねいに箸でつまんで棄てたのだ。
 もっとも貞親も碇捌も頓着せずに握り飯を頬張る。しょんぼりして立ち去ろうとした爨を碇捌が手招きする。
「俺んちはよ、水呑でな。味噌に蛆が涌いたら、蛆ごと食ってたぜ」
「蛆って食えるんですか!」
 爨は素直なので、蛆を食いかねぬ。飢饉の折は屍体に涌いた蛆はともかく、味噌醤油の蛆は誰もが口にするそうだが、からかうなと貞親が目で合図する。碇捌は下を向いて笑いをこらえる。貞親が訊く。
「おめえ、十三だっけ?」
「へえ。甲陽丸の水夫が十三人。なんだか誇らしいような」
「なーにが誇らしいってんだよ。おめえ、船頭が勘定に入ってねえじゃねえか。言いつけてやるぞ」
 さんざん船頭に殴られて歯まで折られているから、爨は唇から色をなくした。
 貞親が碇捌を足先で軽くつつく。
 ひひひ──と碇捌が奇妙な笑い声をあげると、おちょくられたことを悟った爨が鼻梁に複雑なしわを刻んだ。
「おめえも、そろそろ爨から抜けだしてえだろう」
「哥。俺は爨でいいです。盗み食いもできますし」
「蛆も食えるし、か」
 爨は碇捌を無視して貞親に言う。
「ただ、おかには上がりてえ」
 いちばん下っ端の位である爨のうちは、湊に入っても上陸させてもらえず、一人で船の番をしなければならないのだ。
 貞親は小指を立てた。
「おめえは、コレを知ってんのか?」
 爨は首を左右に振りながら頬を赧らめた。女がいかに好いものか、たっぷりのひれ付きで、さんざん吹きこまれているのだ。爨の抱いている妄想は、もはや途方もない境地であるようだ。
「おめえが爨あがったら、飯盛女のところにつれてってやろう」
「まっことですか!」
 それがいつになるかわからないが、貞親は大きく頷いた。後任の爨が見つかると、爨あがりという身分になり、寄港地では女郎屋にも行ける。
「もっともよ、爨あがりよりかは爨のほうが楽だぜ」
 碇捌が言うと、爨の小僧は真顔になった。爨あがりは追いまわしと称されるほどにきつかわれるのである。
「哥」
「なんでえ」
「それでも俺は女を抱いてみてえ」
 貞親と碇捌は顔を見合わせて大笑いだ。ただし貞親は目の端でおぼろに霞む龍飛崎を捉えていた。もう少し陸に甲陽丸を寄せたほうがいいだろう。素早く指図する。
 頭の横をとんとん叩きながら船頭がやってきた。しかめっ面である。碇捌は刃を落とした鎌で碇の手入れを再開する。爨はさりげなくその場から逃げた。
 どこに向かうのか訊こうとした瞬間、船頭は船縁に手をついて海面に嘔吐した。
「漁師じゃねえんだから、こませなんぞ撒き散らさんでください」
「──うるせえ」
 苦々しげに吐き棄てながら、船頭は目尻の涙を拭う。
「たいして強くもねえくせに、なんでそんなにたくさん呑むかなあ」
「うるせえって言ってんだろが!」
 ある程度、船頭に物を言えるのは、貞親だけだ。船頭もなぜか貞親には手をださない。さりげなく貞親と船頭を見較べていた碇捌は船頭に気付かれぬように薄く笑い、その場から離れた。
 船頭が大声で怒鳴って爨に水をもってこさせた。しゃくに口をつけて、ようやく人心地ついたようだ。ぼんやり待っていた爨に船頭が柄杓を投げつける。
 折れた柄杓を爨に拾わせ、直立するように命じて、ふたたび投げつける。柄が額に刺さった。爨は血を滴らせ、半泣きだ。
 さりげなく立ち去れと貞親が目で合図すると、爨は肩をふるわせて柄杓の欠片を片付け、うなれて離れていった。
 まだ変に赤い頬をボリボリ掻きながら、船頭が訊いてきた。
「いまは?」
「龍飛を過ぎました」
「そうか。先はなげえなあ」
「って、どこに向かってるんですか」
「どこだと思う?」
「皆目見当もつきませんけど、江戸や大坂ではないんですよね」
「ないんだな~」
 貞親は船頭の口から漂う、酒にかきまわされた胃の腑から迫りあがるやたらと酸っぱい臭いに顔をそむけたかったが、下肚に力を入れて問う。
「教えてもらわねえと、操船のしようがありませんぜ」
「ん。教えてしんぜよう」
 ふたたび船頭の顔が大きく歪んだ。二日酔いのぶり返しだろう。反吐へどを浴びてはたまらない。貞親は露骨に顔を顰めて船頭から距離をとった。
「冷たくすんなよ。教えてやっからよ。行き先は、薩摩だ」
 貞親は聞き違えたのかと思った。目顔で念を押すようにして訊く。
「薩摩?」
 船頭は、わざとらしく答えた。
「そう。そうざんす。薩摩でござんす」
 貞親は、咳払いした。しげしげと船頭を見やった。詳細はわからぬにせよ、これは抜け売りというやつである。露顕すればただではすまない。
おきのくち番所は?」
「んなもん、どーにでもなるって。魚心あれば水心ってもんだわな」
「こんだけの昆布、どこに運ぶって言ったんですか?」
「敦賀。あながち嘘じゃねえぞ、途中で寄るだろ」
 水や食糧を補給するために立ち寄るだけではないか。
「言わしてもらいますけどね、抜荷じゃねえですか」
「そーとも言うなあ」
「まずいでしょうが」
「なんの、なんの」
 あまりに突拍子もないので、まだ担がれているかの気分だが、一方で船頭が冗談を言っているのではないことも直感していた。
「しかし、なんで薩摩がこんなにたくさんの昆布を──」
「わかんねえ。わかんねえが、試してみるようだぜ」
「試す?」
「うん。俺の推量だが、薩摩は昆布が儲かるかどうかを慥かめてえんだ」
「昆布が儲かる?」
 時期を選べばそれなりの値がつくが、昆布がそれほど儲かるとも思えない。
 近ごろ、もっとも利益があがるのは、鰊粕だ。房総で獲れる鰯などが行きわたらぬ瀬戸内や四国島などに運べば、うまくすれば五倍ほども値が跳ねあがる。
 江戸や大坂などの大都市で米食が主体となり、米を育てるためには有機窒素肥料が必須となって、どの藩でも鰊粕を慾しがった。石高を上げるためには、堆肥などでは追いつかないからだ。大麦や裸麦の育成にも必須となっていた。
 ひとたび大量の、しかも美味くて出来のよい収穫を得てしまえば、もはや鰊粕から抜けられなくなる。
「貞親の言うとおり、みんな贅沢になりやがってるから、鰊様々よ。けど、なんで米? なーんで米を食いたがる?」
「そりゃあ美味えからですよ」
「だな。まずけりゃ、食わねえよな。ああ、食わねえさ」
 一人で納得し、顔つきを改めた。
「なあ、貞親」
「なんです」
「米と女は似てるよな」
「似てますか?」
「似てるだろうが。わからんか」
「わからねえ」
「なら、言いなおすぜ。美味えものと好い女は似てるよな」
「──一度食っちまえば、離れられねえ」
「そーいうこった。息するのがやっとのどん底にあれば、美味えもんも好い女も、とりあえず関係ねえ」
 その通りと貞親は頷く。
「けど、あれこれ儲けて美味えもんを食い、好い女とやれば、そりゃあもう抜けられねえさ。とりこってやつだ。銭がなくたって、好さは心に刻まれちまってるさ」
 侮れない。酒を呑んで、げろを吐いているだけではないのだ。船頭は貞親の目の奥の色を読んで言った。
「俺が酒から逃げられねえのも、そのあたりがでけえな」
 常軌を逸した呑む打つ買うを実践している男に、貞親は苦笑いだけ返しておく。
「昆布だけどよ、おめえ、昆布の汁を飲んだことがあるか」
 貞親は首を左右に振る。商品には手をださないということだが、さんざん運んでいるくせに昆布の出汁を飲んだことがない。そもそも興味の対象外だ。
「カツオ節の出汁が汗くせえ男だとしたら、昆布は女だな。それも手弱女たおやめだ」
 貞親は、そんなもんかと船頭を見やる。
「昆布の出汁なんて、なくったって俺たちは一向にかまわんさ」
 貞親は、まったくだ──と同意する。
「だいたい俺たち下賤は、まずは塩気だ」
 貞親は苦笑を返す。
「けど江戸やら大坂は、京のお公家みてえなやからばっかに成りさがった」
 貞親は頷きかけたが、口を尖らせてごまかした。言いくるめられているようで、面白くないからだ。
「詰まるところだな、軀を使わねえお公家様はよ、塩味なんぞは超えちゃってるわけだ。慾しいのは昆布の淡い旨味」
 貞親は陸に視線を投げ、甲陽丸の進路を慥かめる。船頭が視線を追う。
「俺はよ、おめえのその抜かりのねえところが大好きさ」
 貞親は自負の交じった照れ笑いを泛べる。
しゃに流れるは、人の常」
 貞親は、そんなもんだと目で肯う。
「薩摩ってえのは、貧しいらしい」
 貞親は漠然と雄藩であると聞いていた。
「なんでえ、信用しねえのか。薩摩ってのは、やたらとでけえ火の山があって、まともなもんは獲れねえんだよ」
「火山灰ってのは、畑作には始末に負えねえって聞いたことがあるが」
「それだ。これを見やがれ」
 船頭は自ら写してきたという絵図を懐から取りだした。
 妙に文字が巧みで、貞親は船頭と絵図を交互に見較べ、いつも矢立を持ち歩いている知工の字でないことを見てとった。
 まったくよくわからない船頭である。ひょっとすると当人が強弁するように甲斐武田氏につながる出自なのかもしれない。
 もっとも絵図自体は省略されすぎていて、ほとんど役に立たないだろう。船頭は頓着せずに続ける。
「絵図をよこしやがらねえから、しかたなしに覚えてだな、描いてみた。この図は、薩摩は錦江湾」
「絵図が慥かなら、ずいぶん深い湾だ」
「失敬な奴だなあ。慥かに決まってるだろ」
 貞親が笑むと、船頭も笑った。
「錦江湾の奥まったとこに、海からいきなりでけえ火の山がそびえてる。桜島だ」
「山なのに島」
「ああ。いきなり海から生えてるから、島でもいいんじゃねえかな」
 絵図の中央上に描かれた陸と接してしまいそうな巨大な島、桜島と周辺の様子を脳裏に叩き込み、貞親は絵図を指先で辿って、脳裏で実際の景色を組み立てる。
「とんでもねえところだよな、薩摩。なにしろ火の山だけじゃねえぞ。いいか、見やがれってんだ、これ。ここいらへん。なんと海の底から火が噴いてるらしい」
まことですか!」
「担がれたかもしれん。けど、若尊わかみこって名がついてたくれえだから案外、本当なんじゃねえかな」
 脳裏に海の底から噴く火を思い描こうとしたが、まともに像を結ばない。水と火だが、水が勝つのではないか。それとも海が沸いているとでもいうのか。
 貞親は側頭部を掻きながら、呟く。
「いやはや、まだ知らねえことばかりだ」
「聳える桜島を目印にして疾るのはかまわんが、向かって右の奥まったとこ、若尊には行かんほうがいいみてえだ。たぎりって言うらしいが、臭え泡ぶくが海面に出てるらしい。気をうしなうことも、死することもあるってよ」
 貞親は絵図の湾内右上に爪の先でしるしを付けた。船頭は満足げに貞親を一瞥し、大仰に顔を顰めて訊いてきた。
「江戸前海に富士のお山も吃驚びっくりの、火を吐く山が生えてたら、どーするよ」
「どーするよって、どうもこうも、おそらく御神君は江戸を選ばなかったでしょうね」
「御神君ときたか」
「茶化さんでくだせえ」
「ん。すまん。火の山は勇壮だけど、とにかく薩摩は貧しい」
 貞親の脳裏には、船頭の口にしたお公家という言葉が残っている。
「貧しいくせに、昆布」
「うん。ま、薩摩の奴らが出汁をとるってわけじゃねえだろ」
 食うにカツカツならば、出汁どころではないはずだ。
「じゃ、なんで?」
「薩摩の芋侍は昆布で一儲け企んでるみてえだな。藩で抜荷でもするんじゃねえのか」
 船頭は唾を吐いた。先ほどから宿酔の剣呑な唾を吐きまくっている。
「ま、俺は知らん。あっちにはあっちの思惑ってもんがあらあな。とにかく気合いが入ってた。わざわざ箱館まで薩摩の侍が訪ねてくるほどにな」
 なるほど。薩摩は本気らしい。
「で、悪事をなすには船頭に頼むのがいちばんであると」
「るせえな、ええ、はい、そーです。その通りですよ」
 思わず笑ってしまった貞親に親愛の眼差しを投げながら、らしくない淡々とした口調で船頭が言う。
「とにかく俺たちが昆布を運べば、それを使って、なんかやる気だぜ。うまくいくかどーか、試すみてえなんだ。ぶちあけたとこ、とにかく運べば、銭になる」
 またもや船頭は唾を吐き、首筋を揉みながら、見透かしたように貞親に言う。
「悪いようにはしねえさ」
「けど、薩摩なんて行ったことがねえ」
「そりゃあ、俺だっていっしょだよ。俺だって行ったことがねえさ」
 行くもなにも、船頭はまともに操船しねえで、人を殴ったり威張ったり酔っ払ってるだけじゃねえか、と貞親は胸中にて皆の気持ちを代弁した。
 西廻りで貞親が潮の流れや岩礁の位置などをしっかり把握しているのは、下関から瀬戸の内海を抜けて大坂に至る航路だけだ。不安に近い困惑がりあがる。船頭が貞親の顔色をうかがう。
「おめえだけが頼りなんだよ。おめえがいれば知らねえ海でも、じつに心強い」
「ヨイショされてもなあ」
「つれないことを、お言いでないよ」
 おどけてしなをつくる船頭に、貞親は辟易を隠さずに溜息をついた。船頭は委細かまわず反り返って高笑いだ。貞親は強い調子で船頭の莫迦笑いを抑えこむ。
「いいですかい。馬関まではどうにでもなります。けれど、そっから先はとんと──」
「貞親も船が慾しいだろ?」
 問いかけられて、貞親は皮肉な口調で応じた。
「千両、もらえるんですか」
「いいよ。千両。くれてやる」
「真顔で言ってんですか」
「真顔も真顔。とはいえ貞親の代わりを探すのはことだがな。貞親くれえこなれた表は、そうそういねえからな」
 まんざらでもない気持ちを悟られたくなくて、貞親は醒めたかおをつくる。
「たかが昆布と言ったらアレだが、薩摩から一体どれくれえの銭をもらえるんです?」
「千両の三倍ちょいくれえだよ。端数は忘れた。薩摩の侍は細けえ奴でな、鬱陶しかったが、ぐっと怺えたさ」
「三千ちょい」
「おう。三千はちゃんと超えてるぜ」
「有り得ねえ!」
「それが、有り得るんだなあ」
 船頭が咳払いした。
「知工には、言うなよ」
「言ってねえんだ?」
「言うか。言えば分け前の話になる。すると貞親にいく銭が減る」
 船頭の言う通りだとしたら、薩摩は一体なにをしようとしているのか。なにを企んでいるのか。まったく見当がつかない。
 蝦夷地と大坂を一往復して、往路復路とも荷が当たり、うまく捌くことができれば、千両ほどの儲けになるのが弁才船だ。
 弁才船は一隻がちょうど千両くらいする。
 いままで貞親は船頭にずいぶん稼がせてやったという自負がある。船頭が、いまだに甲陽丸一隻にこだわっているほうがおかしい。船頭もそろそろ船を揃えて海に出ずに左団扇を考えているのかもしれない。
「それだ。俺もそろそろ居船頭になるつもりだ。するってえと甲陽丸の船頭はおめえだ。貞親だ」
 船頭が貞親の顔色をうかがう。
「おめえになら五百、いや三百両で甲陽丸を売ってやるよ」
 曖昧に視線をそらした貞親に、船頭が畳み込むように続ける。
「甲陽丸が厭ならよ、千両入るんだから新造船の船頭になれ」
 まったく景気のいい話である。貞親には実感がない。
「とにかく俺は揺れねえ地面の上で、とことん酒が呑みてえ。揺れる海の上の酒じゃなくてだな、揺れてんのは俺だけってのがいいじゃねえか」
「あえて訊くけど、船頭が、いままで稼いできた銭は?」
「うん。消えた。失せた。なくなった。泡ぶくみてえなもんだ。弾けて消えたよ」
「酒と女に博奕か」
「甲斐性ってもんよ」
 船頭は得意げだが、じつは金離れがよすぎるのが問題だ。酒や女で莫大な浪費をするだけでなく、水夫にもどんどん褒賞をはずむ。結果、いくら稼いでも追いつかない。稼ぐのは巧みだが、あれこれ放漫に過ぎる。だからこそ酒乱の粗暴な船頭に皆が従っているともいえるのだが。
 それにしても──。
 馬関から先、薩摩までどれくらいの距離があるのかは判然としないが、片道で三千両というのは破格を通り越して空恐ろしい。
 薩摩側も抜荷が重罪であることを悟っているからこその大盤振る舞いなのだ。
 貞親は腕組みして、沖合の海の色と風向きに気を配る。細かく指図をだす。それを船頭が引きとって胴間声で片表や梶前に伝える。貞親が船頭を見つめて呟く。
「腐れ縁か」
「言うよな、貞親は。なんでも言う。だからこそ」
「だから?」
「うん。だから俺はおめえが好きだ」
「野郎に好かれても困るんですけどね」
「阿房。俺の菊座はすばらしいって評判なんだよ。こんど試してみっか?」
「けっこうです。お断りします。糞掻き魔羅って呼ばれちまったら洒落にならねえ。皆に示しがつかねえ」
「つれないよなあ~」
 慥かに銭金もある。されど、なんだかんだ言って船頭とは相性がいい。はじめて甲陽丸に乗ったときから、なぜか貞親だけが船頭から殴られたことがないのだ。いっしょにいれば舌打ちしたいことばかりだが、結局は受け容れてしまっている。
 貞親は船縁に寄りかかって、出帆までのことを推測も交えて整理する。
 沖口番所を欺くために、あえて正月を狙って出帆したように見せかけたのだろう。
 大方のところ、俺んとこの表は貞親だから途轍もない勢いで甲陽丸を疾らせることができる──などと調子のいいことを吹いたに決まっている。
 箱館にしゅうする船乗りの中でも、表といえば貞親という評判がある。誇らしい心持ちではあるが、抜荷が露顕すれば貞親もただではすまない。
 貞親は唇を舐め、潮を味わう。
 もう出帆してしまった。昆布満載で、洋上だ。肚を据えるしかない。問題なのは下関から先の海や陸の様子がまったくわからないことだ。
「なんか手がかりになるようなもんは、ねえんですかい」
「磁石。本針と逆針。豪勢なもんだ」
「あのね──」
「遠眼鏡も砂時計もあるぜ」
 茶目っ気たっぷりの船頭だ。和磁石二種や望遠鏡を積んでいない船など有り得ないことを承知で言っているのだ。
「で、海図だけがねえ」
「ねえなあ。ささっと見せるだけでよ。薩摩も気がきかねえよな」
「──渡したくなかったんじゃねえですか」
「なんで?」
「噂では、薩摩には誰も入れねえって聞いたことがあります。まともな国絵図ってえもんが薩摩に関してはねえって」
 模写された絵図をどこまで信用していいのか、わからない。おそらく薩摩は、あえてこの程度の海図しか拵えていないのではないか。
「湾内の絵図だって、やたらと雑だ。わざと細かいとこがわかんねえように描かれてる」
「おっかねえな」
「まったく」
「錦江湾だっけ、昆布届けたら、沈められちまったりしてな」
「俺も思いはしたけど、口にはしねえから」
「それが貞親の狡さってもんよ」
 船頭と貞親は黙りこくる。
 沈むという言葉は船乗りには禁句だが、貞親は錦江湾に沈む甲陽丸の姿を脳裏に描いてしまい、船頭は己で口にした沈むという言葉に酷く囚われてしまっていた。
 まばらな雪が、海風に乗って思いもしない方向に流され、洋上に吸いこまれる。色味のない世界で、船頭の唇だけが異様に赤い。

              〈以下次号〉

第八回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回〈上〉】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。


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