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海路歴程 第五回<上>/花村萬月

.    *07〈承前〉
 
 地蔵菩薩の加護か、凪が続いていた。風向きもよく、ほうしょうまるは鏡の上を滑るかのように距離を稼いでいく。
 航洋船ではない方正丸に、外洋を航行する能力はない。ゆえに常に陸地を右手に見ながら航海する。北に流れる対馬海流と南からの風が柔らかく、けれど力強く後押ししてくれている。
 穏やかに風を孕む帆を見あげ、いよいよ草臥くたびれてきたなあ──と梶前かじまえ参三さんぞうは胸中で独りごち、眉をひそめた。兄貴分の俊資としすけと共に操船の実際をまかされている参三にとって、気分のよいものではない。
 船体には不釣り合いな二十六反もの大きな帆に、真ん中からやや上に大きく『ろ』の字が染め抜かれている。ぞうのろの字であるが、すっかり色褪せてくすみ、灰色がかってしまっている。
 堺湊にもどった直後、きびすを返すかのごとく敦賀湊に向けて離岸しなければ、帆を替えるように呂久蔵とそうを口説いただろう。方正丸の大きさからして、せめて二十反くらいの帆に替えるのが望ましい。
 俊資も同じ思いで腕組みしていた。こんな船をこさえやがって、いい気になってやがる。捕らぬ狸のなんとやらにならなければいいけどな──と吐き棄てていた。
 傷みもだが、やはり方正丸には不釣り合いな大きさの帆なのだ。
 前借をとっとと返済したい呂久蔵が、なかば無理やり皆の意見を押し切って、このような大きな帆を方正丸に与えた。もちろん速く走るためである。
 鈍重なものを好む船乗りなどいない。
 速い船が好きだ。
 されど──。
 初めて、この帆を見あげたときは『これはねえな』と、俊資と顔を見合わせて嘆息したものである。
 水夫かこが長かった呂久蔵である。船でもっとも大切なものは釣り合いであることくらい重々承知のはずだ。
 このような帆を選んだのは、根が単純なだけに、早く本物の居船頭になりたい一心からきたものだ。気持ちはわかるが、水夫たちに心中を迫るのは筋違いだ。
「こんな頭でっかちは、願いさげだ」
 呟いて、参三はまだ生っ白い肉が見えている掌に視線を落とし、思案を巡らす。
 この航海だって、地蔵菩薩を積みこむ前はさんざんな目に遭った。
 季節を勘案して敦賀湊に向かう航路として選んだ対馬海流の支流から外れてしまい、たんしゅう柴山の沖合で暴風になぶられたのだ。
 巨大な帆が強風を孕んで操船不能になり、このままでは転覆だ──と瞬時に判断した俊資が躊躇ためらわずにはずを断ち切って、どうにか凌いだのだ。
 しかも御念のいったことに、方正丸は船体に不釣り合いな二十六反帆を天高く掲げるために、同じく船体に不釣り合いな太さ二尺八寸もの帆柱を採用している。
 つまり元々が頭でっかちで、外的要因ですぐに転ぶような船なのだ。
 筈緒を切断した俊資だけでなく、参三も但州柴山沖合では暴風に対処するために梶をあげて自然天然にまかせるか、荒れ狂い粘つく海に逆らって操船を続けるか、頭がキリキリ痛むような判断を強いられた。
 あげく操船に集中したが、見事に掌の皮がけて肉がはみだした。
「ろくでもねえ」
 参三は吐き棄てる。
 操船をまかされている俊資や参三は否応なしに方正丸の危なさを悟らされているが、他の者たちは『俺たちの船は見場みばがいい』などと方正丸の帆の大きさを看板の大きさに見立てているかのような言辞を吐く。
洒落しゃれにならねえ。なんとかせんと──」
 言いくるめるは言いすぎかもしれないが、おだてすかせば呂久蔵の扱いは案外楽だ。金に齷齪あくせくするわりに、金離れもいい。
 けれど惣次は銭勘定が仕事ゆえ、吝嗇けちだ。必要なものであると口説いても、なかなか首を縦に振らない。
 それどころか十人ほど必要な水夫も、総勢七名で操船している。それもこれも惣次の算用高さのおかげである。
「一番の銭食い虫は、水夫だ──か」
 惣次の物言いは、いつだって皆を傷つけるが、あれはわざと言っているのだろう。
 惣次から銭金のことを持ちだされると、イラッとくる。底意地が悪いくせに、相手の目をまともに見ることができない惣次には、反論するのも虚しく、莫迦らしくなる。
 意識して梶を操るでもなく、ゆるゆる流れていくおかを脱力して眺めていると、混ぜこんだ鹿尾菜ひじきで真っ黒になった大きな握り飯を二つ、六郎がもってきた。
 一礼して立ち去ろうとする六郎を呼び寄せる。握り飯を一つ差しだす。
「俺は味見がてら、もう一つ食ってますぜ。いいんですかい」
「食い盛りだ。遠慮するな」
 六郎は満面の笑みで、参三の傍らにちょこんと座る。
「当たりだと、梅干しが入ってます」
「なぜ、当たり?」
かめの底に残ってた最後の一個を、握りました」
「甕の底ってえと」
「へい。慌ただしく堺湊を出たので、梅干しを積み忘れました」
 悪びれずに言う六郎の頭を、軽く小突く。
「梅干しがねえのは、あれだぜ」
「へえ。あれですね」
 なんだかんだいって、まともな出港の準備ができていなかったのだ。参三はほつれが目立つ帆に視線を投げる。
「地蔵菩薩の加護がなかったら、この航海はやばなことと相成ってただろうな」
「但州柴山のあたりは怖かったです。きんたまが縮みあがりました」
 参三は答えず、大きな握り飯を手に、沖に視線を投げる。
 海で死ぬ覚悟はできている。
 だが犬死にはいやだ。
 まだおさなさの残る六郎の頭髪の中でうごめしらみ一瞥いちべつし、こいつの頭に虱がたかってるうちは、方正丸も沈むことはないだろう──と気を取りなおし、握り飯に専念する。
 梅の香が口中いっぱいに拡がって、鼻に抜けた。酸っぱさに、即座に唾が湧く。かちっと歯に当たるものがあった。種だ。
「大当たりだ」
「さすが!」
 六郎が大仰な声をあげた。
 参三は知っていた。六郎があえて梅干しの入っていないほうの握り飯を選んだのを。六郎の指先の瞬時の動きを見逃していなかったのである。
「六郎は発明だな。よく道理を心得てらあ」
 発明の意味を解さず、キョトンとした眼差しの六郎である。
 二人は黙って握り飯に専念した。
 唇をめまわしながら六郎が訊く。
「しかし、なーんでこんな大廻りして物を運ぶんですか?」
「急がば、まわれ」
 わかったようなわからないような、微妙な顔つきの六郎だ。参三は航路の概略を語ってきかせた。
「この航路をつくりあげたのは瑞賢ずいけんて男だったか。要は沈まねえように」
 六郎の声が割り込む。
「沈まねえように!」
「そういうことだ。じつに叮嚀ていねいに拵えられた理にかなった航路だよ」
「それでも但州柴山の沖じゃ、ひでえ目に遭いましたけど」
 まあなと頷き、参三は思案する。この船の構造がじつに危ういことを六郎に告げるべきか。まだわっぱにすぎぬ六郎を脅すのもはばかられる。逆に尋ねてみた。
「おめえは方正丸をどう思う?」
「他の船なんて比べもんになんねえですよ」
「どう比べもんにならねえ?」
 六郎は、自分のことのように得意げに答えた。
「とにかく速い」
「まあな。たしかに速い。けどよ、速いの上に『とにかく』って枕詞がつくのは、どういうことだろうな」
 参三がなにを言っているのかわからず、六郎は三分の二ほど食べた握り飯に視線を落とす。
「いいか、六郎。『とにかく』ってのは、なにはともあれ──ってことじゃねえか?」
「なには、ともあれ、速い」
「速いは速いぜ。方正丸は速い。それは俺も認めるさ。いまだってこの凪の海を氷の上を滑るように進んでるだろう」
 絵に描いたような順風満帆である。風を孕んだ帆はたおやかな弧を描いている。
「速いのは、まずいんですか」
「言っただろ、氷の上を走ってるって。滑るように走ったあげく、すってんころりんだ」
 六郎は参三の視線を追って、はためく音さえたてぬまま風を貪欲に受けとめている帆を凝視している。
「なんか欠けてんだよな。大きく欠けてる」
「それは速いってことがあれして?」
「まあな」
「それは方正丸自慢の大きな帆が──」
「まあな」
 握り飯を食っちまえと目で六郎を促す。六郎が頬張るのを見つめながら、参三も握り飯に集中する。
「兄貴」
「なんでえ」
「これは──血?」
「まあな」
「なぜ?」
「なぜ、梶柄かじつかに血が染みてるかって?」
 上目遣いで頷く六郎に、掌を突きだす。
 六郎は顔をそむけた。
「但州柴山沖は、じつはヤバかったんだぜ」
「へえ。揺りもどしってんですか、気持ちを逆撫でする動きをしてました」
「あれは不気味だよな。俺も必死で操船したんだ」
「そして、ずる剥け」
「まあな」
「兄貴は、なんでも、まあな──だ」
「まあな」
 顔を見合わせて笑う。同時に笑いやむ。
「船頭は観音の位だ」
「へえ。憧れてます。けど──」
「けど?」
「けど、どうしちまったんだろう、今回は」
「おめえが言ってるのは、但州柴山沖で酒樽を棄てさせなかったことだろう」
「沈まなかったからいいようなものの──」
 口にしてしまってから、観音の位を批判してしまったことに気付いた六郎は決まり悪そうにうつむいた。
「なあ、六郎。この先、但州柴山沖みてえな暴風が襲ってきたら、地蔵菩薩を海にほうり込むか?」
「──酒樽じゃねえから、きっと抛り込むんじゃねえかと」
 そこまで言って、六郎は黒眼を上にあげて思案した。
「兄貴。言いなおします。お地蔵さんは酒樽ほどの量はないですし、重石としては丁度くらいって気がします」
 大量に積まれた酒のせいで方正丸は船脚きっすいが危うかった。地蔵菩薩はきっちり加減をとって積んだから、まさに程よい重石バラストである。参三は笑んだ。
「まあな。いまの方正丸は、地蔵菩薩によみされてる。けどな」
「はい」
「海が荒れて、船内に海水が入ってきて、沈みそうになったら?」
「申し訳ねえけど、沈む前にお地蔵さんを少しずつ、一体、一体、船脚を慥かめながら海に棄てさせていただきます」
「まあな。そうするしかねえだろう」
 参三は我に返った。
「すまん。てめえの胸の奥に仕舞っとく心積もりだったのに、べらべらと──」
 六郎は控えめに頭を下げてきた。
「兄貴は小僧の俺にもわかるように語ってくださいました。ちょいと嬉しかったです。兄貴がいれば、怖くねえ」
 買い被りだ──と参三は苦笑いする。『まあな』と同様に、苦笑いしてばかりだと気付き、頬を引きしめて陸地と方正丸の間合いを真顔で測り、不要といえば不要なのだが、梶をごくわずか、修正する。
 六郎は考えこんだ。敦賀湊まで大量の酒を運んだのだから、ある程度は稼ぎも出ているだろう。それなのに船頭は敦賀湊から空荷で方正丸を出港させようとした。
 あげくお地蔵さんを盗んで積んで、なんの目算もないまま北を目指している。
 地蔵を積んだらどうかと声をあげたのは六郎だった。ほんの思い付きだったが、菩薩も頼られて悪い気もせんと船頭も応えた。俊資は、罰当たり! と六郎を叱った。
 生まれてからこの方、いいことなんて一つもなかった。いくら祈っても神様仏様はなにもしてくれなかった。だから神仏をないがしろにする心があったのかもしれない。
 六郎が静かな腹立ちを抑えられないのは、船頭の遣り口だ。あと少しで方正丸が完全に自分のものになるらしいが、なにかが取り憑いているかのごとく、愚かなことばかりしでかそうとする。
 観音の位は、地蔵菩薩よりも偉いのか?
 思いに沈んでいる六郎を見やりながら、参三は指先についた米粒や鹿尾菜を綺麗に舐めとり、ついでにずる剥けになった掌に舌先を這わせた。
 梅干しを食ったせいか、大きく顔が歪むほどに沁みた。余計なことをしたと参三は顔の歪みを苦笑いに変え、また苦笑いだと胸中で自嘲した。
 そんな参三を凝視していた六郎が、唐突に呟いた。
「慾」
 参三は静かに首を左右に振り、目で六郎を制した。
「申し訳ありません」
「なあに、おめえの言うとおりだが、だからこそ黙ってなけりゃならねえってのも、おめえならわかるだろ?」
 六郎は強く頷いた。すっと立ち去った。
 参三は六郎と言葉を交わしているあいだ、ずっと横目で見ていた陸地を首をねじまげて真正面から見やった。
 多少の修正は必要でも真剣に梶を操らなければならないというほどでもないので、ずる剥けた掌で強く梶柄を握らずにすむ。あまりの好天に、あくびが洩れそうだ。
「兄貴、参三の兄貴、薬を貰ってきました」
「──熊胆くまのいってのは腹痛はらいただろ」
「知りませんでした」
「ま、いいか」
 参三は黒褐色を受けとると、口に抛り入れた。苦みが逆に心地好い。
「なんか傷に効くもんがねえか、ちょっと聞いてきます」
「いいよ。行かんでいい」
 六郎は不服そうに口を尖らせかけたが、気を取りなおし、木綿の手拭いを参三に差しだした。
「真っさらでねえから正直、差しだすのに気合いがいりましたが、ちゃんと洗ってありますので」
 うん、すまねえ──と受けとった手拭いは手に巻くのに程よいようにと、縦長に均等に二つに裂いてあった。
 参三の手つきがあまりにも不器用なのを見かねた六郎が手拭いを受けとり、参三の掌を叮嚀に覆い隠すように巻いていく。結び目は水夫ならではのもやい結びだから、そう簡単にはほどけないだろう。
「することがねえってのも、それはそれで持てあましますね」
「生意気言ってんじゃねえよ」
 参三はポンと手を打った。
「退屈してんなら、舵を握ってみるか」
 六郎は大きく目を剥いた。参三は手を打ったせいで鋭く痛んだ掌を中空ですりあわせて誤魔化した。
「ここまで好い天気は、まあない。だから、おまえにも梶を触らしてやれる。おまえがその気ならば、だがな」
「兄貴。触れてみてえ!」
「いいよ。ほれ、こっちにこい。場所を代われ」
 緊張しきって唇から色が消えた六郎は、梶柄に手をかけたまま固まっている。
「てめえが地蔵になってどーすんだよ」
「けど兄貴、俺はなにをすれば──」
「ん。ちょい右に動かしてみな」
 あ~と奇妙な声をだして、六郎は泣きそうになった。
「どうした?」
「だって兄貴、方正丸が俺の手で方向を変えたんですよ。俺の手で!」
 参三は呂久蔵や俊資から結んで固いこぶをつくった荒縄で叩かれながら梶の扱いを教え込まれた。素手で殴ると手が痛いという理由からである。六郎に同じような扱いをするつもりはない。
 ほんのわずかだけ梶柄を動かして、方正丸がかすかに向きを変えるのを感じとる六郎は、なかなか筋がいい。
 序列からいけば若衆の次吉に梶の扱いを覚え込ませるべきだが、次吉は知工ちくにしたい。そうすれば皆から嫌われている惣次を追い出すことができるのではないか。
 船頭を差しいて水夫の扱いに思い巡らす参三であった。
 六郎は参三の姿を見ていたのだろう、梶柄をきつく握り、ぎこちなく首を動かして陸と方正丸の間合いをさぐっていた。
 様にならねえな──と、参三は六郎に気付かれぬように笑んだ。
 
.    *
 
 海面の藍色が濃くなった。深みだ。
 六郎は記憶を手繰る。
 能登の半島を抜けて佐渡島の手前あたりまでは、やや海の色味が濃かった。
 佐渡島をあとにすると、藍に緑をまぜたかの色になって、一帯は海の底が多少なりとも浅くなっていることが直覚できた。
 もっとも海の色に差はあっても、磨きぬかれた鏡である状態がひたすら続いている。六郎にしてみれば波が立たぬから、海水の本来の色がよくわかる。
 六郎は参三に言われる前から、海面の色のちがいに気付いていたが、以前よりもさらに気持ちを集中して陸地と海の色を結びつけて記憶していく。
 船頭以下、ここまで静穏な航海は初めてであった。吝嗇なくせに神頼みが好きな惣次は地蔵菩薩の加護であると暇さえあれば三社かみだなに手を合わせるが、船頭はいまの状態を、まるで己の人徳がもたらしたものであるかのように感じているらしい。妙に高圧的で、しかも鷹揚だ。
 結果、好天でやることがないという理由もあるにせよ、船頭以下、水夫たちは酷くだらけていた。
 朝餉の準備をする六郎はかまどの火をおこしながら、微妙な心持ちだ。
 このような天候が幾日保つのか──と、逆に不安になってくる。
 揺れる船上での炊事は、火を扱うこともあり気配りの連続だ。火の扱いは方正丸に乗った直後から、青助に徹底的に仕込まれた。火吹き竹で幾度殴打されたことか。
 燃えれば、沈む。
 心ひそかに六郎は、水と火がよく似ていることを悟っていた。凝視していると、まるで命があるがごとくだが、どちらも記憶をもたないのだ。
 だからこそ、恐ろしい。
 火も水も人のことなど頓着しない。
 頓着しないはずの水が、海が、ここまで鎮まっている。
 いまの状態は尋常ではないのではないか。そうでなくとも永遠に続く好天はない。好天のあとには荒天がやってくる。当たり前のことだ。
 だが──。
 極端なことをいえば風向きや帆を見てやることさえ不要で、方正丸はほとんど揺れることもなく滑らかに海面を断ち割っていく。水夫たちはだらけきっている。
 六郎がやってくるときだけは、参三も張り切って梶を扱ってみせ、六郎にあれこれ教え込むが、いまやひょうかんさも失せてたるみきったなわのごとくである。
 ことあるごとに口うるさく若輩を叱りつけていた青助も、手慰みのさいを船板の上に転がして生あくびを嚙み殺している。
 そんな青助の賽子さいころを操る節榑ふしくれ立ってひびれた指先の動きを六郎は反芻はんすうする。気を張っていないときのおやは、磯に流れ着いた流木じみている。
「炊けたか?」
 次吉の声に、六郎が火吹き竹で釜を叩きながら呟くように応えた。
「蒸らしてます」
「火の始末をしたら、てんこみにこいよ」
 六郎は空返事をして、大きなしゃで炊きあがった米をかき混ぜる。船上では愉しみがないので、奮発して雑穀ではなく米を積んでいる。六郎は独りごちる。
「伝馬込か──」
 本音は参三のところに行きたかった。梶に触れてみたかった。
 気を取りなおし、汲みあげた海水に手を突っ込んで、米を握る。こうすれば熱い米も握れるし、程よい塩味もつく。
 すっかりしなびた青菜の漬物とあじのほぐし身を添えたものを配って歩いた。
 たるんでいるというべきか贅沢というべきか、軀をあまり動かしていないので誰もが握りを横目で見て、即座に手をださずに、やにをほじったりしている。
 あとでよろしくお願いしますと参三に朝飯を届けながら頭を下げると、そのときだけ参三の頬に精気が充ちる。
 本来ならば次吉を差し措いて梶をいじるのはかなり際どいところだが、これには理由もあり、呂久蔵も黙認している。水夫たちは船頭があれこれ言わんなら、勝手にしろといったところである。
 六郎は伝馬船で待つ次吉と自分の分も込みで握り飯を多めに用意した。ふんわりつけの匂いがして、六郎はうっとりしかけて、我に返る。香りは幻のようなものだった。記憶の中の匂いだった。
 揺れる船では、汁物は控えられていた。だが、この好天にして鏡面の海である。
「俺も気がきかねえな」
 熱々の御味御汁を啜りてえ──と六郎は胸中で焦がれつつ、明日の朝は味噌汁をつくると決めて、次吉のところに急いだ。
 方正丸は新造のざいせんなので、伝馬込には伝馬船が積んである。船において若衆は下から二番目、かしきは一番下の位だ。暇なときの二人の居場所は、地蔵を積んだときに使った伝馬船の上が多かった。
 晩秋の朝のんだ陽射しを浴びながら、次吉は六郎と並んで伝馬船の中に座った。次吉は頭上で風を孕んでいる帆を一瞥し、大きな握り飯を口に運ぶ。
 食い終わると、伝馬船の中に転がる。満足の息をつく。
 他愛もなく水に記憶があるのかないのかを語りあって以来、次吉は爨の六郎を弟のように可愛がっているが、近ごろの六郎は参三に取り入って梶の扱いを教えてもらっていて、呼ばなければ次吉のところにはこない。つい先頃までは、うるさく感じるくらいに付きまとってきていたのだが。
 面白くないが、歳が上なので余裕をみせたい。だから参三のことには触れないようにしていた。とはいえ次吉だって梶に触れてみたい。操船してみたい。水夫ならば当然の思いである。
「六は米炊きが巧みだな」
「──水が、ちょい心配です」
 どういう意味だ? と目に思いを込めて次吉は訊く。水は命綱だ。
「腐れたか? 足りなくなったか?」
 六郎の顔に視線を据える。六郎はあわて気味に答えた。
「いえね、まだ、あるんですよ。なくなったわけじゃねえんです」
「あるなら、いいじゃねえか。腐れてもねえんだろ?」
 六郎は、もどかしげに首を左右に振った。
「どこでもいいから湊に寄って、米や菜、なによりも真水。それと梅干しを──」
「この凪で、けれどこの勢いだ。よけいな湊に寄りたくねえんだろう。一気に駆け抜けちまえって寸法だ」
「俺は、あまりよくねえんじゃねえかって」
「地蔵菩薩がついてんだぜ」
 惣次のようなことをかす次吉である。六郎は当然ながら片表、表と出世したいが、知工にだけはなりたくない。
 銭勘定が大切なことは理解しているが、算盤そろばんばかりいじくっている奴ははらに吝嗇のむしいてしまうようだ。
「吝嗇の蟲ときたか。慥かにそうだが、おめえも言うなあ」
「すんません」
「慥かに銭勘定は蟲が涌かあな」
「涌きますよね」
「涌くな」
「ねえ、兄貴。銭ってなんなんですか」
「銭は銭だよ。おめえも霞を食って生きるわけにはいかんだろう」
「そりゃ、そうですけど」
 六郎はしばらく黙りこんでいたが、独り言のように続けた。
「銭儲け、か」
「六よ、俺は稼ぐぞ」
「へえ。兄貴が稼ぐぶんにはいいんです。どうせぜんぶ使っちまうに決まってるし」
「うるせえよ。俺だって質素倹約くれえ、できるよ。所帯をもったら、なおさらだ」
 六郎が上体を起こす。
「兄貴、まことですか! 兄貴、所帯をもつんですか」
「莫迦。いつも海の上にいて、どーやって所帯をもてんだよ。俺は心窃かに地蔵菩薩に祈ってんだよ」
「な~んだ、神叩きか」
 屈託のない笑い声をあげ、六郎はふたたび伝馬船の中に軀を横たえた。
「六」
「へえ」
「空、蒼いな」
「へえ。蒼すぎませんか」
 次吉は空の蒼さをでたつもりだが、六郎はそれに異を感じている気配だ。首だけ起こして、六郎の表情をうかがう。
「なんか、おめえといると不安になってくるぞ」
「けど、海は変に碧くて、空は黒ずんで見えるくらいに蒼い。しかも──」
「しかも?」
「雲ひとつ、見えねえ」
「好い天気は、よくねえことなのか?」
「さあ。けど兄貴が言ったじゃねえですか。海はなーんにも覚えてねえって」
「言ったなあ。実際、そうだろ」
「まあ、そうですけど」
「好い天気と、どうつながる?」
「──空も、なにも覚えていねえんじゃねえかって」
 次吉は虚を衝かれた。六郎は断定の口調で言った。
「空も雲も風も波も、なにもかも綺麗さっぱり覚えてねえんだ、己の姿を」
「いまはこんな蒼々としてても、崩れるときは崩れるってか?」
「自然天然なんて、そんなもんでしょ。兄貴だってわかってるはずだ。水はなにも覚えてねえって見切ってんだから」
 いま見あげているそうきゅうは、ついさっき見あげた空とはちがう。同じ色をしていても、まったくちがう空なのだ──と六郎は言いたいらしい。
「六よ、空と海は、ちがうだろう。空はずっと天に貼りついてるじゃねえか」
「ですね」
 逆らわぬ六郎に、なにやら不穏なものを感じた。なにが心配なのか。六郎は次吉のよい気分を、ぶち壊しにしたいのか。
 方正丸の誰もがこの好天を地蔵菩薩の恵みとして受けとっているのに、独り六郎だけが不安げな眼差しだ。
 次吉だって、海の男の端くれだ。すべては刻々と変わりゆき、移ろうものであることくらい痛いほど思い知らされている。
 だからこそ、いまのこの奇蹟を大切にしたい。全身に澄みわたった光を受ける幸せを嚙み締めたい。
 双方、物思いに耽って沈黙が続いた。
 次吉はふと我に返った。
「行け、六。梶に行け」
「いいんですかい?」
「いいもなにも、行きてえんだろ」
 投げた次吉の物言いだったが、六郎は勢いよく軀を起こした。まるで撥条ばねが仕込まれていたかの六郎を見送って、次吉は俯き加減で顔をしかめた。
 退屈をもてあましていた参三が、一瞬だが満面の笑みをうかべて六郎を迎えた。
「いいところにきた。どうでえ」
 参三が顎をしゃくって陸を示した。
「庄内富士じゃねえですか。こんなに婀娜あだっぽく見えたのは、初めてです!」
「婀娜っぽくときたか。粋な科白を知ってるじゃねえか」
 六郎は照れ、参三は好ましげに肩をすくめる。進行方向に浮かびあがった鳥海山の秀麗な山容は、慥かに色香さえ感じさせる。
 噴火による新山形成前の鳥海山である。まるで女性がその身を横たえたかの姿だ。山脚は海にまで落ち込んで途切れることがない。六郎は息を詰めて庄内富士を見つめた。
「雲、ひとつ、ありません」
「まったくだ」
「──おかしくねえですか」
「おかしいよ」
 あっさり答えた参三の顔を凝視する。
「けど六郎。おめえに何かできるのか?」
 そう迫られると、返す言葉がない。
大物忌おおものいみのお山だ。神の山だ」
「どんな神様ですか?」
「蛇」
「蛇!」
「遠い昔に噴火したとき、熔岩の中に巨大な蛇が二匹、それに付き随う無数の小蛇が、あの神の山を拵えたそうだ」
 くくくと奇妙な笑い声をあげて、参三が囁くように言う。
「姿かたちは優美ってやつだが、ぼんぼこ爆発するかんしゃくもちの女みてえなお山だよ」
「気が短い?」
「どうだろーね。けど、その昔は癇癪をおこして破裂するたびに、いや噴火するたびに、なだめるためだろうな、朝廷が位階を与えたっていうな」
「よく、わかんねえんですけど」
「いいよ、わかんなくて。ただ正二位だったかな。とても偉いお山だ」
 六郎には、参三がなにを言っているのかよく理解できないが、航行の目印として、これほど陸から突出して見える山はない。裾がなだらかなのでだまされてしまうが、かなりの高山である。
「庄内富士には、死者の魂が集まるっていうな」
 縁起でもないと六郎は鳥海山から視線をそらした。
「お山駆けか。六郎も、いつか庄内富士に登ればいい。白衣を着てな」
 ますます参三がなにを言っているのか理解できないが、白衣と死者の魂が重なって、神聖だけれど関わりたくないという気持ちが湧いた。
「出羽三山にお詣りしたって、庄内富士にお詣りしなけりゃ、なーんの意味もねえっていうしな」
 いろいろわからないことだらけの世の中だが、信心の類いはまったくわからない。
 なじられるのがわかりきっているから口にはできないが、いくら祈ったって沈むときは沈むではないか。神様仏様は助けてくれないではないか。
「飛島だ」
 参三の視線を追って進行方向左を見やる。乾児こぶんのように岩礁と小島を引き連れた島影が青く泛びあがった。参三がつつくように指をさして示す。
「ほれ、高いとこ、島の高いとこ」
「あの骨みてえな色褪せた白い鳥居ですか」
「六郎はうめえこと、言うな。慥かに骨だわな。あそこには水神が祀ってあるんだ。淤加美おかみ神社だ」
 参三にならって、六郎も白骨に向かって手を合わせた。
「あっちの小島は、しゃく島だ。海に削られえぐられた洞窟があってな。すげえんだよ、洞窟の中は。まるで龍のうろこのように模様が刻まれていてな、陽射しが這入り込むと、黄金の龍の姿があらわれるんだ」
 なぜか参三は小声で付け加えた。
「あの岩窟こそが、水神のおわす本殿だ。船乗りの神様だ」
 六郎は参三にあわせて御積島の方角を向いて、胸中にて航海安全を祈った。
「兄貴。本音を言ってもいいですか」
「いいよ、言え」
「なんかおっかねえんだけど」
「怖い? 慥かに近づきたくはねえよな」
 いつもなら参三も、さりげなく顔をそむけたくなるような難所だ。
 だからこそ水神が祀られているのだが、冷涼な風と濁りのない陽射しに、御積島から点々と連なる岩礁の黒々とした姿までもが艶めいていた。
 いよいよ海は鏡面と化して、方正丸の水押みよしが断ち割る波だけが藍緑の鏡を乱す。

次回に続く)

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花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。


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