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海路歴程 第四回<中>/花村萬月

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 霊岸島整備の巧みさや土木に関連する種々の功績で瑞賢は幕府の重臣にも知られ、重用されるようになった。
 それには単に能力があるといったことだけではない理由があった。
 芝増上寺で新たな鐘楼が拵えられた。ところが鐘が低い位置に吊られすぎていてくのに具合が悪い。
 完成してから不具合がでたのだが、増上寺が威信をかけた巨大な青銅の鐘である。重量も尋常でない。
 完成してしまった鐘楼にはぼんしょう吊りの大型の道具類も這入らない。裏甲うらごうなどの屋根の部材がじゃまなのだ。
 解体修正案まで出る始末だが、費用を考えると莫迦にならない。さてどうしたものかと瑞賢に相談がきた。
 瑞賢は鐘を一瞥し、集めた人夫に命じた。
「米を買ってこい」
「米、ですか」
「四角く組むとして、米俵が二十ほどもあればいいか」
 人夫が荷車に米俵を積んでもどると、瑞賢は鐘の下に米俵を積ませた。
 米俵が鐘に接すると、土台にして棒をしいれて鐘をじわりと押しあげ、そこに米俵を押しこみ、ふたたびそれを土台にして梃子で鐘を押しあげる。
 幾度か繰り返して、鐘は撞きやすい位置に固定された。
 おお、完成した──と喜んでいる坊主や人夫を前に瑞賢は命じた。
「まだ仕事は終わっておらぬ。米俵を米屋に買いもどしてもらえ。もちろん幾許いくばくかの使用料は支払ってやれ。一俵につき米五升分程度がよいだろう」
 米一俵は四斗、升に換算すると四十升である。
 米屋はいわば米を貸しただけで儲けたわけであり、寺に功徳を施すためと瑞賢に言い含められた人夫の言葉を鵜呑みにして満足至極だった。
 また増上寺側も思いのほか安い費用で鐘がよい案配になり、四方丸く収まった。
 凡百が額を付きあわせてあれこれ思い悩んだのだが、瑞賢の手にかかると人夫の駄賃と米俵一俵につき米五升という出費だけで鐘の吊りあげは終わってしまったのだ。
 芝増上寺の鐘の件は小さなことだが、こうした機知が噂となって広まって、人々を捉えていった。金儲けが得意なだけでなく、なにやら面白い奴という評判である。
 単なる頓知ではない実際的な力。
 瑞賢には生まれつきこうした才が備わっていた。
 藍はそれを見抜いていた。
 さらに藍は瑞賢がもっと大きな事を成し遂げることも悟っていた。ぬきんでた女は男と肌を合わせたとき、直観ですべてを見透してしまうのだ。
 やや後のこととなるが老中である稲葉正則に信をおかれ、越後の中江用水や鉱山開発、淀川河口の治水等、数々の土木事業を請け負って見事な成果をあげ、貧農の倅が幕臣に取り立てられるほどとなった。
 稲葉正則は将軍家光の乳母、春日局の孫であることから幕府の重臣に成りあがっていったのだが、家中の借金を仲介してもらうために巷の噂を耳にして瑞賢を頼ったことがあった。瑞賢の幕府登用のきっかけである。
 一見、瑞賢は金に執着しているようにも見える。けれど成功してからは、請われると赤の他人にも商いの勘所や工夫その他を詳細に教えた。こんな言葉が残っている。
「そもそも幕府や大名の持っている金というのは、埋蔵金だ。これを掘りだして市中にばらまけば、人夫人足に到るまでその利徳をこうむる。即ち金銀が天下をする。金銀が走りまわるんだ。喜ばしいことだ」
 瑞賢は極貧の出であるし、藍との交わりから身分等の無様さに対する無言の薫陶を受けてきたこともあって、愛想の裏に、このような思いを隠していたのである。
 話は大きくもどる。
 振袖大火によって豪壮な江戸城天守閣が燃え落ちる五十年ほど前のことである。
 慶長年間も中ごろを過ぎると、家康の命により江戸城修築および拡張の大工事がはじまった。天下様の命による諸大名に課せられた天下普請である。
 この慶長の、ほぼ十年にわたる修復拡張により、江戸城は日本最大の面積を誇る巨城と相成った。
 あわせて江戸も人口流入がはげしく、乱雑に拡張していく。都市計画が追いつかず、人口密度が尋常でなくなっていき、じつに息苦しい都市に成りさがっていったのだ。
 振袖火事は幕府が江戸をなんとかしたいがために火を放ったなどという噂が流れるほどにまで、収まりがつかぬ状態になってしまっていったのである。
 いかに息苦しくとも城も武士も町人も百姓も、人のすみには建築資材がいる。食糧もいるし、酒もいる。裸でいるわけにもいかぬ。
 必要な物はいくらでもある。
 そこで江戸と上方をつなぐ海運が必須となった。菱垣廻船であり、樽廻船である。
 けれどこれらの輸送船は米を積むことはほとんどなかった。
 江戸城がひたすらな拡張に邁進していたころの江戸は、漠とした武蔵野の平野が拡がるばかりで米作地には事欠かず、米が不足することもなかったのだ。
 けれど未曾有の大火、振袖火事でいったん更地となった江戸は、それを機会に徹底した都市整備が行われ、八百八町は新たに生まれ変わることとなった。
 市街地は整備され、拡大した。
 その結果、大火以前よりも人口流入が活発となり、米が不足するようになってきた。
 幕府は米不足に対処するため、天領各地の産米を江戸へ運ぶことを決定した。とりわけ米の産出量が多い奥羽に、真っ先に白羽の矢が立った。
 このころ幕府も各藩も、商人との入札請負制度をとっていた。
 問題は、入札後は請け負った商人に全てをまかせてしまい、漫然と米の海運を行っていたことである。
 幕府も諸藩も商人も従前の遣り方を踏襲するばかりで、前例にならった米の移入が連綿と続いた。
 海運は、常に難船の危険をはらんでいる。ゆえに前例を破る新たな方法を用いて、それで失敗することを恐れて、変化を避けてきたのである。
 振袖大火以降になると、前述のとおり米の必要量も増えて、いままでの米の移送の遣り方では追いつかなくなってきた。
 けれど実際に海運に携わる者たちは変化を嫌う。これまでの遣り方を踏襲していさえすれば懐が潤うからである。
 だが、米が足りないという現実があるのだ。輸送力を上げなければ、二進にっち三進さっちもいかなくなる。
 これでいいのか──という声が幕閣からあがった。老中、稲葉正則の命を受けた幕臣が瑞賢と額を付きあわせるようにして、密談である。
「のう瑞賢、なにかよい手立てはないか」
「慥かに、あまりに無駄が多い遣り口ではございますな」
「だろう。が、犬吠いぬぼう
「然様、仰せの通り犬吠埼でございます」
 このとき瑞賢は、数万石にもなる陸奥の幕府領地米を江戸までつつがなく廻漕するように命じられていた。
 ただし、いままでの、やたらと日数がかかり手間がかかる方法をなんとかしたいというのが幕府の望みであり、瑞賢を登用した理由であった。
 瑞賢はあえて眉間に縦皺を刻み、深刻な顔つきで言う。
「米を載せた船は、陸奥伊達は阿武隈川河口の荒浜より出帆するわけでございますが、そのまますんなり江戸まで船が入ることができるならば、なんの問題もございませぬ。が、犬吠沖」
「そうじゃ。犬吠は鬼門と聞いた。だが、なぜ川船に積み替えねばならぬ?」
 問いかけに含まれた気配に、瑞賢は心中で呆れる。なぜ犬吠埼沖が鬼門なのか、正確なところを知らないのだ。
 だからこそ逆に船を銚子に着け、そこから川船に荷を載せ替えて利根川を上り、さらに馬と人力にて江戸に運ぶという面倒な手立てに納得がいかないのだ。
 陸奥で荷を積み込んだならば、そのまま太平洋を南下して房総半島をまわって江戸に入ればよいではないかと考えているのだ。脳裏で日本の地図を描けば、それは誰でも思うことである。
「黒潮は御存知でございましょう」
「うむ。海の流れと聞いた」
「我が国最大の海の流れでございます。てつもない速さで流れておるのです」
「海の川のようなものか?」
「御賢察、さすが。然様でございます。黒潮はあきらかに周囲の海と色が違うのです。紺碧が陽を浴びてより黒々と照り映えて、黒瀬川とも称されております。私の生まれた紀州では真潮、本潮と称して格別な扱いをされておりました」
 瑞賢は息継ぎする。
「この海の中を流れる黒瀬川、もっとも幅が広いところで二十五里ほどもございます」
「二十五里!」
「江戸城からは、ちょうど下野しもつけは宇都宮宿あたりまでありましょうか」
「──幅だろう、幅が、お城から宇都宮宿までとな」
「はい。海でございます。海の川でございます。途轍もなく広うございます」
 瑞賢は身振り手振りも派手に、黒潮の大きさを示し、続ける。
「黒潮は陸に沿うようにしてほぼ北に向かって流れております。ところが──」
「ところが?」
「この大河黒瀬川にぶつかる正反対の流れがございます」
「なんと、別の川がぶつかるというのか!」
「はい。北から下ってくる流れ、親潮でございます。南から上ってくる黒潮と、北から下がってくる親潮が、ちょうど犬吠埼沖でぶつかるのです」
「わかった! わかったぞ。それで難所なんだろう? 船を操れなくなるのだろう?」
「はい。自然天然を手なずけるのは、じつに難しいことにございます」
「うむ。なにせ宇都宮宿だからな」
「千石船でも、なかなか」
「難破か?」
「難破します。巨大な千石船であっても、東に流されて手も足も出ませぬ。いままで北に向かっていた黒潮が親潮とぶつかるせいで、東に流れを変えるからでございます。しかも風が加勢するのです」
「風が、加勢? どういうことだ」
「犬吠のあたりは、おおむね西風なのでございます。強い西風でございます。冬は当たり前のように強烈な西風です。過日の振袖の大火、あれも冬の西風のせいで、とんでもないことと相成りました。そんな強い西風が吹けば船はどちらに流されるか」
「──東」
「然様。するとどうなるか」
「どうなる? 難破か」
「難破せずとも、大海を隔てた遠い遠い異国にまで流されます」
「流された者のことは聞き知っておる。紅毛碧眼こうもうへきがんの地だ」
「紅毛碧眼の地であっても、命が助かれば儲けもの。ほとんどは海の──」
「藻屑か」
「はい。難船して漂流すれば、洋上には嵐もあれば、容赦なくいたぶってくる日照りもあり、食い物はおろか水もなく、骨と皮になって狂い死に。無限の海の水の上に浮かんでいるくせに、その水に手をだせば、死──」
「たまらんな。自然天然にいたぶられて死するわけだからな」
「はい。しかも黒潮、親潮を避けて房総半島に寄りすぎれば、くろはえ岩礁という危険な隠れ岩もございます。ですから犬吠埼周辺を避け、手前の銚子にてわざわざ高瀬舟に荷を積み替えるわけです」
「そうか。致し方ないのか」
 瑞賢は静かに笑む。
「なんだ、なんだ? よい方策があるのか」
「はい。犬吠埼を避けて銚子、それなりに考えたのでございましょう。されど」
「されど?」
「されど、それは、もっとも近い距離にて陸奥と江戸を結ぼうという胸算用だけで拵えた浅知恵にございます」
「もっとも近い距離は、いかんか?」
「はい。それで逆に手間も時間も増えております。よいところがまったくございません」
「ならば、どうする? 瑞賢ならば、どう廻漕する?」
「東廻り航路、腹案がございます。けれど、いままで無駄な手間と時間で稼いでいたやからとの軋轢あつれきがございましょう」
「そのあたり、きっちりする」
「確約なされた」
「──確約。ああ、確約する。抜けめのない奴め」
「だからこそ信頼がおける。そうお思いになりませんか」
「なるとも。口だけでなにもせぬ奴儕やつばらがでる。甘言には飽きあきだ。いまの情況に必要なのは、直言であり、実行だ」
「ならば加えて申しましょう。犬吠埼が鬼門なのは、幕府が船の大きさを規制なさっておるからです」
「なんと。幕府のせいと申すか」
「はい。もっとも優れて大きな千石船であっても、所詮は沿岸航海用。船体のつくりは棚板でまったく強度が足りませぬ。甲板も水密が足りず、波が高ければ船内に浸水を許してしまいます。帆も風上への切り上げが最悪です。舵に到っては、吊り舵。荒波と強い潮の流れに加えて強風のなかでは、すなわち犬吠埼沖ではまともに役に立ちませぬ」
「──では、千石船よりも大きな船をつくるのを許し、外海にもでられる巨大な南蛮船に似た船をつくれと?」
「いえ。鎖国。正しき方策でございます」
 胸中とは正反対のことを平然と口にする瑞賢であった。
「我が国に外のあれこれは要らぬ」
 それもまた慥かなことである。瑞賢は大きく頷いた。
「南蛮は虎視眈々と我が国を狙っておると見ます。ですから外洋を自在に往き来できる巨船は不要です。朱に交わればなんとかと申しますし、外洋に出て南蛮と交易する輩もあらわれるでしょう。ただし、もう少し廻漕に用いる船はきっちりしたものが必要です」
「それで犬吠は越えられるのか?」
「いえ。和船というもの、そのつくり、どのように工夫しても、華奢なものです」
「まいったな。華奢か」
「華奢です。困りましたな」
「困った」
「道を歩いているとき、猛犬の縄張りを避けるには、どういたしますか?」
「──遠回り?」
「それです。さすが。遠回りすればよいだけのことでございます」
「どのような遠回りだ?」
「それが、瑞賢の遠回りは、見た目は遠回りなのですが、じつはたいして遠回りではございませぬ。銚子に入るよりは、よほど早い。しかも手間も格段にへります。ただし」
「ただし?」
「正月に新米が慾しいという贅沢は我慢していただきましょう」
「新米はいかんか」
「新米がいかんのではなく、冬の西風が尋常でないこと、先ほど語ったとおり」
「難船を誘う」
「はい。黒潮──黒瀬川を避けて大回りしても、残念ながら我が国の薄っぺらな船では冬の西風に耐えることはできませぬ」
「薄っぺら。おまえはなんでも言うなあ」
「言わぬと、有象無象が幕府の金をむしろうとたかりますがゆえ」
「わかった。つまり強烈な西風が吹く冬に船をだす愚を避けよと」
「然様でございます。海に米をくれてやるならば、冬に船をだせばよろしい。いままでもさんざん海神わだつみに新米を捧げてきておりますからな」
 瑞賢はいったん息を継ぎ、迫る。
「新米は少々遅れますが、私にまかせてくだされば、今までにない量を、今までにない早さと手間賃にて江戸に届けることができるようになります」
 瑞賢の自信に充ちた表情に、幕閣はされた。
「わかった。冬は陸奥からの廻船を止める。で、瑞賢よ、おまえの具案は?」
「これを御覧ください」
 瑞賢が広げたのは、房総半島、三浦半島、そして伊豆半島と伊豆大島を強調して描いた絵図であった。
「難所は避ける。犬吠埼は黒潮、親潮、そして黒生岩礁を避けて大廻りいたしましょう。そして船は江戸ではなく、伊豆は下田の湊に入る」
「伊豆、下田──大廻りというよりも、まったく違うところへ船を着けておるぞ」
 瑞賢は、犬吠埼近辺で難船しかけた船頭から重要なことを聞いた。
 船頭の船は房総半島西側で大風に遭い、岩礁に接近してしまい、舵がきかず、必死で帆を使ったという。
 どうにか岩礁から逃げた眼前に、噴煙をたなびかせている大島が見えた。
 御神火と称される三原山の噴煙を目指して航行すると大島は意外なほど近く、船は大島の湊に逃げこんだ。
 帰路は南西の風に乗って、苦もなく江戸に着いてしまった──と船頭は安堵がにじんだ苦笑いを瑞賢に向けた。
 陸奥の幕府領地米を廻漕するように命じられて思案に暮れていた瑞賢は、これだ! と膝を打った。
 思いたったら即行動である。実際に船を出させて房総半島を迂回、大島に入った。
 風待ちもほとんどなく、船頭の言うとおり南西の風に乗って、呆気にとられるくらい早く江戸にもどることができた。
 実際に船を走らせ、南西の風に乗るのにもっとも都合のよい場所をさがしているうちに瑞賢は、相模灘の潮流の動きに気付いた。
 上げ潮のときは左回り。
 下げ潮のときは右回り。
 この潮流の動きを利用すれば、さらに早く江戸に入ることができる。
 寄港地として三浦半島三崎はもっとも江戸に近いが、半島としては小さいので、房総半島の東西をなぞるように沿って廻らなくてはならない。座礁など、危難が増える。
 それよりも直線的に伊豆下田に船を入れて、風を待ち、潮流を勘案にいれたほうがよほど早く江戸に着くことができる。
 瑞賢は、このあたりを叮嚀ていねいに嚙み砕いて、説いた。
「船は危難が多い房総半島沖を大きくゆるやかな弧を描いて抜け、伊豆下田に入ります。下田では南西の風を待ちます。よい風が吹いたら、船首を反対方向に変えて出帆し、風に乗りましょう。船はすばらしい勢いで江戸に向かうことができます」
「直接、江戸に入ることができるとな」
「然様でございます。荷を川船に積み替えたり、荷車に米俵を積んで人力で江戸に運ぶといった面倒は、もはやございませぬ。この航路ならば安全にして早く、手数も省け、荷傷みも少ない」
 瑞賢は念を押す。
「伊豆下田に船を停め、風を待つだけです。幸い、下田湊から江戸湊に向かうには、大廻りして避けた黒潮の流れと、頻繁に吹く南西からの風が味方してくれます」
 瑞賢は、強い力のこもった眼差しで見つめる。
「名付けて外海江戸廻り。勝算は充分にございます」
「瑞賢。お主、実際に?」
「はい。幾度も船を走らせております」
「そうか。周到な奴よ」
「周到ついでに、船は伊勢、尾張、紀州のものを用いるようにお願い致します」
「理由は?」
「他のところの船にくらべて、はるかに堅牢なのです。長い目で見れば安上がりですし、なによりも沈みにくい」
「ん。相わかった」
「さらに」
「まだ、なにかあるのか」
「船脚の徹底を」
「ふなあし?」
「船体の水中に沈んでいる部分のことでございます。荷を積み過ぎれば、沈みます。ゆえに櫓床から水面まで六寸。これを確実に守らせるため、立務所にて厳格なる検査を」
「うむ。沈んでは元も子もないからな」
「船には御城米ののぼりを掲げさせましょう。この幟を掲げた船に対し、沿岸の諸侯代官その他、常に保護に当たるよう」
「うむ。それはよい考えじゃ」
「さらに武士が主君に命を懸けるように、は船に命を懸けておりまする。その妻子を保護する制度を設けていただきたい」
「そうだな。御政道の本道だ」
 幕閣の頭には、もっともらしいことを並べあげて長年、米の運搬を請け負ってきた船問屋、渡辺友以とももちの、したり顔があった。
 幕府は友以の提案した遣り方を疑いもせずにずっと採用してきた。
 海路を湊、あるいは銚子まで廻漕し、川船に積み替えて利根川を上り、さらに荷車や馬に積み替えて、ふたたび川船で江戸川を下って、三たび荷車に米を積んで江戸に運んでいたのだ。
 費用は甚大なもので、手間暇はかかるし荷傷みもひどかった。これらを仕方のないことと受け容れてきたが、愚かであった。
 この面倒な方法を提案したときの友以の得意げな面差しが泛ぶ。
 瑞賢は熱のこもった口調と目で迫るが、上から見おろすようなところは一切ない。
 しかも、切れる。
 これまでにない遣り方をさぐり、つくりだす力もある。
 瑞賢はこれから即座に江戸を発ち、阿武隈川の川底の様子などを調べ、いままで無駄が多く、滞りがちだった上流からの米の移送がうまくいく方策を練り、米倉をどこに建てるかなどを検討するというので、あえて幕臣は黙っていたが、新たな西廻り航路の構築を瑞賢にまかせるべし、と重臣に進言することを決めた。
 
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 ところで幕府には、金がなかった。
 振袖火事をはじめ、江戸は次々とよく燃えた。もちろん振袖火事ほどの大火にまでは到らなかったにせよ、度重なる大きな火災で幕府の財政は逼迫ひっぱくしていた。
 加えて人口増大による米需要の高まりも、幕府を抜き差しならぬところに追い込んでいった。
 酒税云々で前述したが、米の価格がそのまま物価の基準となっていた。米の値段が高騰しては、困るのだ。
 出羽の米所、庄内平野は最上川の流域には米沢、かみのやま、山形、天童、新庄各藩があり、加えて十五万石にもならんとする天領があった。
 幕府は東廻り航路でかっを成した瑞賢に、こんどは日本海側の海運航路、西廻り航路の整備を命じたのである。
 日本海側の陸奥から江戸や京、大坂に米を運ぶなら、まずは少々北上して津軽海峡を抜け、南下すればいいではないかと安直に考える者も多い。
 最短距離に取りつかれてしまっている輩である。
 経済をまわすには無駄をなくすことが必須であり、物を運ぶならもっとも短距離であることが重要である──幕閣にも、そんな安易な考えに取りつかれてしまっていた者がいないでもなかった。
 瑞賢は、幕閣の疑問に的確に答えることができた。
「日本海には対馬海流という海の流れがございます。対馬海流は日本海を北上し、その支流とでもいうべき一部が津軽海峡の西の口に押し寄せるのです」
 瑞賢が西をあらわすために掲げた左手を凝視して幕閣が問う。
「押し寄せる。それは急な流れか?」
「はい。尋常でない急流でございます。不可解なことに海というもの、高さが一定ではないのです」
「一定ではない?」
「なぜか日本海側のほうが海面が高い。ゆえに海水は必ず太平洋側に流れております。ですから津軽海峡、西の口に殺到した海水は、必ず太平洋側に流れるわけです」
 瑞賢は強い目つきで続ける。
「その流れ、馬の早足以上でございます」
 幕閣は黒眼を上にあげ、馬場での馬の速歩を脳裏に泛べる。
「そうか。意外な速さだ」
「はい。しかも、海の底のかたちも陸のかたちも複雑至極で、そこに潮の満ち引きが重なりますから、ただ単に西に一方的に流れるわけではなく、心の読めぬにょしょうのごとく複雑にして妖しい動きで渦巻くように西にはしるのでございます」
「わかってきたぞ。何故、あの海峡を廻漕に用いなかったか」
「はい。津軽海峡、西の口から太平洋に帆のついた船で抜けるのはたいそう難しいこと。潮の動きの複雑怪奇に加えて、順風、すなわち船に必須である追い風でございますが、それが偏東風、常に東から西に吹くかたよった風であるため、帆船は向かい風に抗って航海せねばなりません。ゆえに渡航可能な日は大仰に申せば、年に数えるほどしかございません」
「そうか。そんな難儀な海峡だったのか」
「津軽海峡の横断。もはや航海などと言えたものではございませぬ。陸奥三厩みんまやから蝦夷地に向けて発した船、海峡を渡れずに陸奥の太平洋側に漂着する始末。蝦夷地から本土を目指せば、逆に流され江差や亀田の半島に、つまり蝦夷地にもどされてしまうこと多々あります。漁師など、航海ではなく漂着だ──などと申しております」
「うーむ。わしの考えが浅かったわ」
松前まつまえ藩主の参勤交代、陸を行くのとちがって命懸け、御苦労なことでございます」
「瑞賢、おまえ、笑っておるな」
「まさか。苦笑いでございます」
「食えん奴だ」
 瑞賢は表情をあらためる。
「西廻り航路の話を」
「うむ。食えん奴だが、話は面白い」
「瑞賢めが考える西廻りは、とにかく沈まぬことを第一に考えた航路でございます」
「おまえの言いたいことはわかっておる。最短距離を狙って沈むよりも、多少時間がかかっても沈まず、確実に米を届ける」
「さすが!」
「わざとらしい」
 瑞賢は照れ笑いを泛べた。
 妙に稚気がある。
 幕閣は威圧のこもった無表情をつくっていた。あえて雑に瑞賢から目をそらす。
 内心は瑞賢からいじらしさやしおらしさ、そして切なさが伝わってきて、それらが何からもたらされるものか判然とせぬまま、結局は口許をゆるめてしまい、呟いた。
「育ちか──」
 自分のことを言われたのはわかったが、幕閣の呟きの意味を解さず、瑞賢はかまわず続ける。
「最上川の流域から集められた天領の御城米は酒田湊から積みだされて日本海を南下し、越前敦賀で陸揚げされます。陸揚げされた米は琵琶湖北岸の塩津でふたたび船に乗せられて湖上を大津まで運ばれ、大津からはまた牛馬に積まれて京へ──という長閑のどかと言いますか、無駄と言いますか」
「無駄と申したか?」
「いったい幾度積み替えればよろしいやら。米の傷みは尋常ではございません。それに、欠米。莫迦にならぬ量です。さらに、いったい幾度、蔵入れ蔵出しすれば気がすむことやら」
「慥かに手間がかかるなあ」
「はい。手間と人手がかかるということ、別の言い方をすると?」
「──費用がかさむ」
「然様でございます。米価は上がるばかり。いまは、米価が上がってはいけません。米価上昇、いまの幕府にとって由々しきこと」
「そうじゃ。頭の痛いことだ。ずっと正木にまかせてきたが、これではいかんということで──」
 瑞賢をギロリと見やる。
 笑顔で瑞賢は答える。
「正木茂左衛門殿も迷惑なことでございましたでしょう」
「迷惑。迷惑と申したか」
「はい。もっとも商人ですから、損をするような方法はとりませぬが、引き受けるにあたって逡巡があったのではないかと。なにしろ問題だらけでございます」
「瑞賢は幕府の遣り方に文句を付けるのか」
 瑞賢は涼しいかおで答える。
「商人請負制というもの、すなわち幕府の商人丸投げ。これはよろしくございませぬ。文句というならば、文句も言いましょう」
「──商人請負は何故悪い? 瑞賢も商人ならば、請け負って儲ければよいではないか」
「ことはそう簡単ではございませぬ。請負商人に船を雇わせ、事故がおこれば全責任をとらされる。これでは法外と言われる請負料をとらねばやってられませんな」
「やってられぬか」
「やってられません。船が沈めば、商人の全責任。この瑞賢も、同様の御下命を受けたならば、正木茂左衛門殿ほどの高額は要求しないまでも、それなりの額をほしゅうございます、と詰め寄るところです」
 幕閣の蟀谷こめかみに血管が浮きあがる。
「つい先頃もな、正木茂左衛門めが最上川の川下しの運賃、法外な値下げを押しつけてきおってな」
「知りませんでした」
「あまりにあまりと酒田と大石田の川船差配役が、運賃を上げてくれなければまともな川下りはできませぬと直訴してきた」
 幕閣はさらに吐き棄てる。
「これだけではないぞ。これだけではないのだ。商人という奴」
 瑞賢は手をあげて制する。
「それで御城米の廻米、この瑞賢にまかされて、幕府の直営にすることになされたという訳ですな」
「然様。もう商人はたくさんだ」
「されど、私も商人。幕府直営をまかされたとはいえ金儲けは商人の習性でございます。儲けがほしい。いくらでも儲けたい。その結果、どんどん積みます。早く送り届けて儲けを出したい、たくさん送り届けて儲けを出したい、と、あせるばかりに風やら潮やらを無視した無理な航海を船頭に強います」
 瑞賢はいったん息を吸い、強い口調で言った。
「結果、沈みます」
 幕閣は黙りこんでしまった。
 瑞賢も黙りこむ。
 いきなり幕閣が声を荒らげた。
「瑞賢。己で申すとおり、おまえも商人であろう」
「はい。金儲けが大好きでございます。けれど、それよりも物ごとを巧みにこなす工夫が大好きでございます」
 幕閣は大きく頷いた。瑞賢にまかせれば、うまくいく。
 瑞賢からしてみれば東廻り航路と同じようなことを喋らされて辟易していた。上の者とは学ばぬものであると内心、らしくなっていた。
 もちろん満面の笑みで、それを覆い隠す。
 
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 瑞賢に新たな西廻り航路計画を命じた幕府は、瑞賢が提出した航路図を即座に受け容れると、浦触をだした。江戸より羽州秋田迄浦浦湊中──と締められた、天領御城米を運ぶ船に関する触書である。
 難風の時分に、航路沿いにある湊にて万が一御城米船が破損し、米が濡れた場合、なくさぬように取り揚げて、主な湊に配された瑞賢の手代に注進して処理させること。
 浦役、すなわち入港税を徴収する湊であっても、これを取るべからずともあった。幕府の御城米船は、慣例であった入港税から逃れられるということだ。
 この触書は、すべてが瑞賢の指図だった。幕府直営という体裁だったが、実際のあれこれは瑞賢に全権委任のかたちであった。
 瑞賢は依頼を受けると即座に瀬戸内備前、讃岐などに人をやって海路の安全や湊の利便などを徹底的に調査させた。
 同時に廻漕のあれこれが整っている庄内にも人を派遣して最上川の状態や無駄などを調べさせた。
 とりわけ廻船の出発港となる袖浦に対しては徹底した調査がなされた。
 翌年明け早々、瑞賢の手代である雲津六郎兵衛が酒田に着いた。
 六郎兵衛はまだ調査すべきことがあると最上川を辿って山形に出向いた。
 瑞賢は手代の自己裁量にまかせて報告さえしっかりしていれば好きにやらせた。六郎兵衛の代わりに、酒田には梅津三郎兵衛が遣わされた。
 瑞賢から全体像を注ぎこまれた手代梅津三郎兵衛の指図によって、後に瑞賢蔵と称される御米置場の工事が始まった。
 御米置場の工事は庄内藩に命じられたが、この年は、春の兆しがとどく二月になっても余寒がはなはだしかった。
 吹雪が降りやまぬ中、酒田および郷村から延べ三万三百九十八人もの人足が動員されて作業にあたり、二月下旬には完成した。一ヶ月ほどの突貫工事である。
 瑞賢『蔵』と称するが、実際には蔵は設けられず、四万俵ののうを積みあげ、材木を枡形に組んだ上に米は野積みされ、かやわらで編んだ巨大なみので覆って雨除けとした。
 瑞賢蔵は、七万二千俵の米を保管することができた。
 二月下旬の御米置場、瑞賢蔵の完成と同日に、最初の御城米を積んだ川船が酒田の最上川河口に到着した。
 四月初旬には、瑞賢が息子の伝十郎をともなって酒田にやってきた。
 手塩にかけて育てた手代に万全の信頼をおいている瑞賢である。幕府がうるさいから、かたちだけの首尾の確認だ。
 町人であり商人にすぎない瑞賢だが、町奉行の中台式右衛門と御普請奉行の三浦七右衛門、そしてつけの細井松兵衛と仙場彦右衛門がかみしも姿で瑞賢父子のもとにやってきて、鄭重な挨拶をした。
 伝十郎は、驚いた。
 普段の父は蟋蟀こおろぎを育てるのに夢中になっていたり、みずから包丁をとり、あれこれ料理して皆に食わせて喜んでいるからだ。
 とりわけ昆布が大好きで、これは女性の味だといってはばからない。
 まだ女を知らぬ伝十郎には昆布のどこが女の味なのかわからない。
 伝十郎からすれば、台所を占領してしまう父を持てあまして苦笑している母に肩入れしたいくらいだった。
 江戸でも父は、まるで霊岸島の支配者のようであったが、威張るでもなく卑屈になるでもなくごく自然体で、喋れば無駄話ばかりだった。なぜ皆が頭を下げるのか、伝十郎にはよくわからなかった。
 お城にもよくばれる父だが、駕籠に乗って帰ればいそいそと前屈み、蟋蟀の世話をはじめて悦に入っているのである。
 伝十郎には見せない姿があるのだろうか。だが酒田で四六時中いっしょでも、いつもと変わらない。
 町年寄である二木九左衛門宅に世話になっているのだが、瑞賢は九左衛門が飼っている鶯に興味を示して、ことあれば鶯の話ばかりしている。
 江戸にもどるときは、鶯をわけてもらうことになって、なんとも嬉しそうだ。
「父上」
 と呼べば、ん? という雑な返事が返ってくる。
「父上は今回の大役、西廻り航路、どのような整備をなさろうと考えているのですか」
「もう米を集める場所はつくった。あとは運ぶだけだ」
「だから、どのように?」
「おまえも面倒な性根だなあ」
 瑞賢は渋面をつくり、随行した者に文箱をあけさせた。
 ほれ、これを読め──と覚書を投げてよこした。
 じつに下手な字だった。
 だが伝十郎がもっと幼かったころ、父はじつに端正な字を書いていた。あえて下手に見せているのかもしれない。ほんとうのところは、わからない。
 伝十郎は父の書いた西廻り航路の要点に目を通していく。
 
──回漕船は民間の船を雇い、日の丸の幕府御城米運搬船の幟を立てる。
 北国各湊はフナヤイ銀、すなわち入港税を課しているため、水主は税を免れようと、できうる限り湊を避けて航行する。この航海の無理が海難の一因でもある。
 以後、幕府御城米日の丸の幟を立てた船の税を免除し、船は必ず湊に寄って船体点検その他を確実にこなすこと。
──西廻りは遠く長くちょうせきの険悪さは東廻りの比ではない。ゆえに北国海運に熟達した香川は讃岐のあくじま。備前の日比浦。摂津の伝法、河辺、脇浜などの水主と船を雇うべし。なお船は堅牢精緻な塩飽島のものを用いることが最善である。
──いままで最上川の川舟の運賃を民間負担としてきたが、はしけぶねで廻船に米を積み込むまでの費用は幕府が負担する。
──官倉の多くが最上川上流に集中していることにより運賃支払いが上流の船持ちに偏っているが、今後は上流下流の区別なくひとしく恩恵にあずかるように計らう。
──倉庫使用料の削減と、万が一の火災から御城米を護るために酒田の海岸に米を一括管理できる専用の米蔵を設ける。
──廻船積み込みのための小舟や荷役などを庄内藩主酒井家に丸抱えさせているが、筋違いである。幕府が支弁すべきである。
──寄港地。
 一、佐渡の
 二、能登の福浦。
 三、但馬たじまの柴山。
 四、いわの温泉津。
 五、長門の下関。
 六、摂津の大坂。
 七、紀伊の大島。
 八、伊勢のほう
 九、志摩ののり
 十、伊豆の下田。
──寄港地には番所を設け、手代を置き、寄港地及び海路に沿う諸侯、幕府代官にも船の保護に当たらせる。
 
 伝十郎は覚書から顔をあげて問う。
「この部分の手代とは、うちの手代ですか」
「他に誰がいる。適材適所といいたいところだが、俺なんかより、よほどできる奴ばかりよ」
 真顔の父に伝十郎は不明瞭に頷いて、覚書の最後の部分に視線をはしらせる。
 
──長門下関湊は関門海峡の流れが急で、岩礁も多いので、響導船すなわち水先案内船を備え、万全を期す。
──暗礁が多い志摩鳥羽湊口は、菅島の白崎山中腹にて、毎夜、烽火をあげて航路の目標とする。
 
 伝十郎は脳裏にて覚書に記された寄港地から、西廻り航路を組み立てる。
 まずは最上川の水運を利して河口の酒田の瑞賢蔵に天領米を集積する。
 酒田で千石船に天領米を積み替え、日本海の沿岸から新たに整備した長門下関を抜け、波の穏やかな瀬戸内海を行き、紀州沖、そして遠州灘をゆるやかに迂回して伊豆下田湊に入り、江戸に至る。
 幼いころにさんざん唱えさせられたくにづくしとともに、日本国の国絵図を泛べて、瑞賢の航路を頭の中に描いてみた。じつに滑らかでたおやかともいえる曲線で、日本国を覆いつくして無理がない。
 完璧だ!
 自身も父の思案する姿を見習い、また各地に手配した手代の報告をまとめる役を受け持っていたので、伝十郎も安全かつ効率的な航路を模索していたのだ。
 父に対する感嘆の思いがりあがる。
 自身が現地に脚を運ばず、手代に指図して難所などを洗い出し、新たな西廻り航路を父は策定した。
 まちがいない。
 もっとも安全な航路だ。
 瑞賢は二木九左衛門と額を付きあわせて、雄の鶯が法法華経と鳴くのは雌を惹きつけるためだから、なんとも色っぽいことだ──などと相好を崩している。
 
.     *
 
 瑞賢が鶯に夢中になり、伝十郎が父の凄さに感嘆した五月初旬に、御城米を積んだ船がはじめて酒田湊を出帆した。
 七月には御城米を積んだ船が次々と江戸に到着した。
 船の損傷や沈没は一切なかった。
 船底に安置されているのだから当然ではあるが、積み荷である米の傷みも欠けもまったくなかった。
 東廻り、そして西廻りと航路安定を見事に成し遂げた瑞賢に対して、幕府は金三千両で報いた。
 
. 06
 
 航路に関わる仕事から十年ほどたった。
 瑞賢が唐突に船旅を思いたった。
 幕命による淀川などの河川改修工事を終えてすっかり出不精になってしまった父が、船旅である。
 できることなら、伊勢の船に乗りたいという。解せないと伝十郎は腕組みする。
 おまえも来るか──と誘われて、船に乗るということ以外、どこに行くのかもわからぬまま、伝十郎は委細かまわず付きしたがった。
 甲板に立った瑞賢は、霊岸島の屋敷にいるときとちがって腰が据わっている。
 伝十郎はさりげなく傍らに立った。
 洋上にでると、船は大きく上下左右に揺れた。すっかり白くなった瑞賢のびんが、強い海風に乱される。
 幸い伝十郎は船酔いもせず、黙って甲板に立つ父を横目で見る。
 潮を浴びているせいか、なにげなくくちびるを舐めるとやたらと塩辛い。伝十郎が脣を舐めていると、瑞賢がぼそりと声をあげた。
「蝦夷地へな」
「はい」
「行くのが夢でな。昆布はさぞや金になるだろうからなあ」
「されどこの船は」
「うん。亘理荒浜湊へ行く」
「それは」
「熊野灘。伊勢志摩だ」
 それきり瑞賢は口をつぐんでしまった。
 なにやら深い物思いにふけっている父のじゃまをせぬよう、伝十郎は静かにその場から去った。
 それを見計らっていたように、船頭が瑞賢に近づいた。
 瑞賢は沖合の藍色の海を見つめたまま、呟くように言った。
「世話になるな」
「いえ、世話になっているのは、こっちでさあ」
「居船頭か?」
「へえ。おかげさまで」
 居船頭とは、船主である船頭のことだ。
「紀州の船頭か?」
「然様でございます」
「俺も紀州の出だ」
「へい。重々承知」
「──海の藍色は、たまらんな」
 船頭は答えなかった。
 瑞賢も黙って目を細め、沖合の藍色を見つめている。
 海を見つめて小半時もたったか。瑞賢の方から声をかけた。
「用があるのか?」
 船頭は躊躇ためらいがちに瑞賢を一瞥した。なにか言いかけたが、結局は口を噤む。
 意を決した顔つきで瑞賢から水を向けた。
おううらの親方は息災か」
「──へえ。大層なお歳ですが、煙草が薬だそうです」
「あんないがらっぽいもん、よくうな」
「まったくでさあ」
 ふたたび沈黙が支配し、船にぶつかる波の音ばかりとなった。
「あの──」
 船頭の詰まった声に、瑞賢はゆっくり顔を向けた。
「藍殿ですが、死にました」
 含みもなにもない、けれど必死の口調であった。
 瑞賢は口をすぼめた。
「そうか。死んだか」
 下を向いてしまった船頭に問う。
「どのような病だった?」
「いえ」
「──そうか」
 それだけで、通じてしまった。
 瑞賢の耳の奥で、磯嘆きが響いた。
 胸を大きく上下させ、洋上に拡がる藍を凝視した。
「するとずみは?」
 瑞賢の問いかけに、船頭は嘆息しながら頷いた。
「正統は、もはやおりません」
 瑞賢も頷き返し、頷きあう情況でもないのだが──と、笑んだ。
 船頭は横目で瑞賢を見て、風をはらんでいる帆を見あげた。
 瑞賢が船頭の視線を追う。
「すばらしい勢いだな」
「へい。なにかが後押し、してくれているがごとくです」
 瑞賢は沖を睨みつけた。
「藍は、いつ死んだ」
「もうずいぶん以前です。寛永十四年のぼんの直後、早朝です」
 盂蘭盆の直後──。
 瑞賢二十歳。
 失意のあまり、江戸を離れたときだ。
「浜にな」
「へい」
「瓜や茄子が、ひしめきあうように打ち上げられていてな」
「瓜や茄子?」
 瑞賢は頬笑みながら頷いた。
 あれは死した藍の贈り物だったのだ。
 若き瑞賢のひしゃげ果てた憂鬱な心を悟った藍が活を入れてくれたのだ。
 あの瞬間、一気に心に焔が燃えあがった。
 瑞賢の笑みは泣き顔と区別が付かぬ。
 船頭は顔をそむけた。
 地上であったら居たたまれない間を、波の音が消してくれる。
 船頭は顔をそらしたままだったが、瑞賢が波間になにか投げ入れたような気がした。
 怪訝そうな船頭に気付き、瑞賢は恥ずかしそうに言った。
「百両をな──」
 結局、船頭は瑞賢がなにを言っているのかわからず、頃合いだと意を決して胸元より油紙に包まれたものを取りだした。
 瑞賢に向けて、黙って油紙を突きだす。
 船頭の切迫を感じとった。
 瑞賢は油紙の桐油の匂いを嗅いだような気がした。
 それは一瞬で、潮の香がすべてを消し去った。
 船頭は黙ってぎこちなく頭を下げると、瑞賢に背を向けた。
 油紙を受けとると、懐かしさが迫りあがった。藍が濡れると困ると、過所牒を油紙で叮嚀に包んでくれたのだ。
 いっしょに一文銭や四文銭が幾つも入っていた。
 持っている、すべての銭だったのだろう。藍の精一杯の心尽くしだった。
「そうだ。藍はぜんぶの銭を俺にくれた」
 あの小銭を何に使ったのだろうと思いを巡らす。
 まったく思い出せない。なにか食い物を買って腹に落としたのだろう。
 油紙を振る。
 かさりともいわず、とたんに波音も消え、瑞賢は烈しい耳鳴りを静かに受け容れた。
 ふっと短く息をつく。
 瑞賢は船首に向かった。
 油紙をひらく。
 四つにたたまれた古びた紙があらわれた。
 拡げた。
 血文字だった。
 瑞賢の喉がぎこちなく鳴った。
 赤みが幽かに残る、黒ずんだ拙い藍の字を凝視する。
 涙が頬を伝う。
 
   ぢうべいに
       いのち
         くれてやろう

次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】 
【第四回〈上〉】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。


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