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海路歴程 第九回<下>/花村萬月

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 明けない夜はない。
 だが、あたりが薄明るくなっても日輪は昇らなかった。灰色の雲が洋上の彼方で水平線と溶けあって、どこまでが海でどこからが雲か判然としない。超巨大な無彩色の椀をかぶせられているかのような閉塞感がある。
 おずおずとおやが具申した。
「船頭、もとどりを切ろう」
 神仏に祈り、すがるしかないというのだ。船頭が受ける。
「莫迦野郎、俺はな、雷様に焼かれちまって切る髷がねえんだよ」
 貞親は吹きだしそうになり、ぎこちなく横を向いた。こんな状況であっても、緊張は続かないのだ。気付いた船頭が肘打ちをくれてきたが、貞親は腰を引いてすっとよけた。
 船頭以外は髻を切って、神妙に手を合わせる。親司が代表して讃岐金比羅、加えて大坂住吉の両神社へ立願した。
「なにとぞかたあらわしたまえ」
 地方とは陸、あるいは島のことだ。とにかく地面に辿り着きたい。揺れと無縁な固い大地を踏みしめたい。
 己が魚であったならば、どれだけよかったことか。水中で息ができるならば、この情況はすべて引っ繰りかえって解決する。問題など、なにもない。そんならちもないことを真剣に思い巡らす始末だ。
 されど人は魚ではない。
 地面に縛りつけられているのに、なぜ、わざわざ大海原に出る?
 海が大好きなくせに、そう吐き棄てたい貞親だったが、一応は神頼み、神妙に手を合わせてこうべを垂れた。船頭はふてて頭を雑に掻きむしっただけだった。
 貞親の視線に気付いた船頭が、毒づいた。
「神仏がなんかしてくれたことがあるかってんだよ。もし神や仏がおわすんなら、なんで俺たちをこんな目に遭わせるんだよ。地味に昆布を運んでただけじゃねえか」
 親司がたしなめる。
「船頭。それを言っちゃあ仕舞しめえだよ」
 船頭の言う通りだと貞親は胸中で同意したが、もちろん黙っていた。
 水夫たちも内心は、船頭の言う通りだと頷いてはいたが、真の天罰が下ったら──と畏れ、それを口にすることはできない。
 船頭をいさめた親司にしても、昆布の天罰なら落雷という荒い遣り口で、もう充分に示したはずだと胸のうちで断じていた。なにしろ甲陽丸を破壊したあげく、知工ちくを焼いて炭にしてしまったのだ。
 さらに大波が八人もの水夫を攫っていったのだから、まさに神も仏もあったものではない。合わせた手が小刻みに顫えたあげく、親司は放心した。
 祈ったばかりなのに、皆の口から申し合わせたように深い溜息が洩れた。皆の口から、魂が抜け落ちていった。
 いるのかいないのか、神様はなにもしてくれないばかりか、苦難災厄ばかりを押しつけてくることをもっともよく知っているのが、船乗りだ。
 それでも、ようやく雲が切れた。
 陽が射した。
 船体に用いられている木材がふやけて膨張したせいか、海水の浸入はおさまっている。けれど貞親は気を抜かず、信頼できる水夫に船底を見張らせていた。
大灘だいなんも、ここいらでおさらばだろうな」
 碇捌の呟きに、貞親は舌打ちしそうになった。大灘とは山の見えなくなる沖合のことである。甲陽丸はまだ大灘の渦中にあるのだ。大灘から逃れられたと思い込みたい気持ちはわかるが、あまりにも能天気だ。
 気持ちを切り替えて、爨に米と水がどれくらいあるか調べるよう命じた。
「哥、ちょい鼠に食われちまったけど、糧米は二俵半ほどだ。水はかめに三つだ」
 ん、とごく短く貞親は頷いた。四斗入りの俵が二俵半。船頭がけち臭い男ではないことが幸いして思っていたよりもたくさんの米を積んでいた。
 甕に三つの水は命綱としてはいかにも心許ないが、その程度であることは誰もがしつしているから、あえて口にしない。
 それを見越して貞親は、いざというときは蘭引があるとさりげなく強調して、皆の不安を和らげるようにしてきた。
「鼠は捕まえろ。干物にして、いざってときに食う」
 鼠落しに仕掛ける餌がねえけど──と、爨がぼやく。罠に米を仕込んでも、鼠は俵に食いつくに決まっている。鼠対策に青大将さとめぐりを積んで可愛がっている船もあると聞いた。ない物ねだりをしても仕方がない。貞親は肩をすくめただけだった。
 うじいてしまった味噌も桶に三分の一ほど残っていたが、保存のために塩分がやたらときついので、そのまま口に入れれば喉の渇きがいやして苦しみが増すだけだ。けれど塩気を薄めるには、貴重な水を使わなくてはならない。難しいところだ。
 いまの生存者は五人、なにがあるかわからない情況だから充分と断言することはできないにせよ、思っていたよりも米は量が多かった。とりあえず腹拵えしようと貞親は爨に生米をもってこいと命じた。
「哥、炊かねえんですかい」
ほう。漂船してんだよ。水が命だ。研ぐのも炊くのもなしだ」
 皆は俯き加減で、ほんのわずかの味噌を添え物に、生米を黙々とみしめる。
 水分なしで口にしているので、奥歯で粉砕された米の粉が唇からパフパフと洩れでて煙幕じみて滑稽だが、正直なところなかなかに生米はしんどい。
 されど真水を控えて生のままの米を食うのは、難船における船乗りの暗黙の了解だ。致し方ないことである。
 歯の悪い老人に生米はきつい。せめて焼いて炒り米にしてやりたいが、蘭引で海水を蒸留するには火がいる。貞親は心の中で、親司に向かって申し訳ないと頭を下げた。
 薪はある程度重さもありかさむから、湊に這入ったときに手配する。もともとたいして積んでいない。それもあって米を炊くために船体を壊して燃やすなど、もってのほかだ。
 水も同様だ。大量に積んでも腐る。腐敗を防ごうと炭の欠片などを投入するのが習わしだが、気休めだ。腐った水を飲めば、烈しい下痢その他で命を落としかねない。
 季節によっては水甕に孑孑ぼうふらが大量に涌く。やがて船内をあの厭らしい羽音をたてて我が物顔で蚊がばっする。
 水夫たちは、眠っているときにまとわりつかれることもあり、孑孑をことのほか嫌った。洋上であるから睡眠不足はふとした瞬間に気抜けをもたらす。それは落水につながり、生死に関わる。
 そんなこんなで水は常に寄港地で真新しいものに替える。水の余剰がないのは、貞親もはなから織り込みずみだ。けれどそれを口にすれば、水夫たちが怯える。さりげなく水を制限するほかない。
 それにしても生の米は食いづらい。口中の水分が奪われ、渇ききってしまって米の甘味など欠片も感じられず、苦痛でしかない。
 それでも滋養をとらねば先々、覚束なくなる。皆、若干虚ろになりながらも奥歯で米を砕くことに集中した。
 味気なさの極致といった食事だったが、それでも唾に頼って無理やり呑みこんでいるうちに、胃の腑のあたりで火がぽっと灯ったような心持ちになった。
 最後に全員に椀に半分ほどの水が配られたが、まさに呼び水で、もっともっと飲みたくなって、よけいに渇してしまった。がぶ飲みしてえ──と嘆く水夫に、貞親は気付かぬふりをした。
 貞親は爨を一瞥する。これだけ米があるのだ。甲陽丸が沈みさえしなければ、当分は食う物に関しては煩わされずにすむだろう。つまり爨は食われずにすむ。
 いちど口にしただけで早くも食傷しているが、米がそれなりに残っていて、船体の浸水もあらかたおさまっているということで、皆の頬が安堵でゆるみはじめた。
 貞親も小さく息をついた。
 いままでの荒天が悪い冗談だったかのように、陽射しが落ちてくる。ただし意想外のうねりはおさまったが、波頭は強風に乱れている。船頭が問いかけてきた。
「なんか暑くねえか」
 暑いというのは大仰にしても、吹雪く箱館はともえ湊を思うと、信じ難い。
 ひょっとして朝鮮半島を過ぎて南方にまで流されているのか──と貞親は最悪の情況を胸中に覚え、窃かに眉をひそめた。
 船頭が肌脱ぎし、ぽこっと出た腹以外は思いのほか筋肉質の上半身を剥きだしにしてあかすりをはじめた。貞親も真似て掌で垢をすり落とす。強風さえもが清々しい。されど日に焼けると差し障りがでるのであわせ一枚だけを着込んだ。
 翌日の日の出、日の入りの日輪から判じるに、甲陽丸は未申なんせいの方角に流されている。気温の上昇も、それを裏付けている。
 薄雲程度でおおむね晴れ渡ってはいるが、ひたすら丑寅ほくとうからの強風が狙い澄ましたかのごとく吹きすさび、波頭を白く爆ぜさせ、有無を言わさずに甲陽丸の後押しをしている。北風のくせに妙に生暖かい。やはり南に流されているのだ。
 三日後に、かなり大きな島が望見できた。皆がざわついた。一同、青く霞む島影を睨みつけるように凝視する。若い水夫が切迫した声をあげる。
「伝馬で漕ぎだそう」
 肉眼でもかなり大きく見える。だが巨大な島であるからこそ、錯覚する。間近に見えて、距離を勘違いしてしまうのだ。
 貞親は薄ぼんやり見える島影を潮で曇った遠眼鏡で見据え、浜の松などの樹木その他の大きさから甲陽丸とのおおよその距離を推測する。七、八里以上ありそうだ。
「離れすぎてる。距離はまあいいとして、波が高すぎる。なんかあってほうりだされても、泳ぎ着くには荒れすぎてる。伝馬で漕ぎだすのは無謀すぎるぜ」
 失望と落胆が拡がったが、皆、伝馬に視線を据えている。ただ一人、船頭だけがいつもと変わらぬ口調で皆に念を押す。
「伝馬じゃ、無理な距離だって貞親は言ってんだよ」
「けど、船頭──」
「わかった。てめえには、あの端舟はしふね、くれてやる。とっとと漕ぎだしやがれ」
「いいのか、船頭。伝馬をくれるってのか」
「ああ。くれてやる。おめえらもすけといっしょに行きてえなら止めはしねえ。ただし引っ繰りかえっても、助けねえからな」
「そんな殺生な」
「殺生もなにも、なんかあっても助けようがねえんだよ。甲陽丸は風まかせなんだぜ。行きてえところに行けるなら、とっくにみよしをあの島に向けてらあ」
 貞親が静かに割って入る。
「気持ちはわかる。痛えほどわかる。なんせ陸が見えてんだからな。けど、この底意地の悪い風と海だ。漕ぎだせば間違いなく引っ繰りかえるよ」
 若い水夫は、半泣きだ。
 船頭は伝馬船を若い水夫に本気でくれてやるつもりだった。
 こういうときに人は、二つに分かれる。自らの手でかいを操って目的地に達しようとする者と、現状を維持する方を選ぶ者だ。
 自らの手で櫂を操るといえば聞こえはいいが、距離を勘案すれば、いまの風と波の状態で漕ぎだすのは無鉄砲すぎる。陸に上がりたいという慾に溺れて、前後の見境がつかなくなっているのだ。
「ありゃあ、対馬だろうか」
「たぶん、そうでしょう」
「だとしたら、ここいらはもはや俺たちの知らぬ海だ」
 あなこと関門海峡を経てひびきなだからおうなだに抜ける航路は無数にこなしてきたという自負がある。俺たちの知らぬ海という船頭の言葉に、一同項垂れた。
「このあたりは玄界灘だっけ?」
「玄界灘は、も少しみなみの方角でしょう」
「けどよ、玄界灘ってのは冬荒い海って評判だぜ。荒いんで有名じゃねえか」
 船頭が不規則に乱れている波を見つめて言い、貞親が即座に受ける。
「慥かにこのあたり、好天にもかかわらず荒れ放題ですけどね。東水道ってあたりじゃねえですか」
「それは知らん」
 貞親は笑みを返した。
「俺も偉そうに判じる材料を持ってるわけじゃねえですから」
「いや、おめえは頼りになる」
「頼りにならねえのは、対馬海流ってやつですよ。風に素直に負けちまいやがって、とても黒潮の支流とは思えねえ弱さじゃねえですか」
「支流なんて、そんなもんだろ」
 貞親は頷いた。幾度、心の底で対馬海流によって蝦夷地にまで押しもどされることをねがったか。せめて振り出しにもどりたい。昆布と無縁の初っぱなに甲陽丸をもどしたい。
 けれど支流なんて、いつだって、いざとなれば弱く頼りにならない。貞親は気を取りなおして言う。
「壱岐だったかな、対馬は壱岐と対だったんじゃねえですか」
「知らん」
 素っ気ない船頭に苦笑を返し、貞親はあらためて脳裏で、このあたりの絵図を思い泛べる。さすがに実際に航海する必要のなかった海域は曖昧模糊にして不明瞭だが、それでも集中して海と島の位置を組み立てる。
 たいしゅうが朝鮮半島寄りにあり、いっしゅう鎮西ちんぜいこと九州に近いところにある。
 唐突に貞親は胸苦しさを覚え、喉仏を上下させた。
 壱岐と鎮西の間の位置に甲陽丸があったなら、たとえ玄界灘の荒海に攪拌されてなぶられ難儀しようとも、九州に上陸さえできれば、間違いなく生き抜ける。
 甲陽丸の水夫は、誰も対馬や壱岐の島の姿を知らないのだ。あの大きな島は対馬であると判断したけれど、壱岐かもしれないではないか。
 都合のいいように考え、すがりつく気持ちは抑えがたい。けれど結局のところ、貞親は冷徹だった。
──望み薄だ。
 胸中で独白し、意図して濁りのない笑みをつくると、船頭が一瞥してきた。なぜか憐れみのようなものが刺さって、貞親は表情を消した。
 対馬が見えなくなって十日もすると、歯茎から血が出てきた。生米にほんのわずかの味噌しか口に入れていないせいだと、経験則が告げる。
 けれど、それが贅沢品である白米のせいであると察する者はいない。生米であるから多少はましともいえるが、ひたすら米しか食っていないのだ。滋養が足りるはずもない。
 船乗りは洋上において愉しみがないこともあり、米に執着する。白米を飽食したがり、黒米げんまいを忌み嫌う。よほど吝嗇けちな船頭でないかぎり、よい白米を船に積む。
 せめて昆布でもしゃぶることができれば多少はましな様子になったかもしれないが、すべて洋上投棄してしまい、欠片も残っていない。皆は食い物のことばかり考え、けれどよだれもまともに出なくなってきた。
 漂流していなければ、湊に立ち寄ってあれこれ食することができる。どこそこの湊のあれは美味かった──と追憶に浸り、がっくり首を折る。
 このころの航海は風待ちが多いこともあって案外、陸と接点があった。常日頃から決してよい栄養状態ではないにせよ、湊に入ればあれこれ喰らうことができていた。だが難船しているのだ。望む術もない。
 さらに日にちを重ねると、水夫たちは立ちくらみが酷くなって、目に見えて衰弱しはじめた。全身が異様な倦怠感に囚われて、それこそ息をするのも億劫だ。
 旺盛に動きまわるのは船頭くらいで、それに誘われるように貞親も船体の様子を監視したりするが、一段落すると立っているのもつらくなる。
 ほとんどの者はぼんやりたてに転がって、焦点の合わぬ眼差しで陸を希求する念仏のような呟きを繰り返すばかりだ。
 やがて歯茎だけでなく皮膚からも出血しはじめた。はくつまむと毛穴から血がにじむ。さらに申し合わせたように向こうずねの骨が痛みはじめて、難儀した。
 青物不足で壊血かいけつびょうを発症しているのだが、誰にもそんな智識の持ち合わせはないし、自覚したとしても慾しいものを手に入れることなどできない。
「船頭。ここはどのあたりかな」
「教えてやろう。海の上だ」
 貞親は力なく笑う。とうに酒もなくなってしまい、けれど酔いと無縁になった船頭はやたら元気だ。
「船頭は常日頃から酒でたっぷり滋養を貯めこんでたって寸法か」
「やっと、わかったか」
「わかりましたとも。俺たちが、どんだけ苦労させられてきたことかって」
「恨み言はなしだぜ」
 貞親は頷いた。耳打ちした。
「水が、もうない」
「そうか」
「蘭引で得られる水なんて、雀の涙だ」
「まいったなあ」
「まいりました。お天道だって、あの荒天が嘘みてえに晴れっぱなしの、照りつけっぱなしだ」
「降らねえなあ」
「降りませんねえ」
「俺の言うとおりだろ」
「へい。神も仏も底意地が悪すぎる」
 貞親の脳裏には、衰弱しきって挟に横たわったまま漠然と中空に視線を投げて死にかけている親司の姿があった。誰よりも叮嚀に金比羅や住吉に祈っていたのだが──。
「坊主は、涼しいお堂ん中でふんぞり返って偉そうに説教して、美味えもん食って水も飲み放題、それで試練に耐えろとかかしやがるわけだ。こうな説教しやがるわけだ」
「ったく殺意を覚えますぜ」
「うん。俺もぶっ殺してえよ。世の中を悪くしてるのは、徳を説く坊主共だ。ありゃあ仕掛者だよ」
 船頭は坊主が詐欺師であると言っているのだ。貞親は顔を歪めた。坊主も神主もまとめて甲陽丸に乗せて、水夫がどのような目に遭っているかを善男善女に見せつけ、教えてやりたい。
「おめえ、ずいぶん髭に白いもんが」
「お互い様ですよ」
「まあな。ちかごろは魔羅もぴくりともせんわ。本音を言うと鬱陶しさから逃れられた気分だよ」
「この期に及んで魔羅ですかい」
 痩せ細って毛穴からにじんだ血が固まった下膊を見やる。船頭ときたら、なにやら人としての仕組みが違うのではないかと貞親は苦笑する。
 壊血病は船頭もいっしょだ。蠅がいればたかっているところだろうが、あれほどはびこっていた蛆も味噌甕から消えた。甲陽丸は蛆虫にも見棄てられた。
「どこに流されてんでしょうね」
「俺なんて、いつだって流されっぱなしだから、どーでもいいよ」
「けど、みんなを助けなけりゃ」
「御大層な。死ぬ奴は死ぬ。それだけだろ。出来もしねえことを息むんじゃねえ」
「そりゃ、ま、そうですけどね。気になりませんか、どこに居るのかって」
「そりゃあ人並みに気になるよ」
「嘘こきやがれ」
「おいおい貞親よ、そりゃ、あまりと言えばあまりの言いようだぞ。おめえ、俺をなんか勘違いしてるって」
 貞親も船頭も、いや水夫の誰一人とて知る由もないが、このとき甲陽丸はさいしゅうとうの南南西およそ九十海里、東支那海の真っ只中まで流されていたのだった。
「もう生米なんて、見るのも厭だ」
「厭だよなあ、生米。さすがの俺様も鼻についていかん」
「その生米も」
「みんなで食えば、あんなにあっても」
「そういうことです」
 残っている米の量を考えると、意識せずとも眉間に深い縦皺たてじわが刻まれてしまう。船頭が頓着しない口調で言う。
「しかし青く見事に澄んだ海だぜ」
 慥かに北の海とは色がまったくちがう。貞親がぼやく。
「なんか好いことがねえもんかな」
「好いことか。貞親は気付いてなかったか。わにが甲陽丸を追っかけてるぞ」
「鰐!」
「うまくすれば、血をすすれるし、小便臭えけど肉も食える」
「早く言ってくださいよ!」
「怒んなよ。億劫じゃねえのか、鰐狩り。見るからにでけえし、なんか手に負えねえんじゃねえかってな」
「海ん中じゃ、食われるだけですけど、甲陽丸に引きあげることができれば」
「ん。なるほど。引きあげちまえばこっちのもんか。貞親がその気なら、やってみっか」
 叩き殺すための棒や錆の目立つ脇差などを持たせて、皆に付いてくるように命じ、貞親は船尾に立った。
 なるほど、甲陽丸を追う背びれが波間をはしる。貞親は青黒い背びれを凝視した。甲陽丸が沈むのを待ち構えているのか。
 水夫は鮫を鰐と言い習わす。鮫は甲陽丸を弄ぶかのように、まとわりついてくる。どこか戯れているようにも見える。
 どうしたら狩れるか、思案しながら背びれを見守っているが、鮫は信じ難い速さだ。
 海水が澄んでいるので間近をすり抜けるときに、全身が見えた。軀は背びれよりもさらに青黒い。体長は貞親の背丈を三つ合わせたほどもあるか。
 速くて、でかい。こんな代物を捕まえられるだろうか。貞親は船頭に囁き声で言った。
「投げ輪を拵えて、脇にきたときに引っかけたらどうだろう?」
「こんなの引きあげたら、甲陽丸をぶっ壊されねえか?」
「大きな声じゃ言えねえが、投げ輪にすんなり入ってくれるとも思えねえから」
「だったら無駄じゃねえか。腹が減るし、喉が渇くだけだ」
「──もう水はとっくに終わってんですよ。せめて血を啜りてえ」
「なんだよ、水、ぜんぶなくなったのか!」
「多少はあるけど、なんか変な油みたいのが浮いてて、あきらかに腐ってる」
「んなもん、飲めねえよ。よし、絶対捕まえよう」
 貞親は頷き、碇捌を呼び寄せて、碇の綱をもってこさせて投げ縄をつくった。
「鰐が逃げようとすると、グイッと締まるってえ案配だ」
「哥。素直に輪っかに入ると思うか?」
「思わねえ」
 碇捌が乾いた笑い声をあげた。めずらしく貞親が荒い声をあげた。
「ど阿房。見てたって捕まんねえよ。やってみなけりゃ、捕まんねえ」
「そりゃそうだ。富籤とみくじみてえなもんか」
 あまり乗り気でなかった船頭だが、富籤と聞いて会話に割り込んできた。
「そうだ。うめえこと言うなあ。その通りだよ。富籤は買わなきゃ当たらん。鰐は輪っかをつくらにゃ捕まえられん」
「船頭は影富だろ」
「まったくおめえは失礼な奴だな」
 船頭は手の甲の側で、碇捌の額をコツンと叩いた。
「慥かに俺は若えころ、江戸で胴元してたことがあるけどな」
「儲かったか?」
「そりゃ、もう」
「獄門はりつけにされりゃあ、よかったんだ」
「てめえ、そこまで言うか!」
 貞親はわざとらしく咳払いし、船頭と碇捌の馴れあった会話を止める。手早く垣立を手前に引き倒し、投げ輪を構える。
 鮫は海面に垂れた身縄を追っていたが、投げ輪に気付いた。
 船頭が大声をあげた。
「鰐のやつ、てめえから投げ輪に飛びこんできやがった!」

              〈以下次号〉

(次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回】
【第九回〈上〉】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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