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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)7 (下)/海道龍一朗

 一方、先に館を出ていた飯富昌景は、もとじょうまちの屋敷で叔父とたいしていた。
「叔父上、夜分遅くにお訪ねし、申し訳ござりませぬ」
「どうせ、眠れぬ夜を過ごしていたのだ。構わぬ」
 飯富虎昌は俯き加減で力なく笑う。
「源四郎、そなたがかような時刻に来たということは、すでに御屋形様へすべてを打ち明けてしまったということであるな?」
「さようにござりまする」
 昌景は胸元から何かを取り出し、叔父に差し出す。
 錦袋に包まれた短刀だった。
「叔父上、この身を裏切者とお思いになるのならば、これで御成敗くだされ」
 そう言った甥の顔を、飯富虎昌はじっと見つめる。
「このところ、毎夜毎夜、眠れぬままに……誰かが止めにきてくれぬかと思うておった。今夜、そなたが来てくれ、どこか、ほっとしている己がいる。若には申し訳ないが、やはり、御屋形様への諫諍には無理がある」
 飯富虎昌は静かな口調で答える。
「叔父上、そこまでお思いであるならば、なにゆえ若君をお止めしなかったのでありましょうや?」
「なにゆえであろうな。……お止めせねばと思いながら、お止めできなかったというのが正直なところだ。若と長く居すぎたせいかもしれぬ。子煩悩な父親と同じで、どうしても苦いことが言えなかった。傅役としては失格だな」
 そう呟いた叔父の顔が、一瞬で何歳も老けたように見える。
「では、思い留まっていただけまするか?」
「無用な足搔あがきはせぬ」
「ならば、これから一緒に若君のところへ行き、ご説得申し上げましょう」
「それには及ばぬ。そなたがこの身を捕縛し、御屋形様のもとへ引き立ててくれ。この諫諍はそれがし一人が企てたことだ。それを御屋形様に申し上げ、処罰していただく」
「何を申されまするか、叔父上」
「いま申した通りだ。こたびの話に若は関係あらぬ。奥近習たちも、目上であるそれがしの言に逆らえなかっただけだ。首謀者は己一人、それで充分であろうて」
 飯富虎昌は覚悟を決めた顔で言った。
「叔父上……」
「源四郎、すまぬな。これが最後の頼みだ。縄をかけよ」
「……縄など、かけられませぬ。これから一緒に館へ行き、御屋形様へ申し開きをしてくだされ」
「さようか……。では、身支度を調えるゆえ、しばし待っていてくれ」
 飯富虎昌は奥の室へ消える。
 しばらくして、おうを身につけ、さむらい烏帽子えぼしかぶる姿で戻ってきた。
 それから二人は、無言のまま躑躅ヶ崎館へ向かった。
 真夜中にもかかわらず、躑躅ヶ崎館の周辺で事態が急展開し始めていた。
 もう一人、この件で動いていた真田昌幸は、上輩の三枝昌貞の屋敷へ行き、事の次第を伝える。
「……御屋形様からお許しをいただきましたゆえ、とにかく長坂の兄様をお止めしなければ」
 昌幸の話を聞いても、まだ三枝昌貞は半信半疑だった。
「それはまことの話なのか?……昌国がさようなことを企むとは考えられぬのだが」
 昌貞は奥近習の中でも長坂昌国のひとつ歳上の上輩だった。
「三枝の兄様、急がねばなりませぬ」
「わかった。手勢を集めるゆえ、そなたはここで待て」
 三枝昌貞は兵を集めに行った。
 しかし、残された真田昌幸は居ても立ってもいられなかった。
 長坂家の屋敷も真田屋敷と同じく元城屋町にあり、さほど遠くはない。気がつくと勝手に足が動き、昌幸は長坂昌国のところに向かっていた。
 屋敷に着くと、あえて裏木戸へ回って声をかける。
「真田と申しまする。長坂昌国殿に面会をお願いいたしまする」
 すると、その声に応え、かんぬきを外して現れたのは思わぬ人物だった。
「な、長坂の兄様……」
 真田昌幸が驚きの声を漏らす。
 てっきりざっしょうか、女中が出てくるものと思い込んでいた。
 しかし、現れたのはまごうかたなき当人であり、しかも小袖にはかまをつけて帯刀している。
「昌幸か……」
 しょくをかざした長坂昌国が呟く。
「……そなたがここへ来たということは、昌世は参らぬということだな」
 長坂昌国は小さく嘆息を漏らす。
「とにかく、門の中へ入れ」
 上輩にいざなわれるまま、昌幸は裏庭へと入る。
 長坂昌国は手燭をちょうばちの上に置き、昌幸の方へ向き直った。
「昌世はそなたのところへ行ったのか?」
「さようにござりまする。昌世殿からすべてを聞き、御屋形様にお伝えいたしました。もっとも、御屋形様はすでに飯富三郎兵衛尉殿から事の次第をお聞きになっており、それがしがお伝えするまでもなく、すべてをお知りになっておりました。長坂の兄様、これより一緒に御屋形様のところへ行ってもらえませぬか」
「なんのためであるか」
「こたびのことが謀叛ではなく、御屋形様をお諫めするためのことだったと申し上げてくださりませ。その後におとなしく縄目を受け、沙汰をお待ちくださるよう、お願いいたしまする」
 真田昌幸は両手を膝に置き、深く頭を下げる。
「さようなことをする気は、さらさらない」
「なにゆえにござりまするか。どうか、事が荒立つ前に御屋形様に申し開きを」
「この身は間違っておらぬ。たとえ縄目を受けたとしても、その信念は揺るがぬ」
「されど、それでは義信様にまでとがが及んでしまいまする」
「義信様も間違ってはおらぬ。逆に、御屋形様が正道を見失われているのだ。それを直にお諫めしようとしているだけのことではないか」
 長坂昌国はあくまでも強硬だった。
「……だからとて御屋形様の高遠城行きを襲い、力ずくで諫諍することが正しいとは思えませぬ。近習の節義にもとりまする」
 昌幸は苦しげに声を振り絞る。
「近習の節義に悖る、だと?」
 長坂昌国は口唇の端をゆがめる。
「それがしのあるじはすでに義信様だ。主君の行末に害が及ぶような事柄を見過ごすような真似はできぬ」
「御嫡男とはいえど、御屋形様が義信様の主君であることに変わりはありませぬ。いくら主の行末を案じたからとはいえ、主君に背くのは本末転倒にござりまする。われらは御屋形様に忠義を誓った奥近習ではありませぬか」
 その言葉に、上輩の顔色が変わる。
「長坂の兄様の申されることがすべて正しいとしても、もしも御屋形様にお聞き入れいただけなかった時は、いかがいたすおつもりでありましたか?」
 思いもよらない問いに、長坂昌国は眉間に縦皺たてじわを寄せて黙り込む。
「兄様も御屋形様の御気性はご存知のはず。力ずくの諫言など受け入れる御方ではござりませぬ。その時はいかがいたすおつもりでありましたのか!」
 何をおいても、それだけは訊かねばならなかった。
 しかし、上輩の答えはない。
「答えられぬということは、御屋形様を手に掛けてでも本懐を遂げるつもりであったということではありませぬか……」
 真田昌幸はひとりごとのように呟く。
「ならば、それは諫言でも何でもありませぬ! 手前勝手な謀叛ではありませぬか!」
 左足を引き、半身になって叫ぶ。
「言いたいように言うがよい」
 そう言いながら、長坂昌国が愛刀のつかに手をかけた。
 その時、後方の裏木戸で騒然とした音が響き、続いて怒声が聞こえてくる。
「動くな、そこの者ども! おとなしく縄目を受けよ!」
 かっちゅうを身につけた三枝昌貞が駆け寄り、武装した兵たちが二人の周りを囲む。
 真田昌幸が振り返ると、三枝昌貞が龕灯がんどうを差し向ける。
「ん?……昌幸か?」
「はい」
「待てと申したではないか?」
「……申し訳ござりませぬ」
「仕方のない奴め」
 三枝昌貞は長坂昌国の方に向き直る。
「昌国、柄から手を離し、刀を外せ! 手向かいすれば、容赦せぬぞ!」
 その勧告に従い、長坂昌国は観念して帯刀を解く。
「昌国、おまえともあろう者がなにゆえ……」
 三枝昌貞が歩み寄り、小袖の襟を摑むが、それ以上言葉にならない。
「……昌貞殿、御屋形様の御機嫌しか眼に入らぬ方々には、われらの思いは一生わかりますまい」
 長坂昌国が答える。
「そなたも御屋形様しか見ておらぬ奥近習の一人であったのではないか」
「われらはもう、じゃれ合う仔犬の如き奥近習ではありませぬ。立場が変わり、お役目が変われば、考え方も変わりまする。大人になれば、当たり前のこと」
「それはうぬの保身にすぎぬ!」
 三枝昌貞は怒ったように吐き捨てる。
「保身ではありませぬ。家臣としての信念にござりまする。織田との盟約は、必ずや武田家にわざわいをもたらしまする。その判断のもとに、われらは一命を賭して御屋形様をお諫めいたすと決めました。それが、われらの考える信義! 家臣としての真の忠節!」
 長坂昌国はきっぱりと言い切った。
「その話を御屋形様の前でもするつもりか、昌国」
「信念は曲げませぬ」
「……ならば、もう何も言わぬ」
 三枝昌貞は長坂昌国を捕縛し、真田昌幸とともに躑躅ヶ崎館へ引き立てた。
 朝方になり、義信に加え、他の近習たちも、馬場信房の討伐隊に捕縛される。
 謀叛ともなりかねなかった信玄への諫諍は、こうして事前に食い止められた。
 荷担した者たちは牢に入れられ、馬場信房によってそれぞれの詮議が始まる。
 一連の話は、あっという間に甲斐の府中から領国の隅々にまで広がり、家臣たちの間に大きな動揺をもたらした。
 何よりも騒動の主謀者が世継であるはずの義信であり、重臣筆頭の飯富虎昌が関与し、信玄の奥近習たちが数多く名を連ねていたことに衝撃が走る。
 家臣たちは、新たな加担者が出ることに戦々恐々とし、詮議の様子を注視していた。
 その間も、諏訪勝頼と織田家の縁談は進められ、九月九日には高遠城で信玄と織田忠寬が面会した。
 これを受けて婚約の儀が行われることとなり、事実上、武田家と織田家の連衡が成立した。
 暦が十月に入り、馬場信房から信玄に詮議の結果が報告される。
「御屋形様、それがしが話を聞きましたところ、兵部殿をはじめとして荷担した者たちすべてが、義信様の関与を否定しておりまする。特に、兵部殿は頑として『主謀者は、己一人。すべての咎は己にある』と申されておりまする」
「……兵部らしいな」
 信玄は小さく溜息をつく。
「されど、この件はさような言訳が通じるほど、軽い出来事ではない。義信は何と申しておる?」
「義信様は黙して語らぬままにござりまする」
「さようか。ならば、まず余が兵部と直に話してみよう」
 信玄は自ら再詮議をすると決めた。
 数日後、密かに飯富虎昌との面会が行われる。
 もちろん、この重臣の縄目は解かれていた。
「兵部、やつれたな」
「……御屋形様、まことに申し訳ござりませぬ。この兵部、覚悟は決まっておりまする。容赦なき御沙汰を」
「さような話が聞きたいわけではないことを、そなたが一番よく存じているであろう。民部、われらを二人だけにしてくれぬか」
 信玄は馬場信房に命じる。
かしこまりましてござりまする」
 馬場信房は護衛の兵を引き連れ、室から退出した。
 信玄は小さく溜息をつき、飯富虎昌を見つめる。
「兵部。どうやら、あまりにも長く、そなたに義信を押しつけ過ぎたようだな」
 意外な言葉を聞き、虎昌がたじろぐ。
「お、御屋形様……」
「それについては、申し訳なく思うておる。余と板垣いたがきもそうであったが、互いの信頼が深まるにつれ、血のつながった親子以上に情が移ってしまう。余も板垣にはずいぶんと我儘わがままを言ったものだ……」
 信玄は己の傅役だった板垣信方のぶかたのことを思い出す。
 実父の武田信虎とは心が通わず、幼い頃から苦しんできた信玄を、父親以上の父性で包んでくれたのが傅役だった。
 もちろん、重臣たちの謀議により、実父を駿府に隠居させた時も、板垣信方は重臣たちの先頭に立っていた。
 ――あの場には、板垣らと一緒に、兵部も一緒にいた。ならば、こたびはまったく状況が違うとわかっていたはずだ。それなのに、兵部は……。
 力ずくでの隠居もいとわない諫諍が画策されていたことに、少なからず信玄は違和感を覚えていた。
「兵部、こたびのことについて、まことの話が聞きたい。なにゆえ、義信はかような暴挙を企み、そなたが黙認したのか?」
「……御屋形様、こたびの件、若の発案ではござりませぬ。首謀者は、それがし一人。荷担した家臣たちも、目上であるそれがしの言に逆らえなかっただけにござりまする」
「兵部、余は本音と申したはずだぞ。さような建前はいらぬ」
「……建前では、ござりませぬ。まことに、それがしが煽動せんどういたしました。申し訳ござりませぬ」
 飯富虎昌は両手をついてびた。
 ――あくまでも己一人で責任を背負い、始末をつけるつもりか……。
 信玄は頑固な重臣を見つめる。
「ならば、理由を申せ、兵部。それほど、織田との縁組が邪魔であったか?」
「……懼れながら、逆にひとつだけ、お訊ねいたしとうござりまする。なにゆえ、盟友の今川家を見限らなければなりませぬのでありましょうや?」
「そのことか……」
 信玄は素っ気なく答える。
「武田の盟友ならば、織田の如き成出者に負けてはならぬからだ。それが理由では、不足か?」
 その返答に、虎昌は眼を見開く。
「……さ、されど、その成出者と手を組めば、当家のほまれが地に堕ちるのではありませぬか」
「手を組むとは、申しておらぬ。これは盟約ではなく、単なる縁組だ。そして、成出者には成出者なりの使い方がある。それだけのこと」
 冷徹な主君の答えに、飯富虎昌は言葉を失った。
「義信は黙したまま、何も語らぬそうだ。されど、やはり造反の理由は今川家のことに尽きるようだな。あれほどこだわるなと申したのに、なんと愚かなことよ……」
 信玄は深い溜息をつく。
「兵部、そなたはあかぞなえ衆を率いる重臣筆頭であり、余にとってもかけがえのない将だ。さりとて、そなたの罪を不問にすることはできぬ。沙汰が下るまで、おとなしく待て」
「いいえ、御屋形様。それには及びませぬ。すでに肚は括っておりまする。どうか、それがしに恥をそそぐ機会をくださりませ」
「機会を与えたならば、何とする?」
「己が起こした不祥事の始末は、己が手でつけとうござりまする」
 飯富虎昌は罪を償うために自害する覚悟を決めていた。
「その代わりに、義信様や他の家臣たちに重い罰が下されぬよう、慈悲深き御沙汰をお願いいたしまする」
「考えておく」
 信玄は小さく頷き、立ち上がった。
 それから、牢の外で控えていた馬場信房に耳打ちする。
「しばらく様子を見た後、兵部に脇差を差し入れしてやれ」
「……御屋形様」
「あの様子では、己の舌をみ切って死にかねぬ。せめてもの情けだ」
「承知いたしました」
 馬場信房は苦い表情で頭を下げる。
「あとのことは頼む」
 信玄は厳しい面持ちで立ち去った。
 この面会があった五日後、永禄八年(一五六五)十月十五日に、「すべての咎は、この一身にある」と言い残し、飯富虎昌が自害した。
 重臣筆頭の自死の一報は家中を揺るがし、家臣たちのさらなる動揺を誘った。
 これを受け、信玄はとうこうの座敷牢に囚われていた義信を訪ねる。
「義信、兵部が自害した。すべての咎は己だけにあると言い残してな。そなたの助命を嘆願するためだ」
 それを聞いた義信は、奥歯を嚙みしめて黙っていた。
「何か、申すことはないのか?」
 そのように問われても、義信は無言のままだった。
「……何のための意地であるかは知らぬが、せめて手だけは合わせてやれ」
 信玄が諦めて立ち去ろうとした時、義信が呟く。
「……間違いだとは、思うておりませぬ」
「何がだ?」
「……兵部も、それがしも間違いを犯したとは、思うておりませぬ。織田との縁組は必ずや当家に災いをもたらしまする」
「この期に及んで、まだ、それを申すか!」
 信玄の眉間に深い縦皺が刻まれる。
「一命を賭し、父上に直諫いたす覚悟でおりましたゆえ、信念を曲げることはできませぬ。間違いは、織田との縁組にござりまする」
 義信はきっぱりと言い切った。
「兵部の自害を、そなたは犬死にするつもりか!」
 さすがに怒りを露わにし、信玄が怒鳴る。
「何と言われましても、曲げられぬものは曲げられませぬ」
「倅といえども、もう許す理由はなくなったぞ! そのねじ曲がった考えが変わるまで、ここで反省しておれ!」
 信玄はそう言い放ち、座敷牢を後にする。
 そして、義信を東光寺に幽閉することを決心した。
 重臣筆頭の自害、嫡男の幽閉をはじめとし、この騒動に荷担した者たちはすべて処罰される。
 武田一門にとっては、この上なく苦い幕引きとなった。
 家中の動揺を鎮めるため、信玄は残った家臣たちに改めて忠誠を誓うしょうもんを求め、それをちいさがた郡の生島足島いくしまたるしま神社に奉納すると決めた。
 暦が師走しわすに入った頃、信玄は飯富昌景を躑躅ヶ崎館に呼ぶ。
「源四郎、兵部のことはまことに残念であったが、そなたのおかげで謀叛を未然に防ぐことができた。礼を言うぞ」
「勿体なき御言葉にござりまする」
「もう一人、余にこの件を注進してきた昌幸とそなたに、褒美を与えようと思うておる」
「……いいえ、いただけませぬ」
「なにゆえか?」
「昌幸はともかく、この身は義信様の寄合に列席しておりましたゆえ、お咎めを受けることはあっても、褒美をいただける分際ではござりませぬ」
 飯富昌景は固辞する。
「義信の寄合に参加したことが罪なのではない。謀叛紛いの諫諍に荷担したことが罪なのだ。それゆえ、遠慮なく受けとるがよい」
「されど……」
「そなたには兵部の代わりとして赤備衆を率いてもらう」
「えっ!?」
「今は兵部を失って動揺しているが、赤備は武田最強の総勢千騎だ。そなたがまとめ直し、さらなる精強をめざしてほしいのだ。ついては、そなたも飯富姓のままでは、何かと肩身が狭いであろう。これを機に、改姓してみぬか」
「……改姓、にござりまするか?」
「さようだ。名門のひとつである山縣やまがた家の名跡をぐがよい。山縣昌景として新たな赤備衆の大将となるのだ」
「……山縣の名跡……赤備の大将」
 よわい三十七の昌景にとって総勢千騎の将は大抜擢だいばってきだった。
「こたびの起請文には、新たな名をしたためるがよい」
 信玄は笑顔で言い渡す。
「あ、有り難き仕合わせにござりまする」
「これからも精進せよ」
 信玄は飯富昌景を激励した。
 そして、もう一人の功労者、真田昌幸を呼ぶ。
「こたびの褒美として、そなたはとう家の名跡を嗣ぐがよい。武藤はわが母の実家にも通ずる誉れの高い家門であり、兵衛尉を極官とする家柄だ。それゆえ、こたびの起請文には武藤兵衛へえのじょう昌幸と署名いたすがよい」
 主君から言い渡された突然の改姓だった。
「それがしに新しきうじかばねを……」
「さようだ」
「はっ。有り難き幸せにござりまする」
 真田昌幸は両手をついて平伏する。
 その時、脳裡でひらめいたことがあった。
「……御屋形様、懼れながら、お願いしたき儀がござりまする」
「申してみよ」
「この身に一日だけお暇をいただき、曽根昌世殿を迎えにいかせていただけませぬか」
「孫次郎を?……そなた、居場所を知っているのか」
「はい。甲斐と相模さがみの国境にいる親戚の処に身を寄せておりまする」
「さようか……」
 信玄は眉をひそめ、昌幸を見つめる。
「昌世殿はこたびのそうじょうに荷担しておらず、この身に内情を知らせてくれました。これ以上、奥近習のともがらを失いとうござりませぬ。どうか、寛大なる御沙汰を」
「うむ……」
 信玄は半眼の相になり、微かに顎を上げる。
「……よかろう。許す」
「有り難き仕合わせにござりまする」
 真田昌幸は心底からうれしそうに答えた。
 主君に許しを貰った翌日、昌幸はすぐに甲斐と相模の国境にある都留つる郡へと向かい、曽根昌世の親戚の屋敷を訪ねた。
 上輩に事情を説明し、許されたことを伝える。二人はそろって府中へ戻り、曽根昌世は咎めなしで再び信玄に仕えることを許された。
 こうして家中を震撼しんかんさせた諫諍の騒動はしゅうそくした。
 しかし、嫡男の義信は東光寺に幽閉されたままだった。
 その風聞はやがて東海道にまで伝わり、今川氏真を不安にさせた。


次回に続く)

【前回】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。


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