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海路歴程 第三回<上>/花村萬月

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 あったりき、
 しゃりき、
 くっるまひきぃ~。
 
 すすで黒く染まって金気漂う建屋から、威勢のいい胴間声が響いた。
 きんの大仰なのぼりがはためくつぎ配下の鑄物師の仕事場である。
 じゅう右衛もんは滋養が足りずに荒れ果てひび割れた唇を歪める。
 俺は、その車力で車曳きだよ──と吐き棄てる。
 いや、車曳きではない。
 曳いてない。押しているだけだ。
 車力の一番下っ端、あとおしにすぎない。
 泥濘に足を取られつつ、自嘲気味に全力でちからぐるまを押す。
 職人町を抜けるときは、鋳物師たちのように空元気に近い陽気な声でやりとりする職人たちもおり、紐帯の強さに羨望を覚える。
 もちろん職人仕事の種類によっては、静まりかえっている場合もある。静寂から十右衛門は職人たちの集中を感じとり、それはそれで切なくなる。
 職人たちは技巧を用いて物をつくりだし、その腕に自負と誇りをもっている。十右衛門には、なにもない。帳外者の身分を思い知らされるばかりだ。
 目に入った汗で泥色の地面が歪む。
 自棄気味に厭な思いを振り棄てる。
 んんん──と息んで、全力で押す。
 泥沼と化した地面のせいで荷車はまともに進まず、鋳物師の建屋の前でほぼ立ち往生してしまった。
 ながえをとる兄貴分も全力を込めているので、いつもの威勢のいい掛け声も消えている。
 兄貴分と十右衛門の荒い吐息が重なる。
 泥で摩擦が喪われているから、気を抜くと荷車は横を向く。
 視野に泥濘にめり込んだ車輪が映る。
 じわりと荷車が傾く。
 今日の荷は常軌を逸した重量だ。滑りはじめたら、まず制御はきかぬ。
 兄貴分と心を合わせて必死で荷車の向きを保ち、前進させようと足掻く。
 
 御免、素麺、冷や素麺。
 
 御免と言いながら、謝る気などさらさらなく、おちゃらかして軽くいなす声が響き、鋳物師たちの笑い声が炸裂した。
 いい気なもんだと十右衛門は唇を歪めた。伊勢では──御免、素麺、茹でたらにゅうめんだった。
 伊勢は素麺が名物だった。冬に百姓がせっせと手延べした。
 江戸では煮麺を食わないのだろうか。それとも気が短いから、茹でたら煮麺を言葉が少ない冷や素麺につくりなおしたのだろうか。
 我に返る。御免素麺などどうでもいい。己の立場に思いを致す。
 腰に力を入れなおし、押す。
 十右衛門は兄貴分のように力者として独り立ちしているわけではないのである。車力でもないのだ。
 立ちん坊の後押という無様な境遇だが、荷車に貼りついているからこそ無宿狩りからも目こぼしされている。
 十右衛門は荷車が通るのを道端で待ち、拾われ、荷車のケツに貼りついて、駄賃目当てに全力で押すばかりである。
 自身の身分が改めて身に沁みて、十右衛門は集中力を取りもどし、泥濘から脱出するために全力で押す。
 重い。
 異様に重い。
 むしろ叮嚀ていねいに梱包されているので積み荷がなにかは断定できないが、長方形に整えられた石材だろう。
 重い。
 必死で押しているが、口中はカラカラで、臀や太腿の筋肉が引きれる。荒い息をついているうちに、胃の腑がひっくり返って口から飛び出そうな錯覚がおきる。
 長雨があがったおかげで、こうして仕事があるわけだが、泥濘ぬかるんだ地面が底意地悪くじゃまをする。
 あふれだしたどぶから、無数に絡みあった蚯蚓みみずがにゅるにゅる拡がって、十右衛門の足をくすぐる。
 蚯蚓を足から落としたいが、力を抜くわけにはいかない。蚯蚓を見ないふりをした。
 上目遣いで積み荷を一瞥いちべつする。
 よくぞここまでこれほど重い荷を積みあげたものだ。
 均衡を崩せば、横転まちがいなしだ。
 崩れた積み荷に捲きこまれれば、命の心配をしなければならない。
 いまできる唯一の安全策にして解決策は、とっとと泥沼から抜けでて、積み荷を届けてしまうことだ。
 十右衛門は泥濘に足を取られて滑らぬよう気配りしながら、全力で力車を押す。
 蟀谷こめかみが裂けそうに脈打つ。
 前屈みで押しながら、否応なしに耳に入る職人たちの道具の立てる音やたわいないやりとりに耳をそばだてる。十右衛門の軀のなかで、耳だけが別の生き物であった。
 居職共の駄洒落まじりのやりとりを背後に聞いて、どうにか己を保つ。
 
 よっこい庄一。
 
 胸の裡で偶然『よっこいしょ』と力んだ瞬間と重なった。
 十右衛門は吹きだしてしまった。
 とたんに力車は泥に車輪をとられて滑りはじめ、横にかしいだ。
 こしきが軋み、がたわむ。
 積み荷がずずっと動いて、重心が右側に移った。
 力車は烈しく揺さぶられ、傾いたまま斜めに滑っていく。しがみつく十右衛門はとんでもない勢いで持ちあげられ、足が地面から離れた。
 右往左往しつつも、どうにか横転はまぬがれた。
 放心し、息をついた。
 ゴッ!
 十右衛門は加減せずに殴られた。兄貴分の拳は岩石じみていた。
「てめえ、力を抜きやがって」
 怒気を放ちながら続ける。
「抜いたら滑るって、あれほど言ったじゃねえかよ」
 兄貴分の怒りはおさまらない。
「俺はてめえみたいな無頼とちがって、所帯持ちなんだよ。食わせなくちゃならねえかかあがいるんだよ。荷に潰されたら一体全体どーしてくれんだよ!」
 殴打が強烈だったので一瞬気が遠くなって泥に倒れ込んだ十右衛門であった。両手両足をついて、泣き顔をあげた。
「すんません、兄貴、すんません」
「すんませんですんだら、すんませんはいらんわい」
 すんませんはいらん? なにかに懸けているのか。十右衛門はわからず、こんな状況にもかかわらず怪訝さが頬にでた。
 無理やり引きおこされた。
 また、殴られた。
 派手に転がった十右衛門に舌打ちをくれ、兄貴分は冷たく言い放った。
「てめえ、ここに棄ててくぞ」
 棄てていかれたら、駄賃もなしということだ。昨日も今日もなにも食っていない。十右衛門は必死で押していたのだ。
 どう執りなすか、泥にまみれて十右衛門は思案した。すべてが水泡に帰してしまえば、十右衛門は殴られ損の働き損だ。
 けれどなにもうかばない。
 かわりに自暴自棄が肌をはしっていく。
 殴られるのは、初めてではない。江戸に着いてから、もう際限なく殴られている。
 伊勢では父親に殴られ、江戸では他人に殴られている。
 けれど、今回の殴打はきつかった。
 殴られた直後は衝撃だけで痛みも感じなかったのだが、顔全体が熱をもっていると感じたとたん、激痛が後頭部にまで突き抜けた。
 一発めが左、二発めが右目。
 ただし二発めのときは心構えができていたから、大げさに飛んで拳の威力を削いだ。
 それでも、じわじわ両目の視界がせばまっていく。目蓋が腫れあがって前が見えなくなっていく。
 俺はどうしたらいいんだ──奇妙に醒めた声が頭蓋内にこだまする。厭らしいことに周期をもって迫る痛みにあわせて内面の声がする。
 限界まで追い詰められているせいで、もはや涙はでない。心は空虚となり、過去の厭な思い出ばかりが渦を捲く。
 ゴミ漁りにも縄張りがあって、十右衛門は完全に排除されていた。乞食たちからも足蹴にされてきた。
 十右衛門の視野に、傾いた荷車の車輪が映った。冷えびえと覚醒する。これは現実だ。ここでほうりだされたら、運が悪ければ飢え死にする。
 昨日も今日も雨水を飲んだだけだ。伊勢屋稲荷の牀下ゆかしたに潜りこんで野犬に襲われるのを恐れながら寝た。
 全ての力を込めて荷車を押して、もはや十右衛門に力は残っていない。完全に使い果たしてしまった虚脱が背骨を崩す。
 肉体の限界とともに、残された感情は自嘲だけだった。
 もう、立てない。
 立ちたくない。
 人情?
 そんなものなど、どこにもない。
 しょちょうを懐に洋上を行き、意気揚々辿り着いた江戸だが、人々は冷たかった。
 人別帳から外れて、江戸に着いても身寄りはおろか知る人とてない十三歳の十右衛門である。しかも十五歳以下の無宿者は非人手下に落とされるのだ。
 兄貴分はまだ怒りがおさまらぬ険しい眼差しで十右衛門を見おろしている。
 それに気付いたとたんに、現実がもどってきた。
 ここは兄貴の脚に縋って謝罪するところだが、二発殴ることはねえだろう──と、十右衛門にも反骨の気概が湧きあがって、見えない目で兄貴を睨みつける。
 兄貴がしゃがんだ。手がのびた。
 ぐいと腫れあがった目蓋をひらかれた。
「あいてっ、いててっ、いてっ」
 情けない声をあげ、それでも十右衛門は無理やり拡げられた目の奥で、兄貴を睨む。
 泥まみれの十右衛門を見やり、兄貴がニヤッと笑んだ。
「一休みするか」
 言いながら積み荷の状態を見て、右側の車輪がこれ以上泥濘に潜りこまないことをたしかめる。積み荷を一瞥する。
「この重みで二人力はねえやな。しゅぐるまもってこいってんだ」
 兄貴分は独白するように呟き、十右衛門に向けて顎をしゃくった。陽射しを避けて、軒先を借りる。
「よっこい庄一、か」
 言いながら泥の上に腰をおろす。
「──兄貴も聞いてたんだ?」
「まあな」
 兄貴が竹筒を差しだしてくれた。十右衛門は喉を鳴らして生温い水を貪り飲む。
「積み荷はなんですか」
「知らん」
 素っ気なく言い、けれど兄貴は顔をしかめて続けた。
「たぶん、獄門に使う石だ」
 はあ? と首をかしげる。
「獄門。獄門。獄門ですか?」
「くどいぞ、てめえ」
 十右衛門は口をつぐむ。
 獄門というのは晒し首ではなかったか。
 江戸に着いたばかりのころ、生首くらい見ておいたほうが肚が据わって生きやすくなると無宿者にそそのかされて大井村は鈴ヶ森の獄門場に見物にでかけた。
 松林を隔てて、海だった。
 潮騒が懐かしかったが、腐肉の臭いのせいで台なしだった。あまりに臭いので、浜に逃げた。
 水磔のさなかだった。逆さ吊りにされた罪人は、満ち潮に頭からじわじわ水没していった。静かなものだった。
 意を決して見た生首は、申し合わせたように、まさに生気を喪った青褐色に変色して、柱と横木でつくられた首台に載っかって、まとわりつく無数の蠅になぶられていた。
 獄門には、こんなに大量の重たい長四角の石など、どこにも使われていなかった。
「てめえ、わざわざてんの牢屋敷にこんなでけえ石を運ぶんだぞ。まちがいなく獄門だな。青っぽい灰色してるだろが。伊豆石ってやつよ。これを脚の上に載っけるのよ。ばんぜめってやつだわな」
 十右衛門は神妙に頷きはしたが、具体的な絵が泛ばない。拷問に使うのだろうとあたりをつけた。
「ぜんぶで二百貫以上あるぞ、こりゃあ。それをだな、俺とおめえだけで運ばせるなんざあ、鬼畜の所業だな」
「鬼畜ですか」
「鬼畜だ」
 だが、あえて二人だけで運んでたっぷり日当をもらう鬼畜は兄貴分だ。そのために出立の前に十右衛門を路上で拾ったのだ。
 目蓋はますます腫れあがって、けれど地面はかろうじて見える。
 熱をもって脳天蓋がぐわんぐわん痛むが、こんなことでは死にはしない。殴られ慣れてしまったことからくる悲しい悟りである。
 三日もすれば腫れが引き、十日もすれば左右の目を青たんが飾ってくれ、皆から揶揄からかわれるだけだ。
 泥濘に照り映える陽射しを見やって、十右衛門は訊いた。
「二百貫て、どんくらいの目方です?」
 奇妙な問いかけだが、兄貴は察し、具体的に告げた。
「牛、四頭くれえかな」
「牛四頭!」
 脳裏に牛の巨体が泛ぶ。牛一頭がどれくらいの重さかわからない。それが四頭。信じ難い重さだ。
 牛から連想した兄貴が舌打ちする。
「こんなもん、牛に曳かせりゃいいもんを」
 たしかに十右衛門が育った伊勢は五ヶ所湾のあたりでは牛が荷車を曳いていた。
「一昔前はな、大津牛が曳いてたんだぜ。荷車ときたら、大津牛だ。ありゃあ筋骨隆々、真っ黒でやたらでけえらしい」
 大津といえば、近江はにおの海があるところだろう。荷車牛の産地とは知らなかった。
 兄貴はどろどろの地面を睨みつけて、呟いた。
「京の都に至る道には、くるまみちがあって、車輪の幅に合わせて車石が敷きつめられてるっていうが」
 兄貴はさらに積み荷に視線を投げた。
「ちゃんと牛がつつがなく引っ張れるように厚板石を敷いて、気配りされてんだよ。そればかりか逢坂越えには常夜灯まで据えてあるってんだからよ」
 さすが京の都。くらべて江戸の道ときたら雨が降れば泥濘で道の態をなさない。取り柄は京大坂よりも道幅が広いだけ──と兄貴分が投げ遣りな声で言う。
 牛四頭分ならば牛に曳かせるべきだ。これほどの重量物、人が曳くには無理がある。
「なんで牛じゃなくなったんですか」
「そりゃあ、おめえ、牛より人のほうが安いからよ」
 はあ──と微妙な気分の十右衛門だ。
「飢えた無宿が、道端でおめえみたいに立ちん坊だ。人は安いんだよ。しかも牛とちがって、幾人でもしらみみてえに湧いてくるじゃねえか。で、飼葉もやらず、その日限り。駄賃で抛りだせる」
 兄貴が声を潜めた。
「ほんとうのところはわからんが、牛は神君が禁じたみてえだぞ」
「家康が」
「てめえ、呼び棄てんじゃねえよ」
「すんません」
「なんかな、戦に備えてな、荷車に統制っちゅうのをかけたんだな」
「なんで荷車」
「わからんが、物を運ぶだろ」
「それが戦に絡む?」
「莫迦。物を運ぶってのは物を運ぶってことだろうが」
「そのまんまじゃないですか」
 また顔を殴られたらたまらない。十右衛門は素早く下を向いた。殴られるなら頭だ。頭なら硬い骨がある。
「おい」
「──はい」
「いつまでも立ちん坊もねえだろう」
 そろそろと顔をあげる。
「ひでえ御面相だな」
「兄貴が殴ったんだ」
「そーだっけ?」
「そーです」
「わはは。こまいことは気にすんな。しかし」
「しかし?」
「そのぷっくり膨らんだ目蓋に、爪楊枝が幾本載るかなあ」
「あのね、兄貴。俺を賭けに使わんでくださいよ」
「せえな。んなことはどうでもいいんだよ。立ちん坊を続けてえか?」
「まさか。雨が降りゃあ、濡れて眠る。食うもんはねえ。にわか物貰いにはだれも恵んでくれねえ」
「おめえはよくやるから、親方に声掛けしてやってもいいぜ」
「まことですか!」
「薄ぼんやり路傍に立って、荷車がくるのを当てもなく待ってるだけってのは心細いだろうが」
 十右衛門は幾度も頷いた。兄貴の手をとらんばかりである。
「立ちん坊から日傭いに格上げになれば、部屋に属すことができる。すくなくとも濡れねえし、飯も食える」
 十右衛門は深々と頭をさげる。
「車宿は北陸ほくろくの出稼ぎ者が多い。なまりを莫迦にすんじゃねえぞ」
「当たりき車力車曳きでさあ」
「ざけてんじゃねえよ。いいか。数の力ってやつだ。めてると布団蒸しにされて殺されるぞ」
「──はい」
 兄貴分は中空に視線を投げた。やや芝居がかった調子で、感慨深げに言う。
「長いあいだかかったが、いよいよ俺も車持になる」
 ほんとうか、と羨望の眼差しで兄貴を見つめる。
 十右衛門が心底から羨ましがっているのを表情から読みとって、兄貴分は満足げだ。その表情が、やや陰った。
「これで嬶がはらめば、言うことねえんだがなあ」
「できませんか」
「できねえなあ。夜昼かまわず暇さえあれば乗っかってんだけどよ、兆しもねえ。俺がいちばん慾しいもんは、餓鬼だ」
 こればかりは茶化すわけにもいかない。十右衛門がすっぱい顔をしていると、兄貴分は表情を変えた。
「俺もついに車持だぜ。ずいぶん稼げるようになるさ。なんなら、おめえを使ってやってもいいんだぜ」
 十右衛門は曖昧に黙りこむ。
「殴られたら、たまらねえってか」
 からかう声で言いながら、兄貴が肩を抱いてきた。
「よし。もう殴らねえ」
「絶対ですよ」
「うん。ときどきしか殴らねえ」
「なんだよ~」
「ははは。おめえを殴ると後味が悪い」
「だったら絶対、殴らんでください」
「だよなあ。ほんと、こわっぱ殴ってどーすんだよってな」
「御言葉ですが、俺は一人前です」
 脳裏にあいの面影が泛ぶ。江戸にきてから、女と肌を合わせる機会はないが、藍にまさる女がいるはずもない。
 藍との日々があったからこそ、すべてに耐えられる。藍は男としての自負を教えてくれた。なにがあっても誇りをうしなわず、我慢できる。男として立つことができる。
 兄貴分は横目で十右衛門を見る。
 並みの餓鬼ではない。立ち居振る舞いから言葉遣いまで巧みに合わせてくるが、芯があって筋が通っている。
 なによりも悧発すぎるところをうまく隠して、敵をつくらない。
「おめえ、殴られるとき、よけねえよな」
「よける間がねえんですよ」
「こきやがれ。おかしな処世だ」
 十右衛門の脳裏に、すぐに手がでた父親が泛ぶ。よけてしまえば、さらに殴られる。
 拳が当たった瞬間、自分から吹き飛んで打撃を弱めてしまう技は、幼いころに編みだした。得意技だ。
 もっとも今回のように正面からくる殴打に対処するのは難しい。
「殴られるのにも、じゃねえ、殴るにも二種類あるんです」
「ふーん。どんな?」
「いたぶるために殴る。可愛いから、殴る」
 理想を口にした。父は十右衛門をいたぶっていたのか。愛おしんでいたのか。己の鬱憤を晴らしていたことだけは慥かだが、わからない。まったく、わからない。
 兄貴分はどこで鳴いているか判然としない地虫のぢーぢーという声に耳を澄まし、抑えた声で言った。
「俺は、いたぶりの気持ちが強い」
「そうですよね。殴る奴の九分九厘はいたぶりてえだけだ。兄貴は俺みてえな野暮ったい野郎が許せねえんだ」
「ま、そのとおりだが、なぜ、よけねえ?」
「よければ、もっと殴られる。いたぶる奴はどのみちたくさん殴る。俺はなんだかんだいって殴られる。ならば飯のことを思うんですよ。よけたら次の日の飯が食えねえって」
「ま、そーだな。そのとおりだ。ははは、悲しき処世ってやつだ」
 片頬を歪ませて続ける。
「ぶちあけたとこ小器用によける奴なんざ、道端で物慾しそうに立ってたって、後押なんざ、させてやらねえよ」
 十右衛門は泥まみれの両手指を絡ませ、兄貴分を見あげて小声で言う。
「本音は」
「本音は?」
「殴られたって、兄貴と仕事がしたい」
 けっ! と奇声をあげて、兄貴分は十右衛門の頭をはたこうと手をあげ、けれどその手を所在なげにおろした。
 
.      *
 
 裏門から入ると、さらに左右に頑丈な扉があった。向かって右の扉を抜けた。砂利の軋み音をさせながら荷車はゆく。
 糞便、尿。汗と垢。そして血。
 左右の細長い建物から異臭が漂ってくる。牢獄の建屋と推測をたてた。
 興味津々ではあったが、見まわすのもためらわれる。
 泥濘は車輪が不規則に潜ってしまう。砂利は徐々に車輪が沈んでいき、やたらと抵抗が増していく。気も力も抜けない。
 兄貴分は、我が子のように十右衛門を見るようになった。たぶん、もう殴られないだろう。兄貴分を籠絡した満足感が十右衛門に新たな力を与えた。
 部屋こと車宿に入ってしまえば、与えられる食い物がいかに粗末だとしても飢えずにすむ。濡れずにすむ。寒さにふるえずにすむ。野犬に襲われずにすむ。
 最後の一踏ん張りと、懸命に押した。
 平当番が十右衛門の御面相に眉をひそめ、兄貴分を一瞥した。結局はなにも言わず、偉そうに指図する。行き着いたのは、どんつきの塀であった。
 十右衛門は頭のなかで絵図を描く。裏から入って、ここで行き止まりということは、表門から入ればすぐの場所ではないか。
 所詮は車力。身分のせいで裏から入らねばならなかったのだ。無駄な距離を押さなければならなかったことに憤りがくすぶる。
 どんだけ重たいか、てめえらが押し引きしてみろ──と胸中で毒づいたが、無宿者であるという自覚が痛いほどある。
 岡っ引きの気分によっては無宿というだけでしょっぴかれ、牢に抛り込まれる。ここに岡っ引きはいないが、牢屋に直結だ。
 十右衛門は面を伏せ、神妙に控えていた。
 どうやら牢屋敷は湿地の上に建てられているらしく、砂利の合間からなまぐさい湿り気が立ち昇ってくる。
 鍵役になにやら厭味を言われながら、貧相な張番が二人の罪人を連れてきた。
 汚れきった粗麻の帷子かたびらを着て、塵だらけの蓬髪だ。中途半端に開いた口から、やたらと黄ばんだ前歯が見えた。
 痩せ細った腕でこの石材をおろすことができるのだろうか──。十右衛門は数歩さがって見守った。
 十右衛門は、肌が裂け、肉が千切れ飛ぶ音を聞いた。いままで耳にしたことのない音だったが、ぞくっとくるほど生々しかった。
 うめきながらも罪人は石を持ちあげた。
 むちというものは、火事場の莫迦力に似たなにものかを引き出すようだ。
 二人の囚人は目尻から涙をにじませつつ、ときに鞭打たれながら、長方形の伊豆石をおろしていく。喘ぎながら貧相なすねをガクガク震わせて鍵役の指図に従って地面に石を積んでいく。
 筵からはみでた石には、無数の三角の凹凸が刻まれていた。本来は責めのために刻んだものだろうが、期せずしてその三角が互い違いに組み合わさり、荷崩れせぬようになっていたようだ。
 兄貴分が目で左の灰色の塗り壁の蔵を示した。耳打ちしてきた。
「拷問蔵だ。釣責と海老責をかますとこよ」
 釣に海老かよ──と口の中で呟いて、十右衛門は釣られて反り返った伊勢海老の姿を思い泛べた。
「きついらしいぜ、釣は。どんな豪胆な奴だって、耐えられねえってな。御上が唯一拷問と認めてんのが、釣よ」
 兄貴分は短く息をつく。
「わかったか、獄門だよ、獄門」
 十右衛門は余計な指摘はせずに、素直に頷く。小声で訊く。
「この石を使うのは?」
「十露盤だ。石抱だ。おぞけがくるぜ」
 ついつい能弁になってしまった兄貴分に、さきほど鍵役に厭味を言われたえらの張った張番が八つ当たりをした。
「その方ら、無駄口叩くな。神妙にいたせ」
 兄貴分は薄笑いを泛べて頭をさげた。十右衛門もあわせて頭をさげた。
 
.      *
 
 その晩、十右衛門は兄貴分の長屋に連れていかれた。
 女房が腫れあがった十右衛門の両目を見咎めた。
「あんたがやらかしたんだね?」
 兄貴分は目を泳がせる。
「あんたがやらかしたんだろう、あんたがやらかしたんだ。こんなこわっぱ殴って気持ちがいいかい?」
 女房はなかなかの器量好しだが、やたらと速く舌がまわるので、なんともせわしない。
「仕込みだよ、仕込み」
 兄貴分が弁解する。女房が睨みつける。
 十右衛門はどちらに視線を向けるべきか困惑したが、どのみち黒目は相手からはほとんど見えない。
「あんた、こっちへきな」
 土間に突っ立っていた十右衛門を四畳半に招じ入れ、横になるように命じる。
 十右衛門は素早く兄貴分を窺った。言うとおりにしろと目で合図を送ってきた。呆れるばかりの嬶天下らしい。
 最下層の長屋だから、畳などという気のきいたものはない。板張りの上に敷かれた筵に仰向けに横たわっていると、目の上に冷たく濡らした手拭いがあてがわれた。
 まるで火でもつきそうなくらいに熱をもっていたので、濡れ手拭いの心地好さに吐息が洩れた。
 周期的にぢんぢん痛むが、それにもまして疲労が酷く、十右衛門はへっついでなにやら料理する音と匂いを感じながら、墜落するように眠りにおちた。
 夜半、兄貴分と女房が睦みあう気配がしたが、昂ぶる以前に、この狭苦しい九尺二間の裏長屋で大人三人が横になってるなんて──と、苦笑じみた気分を覚え、さらに自分を大人と勘定していることに気付き、実際に笑みを泛べ、ふたたび深くくらい泥の眠りに引き込まれた。

次回に続く)

【第一回】  【第二回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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