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海路歴程 第三回<下>/花村萬月

.      *

 目覚めると、顔の上に冷たい手拭いが載っていた。昨夜から女房がこまめに替えてくれていたのは、薄ぼんやり覚えている。
 十右衛門は、起きあがった。
 かろうじて陽の光の這入るあたりで女房が縫い物をしていた。
「兄貴は?」
「今日の荷は軽いはずだとかかして、ほいほい出てったよ」
「おいてけぼりか──」
「あんな乱暴者が好きかい?」
「はい」
 間髪を容れず返事をした十右衛門を、女はじっと見つめると、吹きだした。
「笑うことは、ねえでしょう」
「そうだね、ごめん。昨日の夕方よりは男前だよ」
 十右衛門が膨れていると、女が手鏡を突きだした。
 幾度も手拭いを替えてくれたのだろう、錆が薄く覆った鏡の中の十右衛門の貌の腫れはずいぶん引いていた。
 女がさぐるように十右衛門を見やる。
「おれからも謝るから」
「いえ、姐さんが殴ったわけじゃねえし」
 女は十右衛門から視線をはずし、射しこむ光に目を細めた。
「腹、へったか?」
 そう問われて、十右衛門は唐突に昨日も、その前の日もなにも食っていないことに思い至り、遣る瀬ないほどの空腹に襲われた。
「昨日、あんたの分のすいとんも煮たんだけどさ、あんたは死んじまったみたいに寝ちゃったじゃないか」
 女は大きく頷き、付け加えた。
「すぐあっためたげるから」
「姐さん」
「なんだい、親の仇みたいな声だして」
「冷てえままで、かまいません」
 女は十右衛門を見据えた。
「遠慮してんじゃないようだね」
 察しよく、即座に大きな椀にたっぷり盛って箸といっしょに手渡してくれた。
 手をかけて、なすびを揚げてからすいとんに合わせてある。十右衛門は胡麻油の旨味に涙しそうになった。
 女は、すばらしい勢いで平らげていく十右衛門を嬉しそうに見守り、すぐにお代わりしてくれた。
 二杯めもまたたくまに十右衛門の胃の腑におち、女は目を丸くした。
「まだ食うか?」
 問われた十右衛門が烈しく頷く。食えるときに食っておかなければならない。強迫神経症的な心持ちだ。
「汁は余ってるけど、具がほとんどなくなっちゃったよ。きらずを入れたげるが、それでいいか?」
 十右衛門はさらに大きく強く頷く。
 こんどは女は汁に火を入れ、ざるに一杯のきらずこと雪花菜おからを入れた。
 雪花菜を食うのは初めてだ。さじですくって、沁みだす滋味にうっとりする。
「いったいこれは?」
「豆腐の絞りかすだよ。豆腐殻。殻が空に通じるってんで、きらずって言い換えたんだね」
「なぜ、きらず?」
「だって、切らずに使えるじゃないか。抛り込むだけだからね。笊一杯で一文。安いよねえ。ま、滓だからだけどね。内緒だけど、雪花菜の味噌汁は手抜きの最たるもんだ。けどね、なぜかきらずを食べると、翌日じつに立派なくそがでるんだ」
 はあ──と曖昧に笑んだ。この女が屎をする姿が想像できない。が、女を直視できなくなった。ずるずると音を立てて、きらずの汁を飲みほした。
 十右衛門が満足の息をつくと、女が干潟に行こうと言いだした。
「妙に蒸し蒸しするじゃないか。海風のほうがまだましだ」
 慥かに風も満足に抜けぬ薄暗く湿っぽい裏長屋にこもっているよりは、気分がいいにきまっている。
 誘われるがままに十右衛門は外にでた。
 見事に晴れ渡っていた。
 腐った溝板を踏み抜かぬよう気配りして、長屋の木戸を抜けた。
 女と十右衛門を見咎める者はいない。十右衛門自身の気負いと裏腹に、子供と思われているのである。
 宇喜田川に沈められた飛び石の浅瀬を歩いてわたり、長嶋村の管地に至る。
 朱引の外である。こんなところにやってくる物好きは誰もいない。
「くさくさするとね、ここにきて、口を開けてぼんやりするんだ」
「くさくさで、ぼんやり?」
「口からさ、魂が抜けてくんだ」
 はあ──と不明瞭に相槌を打つ。
 女の華奢な背を追う。
 背丈ほども伸びた青々とした尾花の群生をかきわけて海の方角を目指す。
 対岸には埋め立てられたまま放置された新田が所在なげに拡がっている。
 彼方の海は、翻る白波を見せつけてくる。海鳴りが巨人の息吹のような轟きを十右衛門の耳の奥に押し込んでくる。海鳥がぼんやり舞っている。
 女は海風に後れ毛を乱れさせ、深呼吸している。色白で、首の血管が青褪めて浮かびあがっている。脇で十右衛門は見惚れた。
 葦がざわわと揺れて乱れ、風の向きや動きを露わにしている。
 大潮だろう、彼方まで見透せる。
 波打ち際まではずいぶん距離がある。
 目のいい十右衛門は遠い浅瀬の蟹の群れをとらえる。こんど腹が空いたら、ここで蟹や櫨をつかまえようと決めた。
「平井なんとかってのが、干潟を埋めて塩浜にするってほざいてるけどさ、こんな広いとこ、どう埋めるんだかね」
 同意を求められたが、どう答えてよいかわからない。女は軽く首を曲げてしばし十右衛門を見つめ、囁いた。
「あんたは可愛いねえ」
 十右衛門は首まで真っ赤になった。ようやく子供扱いされていることを悟ったのだ。男としてみられていないのだ。
「ぼおっと立ってるのもなんだから、葦原ん中でお昼寝と洒落込もうか」
 女は背丈の高い葦原に、稚気丸出しで両腕を拡げ、大の字に倒れ込んだ。
 十右衛門も傍らに控えめに軀を倒した。部屋の中の湿気とちがって、葦原の湿り気は肌に優しい。ひんやりして心地好い。
 女と十右衛門は葦原の壁に区切られて、二人だけの部屋に在るかのようだ。
 ときおり葦原の上を抜ける風が、気まぐれに捲きこんできて、女と十右衛門を擽る。
 葦原に区切られた楕円の青空に、女が視線を投げ、目を細める。
「空。高いねえ」
「はい」
「もう、むくむく夏の雲だ」
「はい」
 十右衛門は、傍らに横たわった女の尖った鼻から目が離せない。女の蟀谷あたりがかすかに汗ばんで艶やかだ。
 視線に気付いた女が、鼻ではなく頬に軽く触れた。
 横目で十右衛門を見やる。
 十右衛門は慌てて視線をそらす。
「ねえ」
「はい」
「おまえは両目に青たんこさえても、ひなおとこだねえ。どっかの大名様んとこに渡り奉公できるんじゃないかい」
 褒められた気がしない。これでも力は人並み以上と自負している。貌が整っているだけで雛にされてはたまらない。
「おまえのおっ母さんは、さぞや別嬪べっぴんだったろうね。どんな人だい?」
「──物心つく前に死んだので、覚えていません」
 女は口をすぼめた。
 その目が、よけいなことを訊いてしまってごめん、と告げている。
 十右衛門は気付かぬふりをした。
 女が埋め合わせをするかのように言った。
「膝枕したげようか」
「え──」
「耳かき持ってくれば、よかったな」
 呟きながら女は、躊躇せずに上体を起こした。崩した膝を目で示す。
 促されて、十右衛門は緊張しきって女の膝に頭を載せた。女は着物の裾を端折はしょっているから、十右衛門が頭をあずけたのは薄い湯文字の上だった。
 しばらく静寂が続いた。
 潮騒だけが律儀に時を刻む。
 女は母性からくる柔らかな頬笑みを泛べ、優しく十右衛門の地肌に触れ、絡みあった髪を撫で、解いてくれている。
 こまやかで繊細な指先だ。頭皮に触れられることが、これほどまでに心と軀を昂ぶらせるとは──。
 必死に耐える十右衛門は犬になって息ばかり荒くして、しばらく女の秘められた奥底から幽かに立ち昇る匂い香を嗅いでいた。
 こらえきれなくなって頭の向きを変えた。
「やだよ、くすぐったいって」
 十右衛門が目をあげると、女は眉間に縦皺を刻んでいた。
「息がくすぐったいって言ってるの」
 十右衛門の内面の男は、もはや抑えがきかない。委細かまわず顔を埋めた。
 緋縮緬の凹凸を感じながら、湯文字を顔で押しのけ、勢いよく断ち割る。
「いて、いてて」
 十右衛門が突拍子もない声をあげ、女が呆れ顔で見おろした。
 女の腰を抱いたまま、十右衛門は事情を説明した。
「なにかい、顔をくっつけようとしたら、目のまわりの青たんが派手に痛んだと」
「そうです。けど、止まりません」
「これ、おやめ」
 くぐもった声で答える。
「やめろと言われてやめる男はいません」
 女の背筋が伸びた。十右衛門が核心に触れたからである。
 しばらく為すがままになっていた女だが、十右衛門の耳朶をいじくりながら上ずった調子で囁いた。
「おやめよ。だめ。だめだってば」
 甘い声だった。
 十右衛門は最前から藍に学んだ手管を惜しげもなく用いていた。
 いつのまにやら女は葦原に倒れ込み、十右衛門の頭をきつく押さえていた。
 圧し殺した女の喘ぎに、ちどりの声がミューミューと重なる。
「──あんたって子は」
「申し訳ありません」
「やめないで!」
 女の意外な剣幕に、十右衛門はあらためて丹念に奉仕した。
 中途で女が怺えきれなくなり、十右衛門を強引にいざなった。
「姐さん、ごめんなさい」
「どうしたの」
「ずいぶん久方ぶりなので」
ぜそうかい?」
「本音は」
「本音は?」
「姐さんがきついんです」
「おれはきついかい?」
「たまりません」
 こんな切迫したときでも、相手をもちあげることができる十右衛門であった。
 見つめあった。
「いいよ。思い切り突いとくれ」
「姐さん、すんません」
 十右衛門は一気に疾った。
 雄叫びをあげた。
 脈動して際限ない。
 女も十右衛門の腰に足をまわしてきつく締めあげた。十右衛門の耳に口許を押しあて、甘く切ない泣き声をたっぷり聞かせた。
 ずいぶん長いあいだ女と十右衛門は空を見あげて放心していた。
「赤ん坊が慾しくてね」
 十右衛門は黙っている。
「侮ってたなあ、童扱いして」
 十右衛門は黙っている。
「すごかったよ。どくんどくん──て。あふれたもの」
 十右衛門は黙っている。
「なんなんだろうねぇ。赤ん坊だけでなく、ちいさな子を見るとたまらなくなって」
 十右衛門は黙っている。
「あんたも、そう。なんか実際よりもすごく小さく見えて」
 十右衛門は黙っている。
「男そのものは一人前なんてもんじゃないけどね」
 十右衛門は黙っている。
 媚びを隠さぬ声で女は十右衛門を弄ぶ。
「なんか頼りなくて、見棄てておけなくて」
 女は充足の吐息を細く長くついた。十右衛門を凝視する。断定する。
「ぜったいに孕んだよ。おれにはわかる。そういうときだしね」
 十右衛門は、黙っている。
して産むから、あんたも後生だから知らん振りしといておくれ」
 心のどこかで、兄貴分に復讐したかったのだ──と十右衛門は悟った。
「一切他言しません」
「うん。あのね」
「はい」
「こんなに好いのは、はじめてだよ」
 兄貴分の心得顔の笑みが泛ぶ。十右衛門は己の厭なところを突きつけられて、肌が冷たく縮んだ。
「──涙ぐんでるのかい?」
「姐さんに悦んでもらって、報われた、って思ったら」
 嘘だった。己が卑俗な最低の人間に思えたのだ。復讐の後味は、最悪だった。
 女は十右衛門に夢中である。正確には藍仕込みのりょうに心を奪われている。これから先も十右衛門を求めて際限ないだろう。
 誰だって誠実なんて絵空事であると思っている。けれど自身がそうであることを知るのは、きつい。
「──後始末、したげるね」
 女は濡れそぼった十右衛門に口唇を近づけた。そっと含んできよめていく。その目はひたすら十右衛門の様子を窺っている。
 ふたたび育ち、女は自ら十右衛門に重なってきた。
 波の打ち寄せる音に連なるように、女が律動する。
 女が切なく啜り泣く。
 切羽つまって、十右衛門の耳朶をきつくんできた。
 胸苦しいほどの未練がある。
 けれど、十右衛門は決めた。
 もう二度と逢わない。 

.      *

 残暑がたけっている。
 荷車を路肩において、川縁に降りて大川の支流の水を頭からかぶる。
 天から降りかかる熱に容赦なくいたぶられた兄貴分と十右衛門は、口を半開きにして、日陰で涼んでいた。
「おい」
「はい」
「嬶が孕んだみてえだ」
 つとめて無表情をつくっている兄貴分だ。けれどその頬の背後から嬉しさがじわりとにじみだしてきて、満面の笑顔になった。
「ここんとこ、そーじゃあねえかって思ってたんだけどよ、こういうことは先走って口にすると、アレだろ」
「ですね」
「まちげえねえ。孕んだ。嬶も、まちげえねえって請け合ってるんだ。じつに嬉しそうでな。俺が見立てても、ここんとこずーっと赤不浄様もお訪ねになっておらんからな」
 十右衛門は一呼吸遅れて、笑んだ。
「──やりましたね」
 迎合しながら、やったのは俺だ、と胸中で呟く。
「江戸っ子は車曳きみてえな市中荒奉公なんてえのは、虚仮こけにして絶対やらんわな」
「ですね」
「けどな、俺は荒奉公も厭わなかった」
「わかります」
「わかってくれるか」
「わかりますとも」
「所帯を持ってってえのは、俺には耐えられねえことなんだ」
「わかります」
「身を粉にして荒奉公。よくやったよ」
「ですね。いまでは人も使うし」
「それよ。車持だ。いまじゃ三台の車持だ」
「一気にしたって、皆言ってます」
「俺と嬶は川の字で寝るのが夢だったんだ」
「ほんと、よかったですね」
「なんでえ、なんでおめえが涙ぐむ」
「そりゃあ嬉しいからですよ」
 実際は、女に対する未練が狂おしいまでにりあがってきていた。
 寂しかった。
 もともと孤独だった。
 けれど、肌を合わせた女が十右衛門の子を孕んだことが、居たたまれなかった。
 罪悪感ではない。自分は独りという思いがより強く迫りあがって、自己れんびんの涙が湧いたのだ。 

     03

 十右衛門は二十歳になっていた。
 相変わらず車力だった。
 ついたのはりょりょくだけであり、多少は銭もたまりはしたが、なにかの元手とするにはじつに心許ない。そんな額だった。
 深川の岡場所に行けば百戦錬磨の飯売女が夢中になるほどだった。
 けれど、どんな好い女も物足りない。
 抱いた女が悦びを訴えるほどに、迫りくる来し方がある。面影がある。
 逢いたい。
 藍に逢いたい。
 機微を教えてくれた藍が心いっぱいに拡がって、頭が狂いそうだ。
 海で鍛えた藍の姿態の美しさが、頭にこびりついて離れない。
 透き徹った藍色の海の深みのごとき優しさが、十右衛門の心を捉えて離さない。
 だが、どの面さげて伊勢にもどるのか。
 十右衛門が一人前になっていなければ、藍は逢ってくれないだろう。
 車力が長いくせして車持にもなれていないと知れば、それこそ藍のあばら屋から容赦なく叩きだされるのが落ちだ。
 自己否定の心ばかりが育つ。
 鬱気味だった。
 仕事ができるので軽んじられることはなかったが、近ごろはまともに働かずに車宿の隅で膝を抱えて身動きしない。十右衛門の居場所は、徐々になくなってきていた。
「いいのかい、ぼんやりしてて」
「婆さん、俺はもう駄目だ」
「そうかね。腹が空いてんだね。内緒で四ツ飯つくってやるよ」
 婆の勘違いに、苦笑いも泛ばない。遅い朝の陽射しが戸口をちりちり焙っている。口を半開きにして床筵を引き千切る。婆が丼を差しだす。
「見つかると五月蠅うるさいから、さっさと掻っこんじまえ」
 婆がつくってくれたのは、きらずの味噌汁だった。簡便この上ないからつくっただけだが、十右衛門はいきなり兄貴分の女房の面影を突きつけられた。
 兄貴分は子煩悩で、餓鬼が幼かったころは荷車に乗っけて曳いていたという。近ごろはその餓鬼が荷車を押すのを手伝っているとも聞いた。
 大好きだった兄貴分だったが、顔向けできねえと避けているうちに疎遠となった。十右衛門は己の犯した罪に、心ひそかに顫えた。
 けれど、いまやすべての感情が長続きしない。どうでもよくなり、ふたたび得体の知れない倦怠と憂鬱に覆いつくされた。でるのは溜息ばかりだ。
 それでも腹に物を入れたことで、立ちあがる気力が湧いてきた。
 ほんのわずかの身の回りの品々を手に、二度ともどらぬつもりで十右衛門は車宿をあとにした。
「上方にでも行って、一旗揚げるか」
 なんら実のない独り言を口にして、当てもなくだらだら歩きはじめる。
 暑い。けれど幽かだが陽射しに秋の気配がある。
 風に乗って、こいやまい、こいやまい──と鯉売の声が響く。どこか投げ遣りなのは、あまり売れなかったからだろう。
「なーにが恋病だよ」
 吐き棄てて、なにげなく振り返ると、九分通り完成している江戸城の天守閣が青く霞んでいた。
 十右衛門は漠然と品川を目指した。後ろ暗いところはないが、なんとなく辻番を避けて町家や百姓地ばかりを抜ける。
 このあたりにかぎらず、荷車を曳いてあちこち行かされたから、地理には詳しい。
 能勢のせみょうけんさんに向けて雑に手を合わせ、海にでた。
 潮風に髪が乱れた。
 顔にかかった髪のあいだから、大量の異な物が見えた。
 目を凝らした。
 海に胡瓜や茄子がひしめきあって浮き、浜に打ち上げられているのである。
「精霊流しか!」
 思わず声をあげ、濡れるのもかまわず波打ち際からざばざば這入り、砂にまみれて胡瓜や茄子を拾いあつめた。
 ぼんにさえ思いが至らぬほどに、鬱に取り込まれていた。
 それが海岸一面に漂着した胡瓜と茄子を見たとたんに、一気に躁に転じた。
 一人では埒があかない。十右衛門は浜でたむろしている乞食たちに声掛けして、幾許いくばくかの駄賃をだすから胡瓜と茄子を集めてくれと迫った。
 大方、大川から流れてきたものだろうと判じて全力で河口まで駆けたが、胡瓜や茄子は中洲の尖端や造成中のつくだじまに多少まとまっている程度で、ほとんどが河口から放射状に沖に散ってしまっていた。
 それが潮流によって北品川近くの浜に打ち寄せているのだ。
 息せき切って駆けもどると、乞食や無宿が呆れるくらい大量の茄子や胡瓜を集めてくれていた。近在の漁師に網を借りて、一気に引きあげたと乞食の頭が得意そうに笑う。
「しかし、おめえ、こんなに食えねえだろうが。傷んでんのもあるぞ」
「いいんだ。すこしくらい傷んでたって、どうってことはねえさ」
 まるで江戸中の胡瓜と茄子を掻きあつめたかのようである。山成す緑や黄、紫を見あげ、十右衛門の頭はめまぐるしく働いた。
 廃業した酒屋に大量の酒樽が放置されていたはずだ。
「大崎村の入会んとこ、目黒川の川っぷちに崩れかけた酒蔵があるだろう。わかるか? あそこに、これを運びこんでくれ」 

.      *

 胡瓜と茄子を刻んで粗塩をぶっかけた、ただの塩漬けであった。
 けれど車力や近在の工事人足などに売り歩くと、山ほどあった胡瓜と茄子がきれいに売り切れてしまった。
 肉体労働は塩分が必須だからであるのと、漬けた頃合いがよかったのか案外美味だったのだ。
 浜に流れ着いた胡瓜と茄子である。棄てられた物といっていい。只の代物が価値を生んだのだ。十右衛門はいまだかつてないほどの銭を得た。
 それを元になにか新たな商売でもと思わぬでもなかったが、しばらくは漬物一本で行くことにした。
 ただし人足や車力に売る安物ではなく、附加価値をつけて広く、高く売りたい。
 塩だけでは芸がない。りんちゅうというものがある。やたら甘っとろいので江戸っ子には受けが悪く、行きわたっていなかった。
 寺院への荷運びで、この蜜淋酎を振る舞われたことがある。味醂である。十右衛門はこの寺の高僧に可愛がられていた。
 十右衛門は蜜淋酎を飲ませてくれたうんこういんげんけいと相談し、せっより海運で味醂をまわしてもらえるようになった。
 ただし上方より船で運ぶので、なかなかに高価である。十右衛門は味醂の樽を前に腕組みして考えこむ。
「どうせなら、やたらと高い値で売り出してやろう」
 原価の五倍十倍の値付けで、希少性をつくりだしてやる。値段が高いだけで美味い物と断じてしまう莫迦舌がいくらでもいる。小金を持っている奴なんぞ、押しべてそんなものだ。
「いや、莫迦舌九割でも、客を莫迦にしたとたんに商いは終わる」
 塩に味醂。塩っぱくて甘い漬物。もうひと味ほしい。即座に十右衛門は味醂のことを教えてくれた雲光院に出向いた。
 阿弥陀如来に興味はない。それを隠しもしない十右衛門に学僧として知られる玄恵は苦笑いし、庫堂へいざなった。
「さあ御覧、これがなにかわかるかな?」
「水。大鉢に入った水」
「ほれ、舐めて御覧」
 盃に満たされた水に、そっと舌をつける。
 十右衛門は行儀悪く舌をだし、その液体をかきまわし、舐めまわすように味わった。
「ほお、ほお、十右衛門よ、快絶かな。とろけておるぞ」
 十右衛門は言葉をなくしていた。
 藍の軀の味がしたからである。
 くるめく藍との日々が、脳裏を駆けめぐる。その肌に、その内奥に舌を這わせたときの味わいが蘇る。
 玄恵が柔らかな、けれど鋭い眼差しで見つめている。
「控えめだが、好いだしであろう」
「これは?」
「昆布」
「──初めて昆布を味わいました」
ほとんどだしと無縁な日々をおくってきた。
「一晩、水に漬けてある」
「漬けて、ある」
「こじつければ、漬物かのう」
 十右衛門は目を見ひらいた。首を突きだして鉢の底に沈んでいる濃緑色を凝視した。
「で、どんな味がした?」
「淡くて、たまりませんでした。鰹が男ならば、昆布は女」
「昆布のだしは煩悩を擽るところがある」
「──慥かに」
「巧く用いよ」
 十右衛門は深く頷いた。鰹だしの強さに慣れた者には物足りなく感じられるかもしれぬが、昆布のだしのたおやかさは能書きを添えてやれば高価な品に惜しげもなく金を払う奴らを虜にするのではないか。
 塩や味噌や酢、麹などで素材を漬ける。味醂で甘味をつけてやる。
 試行錯誤した。
 ただし、常に細かく切った昆布を混ぜ合わせて漬けた。
 昆布の淡麗さを活かすには、塩とほんのわずかの味醂を足した浅漬けがよい。
 十右衛門が構えていた漬物屋には行列ができた。高価な物ばかりが売れた。
 人々は十右衛門がつくりあげた漬物を、新たな香の物、新香と呼び習わした。
 新香の名が江戸中を席巻し、お新香は十右衛門んとこじゃなけりゃね──と、女房たちが群れた。
 粗利は途轍もなく、十右衛門の懐は潤っていく。
 高額な新香を売るのにあわせて、十右衛門は車力や人夫たちが好んで食べる塩のきいた漬物も売り続けた。
 このころ江戸はどんどん埋め立てを進めていたので、あちこちから人夫が集められていた。漬物を納品する傍ら、十右衛門は埋め立て人夫を指揮する役人と懇意になった。
 役人は車力の経験から荒くれ者を巧みに操ることのできる十右衛門に人夫頭をまかせるようになった。
 漬物屋と人夫頭の二足の草鞋わらじであるが、さらに如才なく工事請負をするようになって、十右衛門の財はますます膨れあがった。
 二十歳もなかばになるころ、れいがんじまに居を構えるまでになった。新たに興した事業は、材木商であった。
 けれど十右衛門の頭の中には、いつだって昆布があった。
 蝦夷地からはるばるやってくる昆布に尽きぬ思いを抱いた。
 機会をみて、海運にもかかわりたいと心窃かな願望をもつようになった。
 新香の調理法その他は、懇意にしていた上野の茶店に与えて、十右衛門は漬物から手を引いた。

              〈以下次号〉

第四回に続く)

【第一回】  【第二回】 【第三回〈上〉】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。


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