メソポタミアのボート三人男 第五回/高野秀行
2-3橋の下をたくさんの水が流れた・前篇
旅をしていると、日本人の自分が知らない地元の複雑な歴史に出会うことがままある。そんなとき、「橋の下をたくさんの水が流れたんだよ」というのが隊長の口癖である。なんでも開高健が著作の中でそう書いているとか。
おそらく、もともとはフランスの詩人ギヨーム・アポリネールの詩から来ているのだろう。「ミラボー橋の下をセーヌが流れ、われらの恋が流れる」という有名な一節だ。
どんなときに使うのかというと、古都ムシュのこんな一日に使う。
私たちが座るレストランのテラス席の前に観光バスが何台も止まり、大量の旅行者が降りて来た。一体どこから来たのだろう。女性はベールをかぶっていないし、服装的にはムスリムではないようだが、西洋人とも雰囲気がちがう……。
「アルメニア人だ」とレザンが言った。「アルメニアから直接バスで来てるんだ」
歴史に詳しいレザンによれば、この辺はかつてアルメニア人の土地だっただけでなく、ムシュは西アルメニアの中心地だったという。現在アルメニアに住んでいる人たちが先祖の故地を訪ねるツアーらしい。
アルメニアはこの旅でしばしば会話に登場する民族だ。
クルディスタンにおけるティグリス=ユーフラテス川の舟旅の記録をたどると、アルメニアに行き着く。
一つはギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前四八四年頃〜四三〇以後)の記述。もう一つは同じくギリシア人でソクラテスの弟子で、著述家で傭兵隊長でもあったクセノポン(前四三〇-四二五年頃〜三五〇年以前)。
彼らの記述を総合すると、かなり明確に紀元前五世紀のクルディスタンの様子がわかる。それによれば、クルド人は今よりも南に住んでいた。現在のトルコ領クルディスタンの北半分はアルメニア人の居住域だった。クセノポンの著作『アナバシス』(岩波文庫)に掲載された地図によれば、ワンの辺りは東アルメニアで、私たちが川下りをしていたムラト川流域は西アルメニアとなっている。
アルメニア人はワインの民として知られる。アルメニア共和国では今から六一〇〇年前にワインを醸造した跡が見つかっているという。かつてトルコ/クルディスタンに住んでいたアルメニア人もワイン作りに長けていたらしい。
ヘロドトスによると、彼らは柳の木の骨組に獣皮を張った円形の舟を作り、そこに椰子材の酒樽とロバを載せてティグリス川を下った。イラク北部にあったアッシリア帝国を経由し、現在のバグダード近くにあったバビロニア王国の首都バビロンまで運んだという。最も大きな舟になると、「五千タラントンの荷を積むことができた」と書かれている。タラントンという重さの単位がどの程度かは時代や場所によって変わるが、三十キロ〜五十キロぐらいらしい。だとすれば十五~二十五トンもの荷物が積めた大型の船だったことになる。そんな巨大な船がけっこう流れの速い箇所もあるティグリス川を下れたのかと思うが、量的にはそれぐらい流通していても不思議はない。酒があっという間に消費されることは酒飲みなら誰でも知っている。
ティグリス川だけでなく、ユーフラテス川も酒や他の物資輸送に使われたにちがいない。
私たちが下っていたムラト川(ユーフラテス川の最長源流)もムシュまで来ると川幅がぐんと広くなり、水量も豊富だ。ここから下流は昔、確実に川が交通路として利用されたはずだ。
アルメニア人はその後どうしていたか。まずキリスト教が誕生するとまっさきにクリスチャンになった。最初にキリスト教を国教に定めたのはアルメニア王国である。
その後、十一世紀になり、トルコ民族が中央アジアの方から移動してきた。彼らは戦に長け、イスタンブルを攻め落とすとセルジュクトルコ王国を建設した。その辺りからアルメニア人の力はガクンと弱まった。さらに十三世紀に別のトルコ人の王朝オスマン帝国が成立すると、イスラムではない異教徒のアルメニア人は完全に力を失う。
オスマン朝の頃、このムラト川/ユーフラテス川流域はおそらく川沿いにアルメニア人の貧しい農村が点在し、クルド人は遊牧民として、羊たちの群れを率いて南北を移動していたことだろう。
そして、それはおそらくつい百年ぐらい前まで続いたと思われる。
「ナショナルジオグラフィックマガジン」一九〇九年二月号には「ユーフラテス川の山岳民族」として、クルド人とアルメニア人の暮らしが報告されている。それによれば、オスマン朝末期のこの当時、トルコ人とクルド人とアルメニア人は互いに憎んだり軽蔑したりしあっていた。トルコ人はクルド人に好きなように税をかけ、クルド人はしばしばそれに反抗した。クルド人はアルメニア人を襲い、略奪した。いちばん弱いアルメニア人はしかし、アメリカの宣教師たちのおかげで最もよい教育を受けており商才にも長けていて、トルコ人から嫉まれていたという。
この記事で最も興味深いのはアルメニア人の作る「筏」の写真だ。まるまる一頭の羊の皮に空気を入れて膨らませたものを二十頭か三十頭分、紐で縛ってつないでいる。船はパドルで漕ぐのではなく、長い棹で船底を押して進んでいたようだ。
山田隊長はこの写真を見て、「チベットでこれそっくりの筏を使ってたな」と語っていた。
一八九〇年代から二〇一五年にかけて何度かにわたってアルメニア人の虐殺が起こった。
当時はオスマン帝国の末期で、隣国のロシアとトルコは宿敵だった。アルメニア人はトルコ領とロシア領にまたがって住んでいた。オスマンのアルメニア人はロシア人と同じクリスチャンで、オスマン帝国から見れば異教徒である。だからさまざまな差別や偏見を受け、中にはそれに反発して武装蜂起する者もあった。現在のトルコ政府とクルド人の関係に似ている。でも異教徒である分、アルメニア人はもっと立場が悪かった。ロシア側に協力していると見なされることも多々あったからだ。
オスマン帝国のトルコ人とクルド人はトルコ領内に住むアルメニア人を殺害していった。詳しい調査が行われていないのでデータがないが、ブリタニカ国際大百科事典によれば、十九世紀末まで約二百五十万人いたアルメニア人は一九一六年までに、九〇パーセントが消えていたという。数十万から百数十万の人が殺された。また、強制的にイスラムに改宗させられた女性や、孤児となって海外にひきとられていった子供たちも莫大な数に及ぶらしい。
トルコ領内に残ったアルメニア人はたった一〇パーセント、約二十五万人程度ということになる。
ユーフラテス川流域およびワン(ヴァン)周辺のアルメニア人が消えてしまった隙間を埋めるかのように、クルド人の氏族が入り込んだ。
クルド人はアシーレと呼ばれる氏族(部族)社会を構成している。氏族とは大きなファミリーのようなもので、クルドと同じく元は遊牧民であるアラブ人やアフリカのソマリ人なども同じ仕組みを共有している。
氏族社会では大きな氏族の下に小さな氏族(分家)があり、それがさらに小さな分分家に分かれている。私はそれを定住民における住所のようなものと考えている。遊牧民は常に移動しているから住所ではなく、氏族で身元照会を行うのだ。
例えば、誰かに会ったらまずどこの氏族か訊くと、相手の出自がわかり、互いに安心する。ときには敵対する氏族のメンバーとわかり、距離をおくこともある。氏族は運命共同体である。自分の氏族のメンバーが傷つけられたら他のメンバーはそれを自分の痛みとして感じ、相手(の氏族)に復讐する。結果として戦争が氏族単位で行われ、負ければ氏族ごと他の土地に移り住む。
レザンによれば、ワンには有力な氏族が三つあって、そのうちブルカンという氏族は一九一五年にロシアから逃げてきたという。
いっぽう、私たちが泊まった二つの村では「自分たちの先祖は百年以上前にイランから来た」と聞いた。
おそらく現在ムラト川流域に住むクルド人の大半は、アルメニア人の大虐殺以降に他地域からやってきた人々の末裔なのだろう。
レザンは歴史大好きで、アルメニアのシンパでもあった。
アルメニア人大虐殺についても、「俺たちクルド人は申し訳ないと思っている。少なくとも教育を受けた人間はそう思っている」と言う。「だから今はできるだけアルメニアと仲良くしたい」
彼が拠点をおくワンの観光資源には、アルメニア正教の古い教会などアルメニア由来のものが多いし、アルメニア共和国へ団体ツアーを仕立ててバスで行くこともあれば、反対にアルメニアからのツアー客を案内することもあるという。レザンはアルメニアの宗教や言語も勉強しているらしく、地名を見るとよく「これはもともとアルメニア語で××の意味だ」などと私たちに解説する。
ムシュではあちこちにアルメニア人ツアー客の姿が見える。彼らはクリスチャンなので、女性もベールなどかぶっておらず、Tシャツやタンクトップを着用して、髪や肌を見せることに頓着していない。ほとんどヨーロッパ人のようだ。顔つきは目が丸くて黒く、ちょっとユダヤ人を連想する顔が多い。
私はイランでアルメニア人のレストランへ行ったことがある。イランでは飲酒が建前では厳禁であり、レストランや食堂で酒を飲むことなど絶対に不可能だが、アルメニア料理店だけは一種の治外法権となっている。アルメニア人はクリスチャンであるから飲酒を認められており、レストランでも客が持ち込んだものは──ほんとうはいけないのだが──黙認されているようなのだ。私もそうして、闇で仕入れたワインを持ち込んでアルメニア料理と一緒に飲み食いしたものだ。そのとき、アルメニア人のスタッフやお客の顔が他のイラン人と全くちがうことに気づいた。トルコ人やクルド人、それからイラク人ともちがう。
今、アルメニア共和国からやってきているアルメニア人の人々もイランの料理店のアルメニア人たちと同種の顔をしていた。
若い女性のガイドが忙しく立ち回り、お客の注文にこたえたり、ホテルの人と折衝をしたりしていた。彼女は体にぴったりした黒のTシャツとパンツを身につけ、茶色の長い髪、知的で仕事のできるお洒落な女性という印象だ。欧米や日本ではいたってふつうだが、保守的なクルディスタンの田舎町ではアルメニア人女性のかっこうはセクシー以外の何ものでもない。
村に行くと腰がひけてろくに話もできないレザンだが、相手がアルメニア人だと態度が打って変わる。彼女がお客さんの案内をしているにもかかわらず、英語でにこやかに話しかけ、自分の知っているアルメニア人ガイドの名前を挙げて「知ってます?」と訊ね、「いえ、全然」と冷たくあしらわれても、くじけず何度も食事に誘っていた。相手にされなかったのにさほど気落ちしている様子はない。おそらくアルメニア女性を見るとよくこういうことをしているのだろう。
レザンはこんなにもアルメニア人を愛しているのか……ではなくて、レザンはアルメニア女性が好きなだけじゃないかという疑惑が私と隊長の間で持ち上がったのも無理はないだろう。
2-4 橋の下をたくさんの水が流れた 後篇
腰の状態はかなり回復していた。本当はまだ我慢した方がいいのだろうが、ムシュの近くでぜひカヌーを浮かべたい場所があった。日帰りで出かけてみた。
アルメニア人は金銀の細工や絨毯編みが得意だったらしいとか、クルド人とアルメニア人が協力していたら、今トルコ人に負けてなかったんじゃないかと三人で語りながら、「ムラト橋」に到着。ここから上流にさかのぼり、よさそうな場所でボートと荷物を下ろす。
川辺の草地で舟を組み立てる。ゴミ袋式ポンプを動かして腰をかがめたりすると違和感をおぼえるが、つとめて気にしないようにして出発。
水は緑色に濁っていたが、アール付近の肥やし汁川と比べたら清流である。上流に町がないせいかゴミも少ない。
水量はたっぷりで急流もないから快適だ。ルートを探してあれこれパドルを操ったり、浅瀬で舟を牽いたり、ルートファインディングのため舟から下りたりする必要もない。空気椅子のような舟の後部に寄りかかっているだけなのですごく腰に楽。まるで車椅子、バリアフリーである。
「高野、見てみい。植生が北上川と同じや」と隊長がパドルで岸辺をさす。
柳、葦、蒲、藤、柳……。
ほんとうだ。木に遮られて、クルディスタン特有のなだらかな岩山は見えないから、ぼうっと漕いでいると岩手県の北上川にいるような錯覚に陥る。
特に印象的なのは柳の木だ。私たちがこれまで通ってきたムラト川にはこんなに大きな樹木はなかった。「楽園」の印象は柳によって作られていたのか。
柳の木は紀元前、ヘロドトスの頃からあったはずだ。これで盥船を作ってワインを下流に運んでいたのだろう。
しかし、やがて岩手には絶対にないものが現れた。
岸辺で絨毯を洗う人々だ。老若男女、十数人いる。
これはぜひお近づきになりたい。せっかちに舟の舳先をそちらに向けたくなったが、隊長の教えを思い出した。
「川で歓迎される方法は自分から行かないことや。近くを通り過ぎようとして向こうが『こっち来い』というのを待つ」
自分から行くと、女性や子供が逃げてしまったり、微妙な緊張感が生まれてしまったりするという。川旅は、道を歩いていて、現地の人に出くわすのとはちがう。
川は公共の空間であるが、岸辺はけっこうプライベートな場所なのだ。地元の家族にとってはバックヤードであることが多い。この辺りのようにすでに川を舟で行き来する習慣がなくなっているところでは、なおさら私たちはイレギュラーな闖入者と思われやすい。
川の真ん中からやや彼らに近い方をそしらぬ顔で通り過ぎようとしたら、「おい! おい!」と男の人たちが手招きした。作戦成功!
彼らは近くの村に住む一族だった。いちばん熱心に洗っているのは絨毯だが、それだけではない。加工していない羊毛の塊も洗っている。布団の中に入れているものだという。
そうか。そういうことか。村で泊めてもらったとき、布団がやけに重かった。そしてむちゃくちゃ温かかった。それから、妖精一家の娘たちは川で生のウールを洗っていた。何だろう? と不思議に思ったが、あれも布団やクッションの中に入れた「ワタ」だったのだ。
日本語では内臓のことを「ワタ(ハラワタ)」と言い、だからこそ後に綿を布団の中に入れるという文化が伝わった後、それも「ワタ(綿)」と呼ぶことになった。日本では中身と綿花が切っても切り離せない関係なのだが、ここではそれがウール(羊毛)なのだ。
日本では「ハラワタが煮えくりかえる」とか「死霊のハラワタ」などと言うが、こちらでは「ハラウールが煮えくりかえる」とか「死霊のハラウール」などと言うのかも──なんて考えたが、それはないか。この地では羊毛の方が布団よりずっと前から存在しているわけだし。羊が家畜化されたのは現在のクルディスタンのどこかだと考えられている。
生活文化スタイルのちがいは面白い。
掃除機が普及する前、日本では主に掃き掃除と拭き掃除で畳や床をきれいにしていたわけだが、クルド人やトルコ人はどうしていたのだろうと前から思っていた。夏に水で洗う──が正解だった。
日本風にいえば一種の「大掃除」なのだが、開放的な太陽の光と清涼な水、広々とした川原はまるでリゾート。水のかけっこをしている子供もいれば、釣り糸を垂れている少年もいる。
リバーリゾート大掃除。
洗うのは絨毯と羊毛だけではない。収穫した小麦も洗っていた。浅い川底に白いシートを敷き、殻のついた小麦の粒をどさっとあけ、手でかきまわす。私も一緒に洗っていると、若者の一人が「これ、美味いよ」と小麦の粒をかじってみせた。え? 食べられる? 生米は食べられないから奇妙な気がしたが、かじってみるとカリッとして美味しい。生なのにどことなく芳ばしく、スナックのよう。
洗ってから袋に戻して、トラックの荷台に載せる。重い袋なので手伝おうとしたら隊長に「高野はやめとけ」と言われ、ハッとした。ギックリ腰のことをすっかり忘れていた。全く自分の間違う力というか忘却力には驚くばかりだ。目の前のことに夢中になると何もかも忘れてしまう。
代わりに隊長がせっせと小麦袋の積み上げに参加した。こうして、ただの通りすがりのガイジンがいつの間にかすっと地元の人たちの中に入っていく。
太ったお母さんに「こっち、おいで」と呼ばれた。もう一台川辺に停めてあったトラックの荷台の陰に布を一枚敷くと、即興の休憩スペースになった。お茶の時間だ。
クルディスタン/トルコには「サモワール」というチャイを作るための小型ストーブがある。二段重ねのポットで、上に茶葉入りの水、下に水を入れて火にかける。町では当然ガスの火だが、村の沸かし器には水の器の下にミニ竈が設えられ、そこに小枝をつっこんで火をつける。時間はかかるが趣がある。
チャイと一緒に……出ました、クルドの村食三点セット。ナン、オリーブ、チーズ。これを見ると「川に戻ってきた!」という感じがする。ホテルのビュッフェやパン、チーズも美味しいけれどどこか物足りない。村の方が断然美味い。
今日は時間に余裕があってよかった。時間的にキツいとこういう地元の人たちと交流する時間がない。
お茶を飲みながら談笑していて一つ驚いたのは彼の氏族。「アラボ」というのだが、「俺たちはアラブ人なんだ。イラクのバスラから来た」
バスラとはペルシャ湾に面したイラク第二の都市だ。私たちもつい最近行った。思わず、アラビア語のイラク方言で話しかけてしまったが、誰も反応しない。それもそのはず、彼らがここに移住したのは「百年か二百年前」。
うーん。アルメニア人がジェノサイドで消えた後、イランやロシアからクルド人が入ってきたという話は聞いていたが、彼らも同じように、ティグリス=ユーフラテス川沿いに北上し、旧アルメニア人居住域に住み着いたのかもしれない。そして今では「トルコ国籍のクルド人のアラブ氏族」として生きている。
彼らはクルド人になった今もアラブの誇りがあるらしく、「サダム・フセインはよかった」などと言う。フセインはイラン・イラク戦争後の一九八八年にイラクのクルディスタンで化学兵器を使い、何万というクルド人を虐殺したとされているから、ふつうはクルド人に憎まれている。
「いや、悪いでしょう」と私は反論するが、「いやいや、サダムはすごくよかった。悪いのはアメリカ」と彼らも譲らない。
お茶を御馳走になっている手前、私が譲歩した。「トランプはキョテュ(ダメだ)」と言うと、「そう、トランプはキョテュ」「トランプはアプタル(アホ)」などと盛り上がる。誰も当然のように悪口を言えるトランプはすごい。
行きずりの人たちとの気さくな談笑は川旅の醍醐味だ。ずっとここにいたいと思う。だがそういうわけにはいかない。
別れを告げて川に戻る。
残り一時間半ほど、快適な舟旅。ときどきダム用とおぼしき砂利を採取している場所があるが、それ以外は静かだ。
ムラト橋に到着した。週末を楽しむ地元クルド人の家族連れや釣り人、そしてアルメニア人の団体客で賑わっていた。彼らの下を川は通り過ぎる。
まさに橋の下をたくさんの水が流れているのであった。
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