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「恋の隠し味はしそと塩昆布」【試し読み】

「死ぬ! 死ぬ!」
「助けて……吐きそう……」
 次々に体調不良を訴える児童たち、その対応に追われる先生。いつもは楽しい給食の時間が、このような地獄絵図になろうとは。しかも、その原因を作ったのは私の祖母なのだ。

 一九八八年九月、私の通う小学校で、あるコンテストが行われることになった。食欲の秋にかこつけた「あなたの家のオリジナル料理を教えてください!」というものだ。各家庭から料理のレシピを募集し、その中から優秀作品を選んで、実際に給食のメニューに採用するといった企画である。
 料理自慢のお母さんや飲食店を営む親御さんから、腕によりをかけた創作料理、誰でも簡単に作れるアイデア料理などが多数寄せられた中、なんと私の祖母のレシピが優秀作品のひとつに選ばれてしまった。
 母親がいない私にとって「おふくろの味」とは、すなわち祖母が作る料理のことだ。並みいる強敵を押しのけ、見事栄冠を手にした祖母。私は自分のことのように誇らしい気分だった。

 翌月、いよいよ祖母の料理がお披露目される日がやってきた。
「しそ御前 入門編」
 それが祖母の考えたレシピだった。
 青じそと梅がふんだんに使われた混ぜご飯、ネギの代わりに青じそを具として使ったお味噌みそしるしょうけ、葉っぱをそのままカラッと揚げた天ぷら。普通の学校給食ではまずお目にかかれない渋過ぎるラインナップだ。もっとも、私にとっては、よく家で口にする見慣れた料理だが。
 教室のスピーカーから全校児童に向けて、校内放送が流れる。
「今日の給食は三年一組の××君のお婆ちゃん発案の……」と、私の名前と料理の詳細がアナウンスされ、クラスメイトたちが一斉に拍手をする。悪い気はしなかった。
 続けて、「まだ小さい子供には、〝しそ〟という食材はなじみの薄いものだと思います。簡単に作れるしそ料理を食べて、〝しそ〟の魅力に気づいてくれたらうれしいです」という祖母の受賞コメントも読み上げられた。
「みなさん、手を合わせてください。い・た・だ・き・ま・す!」という学級委員長の号令からほどなくして、きょうかんうたげが始まった。
 野菜が苦手な子はもちろんのこと、しそを初めて食べる子の口には、しそ特有の匂いとアクの強さは、およそ受け入れられないものだった。クラスのほとんどの児童が悲鳴を上げ、口々に文句を言い始める。
「今まで食べた料理で一番まずい!」
「ドッグフードの方がまだマシだよ」
「先生、おなか痛いんで早退したいです」
 なんともひどい言われようだ。そして集団心理とはおそろしいもので、暴言を吐くだけでは気が収まらない児童が、私への責任転嫁を始める。
「おまえの婆ちゃん、俺らを殺す気かよ」
「おまえ、責任取ってみんなの分も食え」
 私の机の上に次々に置いていかれるしそ御前。私はただうつむくことしかできなかった。
 担任の先生の一喝によって、ようやく騒ぎは沈静化。「食べなくていいぞ」と先生は言ってくれたが、私は食べられるだけ、みんなの分のしそ料理を口の中にき込んだ。昼休み、校内の様子を調べに行ったところ、どのクラスでも、しそ御前への不評の声が多数上がっていた。何も悪いことをしていないのに、取り返しのつかないことをしてしまったような申し訳ない気持ちになった。
 その日、家に帰ると「今日の給食、婆ちゃんの料理が出たんやろ? どうやった?」と祖母に聞かれた。私は即座に「うん、みんなおいしいって言ってたよ!」と噓をついた。大好きな祖母に噓をついたのは初めてだった。
 今回の一件で、クラスのみんなにいじめられるんじゃないかとビクビクしていたが、喉元過ぎれば熱さを忘れるというか、そんな騒ぎなど何もなかったかのように、いつもと変わらぬ学校生活が私を待っていた。
 だが、大好きな祖母の料理をバカにされたことを私は生涯忘れない。人生とは、傷つけられた者だけがその記憶を引きずって生きていくものなのだ。

 しそ騒動から一週間ほどったある日の昼休み。ひとりの女の子が私に声をかけてきた。
 彼女の名前は片岡かたおか理恵りえさん。天然パーマのくるっとしたクセっ毛と極太眉毛が印象的な女の子だ。そんなに目立つタイプではないが、あることが原因でクラスのみんなからは多少距離を置かれる存在だった。
「どうしたの、片岡さん」
「ねえ、言いたいことあるんだけど」
「うん」
「ちょっと前の給食で、お婆ちゃんのしそ料理出たよね」
「…………」
「私はあれすごくおいしかったよ。ご飯もお味噌汁も漬物も天ぷらも全部!」
「え……そうなんだ」
「しそって初めて食べたけどおいしいね。あれから私、自分の家でも食べてるんだ」
「へぇ……」
「お婆ちゃんに言っといて。しそがおいしいこと教えてくれてありがとうって」
「うん、言っとく」
「絶対だよ〜!」
 そう言って、片岡さんは手を振って去って行った。
 ようやく、祖母の料理を褒めてくれる子が現れたというのに、私は「ありがとう」という感謝の言葉を伝えることができなかった。恥ずかしかったわけではない。これにはちゃんとした理由がある。
 なぜなら、片岡さんは鼻くそを食べる女の子だったからだ。

 授業中も休み時間も、暇があれば、自分の鼻をほじっては、取れた鼻くそをモグモグと食べる。他人の目を気にせず、そうすることが当然かのごとく豪快に食べる。それを食す姿には、ある種の気高さまで感じられた。給食を食べ終わった後に鼻くそを食べる片岡さん、彼女にとっては鼻くそが食後のデザートなのだ。
 そんな彼女が言った。
「あなたのお婆ちゃんの料理はおいしい」と。
 嬉しい。それは間違いないのだが、どうしても引っかかる。もし、片岡さんが自分の鼻くそをおいしいと思って食べているのなら、祖母の料理と鼻くその味がイコールということになる。それはちょっと認めたくない事実である。祖母の料理は鼻くそよりはおいしいはずなのだ。私の心は鼻くそを食べる女子の言葉によって激しくかき乱されるばかりだった。

 家に帰ってからも頭の中は鼻くそのことでいっぱいだった。食卓に並べられた祖母の料理が全て鼻くそに見える。
 頭がおかしくなりそうだったので、私は親父に相談することにした。全てを話して楽になりたかった。
「お父さん、鼻くそっておいしいのかな」
「なんやおまえ、いきなり」
「いや、ちょっと気になってさ」
「うちが貧乏やからって、鼻くそ食べて腹を膨らまそうとか思ってるんか!」
 鼻くそのせいで親父に殴られてしまった。鼻くそに翻弄されるがままの我が人生よ。

 それから一か月ほど思い悩んだが、自分を納得させられる答えが出そうにないので、私は片岡さんともう一度話をすることにした。彼女を傷つけてしまうかもしれないが、このままだと私の方がノイローゼになりそうだった。
「片岡さん、言いにくいんだけどさ」
「何?」
「片岡さんって、なんで鼻くそを食べるの?」
 直球で聞いてしまった。何も言えずに困った顔をして固まる片岡さん。このまま泣かれたら面倒だな。
「いや、僕もたまに食べたくなるんだ。だから聞いてみたんだよ」
 とっさに苦し紛れのフォローをする。
「うんとね、私、小さい頃からずっと食べてるの」
「親は怒らないの?」
「どっちもあんまり家にいないから、私が鼻くそを食べてるのに気付いてないの」
「あのさ、鼻くそっておいしいの?」
「わかんない。味はするけどね」
「味ってあるの?」
「するよ、しょっぱい味」
「似てる味はある?」
「塩昆布の味に似てる」
「僕、昆布のつくだ大好きなんだよ。めちゃくちゃうまそうな気がしてきた」
「日によって味が変わる時もあるよ。もっとしょっぱい日もある」
 もっとしょっぱくなる? まさか人の体調に合わせて鼻くその味も変わるとでもいうのか。興味は尽きないが、そろそろ本題に入らなければ。
「片岡さん!」
「わ! 何?」
「僕の婆ちゃんのしそ料理と鼻くそ、どっちがおいしかった?」
「え?」
「いや、婆ちゃんの料理おいしいって言ってたからさ。いつも食べてる鼻くそとどっちがおいしいのかなって」
「そんなの比べられないよ」
「…………」
 私は、祈るような気持ちで、片岡さんの言葉を待つ。
「お婆ちゃんの方だよ。だって鼻くそは料理じゃないもん」
 そうだ。鼻くそは料理じゃない。その通りだ。
「うん、ありがとう。片岡さん、ありがとう」
 私はようやく感謝の気持ちを素直に伝えることができた。事態を把握していない片岡さんもとりあえず笑っている。自分の目的を達成した満足感もつかの間、すぐに彼女に申し訳ないことをしてしまったという後悔の念に襲われた。聞かれたら嫌なことにもちゃんと答えてくれた彼女に何かお礼をしたい。片岡さんが喜びそうなことって何だろう。私は必死で考えた。そして、ひらめいた。
「片岡さん、僕、鼻くそ食べてみるよ」
「え! なんで?」
「いや、前から食べたかったんだよ」
「やめときなよ〜」
「なんだよ、そっちはいつも食べてるじゃん」
「でも〜」
 もう勢いでいくしかない。私は意を決して己の鼻をほじる。奥の方にちょうどいい大きさのブツがある。私はコレを食べるんだ、食べろ、食べてしまえ。両目をつぶり、えいやっと口の中に鼻くそを放り込む。そして二、三度みしめ、それをゴクリと飲み込んだ。
「…………」
「…………」
「塩昆布の味だね」
「でしょ〜」
 そう言って二人で笑った。本当はそんな味なんてしなかったけど、私は噓をついた。彼女が笑ってくれると思ったからだ。
 これが人生で初めて鼻くそを食べた日の思い出だ。片岡さんのようなあいきょうのある可愛い女の子の前で鼻くそを食べた私は、世界で一番幸せに鼻くそを食べた男かもしれない。
 その後、クラスが別々になり、二人で話す機会はほとんどなくなった。六年生で久しぶりに同じクラスになった時、もう片岡さんは鼻くそを食べなくなっていた。彼女が自分の知らない女の子になったような気がして少し寂しかった。

 大人になってからも再会できていない片岡さんに聞きたいことが山ほどある。
 いつ頃鼻くそを食べなくなりましたか?
 そのきっかけはなんですか?
 昆布を見たら鼻くそのことを思い出しませんか?
 大人になってから、鼻くそをほじった時に、私との思い出がよみがえったりしませんか?
 私は鼻くそをほじると、たまにあなたのことを思い出します。
 そして今ならはっきりわかる。
 片岡理恵さん、私は鼻くそを食べるあなたが好きでした。

プロフィール
爪切男(つめ・きりお)
1979年香川県生まれ。2018年『死にたい夜にかぎって』でデビュー。同作が賀来賢人主演でドラマ化されるなど話題を集める。著書に『もはや僕は人間じゃない』『働きアリに花束を』『きょうも延長ナリ』など。

次回は6月21日に更新!お楽しみに

【前回:「本当にクラスメイトの女子、全員好きでした?」鈴木涼美×爪切男〈特別対談・完全版〉】

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