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海路歴程 第十回<上>/花村萬月

.    09〈承前〉

 鮫にも好奇心があるのだろうか。
 貞親さだちかは焦らぬよう己を戒めながら、心中で思う。鮫はあきらかに梶から千切れて海面に垂れた水越綱を追っていた。餌と間違えているのではなく、綱にまとわりつく姿は戯れているように見えた。その鮫の興味が、水越綱よりも右舷で派手に飛沫しぶきをあげる即席の投げ輪に移ったのだ。
「いいぞ、貞親。おめえは、まっこと、こういうことをさせると巧みだなあ」
「まぐれもまぐれ、わにがこれほど遊び好きとは思ってもいなかったですぜ」
 鮫は尖った頭を投げ輪に突っ込んで、のんびり甲陽丸こうようまると併走している。あらためて貞親は鮫の姿と動きを観察した。
 輪っかを悟られぬために過剰に大きな輪をこしらえたのだが、それが海面を打ち、梶も帆もない甲陽丸が不規則な風にあおられて行方定めぬといったていで動くと、作為では有り得ない奇妙に乱れた波をおこす。
 それに夢中になった鮫は、縄がつくりだす波を追っていたつもりだったが、期せずして流線型の頭が輪に這入はいってしまったといった気配だった。
 いかり綱は海中における強度を充たすために、麻からつくったづな、細かく裂いたひのきってつくった檜綱、いちびの茎の繊維を縒ったいちび綱の三つを縒りあわせてある。いかりさばきが得意げにたかぶった声をあげる。
「碇綱がぶっとく硬いのが幸いしてらあ」
 たしかに生き物のごとく海面を跳ねていた輪っかは、にかわで固めたかのごとくひたすら輪のかたちを保ち、だから鮫は己の頭部がそこに這入り込んでしまったことに、まだ気付いていないようだった。
 加えて体長は正確に見切った貞親だが、胴の太さは判然とせず、だからもともと余裕をもって拵えたが、輪は鋭い流線型の鮫の頭よりもかなり太かった。
 鮫は罠にかかりつつあるにもかかわらず、なにやら、はしゃいでいるように見える。輪っかがつくる読み切ることが難しい波に、狩りの本能を刺激されるらしく、体軀をくねらせて活きいきとした精悍せいかんな泳ぎっぷりだ。
 海面に突きでた背びれは間近で見ると、たくさんの傷があった。海水でふやけて傷は白くなって拡がり、その奥に血の緋色がかすかに見える。
 貞親は、この幸運を逃してなるものかと力む気持ちを深呼吸して抑えるが、吸う息も吐く息もふるえていた。相手は巨大な鮫である。水夫かこたちも張り詰めていて、まともに息をしていない。手に巻いたぬのをしつこいくらいに慥かめている。
 流されているだけの甲陽丸と、投げ輪に合わせて加減して泳ぐ鮫の水音と波の音ばかりが鼓膜をくすぐって、慣れきっているはずの潮の香が奇妙なまでに鼻腔の奥を擽り、貞親の五感はいよいよ冴えわたり、第六感までもが波動のように鮫の背に吸いこまれていく。
 遊べ、遊べ、もっと遊んで、輪の奥まで進め──貞親の念が、青黒い鮫の巨体をそっと撫であげ、投げ輪の奥にいざなっていく。
 やがて鮫は風まかせの甲陽丸の速さに合わせているのが億劫になったか、尾びれを左右に煽り、すっと先行しようとして輪っかに軽く胸びれがぶつかった。
 胸びれが硬い縄に触れたとたんに、本能的に危険を察し、大きく身をくねらせる。
 そのさまはまさに豹変だった。隠されていた獰猛どうもうな何かが解き放たれた瞬間だった。
 鮫は翻るように動いた。先ほどまでの遊戯とはちがって、すばらしく滑らかにして、凶暴だった。
 尾びれが海面を叩き、爆薬を投げて炸裂させたかのようなはげしい飛沫があがり、波濤の隙間から一瞬、淡い青に染まった白い腹が見えた。
「潜るぞ!」
 みよしから見守っていた船頭が怒鳴り、貞親以下水夫たちは襤褸布を巻きつけた手で綱をきつく摑みなおした。
「まだだぞ、まだだ!」
 碇綱が、するする引っ張られて海中に没していく。船頭が潜った鮫の行方を凝視して怒鳴る。
「まだだ、まだだぞ」
 一気に潜っていく。いくら海水が澄んでいる海域とはいえ、垂直に下降しているのだろう、勢いは尋常でなく、鮫の姿は完全に見えなくなった。
 不安が兆した。せっかく輪に入ったのに、逃げられてしまうのではないか。
 まだ──と声をあげる根拠がわからず、貞親は焦れた。そんな貞親の耳の奥に、海風の囁くような音と、船頭のごえが響く。
 まだだ。
 まだ、まだ。
 まだだぞ。
 まだ。
「よーし!! 引け!」
 水夫たちは掛け声も出せぬほどに緊張しきっていた。いきなり目がめたかのように力んだ。輪をすぼめるため、無言かつ全力で碇綱を引いた。
 綱は折れた帆柱の根元に巻きつかせてあるのだが、きつく張り詰めた。
 鮫に引かれて、甲陽丸は右舷に大きく傾いた。碇綱がれて、ぎぎぎぎぎと帆柱がき叫ぶ。沈潜しかねない。このままだと完全な水船に陥る。
 皆は放心しかけた。
 船頭がどやす。
「てめえら、力を抜くんじゃねえ!」
「船頭! やべえよ、甲陽丸が引きずり込まれる」
「うるせえ、力を抜けば、舐められて、襲われるぞ」
 鮫も怖いが、船頭も怖い。それでも口々に声をあげる。
「いいのかよ、沈むぞ」
「沈んだら鰐に食われるじゃねえか!」
「だからよお、鰐に呑みこまれるって言ってんだよ!」
「船頭、綱をゆるめよう。このままじゃ間違いなく沈むぞ」
「とにかくやべえ。沈む!」
 水夫が口々に訴えるが、船頭は平然と言い放った。
「そんときは、そんときだ」
 ニヤリと笑って付け加える。
「おめえの船じゃねえ。気にするな」
「沈むって言ってんだよ」
「そんなヤワな船じゃねえよ」
 だが舳の舷側板である五尺が海面に接し、外れるほどだ。けれど船頭は、もともと外れるようにつくってあるもんがとれただけだと意に介さない。
 右に傾いて前方を海中に突っ込んだ甲陽丸は、つんのめる恰好で、炸裂する波飛沫を蹴立てる。もはやかしいだ甲陽丸の上で、まともに立ってはいられない。
 貞親は潮煙に鮮やかな虹が立つのを見た。船頭に顔を向けると、満面の笑みが返ってきた。船頭も虹を見ていたのだ。いや、愛でていた。
 限界を超えて傾いた甲陽丸に、海水が派手になだれこんできた。貞親は船頭に目で訴えた。船頭はゆっくり首を左右に振った。相変わらず笑んでいた。
 貞親は諦めた。いまとなっては、止めるわけには行かない。ここまで甲陽丸を破壊されたのだ。引き返せない。帆柱からピンと張り詰めて垂直に海中に没して舷側をいたぶる綱を凝視する。
 なまじ強度に優れる碇綱だけに、鮫の動きに合わせて、薙ぎ倒すかのように垣立かきたて矧付はぎつけを破壊していく。強度に優れる選り抜きの樫を用いているはずだが、海水に芯まで侵されてしまっていたのだ。
 船頭が綱と海面を交互に見て、面白がっているような口調で言う。
「ちょこざいな。てめえは俺たちの餌になるんだよ」
 合わせて貞親は胸中で独りごちる。
──そうだ。てめえは、俺たちの餌なんだ。
 不穏な静寂が拡がった。
 いきなり、時が静止した。
 鮫は動かない。
 水夫たちも、動けない。
 いつのまにやら頭上に海鳥が舞いはじめ、その影が海面をはしる。
 口で息をしてしまっているので、やたらと塩辛い。
 船頭は綱の端を手に、右舷に大きく身を乗りだした。
「ちょい、ゆるめろ」
 弾かれたかのように我に返った水夫たちは力を抜く。
「もうちょい、ゆるめろ。気持ちゆるめろ。気持ち、だぞ」
 さらに水夫たちは、掌に全神経を集中して鮫の動きを読もうとし、微妙に力を抜く。全力を込めていたときは力と力の争いであるから、繊細な駆け引きの気配など感じる余地がなかったのだ。
「よーし、餓鬼共、気合いを入れろ」
 船頭の声に、水夫たちは肺臓に大きく気を充たす。
「引け! 一気に引けえ!」
 ガツンと掌にきた。
 凄まじい手応えだった。
 鮫は全力で潜っていく。
 海中深くで身をよじる。
 そのたびに碇綱が鮫の胴体にきつく締まっていくのが掌に感じられる。ゆるめて小休止したときに、掌で気配を直覚することができたが、それがそのまま続いているのだ。
 自縄自縛だぜ──と貞親は声に出さずに言う。してやったりだ。
 もっともおやは伏せって死線を彷徨さまよっているし、船頭は指図するばかりで力を出しているのは三人だけだ。狂ったかのように動く鮫の力にかなうはずもなく、綱はどんどん海中に引き込まれていく。
 掌に巻いた襤褸布が熱をもち、焦臭くなった。あげく襤褸だけあって摩擦であっさり千切れ散り、水夫たちの掌の肉を焼いた。
 船頭が怒鳴る。
「俺たちの、餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
 餌だ──と唱和しながら、水夫は掌から血を流し、背骨を軋ませて綱を引く。
 甲陽丸が沈んでもかまわない。貞親たちは船縁ふなべりに足裏を押しつけて後傾して、餌だ、餌だ──とひたすら連呼して、背後に倒れ込む勢いで綱を引く。
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
「餌だ」
 暴れる鮫に引きずられる甲陽丸は前後左右に大きく傾ぎ、波浪に揺すられることでは有り得ぬ不規則な動きで翻弄される。
 ふたたび、ほぼ破壊された垣立を乗り越えて、船内に海水が束になって流入した。青く澄んだ海水が、四方八方から押し寄せる。
 鮫に揺すられて起きる波は、甲陽丸の右舷が海面と激突することもあって、ときに貞親の背を超えるほどだ。
 餌だ──と連呼していないと水夫たちは恐怖にくじけ、腑抜けてしまいそうだった。
「よおし。てめえら、気合い入れなおせ」
 水夫たちは自棄気味に、餌だ──を連呼している。破れかぶれの念仏に聞こえる。
 船頭が掌に襤褸布も巻かずに、帆柱の根元に廻した綱を摑んだ。素早く態勢をつくり、大声で叱る。
「もう、いい。大声だすんじゃねえ。莫迦ばかの一つ覚えは、やめやがれ。やかましいんだよ。だいたい息を吐きだすばかりだから力がへえらねえんだ、阿呆共が」
 皆、鎮まった。
 静まった。
 集中した。
 綱を引くことだけに集中した。
 方向転換するのか、鮫の引っ張る力が抜ける瞬間がある。間髪を容れずに引く。
 すぐに鮫は強靱な生存本能で、てつもない勢いで綱を引っ張る。
 そこで水夫たちは、きつく奥歯を食いしばって綱を保持し、しばし待つ。
 ふたたび力が抜ける。
 顔を歪めて息んで綱を引くと、鮫と水夫たちの力が拮抗する。息を詰め、次の力がぬけるときを待つ。
 乱れる波の音、それをりょうする甲陽丸の船体の軋み。それらを貞親は耳鳴りのように聴いた。やがて、たとえようのない静寂を感じた。無音よりも静かだった。
 保持し、引き──を繰り返して、綱はずいぶん手繰り寄せられた。けれど貞親は完全な無感覚の中にあった。
「くるぞ!」
 船頭が怒鳴った直後、鮫が頭から海面に姿をあらわした。
 鮫が姿を見せた。頭が出たと思ったら、跳躍した。逆光を浴びて全身が中空にあった。流れるような動きだった。ただし、それは健在だったころの甲陽丸の帆柱を凌駕する巨大さだった。
 時が止まっていた。貞親は鮫が左右の胸びれの前と後ろに綱を巻きつかせて怒り狂っているのを目の当たりにした。
 陽がその青黒い背に照り映えた。
 中空を舞った鮫が、甲陽丸を覆うほどの影をつくる。宙にある鮫を見あげていると、やはり時が静止したかのごとくである。圧倒的で、貞親は見惚れた。
「化けもんだ! 餓鬼共、ぶち当てられるんじゃねえぞ」
 船頭の声に、皆、我に返った。鮫は綱で巨体を斜めに縛りつけられた姿のまま、爆裂する波浪を残して、海中に消えた。
 何者にもへつらわぬ強さと底力が、鮫の姿には横溢おういつしていた。理窟抜きの圧倒的な力は気高く崇高だった。それでも超越した存在は、飢えた餓鬼共にほふられつつある。
「新しい船にはもりを積んどかねえとな。釣り針は役に立たんだろう」
 場違いな船頭の軽口を聞き流し、貞親は宙を舞った鮫の姿を反芻はんすうする。
 次に生まれ変わるなら、俺は、鰐になりてえ──。
 そんな貞親の思いを吹き飛ばす勢いで、海中を窺っていた船頭が唐突に声をあげ、鮫を罵倒した。
「てめえらも飢えた阿呆だが、こいつはもっと阿呆だ。舞えば、なんとかなると思ってやがる」
 鮫は先ほどとちがって深くまで潜らず、ふたたび跳躍の姿勢を見せていた。力を溜めこんでいる。その姿は見えぬが、船頭はそれを見抜いたのだ。
「いいか、てめえら。鰐が跳んだら、鰐が宙を舞ってるときに、死ぬ気で手繰り寄せろ。また阿呆な鰐が跳んでくれりゃあ──」
 皆までいわず、船頭は口許を歪めた。それが笑いであることを悟った水夫たちは深く頷き、掌の血でぬめる綱を摑みなおし、たるみをなくした。
 跳んだ。
 引いた。
 跳躍は中途半端だった。水夫たちに引っ張られて中空で体勢を崩した。
 最初に跳んだときとちがって、貞親の目には鮫の姿がくすんで見えた。
 屋倉板の上に、巨体が落下した。
 木片がぜ、鮫は折り曲げた軀を落としこんで、動きを抑えられた。甲陽丸はぐしゃぐしゃになった。
 ふたたび海にもどられたら、もう引く力は残っていない。掌は肉がげて骨らしきものが見えているのだ。貞親は祈った。──このまま船上にあってくれ。
 水夫たちが全力で引くなか、さらに船頭が碇綱を肩に背負い、大股で動いて一気に綱のたるみをとった。
 さらに船頭は熟練の技で、素早く帆柱の根元に綱を幾重にも巻きつけてもやいで縛り、鮫を船上に固定する。
 鮫は情況が呑みこめていないらしく、穿うがたれた穴のごとき丸い目をさらに丸くして、動きを止めた。黒い穴に見えるその目は、海水のないところではまともに見えていないような気配だ。
 背びれの前で縦に四、五筋ほど裂けているえらから、海水が派手にあふれでた。かおは尖端がやたらと尖っているが、胴体は丸々と肥えて艶やかだった。
 大きく拡げた口から、鋭角に尖った巨大な歯が無数に並んでいるのが見える。呑まれたら、人の胴など真っ二つだろう。鮫が口を閉じると、海水がないことからカチカチと金気をぶつけたような音が響く。
「餓鬼共、なーに見守ってんだよ、とどめをさせ!」
 水夫たちは我に返って道具を手に、鮫に群がった。貞親も錆びた脇差を振るった。
 海水に重なって肉片が飛び散る。
 血飛沫があがる。
 鮫が猛り狂う。
 尾びれが躍る。
 打ち据えられて甲陽丸が破壊されていく。
 ますます壊されていく。
 ひょっとしたら甲陽丸はかたちをうしなって沈むかもしれない。乗りかかった船とは、このことだ、と妙に醒めた気分で貞親は脇差で斬りつける。
 尾びれで打たれたかしきが落水しそうになったが、かろうじて踏みとどまった。碇捌が棍棒で頭を滅多打ちにしている。
「てめえら、素人か!」
 俺たちは漁師じゃねえ。漁師だってこんなでけえ鰐なんぞ相手にしねえ──と貞親は船頭を見やった。
 船頭は口に出刃包丁を挟みこんで、鮫の動きを見守りつつ頃合をはかり、いきなりその頭にまたがった。
 さく、さく、さく、さく──。
 力みなく菜を切るような音をさせて、鮫の首筋とおぼしきあたりに出刃を突き立てる。
 唐突に鮫の動きが鈍った。
 船頭は気を抜かず、無数に刺す。
 永遠に鮫の頭に出刃をぶち込む。
 尾びれが弱々しく船板を叩いた。
 鮫は事切れた。
 貞親以下、水夫は尻餅をついたまま放心していた。乱れに乱れた己の呼吸の音ばかりが頭のなかで、頭蓋のなかで響く。
 伏せっていた親司が、肘で這って様子を窺っていた。まだなにが起きたのか理解できていない。それでも鮫が動かなくなったことだけは悟った。
 じつは鮫狩りのさなかにも、なんの騒ぎだと様子を見るために必死で這い出たのだが、思いもしなかった光景に這った姿勢のまま後退し、はさみに逃げもどって恐怖に頭を抱えていた。
 そこに船板が重みで壊れて、巨軀が折れ曲がって、鮫の腹部が落下してきた。親司はかすれた悲鳴をあげ、両手を合わせて覚悟したのだが、もちろん誰も気付いていない。
 船頭は帆柱の根元に舫いで結んだ碇綱を落ち着いた手つきでほどいていく。貞親以下、水夫はまだ腑抜けていて、尻餅をついたまま動けない。
 もはや甲陽丸は船の態をなしていないが、鮫の巨軀を支えて、健気に浮いている。もっともその重量で喫水をはるかに超えている。海が荒れれば、お仕舞いだ。
 船頭は淡々とした手つきで、鮫を仕留めた包丁で、鮫の目の下、頬と思われるあたりの肉をこそげて親司に投げた。
 親司が目で問う。船頭の唇が、さしみ──と動いて、ニッと笑う。親司はむしゃぶりついた。美味いとか不味いといった贅沢な気持ちは一切湧かず、ただただ親司は血混じりの汁を吸い、歯が悪いことも忘れて、意外に分厚い脂身と白っぽい肉にむしゃぶりつく。
 貞親たちも飢えた親司の勢いに、幽かな笑みをうかべる。自分たちも腹の皮が背中にくっつきそうだが、それよりも巨大鮫をたおしたことからくる達成感に全身を支配され、安堵とも歓喜ともつかぬ心持ちで虚脱していた。
 ペちゃ、ペちゃ、ずーずー、ぺちゃ──。
 異な音がして、貞親は首をねじまげて鮫の背びれのほうに視線を投げた。
 爨が腹這いになって、流れでた鮫の血を舐めていた。貞親たちの視線にも気付かず、船板に顔を押しつけて、血をすすっていた。顔の下半分は血で真っ赤だ。
 貞親は船頭に顔を向けた。船頭は苦笑いしつつ、肩をすくめ、貞親に命じた。
「血をなんかに受けて溜めとけ」
 爨に椀などを持ってくるように命じるところだが、血に夢中で周囲がまったく目に入っていない。
 貞親は碇捌に視線を投げ、いっしょに膝に手をついてどうにか立ちあがり、桶や椀などありったけを鮫の傍らに運び、血を受け、船頭に勧める。
 船頭は、あとでいいと呟き、てめえらが飲め──と顎をしゃくった。
 皆は一礼して血を廻し飲みした。
 渇きが六割方といったあたりまでおさまると、先々を思いやれば、勢いで飲んではまずい。残しておかねばならぬ。加減しなければと理性が囁き、一息ついた。碇捌も貞親を見やり、ぐっとこらえた。
 味など、まったくわからなかった。ただただ、みた。手の甲で唇を拭う。船頭と視線が合った。船頭が爨を目で示す。
「肉、切ってやれよ」
「けど──」
「いいから」
「──へい」
 貞親は無表情に鮫の脇腹の肉を切り分け、命じられたとおり、まずは爨の眼前に邪険に投げた。さらに皆に鮫肉を分け与えていく。
 爨は礼をするのも忘れて、鮫肉を引き千切る勢いで口にした。それを見やる皆も軽蔑交じりの苦笑いを泛べ、愛おしむかのように両手で包みこんで鮫肉を口にした。
 碇捌も爨も凄まじい勢いで鮫肉を貪る。貞親も脳髄にまで染みわたるかの脂身の旨味に恍惚とした。肉そのものよりも血と脂を軀が慾していたことを悟り、層なす白い年輪のような鮫肉に加減せずに歯を立てた。
「いてっ」
「どうした」
「歯が抜けた」
 貞親は鮫肉と碇捌を交互に見た。壊血かいけつびょうで歯茎が壊死えししかけていて誰もが歯がグラグラなのだが、貞親は笑顔で揶揄やゆした。
「がっつくからだぜ」
「まったくだ」
 碇捌は抜けた前歯を指先でつまんで、もとにもどるわけじゃねえ──と呟くと、海に投げ棄て、ふたたび鮫肉に取りついた。
あにい
 爨の声に、貞親はゆっくり顔を向けた。
「美味くねえなあ、鮫は」
「──美味くねえか」
「ああ。不味い。小便臭え」
 鮫狩りのときもたいした仕事をしていなかったくせに、真っ先に船板に顔をつけて血を啜り、船頭の温情でいちばん最初に鮫肉を食わせてもらったのに、飽食したとたんに不味くて小便臭いとかしやがった。
 貞親は深呼吸した。
 真っ直ぐ爨を睨みつける。
「俺は、てめえのような奴が、大嫌いだ」
 いくら餓鬼でも、もう少しましなことが言えねえか。空気というものを読めねえか。
 貞親は爨から視線をそらし、怒りに呼吸を乱しながら、思う。
──命がけで仕留めたんだぜ。鰐は命を差しだして、ボロボロの俺たちの命を支えてくれてるんだぜ。それなのに、言うに事欠いて小便臭いときたもんだ。
 殴ったり蹴ったりするのもけがらわしい。顔も見たくない。
 爨は貞親の全身から放たれる怒りにひるみはしたが、貞親の様子を窺って、結局は勝手に鮫に穿たれた穴に指を突っ込んで肉をほじくりだし、飽かずに口に入れている。

次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回】
【第九回】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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