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新 戦国太平記 信玄 第七章 新波到来(しんぱとうらい)11/海道龍一朗

 九十
 
 戦いが動いたのは、駿するだけではない。
 武田勢の侵攻を知り、徳川とくがわまつだいら家康いえやすとおとうみへ侵攻を開始する。
 最初に標的としたのは、浜松にあるひく城だった。
 五千の兵で城を囲み、無血での降伏を迫っていた。
「城方からの返答はまだか?」
 徳川家康はいらった様子で訊く。
「まだにござりまする」
 さかただつぐしかみづらで答える。
「あの寡婦やもめはいつまで意地を張るつもりなのだ。まさか、籠城するつもりではあるまいな」
 家康が言った寡婦とは、曳馬城のあるじだったいのつらたつの妻、於田鶴おたづの方である。
 現在、城で兵を指揮しているのは、この女人にょにんだった。
「例の騒動で城内がもめているのやもしれませぬ。返答の催促をいたしまする」
 酒井忠次は苛立つ主君をなだめるように言った。
 浜松の重要な拠点となった曳馬城には、飯尾家にまつわる複雑な事情があった。
 元々、この城は今川いまがわ家の支城であり、飯尾家は今川家に臣従することで浜松を治めることになったのである。
 そして、おけはざの戦いにおいて今川よしもとが敗死した後、曳馬城の城主は飯尾乗連のりつらから嫡男の飯尾連龍へと受け継がれる。
 飯尾連龍は今川家の力が弱まったことを受け、離反した松平党とよしみを通じるようになった。
 これを内通と見た今川氏真うじざねは、三年前の永禄えいろく八年(一五六五)に曳馬城を包囲し、猛攻撃を加える。
 飯尾連龍は籠城でこれを凌ぎ、なんとか陥落だけは免れた。
 このいくさこうちゃくした後、今川からの和議勧告を受諾し、飯尾連龍は駿すんへ出向いたが、この和議そのものが謀略であり、駿府館で謀殺されてしまったのである。
 これ以後、曳馬城は飯尾連龍の妻、於田鶴の方を城代とし、さい江間えま泰顕やすあきと一族の者たちによって守られることになった。
 しかし、連龍の死の影響は予想外に大きく、城内は松平党と手を組むべきとする一派と、武田家と結ぶべきと主張する一派に分かれ、内紛の様相を呈した。
 いい城の秋山あきやま信友のぶともを通じて武田家と結ぼうとしたのが家宰の江間泰顕であり、当時の松平家康と内通しようとしたのが弟の江間時成ときなりだった。
 弟の不審な動きを察知した江間泰顕は、江間時成を暗殺する。
 だが、江間泰顕も時成の家臣だった小野田おのだろうに殺害されてしまう。
 ここに至り、曳馬城を支えるはずだった重臣はいなくなり、城のすべては於田鶴の方に委ねられた。
 この状況を見逃さず、徳川家康は浜松へ侵攻したのである。
「御大将! 於田鶴の方が開城はせぬと返答してきました!」
 酒井忠次の報告に、家康がきょうがくする。
「籠城して戦うというのか!?」
「おそらく、そのつもりかと」
「……正気の沙汰ではないな」
 家康があきれたようにつぶやく。
忠勝ただかつ康政やすまさを呼んでくれ。城攻めを命じる。かようなところで時を費やしている暇はない!」
 剛の者として名高いほん忠勝とさかきばら康政に曳馬城を攻めさせると決めた。
 永禄十一年(一五六八)十二月十三日、徳川勢は曳馬城に攻め寄せる。
 於田鶴の方は城兵を指揮し、固い籠城で奮戦したが、武骨者の大将に率いられた徳川勢の敵ではなかった。
 それでも、於田鶴の方は最後まで抵抗を続け、侍女十八名と共に討死し、曳馬城は陥落した。
「降伏すれば、女子供の命は助けると申したのに、なにゆえここまで意地を張ったのか。後味の悪い戦になったな……」
 曳馬城に入った徳川家康がぼやく。
「それでも早々に城を落とし、上首尾ではありませぬか。いの三人衆も当方につき、幸先も良い」
 酒井忠次が言ったように、この侵攻を始める間、いな郡の井伊谷三人衆と呼ばれる菅沼すがぬま忠久ただひさすず重時しげとき近藤こんどう康用やすもちの内応を取り付けていた。
 家康はひがしかわの菅沼定盈さだみつを使者に立て、同族の菅沼忠久を懐柔する。
 この菅沼忠久が鈴木重時を誘い、近藤康用までも取り込み、三人衆が揃って寝返った。
 井伊谷三人衆には、「仮に武田家が介入してきても見放さない」という起請文を与えていた。
 遠江の引佐郡に味方ができたことで、徳川勢は今川方の城が残っているはま岸を通らず、じん峠から井伊谷を抜けて曳馬城まで進むことができた。
 徳川家康はこの城を足場とし、遠江の国人衆に寝返りを呼びかける。
 十二月二十一日にはとう土方ひじかたにあるたかてんじん城々主、がさわら氏興うじおきとその弟たち、清広きよひろ義頼よしよりがこれに応じた。
 さらに、ふくろおう城(のう城)々主、久野宗能むねよしも味方につける。
 ここまでは家康の思惑通りに進んでいたが、思わぬ事態に見まわれる。
「御大将、大変にござりまする!」
 酒井忠次が血相を変えて駆け寄る。
「武田勢が駿府館を落とし、今川氏真が遠江の掛川かけがわ城へ落ちのびたそうにござりまする」
「なにっ!?」
 家康は驚きの声を発する。
「……なんというはやさだ」
「武田の先陣がさっ峠で今川の先陣を破り、そのまま駿府へなだれ込むと、氏真は一戦も交えずに館を捨てたようにござりまする」
「掛川城といえば、あさ泰朝やすともの居城か。そこに今川の本隊が入るとは……」
 これほど早い駿府の陥落は、家康の予想外だった。
 今川氏真は本隊を引き連れ、曳馬城の近くまで来ている。
 しかも、この城と指呼の間にある浜名湖周辺には、今川方の城が無傷のまま残っていた。
 浜名湖の西岸にあるほり城には大沢おおさわ基胤もとたね中安なかやす定安さだやす、北岸には堀川ほりかわ城に籠もる堀川いっ、西岸のやま城には大原おおはら資良すけよしらの今川勢がいる。
 掛川城に入った今川氏真に呼応し、これらの国人衆が勢いづくことは眼に見えていた。
 ――なんということだ……。今川の本隊が武田と戦っているうちに、浜名湖周辺の城を落とそうと考えていたのに、これではわれらが挟撃される形になってしまったではないか。武田勢はそれほど強かったのか?
 家康は己の誤算に愕然とした。
「座王城の久野宗能、高天神城の小笠原氏興と連係し、今川本隊の動きに備えねばならぬ。
忠次、井伊谷三人衆に早馬を飛ばし、堀川城に籠もる堀川一揆を攻めるよう命じよ!」
「承知いたしました」
「いきなり正念場を迎えてしまったか……。ここははらくくるしかあるまい!」
 家康は今川氏真の本隊を見据え、掛川城の周辺に付城つけじろを普請し始める。
 それに気づいた今川氏真は、十二月二十八日に西郷さいごうの付城へ攻め込み、大きな損害を与える。
 そして、両者が睨み合ったまま、永禄十一年(一五六八)が終わった。
 年が明けた永禄十二年(一五六九)正月二十一日、今川方の朝比奈泰朝が付城の天王山てんのうやま砦に攻め入り、徳川勢を敗走させる。
 これを受け、徳川家康は掛川城外の天王社路へ打って出るが、激戦の末に菅沼貞景さだかげが討死してしまう。
 それでも力押しを続け、ついに掛川城を包囲した。
 今川氏真は籠城の構えを取り、戦いは再び膠着する。
 そんな中、家康が耳を疑うような一報が飛び込んできた。
 秋山信友という武将が武田勢を率いて曳馬城へ乗り込んできたというのである。
「忠次、いったい、どういうことであるか。武田とはおお川を境とし、駿河と遠江を分け合うという約束ではなかったのか?」
 家康が酒井忠次に詰問する。
「……明確に、大井川とは申しておりませぬが。武田が駿河に攻め入る際に、われらが遠江を攻めるという約定にござりました」
「秋山信友とは、そなたが話をした相手か?」
「いいえ、それがしが話をしましたのは、御一門衆の穴山あなやま信君のぶただ殿にござりまする」
「まどろこしい!……とにかく、そなたが曳馬城へ行き、しなへ戻るよう話をつけてくれ」
「承知いたしました」
 酒井忠次はすぐに曳馬城へ向かった。
 当の秋山信友は城へ軍勢を入れ、何食わぬ顔で居座っていた。
 それを見た忠次が苦々しい面持ちで言う。
「それがしは酒井もんのかみ忠次と申し、武田家とのもうしつぎを務めており、そちらの穴山信君殿と同盟の話を進めた者にござる。そなたはここで何をしておられるのか?」
「それがしは秋山伯耆守ほうきのかみ、信友にござりまする。わが主君、武田信玄の命を受けまして、遠江へ別働隊としてまいりました。この城におられた家宰の江間泰顕殿とは昵懇じっこんの仲でありましたゆえ、とりあえず曳馬城を訪ねたという次第で」
 秋山信友はとぼけた口調で答える。
「武田家との約定では、大井川を境とし、武田家が駿河を、当家が遠江を攻めると決まっていたはず」
「はて、大井川を境とするという話は、信君からも聞いておりませぬな。もしも、さような約定があるならば、わが主君が遠江へ行けと命じるはずがありませぬ。それがしが聞いたのは、松平党と遠江を分け合うことになったという話にござりまする。われらの本隊が駿河へ攻め入った以上、今川は遠江へ逃げるしかないことはわかっておりました。それゆえ、それがしが別働隊として、ここへ来たわけで」
「されど、この城はわれら徳川家が落としたもの。そなたに居座られては困りまする」
「徳川家?……松平党ではなく?」
「わが主君は二年前の永禄九年(一五六六)に、朝廷のお墨付きを得て、松平から徳川に改姓しておりまする」
 酒井忠次は眉をひそめながら答える。
「あっ、さようにござったか。これは失礼をばいたしました」
「とにかく、兵ともども、この城から出ていただきたい」
「お待ちくだされ。せっかく同盟の約定も結んだことであり、しばらくここを足場とさせていただき、遠江に残っている今川方の城を落としたいと存じまする。それでよろしいか?」
「何を申されるか。今川氏真の籠もる掛川城は、すでに当家が包囲しており、他の今川方の城も順に落とす算段となっておりまする。どうか、お引き取りを」
「主君の命がある以上、それがしも手ぶらで帰るわけにはまいりませぬ。どうか、お構いなく」
 秋山信友の飄々ひょうひょうとした態度に、酒井忠次は苛立ち始めていた。
 実はこの二人、ともに大永だいえい七年(一五二七)に生まれており、今年でよわい四十三のおないどしだった。
「では、こういたしましょう。この件を信玄殿に確認し、そなたが手ぶらで帰ってもよいと返事をいただきまする。それでよろしいか?」
「では、返事があるまで、この城で待たせていただきまする」
 秋山信友は澄ました顔で答える。
 酒井忠次はすぐに確認の手配りに走った。
 秋山信友の別働隊が遠江に現れたことで齟齬そごが生じ、徳川家と武田家の間に不穏な空気が立ちこめ始めた。

(次回に続く)

【前回 】

プロフィール
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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