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海路歴程 第八回<下>/花村萬月

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 未来永劫晴れていることは、自然天然には有り得ない。
 貞親にとって自然天然とは、人の思惑など一切頓着しない超越だ。善悪とは完全に無関係だ。
 いや、自然は悪だ。
 だからこそ美しい。胸を打つ。
 洋上は不穏に充ちて、うねる。
 貞親は溜息を呑みこんで、乱れに乱れた波に隠された規則性を見抜こうと、意識を海に集中させる。
 晴れて凪いでいるときは、世界は穏やかに整然と動いているかに見える。けれど、こうして乱れはじめると混沌の乱舞で貞親を翻弄しはじめる。
 一定の方向に定まらぬまま、雪が斜め横に乱れ飛ぶ。垂れこめた黒雲のさらに上方から墜ちてくるかのように感じられる。
 やがて雪はみぞれまじりの氷雨に変わった。
 空の異変に気付き、貞親はぎこちなく顔をあげた。
 黒雲が内面から青白く発光し、やたらと膨張して見えた。
 直後──。
 海面に落雷した。
 一瞬のことなので大雑把に捉えただけで確信はもてぬが、洋上に同時に突き刺さった稲光は七つほどもあったか。
 無数に枝分かれした白銀が貞親の網膜に残像として残ったが、それが幾筋かは正しい判断ができず、けれどまだこのときは自身の判断の未熟さを恥じる余裕があった。
 銀白の光輝と雷鳴が同時に甲陽丸を揺らせた。大気が軋み、轟音が鼓膜に突き刺さる。耳が聞こえなくなって、耳鳴りが取ってかわった。
 無音の渦中で無意識のうちに、貞親は痩せた手の甲に浮かびあがっている血の管に視線を落とした。色こそ違えど、稲妻とのかたちの類似に息を呑む。
 雷鳴と風音と波の音がもどってきた。てめえの手なんぞ見てる場合じゃねえ──と我に返った。
 風と波を読むのに集中し、雷鳴に耳をやられぬよう両掌で覆い、片表と梶前に細かく、けれど自然天然が放つ途方もない轟音に負けぬ怒鳴り声で操船を指図する。
 波と風はなんとか読める気もするが、問題は落雷だ。
 雷は高いところに落ちると聞いた。金気にも落ちると聞いた。だとすると雷の狙いは甲陽丸ではないか。
 貞親は眉間に縦皺たてじわを刻んで帆柱の頂点にある滑車のせみ、そしてノギの銅板に視線をはしらせた。
 吹きすさぶ暴風に運ばれて、甲高い泣き声が聞こえた。幻聴かと思ったが泣き声は消えなかった。それどころか、いよいよはげしく大きくなって流れてくる。
 爨である。恐怖に狼狽うろたえて、泣きだしたのだ。貞親は派手に舌打ちした。
「泣きてえのは、俺のほうだぜ」
 風も波も、まして落雷も読めぬ。貞親は瞬時思案して帆を下ろせと命じた。
 甲陽丸の四囲に次々と落雷する。
 雷は、あきらかに甲陽丸を狙っている。
「とっとと下ろせ!」
 怒鳴った直後、さしが横っ腹あたりから身悶えし、乱れ、放射状の火花を放った。
 帆を操っていた水夫たちが弾け飛んだ。尻餅をついて、火傷した掌と帆を交互に見やって呆然としている。
 全身に雷が流れ、掌が赤膨れしたのは、はずを掴んでいた貞親も同様だった。
 ちろちろと揺れる朱が見えた。帆に落雷したのだ。
 やべえ──と顔を歪めたとき、むずかるかのように燃えあがった。
 暴風に煽られて、帆は盛大に燃えて焔や火の粉を不規則に撒き散らす。貞親の頭の上にも火の粉がかかる。鼻腔に木綿の燃える匂いが充ちた。
 乱れ飛ぶ霙に頬を打ちすえられながら、貞親は消火の指図をする。船頭が率先して鍋釜まで動員して焔を鎮めようとしている。
 そこに爨のかしましい泣き声が重なる。
 船首から離れられない貞親は、苛立ちに奥歯をみしめる。
 誰か殴って黙らせろ!
 念が通じたのか、親司が顎も折れよと加減せずに爨をぶちのめした。
 何事もない平穏なときは爨の抜けたところが好ましい気配を醸すこともあるのだが、命がかかっているときに泣き騒ぐことしかできぬ役立たずは、それこそ海にほうり込んでしまいたくなる。
 爨が這うようにして貞親のところにやってきた。
「歯を折られた」
 かおを血と涙と鼻水とよだれでくしゃくしゃに汚して、訴えかけてきた。
 貞親は思案した。ただでさえ掌を火傷しているのだ。殴ってさらに手を痛めて操船に差し障りがでてはまずいので、うえかんのに片腕を絡ませて転倒を防ぐ算段をして、爨の顔面をかかとで加減せずに蹴った。
 爨は顔中を血塗れにして膝をつき、貞親を見あげている。まだなにをされたかわかっていないのだ。
「もう一発、啖いてえか」
「哥、勘弁!」
やかましい。甘ったれるな。泣き騒いで船が無事なら、世話がねえ」
 まだ動こうとしない爨を怒鳴りつける。
「とっとと片表のところに行って手伝いやがれ! 火を消せ!」
 さんざん怒鳴り声で指図をしていたので、この一喝で貞親の喉は裂け、吐いた唾には血が混じった。
 四つん這いのまましりを向けて雷光を浴びる爨の姿を雑に追いながら、声にならぬ声でぼやく。
「あの莫迦は、まっこと使い物にならん」
 操船しなければ、と意識を荒れ狂う自然天然に振り向けながら、難儀だなあ──と、笑いのかたちに顔を歪める。
 雷。風。雨。
 三拍子揃ったそのどれもが常軌を逸した烈しさで、貞親はもはや笑みに似た泣き顔をつくることしかできなかった。
 先ほどまでは雪だった。そのせいでたいして濡れていなかったのだろう、帆は強風を浴びて一息に燃えつきた。
 船体に火は移らなかった。
 安堵したその瞬間だった。
 帆柱の周囲の船頭以下が銀白色に輝き、ぜた。
 貞親は見た。
 帆柱が、見えない太刀で真っ二つに裂かれるのを。
「──帆柱を叩き切る手間が省けた」
 開き直って言うと、船頭が転げそうになりながらやってきた。
知工ちくが炭になった」
 炭──と息を呑み、歳も歳だったから順番だと胸中で呟く。けれど心は引き千切れそうだ。胃の腑がじわりと痛んだ。大きくかぶりを振って、弱気を追い出す。
「船頭も髪が」
 怪訝そうな船頭の頭を、怒鳴り声で示す。
「チリチリだ!」
 雷鳴で耳をやられているので、どうしても声がでかくなるのだ。
 船頭は頭に手をやって、焦げて暴風にてんでんばらばらに散っていく頭髪をせわしなく見送り、苦笑いした。
禿はげがよけいに禿げちまった」
「──まげを切れなくなっちまったですぜ」
「だなあ。ま、俺は神頼みはせんから、どーでもいい」
「船頭」
「なんだよ、あらたまって」
「如何ともしがたい」
 貞親の本音であった。船頭は短く息をついて、またもや苦笑いした。
「つまり、どうにもならんと」
 貞親は雑に頷いた。
「こんなの、抗いようがねえですよ。もはや神頼みしかねえ。神仏にすがるしかねえ」
「てめえ、抜荷の罰とか言うんじゃねえだろうな」
「罰でしょう、これは」
「ま、そうかもしれんが、昆布だぞ。たかが昆布じゃねえか」
 船頭と貞親は、同時に船上に山盛りに積まれた昆布に視線を投げた。
「たかが昆布、投げますか?」
「なぜ投げなかった?」
「そりゃあ、抜荷だから、なんとなく」
「妙な奴だな。貞親のことだから、とっとと荷打ちしやがれって怒鳴るかと思って構えてたんだぜ」
「なんか気抜けしちまったような」
 船頭と貞親のやりとりが聞こえたわけでもあるまいが、親司が昆布を海に投棄する指図をし、皆がいっせいに昆布を投げ込みはじめた。
 昆布は粗筵で覆ってあるのだが、うねりの酷い海にしばらく浮いていて、やがてしずしずと海に呑みこまれていく。貞親は洋上に点々と落下する昆布を見送って、独白する。
「波も立ちゃしねえ」
「あ~あ、これでぜんぶ、おじゃんだぜ」
 潮で濡れた赤黒い顔を光らせた船頭が軽い調子で嘆き、さらに付け加える。
「甲陽丸のまわりは、ちょうどいい具合の昆布出汁だぜ」
「ははは。いくらいい出汁でも、塩気が強すぎまさあ」
「貞親はけっこう豪胆だよな」
「まさか。びびりが入ってますよ」
「奴らの狼狽えぶりを見ろよ」
 普段のだらけた動きからは信じられぬ機敏さで、爨が昆布を投棄している。貞親の視線に気付いた船頭が呟く。
「あの餓鬼、必死なとこがむかつくぜ」
「抛り込みますか」
「いや、昆布を荷打ちし終えるまで待て」
 船頭が貞親の顔色を窺う。
「おめえ、あいつを憎んでる?」
「いとおしんでるとでも?」
「いや。だが、抛り込むのはやめとこう」
「俺は船頭に従いますけどね」
「凄え殺気だったから」
「そうですかい」
「ああ。だが海にくれてやるのはもったいねえ。この先を考えて生かしておこう」
「けど、この荒天が鎮まったら、また、元のだらだら坊主ですぜ」
「うん。けど帆柱も裂けて割れて消えちまった。陸に近けりゃ甲陽丸を棄てて伝馬もだせるが、そうでなければ」
「難船」
「うん。食えるだろ」
「なるほど」
「どーみても糞不味いけどな」
「太らす餌もねえし」
「貞親も言うなあ」
「おっと、俺は食うとは言ってねえですよ」
「人、食ったこと、あるか」
「いまんとこ、ねえです」
 貞親はあき=秋田の出だが、飢饉に見舞われれば、人は人を食うことを熟知している。杉田玄白はのちぐさで飢饉の折、幼児の脳を食す方法を詳細に記しているほどである。船頭は貞親の苦いとも酸っぱいともとれる微妙な表情を一瞥して、囁くように言う。
「食わずにすませてえよな」
「船頭らしくねえ」
「莫迦野郎。おめえ、勘違いしてるよ。思い込みでものを言うんじゃねえ」
「ま、甲陽丸が流されねえことを祈ってますよ。船頭も酒が呑めねえんじゃ退屈でしょうからね」
「帆なんぞなくたって、骰子さいころはあるだろ」
「難船したあげく、ちんちろりんで取り分をぜんぶ船頭に捲きあげられちまったら、悲惨すぎる」
 船頭と貞親が自棄気味の莫迦笑いをしているのに合わせるように、雷が去った。風も弱まった。うねりだけが、まだ四方八方から押し寄せてくるが、じき収束するだろう。
「貞親」
「へえ」
「なんだ、その声」
「怒鳴ってたら、枯れちまった」
たんに血が混じってるぞ」
 貞親は顔をしかめ、喉仏を抓んだ。いまごろになって喉が酷く痛む。
「なあ、船頭」
「なに」
「なんで俺には、よくしてくれる?」
「そりゃあ、おめえが好きだからだよ」
「好きって──」
「なに、泡食ってんだよ」
 貞親は以前から、船頭の自分に対する気配を感じていたのである。けれど、こんなときでもなければ、とても問いかけることなどできなかった。
「船頭に衆道は似合わねえ」
「似合う似合わねえで、やるもんじゃねえだろ。しかし、好みってやつは隠しようがねえなあ」
「ぜってえ、御免ですからね」
「ちっ、振られちまったい」
 水夫たちは疲労困憊して踏込板の上に転がっている。貞親は船頭と言葉を交わしながら陸を探していたが、四囲は海しかない。ひたすら漠たる海である。磁石をのぞいて見当を付けたいが、酷く億劫だ。
「磁石見ても、無駄だろ」
「ですね」
 それでも貞親は、本針と逆針をたしかめることにした。
 二つの磁石で方位を定め、進路を決めるのだが、どちらも水没して、まともに方位を示さない。大坂の高名な職人がこしらえたものであるが、水抜きすれば使えるだろうか。
「哥。落雷すると、針がぐるんぐるん廻って揺れて、どうにもこうにも訳がわからんかった。一体なんなんだ?」
 片表の声が背後から届き、溜息が洩れた。一応水を抜いてみろと命じはしたが、もう役に立たぬであろうことを直感していた。
 目をかけている水夫を表の場所に据えて陸地を探すように命じ、知工が横たわっているところに行った。
 知工は、ほんとうにあちこちが炭になって事切れていた。どうやら軀の濡れた部分が炭化しているようだ。
 貞親は無表情になった。炭になった肉の合間から血の色だろうか、鮮やかな真紅の肉が覗いている。焼けた肉からは塩鮭を焼いたものと同じ匂いがした。湧きあがった唾が疎ましく、貞親は大きく顔を歪めた。
 知工は眼球が煮えたのか、見ひらかれた瞳は真っ白に濁っていたが、船頭が傍らに膝をついて瞼を閉じてやった。
 抛り込んどけと船頭が命じ、雑に手を合わせた。水夫たちの幾人かは半泣きだ。念仏を唱えながら、知工を海に投げた。貞親も手を合わせ、黙祷した。
 老いた知工は不満そうに仰向けで天を向いていたが、すぐにうねりに引きずり込まれていった。
 貞親は船頭と船尾に行き、梶を確認する。梶前の報せを聞く。
「梶を打折る暇もなかったか」
 貞親の呟きに、船頭が柄にもないことをかした。
「不幸中の幸い、かな」
 船頭が海面を覗きこむようにして梶を慥かめ、独り言のように呟く。
追波おいなみを受けずにすんだようだ」
「目に見える岩礁を避けたりするのには、使えますけどね。帆がねえんじゃ、如何ともしがたい」
 弁才船は、やたらと梶が巨大である。しかも支持するあれこれが貧弱だ。船尾を強い波浪が直撃すれば梶は不規則に暴れ、羽板などが簡単に壊れてしまう。
 積載量を上げるために弁才船は船首と船尾をもちあげて、船全体が反っている。
 船首よりも船尾が過剰に高くなっているから、海中に入れるために梶を大きく長くするしかなかったのだが、すべては極端な利潤追求、たくさん積むために操船には不都合な形状を採用しているのだ。
 船頭まかせにせず、貞親は自ら梶を覗きこみ、点検した。梶を支える大小のこしが千切れていた。次に追波を受ければ、梶は簡単に破壊されてしまうだろう。
 ふたたび荒天に捲きこまれ、二進にっち三進さっちもいかなくなれば、つかせといって帆をさげて風下に疾る算段をせねばならない。
 甲陽丸は帆を喪っているから細かな調整がきかぬにせよ、つかせをすることはできる。だが、これをすると強烈な追波をまともに梶に受けてしまう。
 それよりも──。
 梶が破損消滅しても、とりあえず沈みはしないが、梶が破壊されるときの衝撃により船尾の戸立に継ぎ足した外艫そとともに過剰な応力が加えられ、棚板と戸立の接合を緩ませてしまうことがままあった。弁才船の大きな欠点である。
 だからこそ、いよいよというときは梶を打折って抵抗を減じさせなければならない。接合が緩んでしまえば、海水が浸入するあかの道をつくってしまうからだ。
 船頭は不幸中の幸いなどと吐かしていた。いまのところ、淦の道はできていないようだが、もし漂流してしまえば、支えの綱などを喪った梶は、次にくる激浪であっさり破壊されてしまうだろう。
 前もって梶を打折っておいたほうがいいのではないか。
 貞親は思案した。悩んだ。
「また雷が迫りくることもあるめえ。こんどなにかあったら、たらしで流されるのを抑えこめる」
 都合のいい観測を独りごちて、梶から目をそむける。たらしといって、いかりを引いて船に制動をかけるやり方もあるのだ。雷云々は、落雷を恐れて水夫に碇を触らせなかったからである。
 梶は心許ない状態だが、そのままにしておくことにした。疲労が極限に達して考えるのが億劫になってしまい、判断力が喪われてしまっているのだ。
 貞親の肩から少しだけ力が抜けた。当人は投げたつもりもないのだが、自然天然の暴虐に対しては、人智など及ぶところではない。なるようにしかならんさ──とうそぶくように胸中で呟いた。
 雲が厚く垂れこめて、空はまったく見えない。冬の日本海ならではの重い空だ。
「この調子だと今夜も、北辰ほくしんが見えねえだろうし、まいったなあ」
 天を仰いだ船頭のぼやきが胸に刺さる。いぶされたような空がこの先も続くことは、経験から貞親にも肯えることであったからだ。
 陸は見えず、うねりが続いているので潮も読めず、夜になったとしても曇天が続き、北極星も見えないだろう──。
 大海原で方角が一切わからぬということからくる孤独は、尋常でない。俯きそうになるのをこらえていると、片表が水抜きした磁石を手にやってきた。
「哥。駄目だ」
 そうか──と呟き、先ほどから止まらなくなってしまった溜息を逆に呑みこむ。片表は泣き顔で訴える。
「本針と逆針がてんでんばらばらに踊っちまって」
 またもや船頭がぼやく。
「やれやれ。迷子か。しかし職人も雑というかなんというか、容れ物ばかり華美で、実際の役に立たねえ代物を売りつけやがって」
 憤懣やるかたない船頭の顔色を窺いながら片表が言う。
「美保関あたりまで来てたと思うんですよ」
 貞親は頷く。
「雷が落ちる前に、隠岐は大満寺山が一瞬見えたから、ま、そのあたりだろうが、どんだけ流されたか」
 息継ぎをして、付け加える。
「雷様が怖えから、たらしを控えさせたじゃねえか。だから途轍もない距離を流されたはずだ」
「哥。風はおおむねの方角から吹いてたような気もするが、磁石があれだから、ほんとうのところはわからねえ」
「とにかく、まだ陽のあるうちに遠眼鏡で陸を、山を見つけだせ」
 大きく頷いて、片表が離れていった。暮れてしまえばお手上げだが、とにかく方角を知りたい。陸を見つけだしたい。この胸を締めつけるように迫りくる不安と孤独を、解消したい。
 帆柱をなくした甲陽丸は、まだまだ収まらぬうねりに煽られて行方が定まらぬ。両脚に力を込めて踏んばって立っていた貞親は、異変を感じた。
「船頭。なんか傾いていねえか」
「やなこと、吐かすなよぉ」
 渋面の船頭を遣り過ごし、貞親は甲陽丸を調べてまわった。傾きは気のせいだったようだが、外艫の接合部から浸水が見られた。水船とまではいかないが、決してよい状態ではない。
 浸水は船体の中央よりも若干船首寄りの一番低い部分であるあかに溜まっていて、踝が隠れるくらいだ。
 甲陽丸にかぎらず弁才船は水密甲板がないので波高が烈しいと、あっさり海水がなだれこんでしまうが、尋常でないうねりではあったが、激浪が襲ってきたわけではない。
 貞親は淦水道かんすいどうを目視して、さらに指先まで使って船板の隙間をさぐっていく。
 表面が湿気以上の海水を含んでいた。
 間違いなく外艫の接合部だけでなく船体の接合部のどこからか、にじむように海水が這入り込んでいる。けれど外艫以外は特定できなかった。
 即座に水夫たちに命じて、すっぽんを用意させた。すっぽんとは、喞筒そくとう=ポンプのことだ。作動する音からきているのだろう。水夫が向き合ってすっぽんすっぽんいわせながら即座に汲みだし作業にかかる。
 船乗りは水という言葉を忌み嫌う。
 水のことを淦という。ぼんの仏前に供える水である閼伽あかからきているようだ。また船中に洩れて這入り込んだ水を、船湯と言ったりもする。
 海水をあえて言い換える心情の裏側には、海の水に対する恐怖が隠されている。
 海水を汲みだす柄杓を淦取りというが、爨はだらだらと淦取りを扱う。手抜きもいいところである。
 あれほど狼狽えていたくせに、一段落したらこのざまだ。貞親は明確な言葉にはできないが、爨には想像力とでもいうべきものが大きく欠けていると感じた。
 淦が歪んだ船板の隙間からじわじわと侵入してきていることがわかっていながら、だらけることができるのだ。
「逆に、いま、こうして手抜きできる性根が羨ましいぜ」
 隣にやってきていた親司が、貞親の独り言を受けた。
「あの餓鬼は足りねえんじゃねえ。ずるいんだよ。殴られねえ程度に手を抜くことしか考えていねえ」
「親司さんの遠戚と聞いたが」
「すまねえ」
「いや、親司さんを咎めてるわけじゃねえ」
「けどよ、皆の命がかかってるんだ」
 貞親は爨が味噌の蛆を箸でいちいち取り除いていたことを語る。
「あの餓鬼は、そういう、どうでもいいことだけは丹念にやりやがるんだ」
 結局は顔を見合わせて笑うしかない。こういう笑いは、なんと言い表すのだろうと貞親は目を上にあげて思い巡らせたが、なにも泛ばなかった。
 ただ貞親から見ると、いちばん下っ端の鬱憤を蛆に対して向けていたような気がした。加えて鬱憤だけでなく、さらに後ろ暗い性行が隠されているようにも思える。爨が長じて人を指図する立場になったとしたら、なにやら空恐ろしい気がする。
 陸も見出すことができぬまま、暮れてしまった。予測したとおり星も一切見えぬ。もはやなにもできないので皆、屋倉の中に軀を縮めて転がった。
 船頭ははさみに行かず、貞親の間近に横たわっている。貞親にしてみればくすぐったいような、照れ臭いような奇妙な気分である。
 片表が淦間にどれだけ海水が溜まっているか、覗きに立ちあがった。
 すぐにもどって、船頭と貞親に言った。
「収まってますぜ」
 そうか──とだけ貞親は答えた。木材は膨張と収縮を繰り返す。わずかの歪みならば、自然に直ってしまうこともある。されど過信は禁物だ。
 船頭が片表に酒を勧めた。片表は上棚に背をあずけ、嬉しそうに口をつけた。
「御苦労だったな」
「へい」
 貞親がニヤつきながら咳払いした。
「船頭。どうしちゃったんです。ずいぶん好い人になっちまった」
「うるせえよ。俺はてめえらの働きぶりを見てたんだよ」
「それで?」
「べつに」
 こんどは船頭が咳払いした。皆を呼び寄せる。呑め、呑めと濁り酒を勧める。
「船頭」
「なんだよ」
「俺は、今夜は控えとく」
「──すまん。みんな酔っ払っちまったら、いざってときにアレだもんな」
 片表が申し訳なさそうに濁り酒の欠け茶碗を置いた。遠慮せずに呑めと貞親は首を左右に振り、片肘をついて静かな息をつく。
 うねりはずいぶんましになり、船体が軋んでよじれる気配も消えた。
 それを悟った疲労困憊した水夫たちがいびきをかきはじめた。誰よりも大きな鼾をかいて皆の顔を顰めさせた知工は、もういない。

              〈以下次号〉

(次回に続く)

【第一回】  【第二回】  【第三回】  【第四回】
【第五回】  【第六回】  【第七回】  【第八回〈上〉】

花村萬月 はなむら・まんげつ
1955年東京都生まれ。89年『ゴッド・ブレイス物語』で第2回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。98年『皆月』で第19回吉川英治文学新人賞、「ゲルマニウムの夜」で第119回芥川賞、2017年『日蝕えつきる』で第30回柴田錬三郎賞を受賞。『風転』『虹列車・雛列車』『錏娥哢奼』『帝国』『ヒカリ』『花折』『対になる人』『ハイドロサルファイト・コンク』『姫』『槇ノ原戦記』など著書多数。

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