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メソポタミアのボート三人男 第六回/高野秀行

【第五回】

3-1 知られざるトルコ最大の「秘境」へ

 川下り第一部を終えた私たちは、第二部の舞台へ移動すべく古都ムシュを出発した。向かうのは西へ車で約三時間(ざっと二百四十キロ)離れたトゥンジェリという町だ。
 ムシュから離れるにつれ風景が変わってきた。緑が豊かだ。ポプラの木が風に揺れる。山の斜面も緑の草に覆われているところが多い。標高はユーフラテス川源流域(ムラト川流域)に比べると低いが、地形的にはかなりの山岳地帯。車は険しい坂を上り下りする。ごつごつした岩山の写真を撮ろうとすると、木に遮られてなかなかうまく撮れない。こんな経験は乾燥した土地が多いクルディスタンでは珍しい。
「昔、アナトリア高原は森や林の多い土地だったんやろう。他の場所では人間が全部木を切っちまったが、ここら辺にはまだ残ってるんやな」と隊長。
 ──秘境に向かっているのだ……。
 こちらの期待と不安をあおるように、レザンはクルドの民謡をかける。もの悲しい旋律が車内を流れて、窓から外へ消えていく。
 私たちが第二部の舞台を見つけた不思議な経緯を思い出さずにはいられない。
 メソポタミアの川旅の計画を練っていたとき、第一部はわりとすんなり決まったのだが、第二部でどこに行こうか、かなり迷った。一般的には川の幅が広くなるほど、旅の面白さは減じる傾向にある。言い換えれば、川幅が狭い方が面白い。自然や人の生活を身近に感じるし、変化に富む。だから上流よりは下流が、本流よりは支流の方がボートで下っていると楽しい。
 第一部ではユーフラテス川源流域を下ったので、次の第二部は支流にしようと考えたまではいいが、大河ティグリス=ユーフラテス川の支流は数え切れないほどある。もちろん、どの支流が川下りにいいかなんていう情報も皆無だ。

ユーフラテス川上流とムンズル川

 悩みつつも地図を仔細に見ていくと、ユーフラテス川(ムラト川)沿いのムシュからだいぶ西に下った辺りが山岳地帯になっていて国立公園のマークが記されているのに気づいた。
 自然が豊かな地域らしい。さらにネットでその地域の川とおぼしき画像を検索していったところ、一カ所だけ、ゴムボートが渓谷を下っている画像を発見した。色や明るさを加工しているのかもしれないが、緑に囲まれた青い素敵な川であるようだった。
「ここ、ええな!」と隊長が言う。私も興奮して「これ、どこだ!」と調べたら、トゥンジェリ県を流れるユーフラテス川の小さな二つの支流だった。じゃあ、トゥンジェリに行ってみよう! ということになった。それだけだ。
 ところがそのトゥンジェリがとんでもない場所だったのだ。かつて大虐殺が引き起こされ、今でも一般のトルコ人が近づかない特殊なエリアだった。
 その町もしくは地域のことを「トゥンジェリ」と言うと、クルドの人たちは苦笑する。失笑に近いときもある。あるいは哀しみの表情や親しみの表情が混じることもある。すごく複雑な微苦笑だ。ワッカス先生もそうだったし、レザンも、そしてこの後に出会うことになる、トゥンジェリの住民もそうだった。
 では何と呼べばいいのか。彼らは私の発言を笑ったあとで、必ずこう訂正する。「トゥンジェリじゃない。デルシムだ」。
 私も彼ら当事者の意思を尊重し、ここではデルシムで統一しよう。
 デルシムとはトルコでは特別な響きをもつ地名である。トルコ人にとってもクルド人にとってもだ。
 なぜデルシムがかくも特殊な秘境となっているのかを説明すると、トルコ共和国建国から現在まで続くクルド人問題とひいてはトルコという国の本質まで浮かび上がってしまうからだ。
 十三世紀から二十世紀の初めまで続いたオスマン帝国は多民族国家だった。公用語はトルコ語をベースとしつつ文法や語彙ごいにペルシャ語やアラビア語の要素をふんだんに取り入れたオスマン語である。スルタンはイスラム教(スンニー)における世俗の最高権力者だから、オスマン帝国とはイスラム帝国であり、イスラム教徒であれば民族や言語で差別されることは少なかった。誰もが自分の母語で話し、それらを出版することも自由だった。
 ところが、一九二三年にケマル・アタテュルクらトルコ人がオスマン帝国を打倒してトルコ共和国を建設したとき、彼らはヨーロッパ的な「国民国家」を目指した。具体的にはフランスを模範としたと言われる。フランスでは当時国民はすべてフランス人でありフランスの公用語はフランス語のみとされていた。その結果、フランス国内に存在したいくつもの少数言語や少数民族が消滅したり、著しく衰えたりした。
 当初、オスマン帝国を倒すためにトルコ人はクルド人の協力を必要としたため、アタテュルクらは新しい共和国の公用語をトルコ語とクルド語にするとか、クルド人の権利(クルディスタンの領土など)を認めると約束したが、実際にトルコ共和国が成立すると約束は反故ほごにされ、トルコの国民はすべてトルコ人、言語はトルコ語のみとされた。ではクルド人は? クルド語は? となる。クルド語とトルコ語は日本語と英語ほどにかけ離れた言語なのだ。それでもトルコ政府は強引に「クルド人は山のトルコ人」と決めつけた。クルド語は使用を禁止され、クルド人の権利を口にすることはタブー視されるようになった。
 実際のところ、もっと大きな問題は「支配」である。オスマン帝国時代、クルディスタンは部族社会(氏族社会)だった。アガという部族長のもとに多くの部族が割拠し、オスマン朝に帰属しながらも、事実上の独立を保っていた。治安維持も自分たちで行っていた。江戸時代の徳川幕府と大名のような関係を想像するといいかもしれない。
 もっとも、江戸時代の大名よりもクルドの部族は自由度が高かったと思われる。イスタンブルからはるか離れた東の山岳地帯(要するにティグリス=ユーフラテス川上流域)には帝国の支配が及ばなかったし、オスマン朝は隣の強国ペルシャ(サファビー朝)と戦ううえでクルド人の協力を必要としたので、関係性はむしろ対等に近かった。
 ところが新しく誕生したトルコ共和国は中央集権の国民国家だった。政府はクルディスタンの部族地域へ入って税金をとり、警察や軍隊を送り込み、トルコ語を教える学校を作ろうとする。自治を奪われるクルドの諸部族は強烈に反発した。結果として各地で武装蜂起が頻発した。ヨーロッパの支援を受けたトルコ軍は近代兵器を持っているので圧倒的に強い。ときには空爆や化学兵器をも用いて蜂起を鎮圧し、一般市民も大勢犠牲になった。その中でも最も悲惨な弾圧がデルシムで起きたのである。
一九三七年から三八年にかけてのデルシムの蜂起とその弾圧により、トルコ政府の公式発表によると(二〇一一年に当時のエルドアン首相〈現大統領〉が正式に謝罪した)、約一万三千人の一般市民が殺害された。しかしクルド人によれば、その数はもっと多くて、三万とも五万ともいわれている。
 その後、政府はデルシムをトゥンジェリと改めた。クルド人の存在をないことにしたのと同じように、デルシムなどという土地もなかったかのように振る舞ったわけだ。デルシムの住民を他所へ強制的に移住させるという手段も講じた。迫害や弾圧は続き、一九三八年にデルシムに発令された非常事態宣言は二〇一〇年までなんと七十二年間続けられた。非常事態宣言の発令下では逮捕状なしの拘束や拷問といった人権侵害が容易に起きる。
 なぜデルシムはクルディスタンの中でもそれほど過酷な迫害を受けたのか。それは住民の多数派が「アレヴィー」の信者だったからだ。
 
 アレヴィーはイスラム・シーア派の一派とされているが、教義や戒律を聞くと驚く。彼らはモスクに行かず、コーランを読まず、一日五回のお祈りもせず、ラマダン(断食月)に断食をせず、酒を飲むのは自由。
 これでイスラムなのか?と思ってしまうが、私が思うぐらいだからトルコでマジョリティを占めるスンニーのムスリムは当然そう思っただろう。アレヴィー教徒は一般ムスリムと異なり、酒を飲む人が多く、男女一緒にお祈りをするとされるからだろう、一般ムスリムの間では「アレヴィーの連中は神の前で酒を飲んで踊りながら乱交する」などといったデマが広く流布したとも聞く。その結果、「異端」あるいは「悪魔の信仰」としてオスマン帝国時代から何度も弾圧や迫害を受けてきた。
 トルコ共和国になってからも迫害や差別は続いた。共和国は建前こそ世俗国家で、信仰の自由があるはずだが、「トルコ国民は一つ 」という統一への強迫観念から他の宗教の存在を認めたがらないらしい。トルコ政府の公式発表では「国民の九十九パーセントがイスラム教徒」とされている。
 トルコにおける最も重要かつ深刻な問題はクルド人問題だと思われるが、二番目に重要かつ深刻な問題はアレヴィーじゃないかと思う。
 なぜなら、アレヴィーは単なる少数の異端ではないからだ。ブリタニカ百科事典によれば、トルコの全人口の一〇〜二〇パーセントいるとされる。二〇一八年のトルコの総人口は八千二百八十一万人だから、ざっと八百万人〜千六百万人もいることになる。一大勢力なのだ。後の話になるが、二〇二三年の大統領選挙に立候補したケマル・クルチダルオールという人物は自身がアレヴィー教徒であることを「カミングアウト」した。
 アレヴィーにはトルコ人のアレヴィーとクルド人のアレヴィーがいるという。ある人は「アレヴィーならトルコ人もクルド人も仲間だ」と言い、ある人は「全然ちがう」と言う。そもそもアレヴィーが何なのかあまりに諸説があり、よくわかっていない。
 いずれにしても、アレヴィーが異端の信仰として迫害されているのに、クルドも民族として差別を受けている。だから、アレヴィーでクルド人というのは、二重の差別対象になってしまう。トルコ政府側から見れば、クルドもアレヴィーもそれぞれ統一の邪魔者なのに、デルシムではそれらが二つセットで存在していることになる。そして、そうしたクルド=アレヴィーの総本山的存在が現在のトゥンジェリ県(かつてのデルシム中心部)なのだ。
 トルコでも最も山深い場所の一つだが、こんな奥地だからこそ他とはちがう信仰や民族文化が生き残っているのか、あるいは迫害を受けたからこんなところまで移り住んできたのか、どちらが先なのかはわからない。そして、その二重迫害の歴史と人を寄せ付けない地形のおかげで、現在はPKK(クルディスタン労働者党)の一大拠点となっているというのだ。
 トルコで「トゥンジェリ(デルシム)に行く」とか「行った」と言うと、相手がトルコ人であってもクルド人であっても「危ないんじゃないか」と言われるのはそのためだ。
 今回の川下りにおいても、ワッカス先生にいちばん心配されたのは第二部だ。われらがレザンも「治安がよくないし、軍が川下りを許可しないかもしれない」と言っていた。ただし、詳しいことは一切わからない。例によって、そんなところで川下りをしようなんて外国人はいないからだ。
 自然と宗教、政治のあらゆる要因からトルコ最大の秘境と化したデルシム。いったいどんな場所なのだろうか。今回の舟旅で最も予想が難しい。というか、川がきれいだという理由でそこへ向かっている私たちは阿呆なんではないかという疑念も脳裏をよぎる。
 だが、現実はわれら阿呆な川旅人を上回る展開を見せることになる。

3-2 多次元宇宙デルシム

 視界が開け、羊が草をむ丘が見えることもあり、風光明媚とも言えるがトルコとクルドの負の歴史を象徴する建造物が次々と姿を現す。
 ビンギョルを出て三十分ぐらい行ったところで、山の上に石造りの小さな小屋が見える。赤いトルコ国旗がはためいている。「コルジュだ」とレザン。前にも書いたが、トルコ政府から武器と給与を与えられ、PKK討伐を手伝うクルド人の民兵組織だ。
 つづいて、トルコ国旗の並ぶ「テロ記念スポット」。一九九〇年代中頃、バスに乗っていた国軍兵士が三十三人、無抵抗のままPKKに殺害されたという。当時は政府とPKKの間で和平交渉が行われていたが、この事件で完全消滅した。もっともレザンは「兵士はなぜか銃を持っていなかった。おかしい。政府の陰謀なんじゃないかという説もある」と解説する。和平交渉を決裂させるための政府の工作だったのではないかと疑っているわけだ。
 一七〇〇メートルの山を越えると、大きなダム湖が出現した。この辺りはトルコ最大の山岳地帯だ。険しい山々がそびえ、ユーフラテス川は流れが急になる。オスマン帝国の時代からクルド人やアレヴィー教徒の中でも最も中央政府の支配を拒否する人々が住んでいた地域の一つだ。
 一九六〇年以降、そこにトルコ政府がいくつも巨大ダムを造った。トルコの電力をまかなう水力発電を行うため、もう一つは農業用水の確保のためだが、同時に反抗的な住民を排除するという政府にとってまことに好ましい効果もあったにちがいない。
 ……それにしても──。
 と私は思った。ムシュを出てからいっこうにデルシムの醸し出す暗い秘境的なムードを感じない。ここも人造湖とはいえ水は美しく明るい。
 いつになったら、山深く静かで陰りのあるデルシムが現れるのだろうと思っていたら、全くそんなものはなく、デルシム(トゥンジェリ)の町に入っていった。トルコ国旗の三日月マークがひるがえる新しい大通りとその両脇に新築の巨大マンション群。同じように新しくできたばかりらしく、コンクリート造りの建物もキャンパスもピカピカしたムンズル大学。まいがしそうな新興都市ぶりだ。
 車はきれいな舗装路をすべるように走り、中心部に近づいていく。おそらくここからが旧市街なのだろう。急斜面にりっすいの余地もないほどに五階、六階建てのビルがひしめいている。まるで日本の人気温泉郷だ。
 だが、驚くのはまだ早かった。スロープを上がっていくと、また別天地が開けていたからだ。
 町はカラフルな看板やパラソルや人々であふれていた。男性はTシャツにハーフパンツ、サンダル。ムスリムは膝を見せることを嫌がるが、全くお構いなしだ。それもそのはず、女性の格好はさらに大胆。ヒジャブやスカーフをかぶっている人は皆無、ノースリーブやタンクトップが当たり前で、ホットパンツやサングラスを頭に載せた人もいる。しかも若い子だけでなく、年配の女性もそういう格好なのだ。
「何ですか、これ? 大観光地じゃないですか!」
「南仏のリゾート地みたいや」
 私たちは呆然ぼうぜんとした。車を降りて歩いてみても同じだ。ファッショナブルな造りのカフェでは洒落た雰囲気のムッシューやマダムたちがコーヒーを飲んだり、ゲームに興じたりしていた。コーヒー? トルコでコーヒーなんてイスタンブルのすごく高級な店でしか見たことがない。ふつうはお茶だ。

デルシムの街の裏通り カフェでゲームに興じる人々をながめていたらエスプレッソをおごってくれた。パリの裏路地の雰囲気がした。

「もしかするとここは最近何かの事情でヨーロッパ人に人気の観光地になり、バカンスシーズンの今、世界中から旅行者が押し寄せているんじゃないか?」などと私たちは思ったのだが、チェックインした小洒落たプチホテルのフロントで訊くと、「いえ、全部地元の人です」という答え。
 地元の人? 私たちは思考が停止してしまった。
 レザンが宿の人と言葉を交わし、私たちに説明してくれた。
「デルシムの人たちはトルコ国内でヨーロッパへ移住する人の割合がいちばん多くて、そういう人たちが夏休みに帰ってきてるんだ」とレザンが言う。やはりただの「地元の人」ではないのだ。
 彼らはヨーロッパ人じゃないかという私の勘も満更的外れではなかった。実際、彼らの大半はスイス、フランス、イギリス、ドイツなどヨーロッパ諸国の国民なのだ。トルコから難民として、あるいは移住して現地の国籍を獲得した人たちは二重国籍であり、その子どもたちは純粋なヨーロッパ人だろう。
 もともと非イスラム的な信仰の人々がヨーロッパへ行き、向こうの習慣や感覚に馴染み、それを持ち帰っているうえ、彼らはバカンス気分に浸っているので、なおさら開放的になっている──ということのようだった。
 アルコールのタブーもない。小さなスーパーには酒コーナーが充実し、冷えたビールもたんまり売っている。ホテルのルームサービスにもふつうに酒類のメニューが載せられ、一階にはカフェバーもあった。
「マジか⁉」と目が点になった。
 私たちは今回、全然酒を飲んでいなかった。もともとクルディスタンでは町でも酒を出す店は多くない。前にクルディスタンを訪れたとき、何度か村を訪ねたが、誰も酒を飲んでいる様子がなかった。日本の川では「飲酒運転」をいとわない山田隊長も、「何が起きるかわからないからトルコの川下り中は俺は飲まん」と言う。私も飲酒で村の人たちから白い目で見られることを避けたかった。だから今回、最初から酒は諦めていた。諦めると意外と気にならないもので、今まで忘れていたぐらいだが、いったん目に入ると話は別だ。スーパーのビールコーナーの前を通りがかったとき、比喩ではなく私の両足が突然ピタッと止まり、床に貼り付けられたように動かなくなったのには「心霊現象か⁉」と驚いた。その後、お筆先のように手が勝手に動いて何本か購入していた。
 犬が道端にのんびり寝ているのもクルディスタン/トルコのみならず、イスラム圏でも初めて見た。
「男女の徹底した分断」「酒をタブー視する」「犬を不浄と見なす」──イスラムには私が好きになれない要素が大きく三つあったが、ここでは全てが解決されていた。
 ここは私たちの知るクルディスタンではない。トルコでもない。全くの異世界だ。私にとって居心地のよい空間にちがいないはずだが、今の私が求めるものがこれかと訊かれたら「全然ちがう」としか答えようがない。

デルシムは本当にトルコ最大の秘境?? まるで南仏プロバンスの街のバカンスシーズンにまぎれこんだような風景。ナゾときは本文で

 しかし、秘境デルシムはさらに我々を混乱に陥れねば気が済まないようだった。
 昼食をとってから川下りの下見に出かけた。ムンズル川は下流(南)から見ると、デルシムの町で同じくらいの大きさの支流二つに枝分かれしている。西側(左)を行けばムンズル本流で、東側(右)を行けばピュルミュル川という支流になる。山田隊長はグーグルマップで両方の川の地形を丹念に調べた結果、支流のピュルミュル川の方が川幅が狭く、変化にも富み、川下りには適しているだろうと結論づけた。そこで我々はまずピュルミュル川を偵察すべく、車で川沿いを遡ることにした。
 川沿いに走る道路の入口に軍の検問所があった。兵士たちは防弾チョッキに自動小銃、ヘルメットでフル装備。戦場のようだ。
 私たちが川下りをしたいと言うと、兵士たちは「この先はPKKのエリアなので、トゥンジェリ(デルシム)県知事の許可を取らなければいけない。それに夜はPKKが出るので危ない」と言う。
 許可? 今さら無理だ。しかも危ないとは……。
 私たちは顔を見合わせたが、今日はとりあえず下見だけしようということで、兵士たちにもそう説明し、検問を通った。
 岩山が両側から迫る、クルディスタンでは珍しい渓谷だ。ところどころ崖が崩落し、荒々しい巨岩が転がっている。まさに秘境の趣じゅうぶん。川も舟で下るのにちょうどいい大きさと流れで、遠目からだが水もきれいなようだ。
 これは素晴らしい場所だと感心していたら、突然、またデルシムの異世界に突入してしまった。大きな岩壁を通り抜けた直後、ありえないものが目の前に広がったのだ。
 何十台もの車がぎっしり停められた駐車場、「海の家」みたいなレジャー感満載の建物、そして百人とも二百人ともつかない水着姿の男女。
 人々はデッキチェアに寝そべったり、川辺やプール(そんなものも作られていた)で水を掛け合っていたり、バーベキューをしたりしている。ビキニの女性までいた。
「ここは湘南か⁉」
 口がポカンと開いた。私と隊長が何十年もひたすら避け続けてきた超王道リゾート地ではないか。しかも川下りにうってつけのこんな素敵な渓谷で。
 ショックを隠せないまま、それでも意地になって、川の下見を続行した。人間は自分の希望に沿わない現実は見えないふりをする。私たちもそうだ。海の家を通り過ぎると、急に深山幽谷の趣に戻るので、あたかも何事もなかったかのように、「この瀬はちょっと難しい」とか「ここは岩が危険なので巻いた方(徒歩で迂回した方)がいい」とか川の様子をチェックし、来るべき舟旅について話し合うのだが、それをあざ笑うかのように、カーブを一つ曲がるとそれまでの山水画のような宇宙が消滅し、遊園地じみた歓声が飛び交う湘南的宇宙に突入してしまう。

ピュルミュル川の不思議な光景 川辺は湘南的リゾート観なのだが、国道沿いは完全武装の兵士と装甲車が見張っている。岩山のむこうにはPKKゲリラがひそむという。

 SFでいう「多次元宇宙」のようだ。
 川下りを行ううえでは、湘南状態よりもっと困るのは村がないことだ。ただでさえPKK出没エリアで治安に不安があるのだから、泊まる場所は絶対に村でないといけない。私たちはグーグルマップで小さな集落が点在しているのを確認していたからそこに泊まれると思っていたのだが、どうやらそれは湘南的「海の家」かリゾートレストランのことだった。
 なんてこった。こんなはずじゃなかった……。
 さすがに町から三十キロを過ぎると海の家は姿を消したが、同時に川はゴツゴツした岩だらけになり、水量は激減し、川下りには適さなくなった。いちばんの上流部には村が三つあったものの、すでに水は細い渓流にすぎず論外だった。
 とどめは最上流部近くに設けられた政府軍の駐屯地。第二次大戦中の戦場の野営地のような雰囲気で、まるで古めかしい布張りの天幕の下、「将軍」を名乗る年配の軍人が部下の将兵とお茶を飲んでいた。ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』に出てくるアウレリャノ・ブエンディア大佐を思い出してしまった。ブエンディア大佐は三十二回蜂起し、いずれも失敗し、ジャングルや山の中を彷徨さまよっていたとされている。彼らは政府軍だからブエンディア大佐とは逆の立場だが、このデルシムで八十年も「無益な戦い」に従事してきたという意味では似ているように思えた。
 ここでも「PKKがいるから危ない。知事の許可もいる。(川下りなんか)やめろ」と言われた。
 私たちはほぼ無言で立ち去った。車に戻るとレザンが言った。
「俺はこう言いたかったよ。『危ないのはあんたたちであり、地元の人たちはPKKを支持してる。外国人を狙ったりもしない』ってな。言えなかったけど」
 もっともレザンは別の理由から「川下りは危ないから止めた方がいい」と私たちを諭した。政府軍は最近、ドローンを使ってゲリラの出没地を攻撃し、ときどき地元の民間人が誤爆されるのだという。この年の春(四カ月ほど前)にはイランとイラクの国境に近いハッカリ県で軍の無人飛行機がピクニックに来ていた民間人三人をドローン攻撃で死亡させるという事件が起きた。政府は「彼らはテロリストと関係があった」とコメントしたのみで、詳しい説明は一切なしだったという。
 むうう。さすがにドローンに誤爆されて殺されたあげく、「この二人の外国人はテロリストと関係があった」の一言で終わらされたくない。
 この川は普通の人が普通に暮らす川ではない。物好きな旅行者が川下りをする川でもない。昼は湘南、夜は戦場という超特殊多次元空間なのだ。
 疲れと混乱で、頭が正常に作動しない。
 とりあえず、別の宇宙「飲んだくれOK宇宙」に戻りビールが飲みたい。ただそう思うのみであった。

ムンズル川流域の自然 短い夏を惜しむように草木は花をさかせ実をつける。鳥獣虫魚がエサを求めて集まりネイチャーコスモスが循環する
鋭く尖ったデルシムの山々
デルシム(トゥンジェリ)の町の食堂で食べた昼食。ナスとトマトの煮込みやヒヨコ豆ご飯がうまかった。
渓谷を流れるピュリュミュル川。美しい川ではあるのだが……。
歩道に寝そべる大型犬。イスラム圏でここまで犬が伸びやかに暮らしているのは珍しい。
ピュリュミュル川沿いにはクルド政党の旗がときどき掲げられていた。「PKK」という落書きも見かけた。
今回の旅で初めて飲んだ酒は、トルコの代表的なビール「エフェス」。

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プロフィール
高野秀行(たかの・ひでゆき)
1966年東京都生まれ。『幻獣ムベンベを追え』でデビュー。2005年『ワセダ三畳青春記』で第1回酒飲み書店員大賞を、13年『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞、14年同作で第3回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。他に『謎のアジア納豆』『アヘン王国潜入記』『巨流アマゾンを遡れ』『語学の天才まで1億光年』『イラク水滸伝』など著書多数。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で山田高司と共に植村直己冒険賞を受賞。

山田高司(やまだ・たかし)
1958年、高知県生まれ。探検家・環境活動家。1981年、東京農業大学探検部在学中に南米大陸の三大河川をカヌーで縦断し、「青い地球一周河川行」計画をスタート。85年にアフリカに渡り、セネガル川、ニジェール川、べヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川の旅を成し遂げる。他に長江、アムール川、黄河、メコン川、セーヌ川、テムズ川、ライン川、ドナウ川、ポー川、なども一部下る。1990年代から環境NGO「緑のサヘル」設立に参加しチャドで植林活動、1997年から四万十川の持続可能な国際モデル森林作りに参加し、2005年まで「四万十・ナイルの会」を主宰しルワンダでの植林活動。24年、イラクの巨大湿地帯探検の功績で高野秀行と共に植村直己冒険賞を受賞。

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