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作者の気持ちなんてわかるかよ!というあなたにこそ読んでほしい、文学士が語る文学入門

どうも。文学士のかいじゅうです。

ご存知の方も多いと思いますが、「学士」とは、大学で4年間勉強するともらえる学位です。つまり「このひとはこういうことを専門的に勉強したんやで」という証明です。で、わたしはある大学の文学部を卒業したので「文学士」という学位を持っています。

まあ、一般的に学問の世界で意味を持つ学位は「修士」以上ですから、わざわざ「学士」を名乗る機会なんて滅多にありませんよね。でもせっかく親が何百万円(ひえ〜……)も学費を払ってくれて得た資格なので、たまには、あえて、堂々と名乗っていきたいと思います。笑

どうも!文学士のかいじゅうです!

わたしは学生時代に文学を学んでいました。

一口に「文学」と言っても幅広いですが、わたしは文学も文学、文学部の文学科で日本文学を専攻していました。特に勉強していたのは近現代の日本文学で、芥川とか太宰とか漱石とか、いわゆる「文豪」はこの領域に入ります。

で、「文学部です」とか「日本文学を学んでいます」とか言うと高確率で聞かれるのがこれです。


「え、文学部って……何すんの?笑」


で、わたしがよく答えていたのがこれです。


「ずっと作者の気持ち考えてるよ。笑」


……まあこれは冗談なんですけど、「文学」という学問って、イコール小中高で習う国語の延長、って捉えられている節があると思っていて。

たとえば受験で問われるような、「傍線(1)が指す内容を答えなさい」とか、「『それ』が示すものを文中から15字以内で抜き出しなさい」とか、「この時の作者の気持ちを120字程度で書きなさい」ーーみたいな問答をずっと繰り広げている、というイメージをみなさんお持ちだと思うんですね。

はっきり言います。

「国語」と「文学」はまったくの別物です。

「国語」は、言語能力の問題です。実は私は先生として国語を教えていますがーー国語が苦手という生徒は、わりとこういうことを言うんですね。

「いや、作者の気持ちとかわかんないから」

「解答を見てもいつも納得できない。自分はそうは思わない」

この理屈は根本的に間違っています。なぜなら「国語」という勉強の本質は、「正しく言語を運用できるか?という訓練」だからです。最低限の語彙や文法が理解できないと、社会生活に支障が出ます。だから日本語という言語のルールを学ぶ必要があって、それが「国語」という教科なのです。

つまり国語の能力とは、人と正しくコミュニケーションが取れるとか、契約書がちゃんと読めるとか、履歴書に自己PRの文章を書けるとか、そういう実用的な力なのです。

なので、実は国語の問題が聞いているのは、「作者の(本当の)気持ち」なんかではありません。あれは、極端に言えば(あくまで極端に言えば、ですよ)日本語の「一例」として物語文が出題されているだけであって、聞いていることは徹底して「文章には何が書いてあるか」なのです。(だから先生は「文章をよく読め」って注意するわけ!)

想像しろと言っているのではなく、正しく読み取れと言っているんです。

作者の気持ちを「読み取ろう」とせずに「想像しよう」とする(国語的には誤った解答を出す)生徒は、むしろ「文学」しています。

文学とは、想像することだからです。本当の意味で、作者の気持ちを考えること。ある文章を読んで、そこに書いていないことを想像したり、その裏側にあるものを読み取ること(いわゆる行間を読む、ということ)。そして作品を解釈すること。それが文学だと、わたしは思います。

わたしが初めて「文学」を学んだのは、実は高校生の時です。

ちょっと変わった高校だったので、「国語」のほかに「文学」という授業がありました。選択授業のひとつでした。講師は外部から招かれた先生でした。その先生が、わたしの文学観をはっきりと決定づけました。なので、わたしの文学観は、いまでもその先生の教えに基づいています。

「文学」の先生は、みんなにある歌詞の一節を読ませ、「この時の作者の気持ち」を問いました。みんなそれぞれに想像して答えました。結構むずかしくて、意見はかなり割れました。かなり面白いことを想像する子もいました。一通りみんなの意見を聞いたあと、先生は「答え」を教えてくれました。

それは、その場にいた誰も予想しなかった、思いがけない、かなり拍子抜けするような答えでした。簡単に言うと、真実はほとんど「偶然そうなった」というようなことでした。さっきまで真面目に考えていたみんなは、ちょっとばかばかしくなって笑いました。

でも先生は、これが文学だ、と言いました。

作者の本当の気持ちと違ってもいい。読み取り、想像することで、新しい解釈が生まれる。新しい解釈が、作品を深める。だから解釈は自由でいいんです。先生はそう言いました。

「文学」の夏休みの宿題は、小説を一本書いてくることでした。夏休み明けの授業で、それぞれの小説を回し読みして、一人ずつ作者に感想を書きました。わたしの手元にも、十数名からの感想が届けられました。

詳細は省きますが(笑)、わたしは男の子が男の子に恋をするという内容の小説を書きました。ラストシーンで、AくんはBくんに告白をします。それでBくんは「ありがとう」と答えるんです。自分では優しい結末のつもりでした。それがいちばん適切な答えだと思っていから。でも感想の中に「Bくんの『ありがとう』という答えに、とても切なくなりました」と書いてくれたひとがいてハッとしました。わたしがハッピーエンドにしたつもりの小説を、そのひとは切ない終わり方だと解釈してくれたんです。とつぜんAくんのことが、いっそう愛おしく思えました。自分で作ったキャラなんですけど……。

解釈が自由であるということは、そして解釈が広がるということは、こういうことなんだと体感した瞬間でした。これがわたしの「文学」の原体験です。

だからわたしは、「文学」とは「作品を自由に解釈すること」だと考えています。もちろん解釈の仕方もいろいろあって、よりよい解釈をするために、作家についてよく調べたり、作品の歴史を学んだりするわけです。

そして、この「行間を読む」という能力は、生きていく上でいろいろなことに応用が利きます。そもそも実際の社会生活では1から100まで説明してもらえることなんて稀ですから、ちゃんと想像力を働かせて、相手の言葉と言葉の間にある想いを読み取る力が必要なんです。

陳腐な言葉で言うとそれは「思いやる力」ですが、わたしの好きな考え方に「武器を作るのは理系の仕事、それを正しく使うのは文系の仕事」っていうのがあります(どこで見たのか忘れてしまったけど)。結局「思いやり」がないといい社会にはならないんです。

文学部生っていうのは、そういう勉強をしているんです。

で、前述した通り、国語がキライだったひとというのは、実は「国語」ではなくて「文学」していた可能性があります。なので、そういうひとにはぜひ「文学」を学んで欲しいです。「文学」って、ほんとうは、すごく自由で楽しいものなんですよ。

ところが、現状、日本の教育機関で「文学」を教えてくれるのはなぜか大学だけだと思うんです。でも「文学部」なんて、国語が得意でもないとわざわざ行かないですよね(逆に、国語ができるから文学部に来たはいいけど、文学的センスが壊滅的というヤツもわりといる)。だから「国語」になじめなかった子どもたちは、どんどん「文学」をあきらめてしまう。本当は彼らにだって、「文学」できる力があるはずなのに。

それが悲しいので、わたしは「文学」を学べる場所をもっと広げたいと考えています。おとなも子どもも楽しく「文学」できるような、間口の広い、自由で楽しい文学教室をつくるのが、今のささやかな夢です。


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