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渡部さとる著書『じゃない写真 現代アート化する写真表現』を読んで

新宿西口にある本屋でこの本と出会いました。その日本当は息子の好きな本を買う予定でしたが、ついにアート・芸術の棚まで目線を行き、偶然この本と出会えたのです。

夫は日本で写真家を目指している人で、私はサポート役。スタジオの運営や作品作りなど二人三脚でなんとか4年目に突入。写真のアート化表現を二人でいろいろ模索する最中にこの本と出会えて、本当に縁だと思います。

買ってきた初日、夫はこの本結構お気に入りで、週末の二日間で一気に読み終わりました(一冊の本を全部読み終わることを私は初めて見る)。「この本は絶対読んだ方がいいよ、いろいろ写真業界のリアルな話しをしています。とても勉強になる」と勧められました。私はやることが多く、普段まとめた時間帯取れないですので、一週間朝早く起きて毎日朝の1時間〜2時間をかけて、丁寧に読み終わりました。10ページぐらいのノートもぎっしり書きました。

写真家を目指し、作品づくりに模索中の私たちにとって、本当にいろいろヒントをくれたり、視野を広げてくれたりした内容だと感じています。文章もとてもわかりやすく、私たち外国出身の人もらくらくに読めることができました。

日本写真の歴史

作者の渡部先生は報道カメラマンを経て、広告写真、ポートレート、作家活動をいろいろ経験した方で、日本写真業界の変容を身を持って経験してき方と本を読み終わって最初に感じたことです。新聞雑誌、写真集など紙媒体出版業の繁栄から、バブル経済下の広告業の膨張を経て、バブル崩壊後乱世中の写真家たちの模索、日本でのアート化する写真は独立な文脈を形成しつつ、徐々に国際的に注目されるようになるまで、渡部先生は自分が経験したことを交えながら、この日本での写真市場の変容も紹介してくれました。写真も写真家も時代の産物であると、時代背景を離れて写真や写真家を語ることが不可能だと感じました。こんなに谷あり、山ありに変化していた写真業界の中、渡部先生は写真と離れてることも一回も考えたことがなったです。途中で目の原因で元通りに写真を撮れなくなったにも関わらず、ワークショップを開催したり、写真集を出版し続け、一歩も写真と離れたことがなかったです。この写真に対する「愛」を私たちに伝わり、心から尊敬の意を湧いてきています。今回も本を出版し、私たちみたいな「後輩」に自分の経験から得た全てをシェアしてくださることに深く感謝しています。

なぜ写真は「じゃない写真」へ?

『現代写真にとって「わからない」はとても重要な「写真の要素」であり、強みでもある』

そして、「なぜ写真はそのような変身をしたのか」著作はこの問題を中心に論じています。

現代の写真は「記録」でもない、「決定的瞬間」でもない、「伝える道具」でもない、撮って何かを伝えるという時代は終焉を迎えていると先生は指摘しています。うつっているものは真実と限りなく近いが求めている写真の時代はすぎてしまい、今の作家たちの作品は、それとまっ逆な方向で、被写体依存から離れ、もはや真実性を持ち込まない、「説明しない、伝えることもしない写真」へと変わりつつある。この激的変わりの中に、たくさんの写真家の模索をこの本に紹介され、写真家たちのチャレンジによって次々へと写真の「地図」を拡張していくことを書いていました。この過程を読んでいくうちに日本写真の歴史も少しずつ頭に入ってきました。先輩たちの努力のおかげて、私たち今日写真を自由に遊べる世界があると痛感しました。

国際的な視野

一番大きな刺激を受けたのは、先生がたくさんの海外で主催するフォトフェスティバルへ写真展示やフォトレビューなどしにいくことです。今まで自分たちの作品は「日本人」を対象(わざと言わないですが、日本で写真をやると潜在的に思考は日本人対象となってくる)メインで考えていたのですが、海外のレビュワーからの視点ですと、日本人作家の作品はいかに日本特有な文化から生まれた不思議な存在、独立の文脈を持っていることがわかりました。これから写真家を目指す者として、日本を評価基準にするか、日本から飛び出し、もっと広い視野で世界の評価基準を目指すのか、出発点によってできる作品はまったく違うものになる可能性があると考えています。視点を変えることで自分たちの作品づくりに多大な影響を及ぼすので、まだまだ勉強不足の私たちは、これから力を入れて探究すべきことだと認識しはじめています。

「役に立たない写真」への疑問

本文引用:「何かを伝えるような役立つ写真は、徐々に必要性を失っていくだろう」

言い換えれば、今の写真は何も伝えない、役に立たない写真の方がこれから主流になるとのことでしょうか。

何かを伝えるという写真の役割を全て取り外すことに、やはり少し違和感を感じています。写真を見る側から考えれば、確かにこのように写真を解釈すれば、なんとなく作品をかわかりやすく理解(アクセス?の方が適切?)できるかもしれませんが、写真を創作する側から見ると、本当に何も考えずに伝えずに写真を撮ることが可能でしょうか。写真は文章や絵と同じように、表現の一種です。「表現」の道具としての存在です。なぜこの瞬間にシャッターを押すのか、きっと作者の意図や考え方を込めているはずです。何も伝えないように見えても、きっと作者から作者の外部へメッセージを発信していることになります。何かの動機があって、何か伝えたいメッセージがあるからこそ、作品を創作していると思います。ただこの動機やメッセージは見る側に伝えるかどうか(伝えたくないかもしれない)、どう伝えるか、どのルートで伝えるか(見る側とのコミュニケーション、テキストや空間づくりなど)、それは作者次第です。「役に立たない写真」、「伝えない写真」で「写真」を完結させたくないという気持ちはあります。

「自分でもよくわからないけど撮ったもの」本当にありえるでしょうか。シャッターを切るその一瞬、何も感情がないでしょうか。「自分がわかるが、言語や音楽、空間演出などどんな手段でも説明でない、説明しきれない」というもの(写真?)があると思います。

〜〜書籍情報〜〜

書名:じゃない写真 現代アート化する写真表現

著者:渡部さとる   

出版社:梓出版社

2020年1月24日 第1刷発行

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