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中曽根康弘と戦後保守─「風見鶏」と言われた政治家の死について

巨星墜つ─中曽根康弘の死

 先月11月29日、元首相の中曽根康弘が死去した。101歳であった。
 中曽根の死後、作家やジャーナリスト、政治記者、学者、評論家など、多くの人が中曽根の死を弔い、各方面から追悼の記事や評伝が発表された。中曽根については毀誉褒貶あり、中曽根の追悼記事や評伝の内容も様々であった。それも含めて間違いなく大人物であったのだと思わされる。巨星墜つ─たしかにこの言葉がふさわしかろう。

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「ロン」「ヤス」と呼び合った米大統領のレーガン(左)と:J-castニュース2019.11.29

 しかし、どのような追悼記事も評伝も自由だが、政治家の死にはおためごかしの物言いやお世辞は無用である。まして事実に基づかない記事や、政治的成果や手腕、方針を曲解したり、当てずっぽうの評伝は許されない。
 事実として、中曽根を何か良質な保守政治家かのようにいい、戦後保守のレディティマシーの思想の持ち主であったかのような評伝が発表されている。しかし、中曽根は本当にそのような政治家であっただろうか。その評者は服部龍二という日本政治史研究の泰斗で中曽根政権研究でも著名な人物の著書を参考文献にしているようだが、服部の分析をつまみ食いしながら、都合よく服部の分析を離れ、服部の分析タームにはない思いつきのような自説の開陳に終始している。
 ことさらに故人を非難する必要はないが、贔屓の引き倒しはむしろ故人を冒涜する行為だ。冷徹な批判、峻厳な政治的評価こそ、政治家の死に対するせめてもの弔いではないだろうか。
 左右両翼から「死」を宣告されていた中曽根は、しかし101歳まで生き、大往生といわれるようなかたちで天寿を全うした。その人生には、一定の<真>を見る必要があるのかもしれない。無論、筆者に中曽根の評伝を記すなど手に負えない作業ながら、憲法や防衛、外交など中曽根の政治方針の変遷を振り返り、中曽根がけして戦後保守の代表格たる人物ではなく、「風見鶏」として戦後保守政界を、そして戦後保守思想を右往左往していたといういささか皮肉な評価を中曽根に贈ることにより、その一生に敬意を表し、またその死を追悼したい。

「マック憲法迎えたり」

 中曽根といえば憲法改正が悲願であったといわれている。実際に中曽根は、昭和31年の自主憲法期成同盟発足にあたり、「嗚呼戦いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す 平和民主の名の下に 占領憲法強制し 祖国の解体計りたり 時は終戦六ヵ月」なる歌詞を一番とする「憲法改正の歌」を作詞するなど、その情熱は並々ならぬものがある。また「憲法改正の歌」の五番には「マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり」とまで謡われ、敗戦と占領に端を発する中曽根の怨念のような憲法改正の強い意志を感じる。
 しかし、中曽根の憲法改正論、あるいは憲法改正のための政治的行動は、けして一貫したものではなかった。
 例えば中曽根は、昭和24年の衆議院本会議において、当時首相を務めていた吉田茂を批判する演説のなかで、平和主義・戦争放棄を尊重するなど、平和憲法擁護の考えを示している。中曽根はいう、

われわれは新憲法を制定して、われらの安全と生存を諸国民の公正と信義に託し、戦争放棄を厳粛に宣言したのであります。[略]一国の総理大臣たる者(吉田のこと─引用者註)が軽々にこの国民の総意に対して疑義を表明し、しかも国民代表の質問に対してなんらの説明をなさないということは無責任も甚だしい。憲法に表明された日本国民の平和主義、戦争放棄宣言を冒涜するものとして、誠に遺憾の意を表明する次第です。

 と。
 しかし、朝鮮戦争勃発後、中曽根は再軍備を主張し始めた。当然、それは戦後憲法との対決につながってくる。また、鳩山一郎政権時代は自民党副幹事長としていわゆる「押しつけ憲法論」をもって憲法調査会で改憲を訴えるなどした。
 けれども中曽根は首相に就任すると、「現内閣で改憲を政治日程に乗せる考えはない」と述べ、現実主義的な対応をとっている。また中曽根は、憲法の基本的人権の尊重や平和主義を評価している。首相退任後、やはり中曽根は憲法改正をある種のライフワークとしているが、平成9年の憲法施行50年にあたり、元首相の宮澤喜一と憲法改正について対談し、

あと10年ぐらいかけて今の憲法を総点検し、次の時代のうねり、歴史の展開に対応する構えをつくったらいい。

と論じた。改憲に否定的な宮澤を相手に10年かけて改憲の道筋をつければいいといった中曽根の発言は、楽観主義で「未来は考えない」という中曽根らしいのかもしれないが、どこまで改憲に本気だったのかの疑いも浮かぶ。
 憲法改正という中曽根の悲願の真意は奈辺にあったのだろうか。

自主防衛と日米安保

 朝鮮戦争勃発に伴う再軍備論に明らかなように、吉田政権時代の中曽根は自主防衛路線を主張している。中曽根は、吉田の旧安保条約締結に舌鋒鋭く反対し、「日本自衛軍創設」「日本自衛軍の増強」や日米安保を「対等の同盟」とすることなどを訴え、それによるところの「真の独立」や米軍の撤退を求めた。例えば昭和25年10月、芦田均の応援演説で中曽根は、

一国の防衛の基本は、自らの意思で、自らの汗でやるべきです。いずれアメリカと同盟するにしても、日本は相応な再軍備をして、できるだけアメリカ軍を撤退させ、アメリカ軍基地を縮小しなければならない。

と訴えている。
 こうして中曽根は吉田以来の日米安保・軽武装路線を批判し、鳩山政権の自主防衛路線を担っていく(ただし、鳩山政権の防衛政策は、実際には吉田路線を引き継いでいる)。
 中曽根は如上の自主防衛路線を昭和40年頃まで主張していくが、佐藤栄作が首相に就任したあたりから、中曽根の主張は変遷をはじめる。それというのも、中曽根は佐藤の対立候補であった藤山愛一郎を支持していたが、佐藤が中曽根に協力を要請したため、中曽根は政治戦略の観点から佐藤政権の運輸相や防衛庁長官に就任するなど、自民党内での中曽根を取り巻く政治情勢がかわり、中曽根としても佐藤はじめ党内主流派の防衛路線に気を遣わざるを得なくなっていったためである。
 すなわち中曽根は昭和45年、防衛庁長官として渡米し、ニクソン政権の外交・安保を担当する主要閣僚などと会談し、意見交換を行っているが、そこで中曽根は日米安保は日米の「結合と友好の象徴」とし、「そのまま維持されるべきだ」としている。
 例えば中曽根はレアード国防長官との会談において、

条約(相互安全保障条約、日米安保条約─引用者註)は、そのまま維持されるべきだと考えている。私が防衛庁長官に就任する以前、1975年に相互安全保障条約は再検討されるべきだと私が述べたという噂があった。しかしながら、相互安全保障条約は太平洋における日本の安全保障にとって不可欠であるとかたく信じていることをいま明確にしたいと思う。

 とまで述べ、さらには米国の核の傘の必要性にも理解を示しているのである。
 もちろん中曽根は、通常兵器による自主防衛の必要性を説くことをやめたわけではない。しかし、中曽根は、その自主防衛は日米安保を否定するものではないとも説明している。中曽根構想といった自主防衛の構想もあったが、それは実現することはなく、結局は日米の役割分担という側面が大きいカッコつきの「自主防衛」が展開されていくことになる。

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護衛艦「しらね」に乗船し、海自観閲式に臨む中曽根:時事ドットコムニュース2019.11.30

 忘れてはならないのは、防衛庁長官時代、中曽根は沖縄の施政権返還に関連する自衛隊の沖縄配備を進めたことである。当時の琉球政府の行政主席であった屋良朝苗は、沖縄戦の記憶という観点とともに、米軍の肩代わりとなるような自衛隊配備は必要ないとして自衛隊沖縄配備に反対した。中曽根は自主防衛という観点で自衛隊の沖縄配備を進め、実際に沖縄に配備された自衛隊は沖縄の局地防衛を担うわけだが、結局は中曽根自身が日米の役割分担という防衛方針に行き着くなかで、現在では沖縄の自衛隊はまさしく屋良の危惧通り、米軍の肩代わりとして宮古・八重山地域でミサイル部隊を展開しようとしている。

中曽根と原子力、そして核武装

 米国の核の傘の話が出たので、中曽根の原子力政策と核武装の問題にも触れたい。
 中曽根は終戦の年の8月6日、高松から広島への原爆投下による大きな白雲(いわゆるキノコ雲か)を見たという。中曽根は地質学者の岳父からウラニウムの日本埋蔵の話や原爆開発の話を聞いており、若い頃から原子力に強い関心を持っていた。そのため広島原爆投下も白雲を見た瞬間、「これが原子爆弾か」と理解したそうだ。そんな中曽根は昭和34年、岸信介内閣の科学技術庁長官に就任し、宇宙開発とともに原子力研究や原子力発電など原子力の平和利用を推し進めることになる。
 中曽根にとって原子力は、発電や原子力を動力源とする船舶の開発など、エネルギーの確保という意味合いが強かったようだ。そしてエネルギーを確保し、また最先端の技術で日本が先進的な立場を確保することにより、日本の国際的な地位を上昇させたいという考えがあった。
 もちろん中曽根には、原子力の軍事利用という考えがないではなかった。例えば中曽根は原子力政策を進めるなかで、原潜などの開発の余地も残しておいたと自身で振り返っている。けれども、これもまた大きくいえばエネルギーの確保というものであり、ただちに核兵器の開発・核武装というものにはつながらない。
 実際に中曽根は上述の防衛庁長官としての渡米時、ジョンソン国務次官との会談において、米国の核の抑止力により「日本が核兵器を核とする必要性がない」と述べるなど、一貫して米国の核の傘の下での日本の非核武装を主張している。

保守本流? 保守傍流? 中曽根の外交政策

 中曽根はアジアに目を向けたといわれている。確かに中曽根は首相就任後、初の外国訪問先に韓国を選び、40億ドルの借款を提供し、当時の韓国大統領である全斗煥との個人的な信頼関係も築くなどしている。中曽根は晩餐会の際、韓国語でスピーチをし、涙ぐむ韓国要人もいたそうだ。全は中曽根に日本語で「ナカソネさん、オレ、アンタニホレタヨ」といったという。
 また中国を重視した外交も展開し、鄧小平から紹介された胡耀邦とよい関係を築いた。胡は中南海の自宅に中曽根夫妻と長男弘文夫妻を招き、会食した。テーブルには中曽根の好物である卵焼きと栗きんとんが並べられ、胡の夫人や子、孫も加わったという。

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首相として韓国を訪問し、全斗煥(右)と対談する中曽根:産経新聞2019.12.2

 とはいえ、こうした中曽根外交は、戦後政治において特別異質で特殊なものとはいえないだろう。
 そうというのも、中曽根の二代前の首相である大平正芳は環太平洋連帯構想を掲げ、大平の没後、その構想と取り組みはAPECとして結実するほどの先進的な外交を進めている。
 それとともに、中曽根はアジア外交を重視しなければならない現実的要請があった。すなわち大平の次に首相を務めた鈴木善幸は外交を不得手としていた。そうしたこともあってか、鈴木は日米関係を悪化させかねない失言をし、外相が引責辞任するなど政権は外交面で不安を抱えていた。また歴史教科書問題が日中・日韓関係の火種となるなどしており、特に韓国とは借款の問題が外交上の懸案となっていた。
 こうしたなかで鈴木の跡を継いだ中曽根が、対米外交はもちろん、対中・対韓などアジア外交を重視したのは当然といえば当然の成り行きである。
 それとともに、中曽根の対中外交はソ連を封じ込めるという対ソ外交を念頭においたものでもあり、大きく見れば吉田茂・池田勇人以来の保守本流の外交方針を受け継ぐものであるということも忘れてはならない。
 戦後の日本外交は大きく二つの外交方針に類型化されるといわれる。その一つが上述の日米中が連携し、中ソを離間させ、ソ連を封じ込めるという吉田茂以来の保守本流の外交であり、もう一つが日米中ソの協調、就中、米ソ両大国の接近とその潮流に日中が与することにより世界の安定を目指すという、鳩山以来の特に岸や福田赳夫など反吉田茂・保守傍流の外交といわれる。
 こうしたなかで中曽根は保守本流の外交方針に近づいてみたり、時に反吉田の姿勢をとってみたりと揺れ動きながら、全体としては少しずつ保守本流の外交方針に近づき、対中関係を重んじるのであった。
 ただし、繰り返すようだが、それは中曽根にとって反ソを主軸とするための対中外交であったことは忘れてはならない。中曽根は日記に次のように記している。

日米──基軸。この成果によりアセアン、欧、中を固め、ソに対す。
ソとの冷却は覚悟、あまりに日本をナメテいるので、強硬を維持する。然し、対話路線は常に明示す。

 中曽根は確かに内政より外交を重視し、大きな外交的成果をあげていくが、それは中曽根が際立って特殊で、これまでの自民党や政権にはまったくあり得なかった外交政策を打ち出したということではない。まして、中曽根は保守本流の外交方針を自らのものとしていくにあたり、例のごとくあっちへうろうろ、こっちへうろうろと右往左往しつつ態度を変遷させている。

国家的見地─国鉄分割・民営化について

 中曽根といえば国鉄分割・民営化など三公社民営化がよく知られている。中曽根は鈴木政権時に行政管理庁長官を務め、行財政改革に励んだ。中曽根は総理府に諮問機関として第二次臨時行政調査会を設置し、経団連会長の土光敏夫を調査会の会長に任命した。第二臨調や土光臨調などともいわれる。

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土光臨調で会長を務めた土光(左)と:時事ドットコムニュース2019.11.30

 このころの日本はオイルショックを国債発行で乗り切ったため、国債発行残高が積み上がっていた。そうしたなかで中曽根と臨調は「増税なき財政再建」をスローガンに掲げ、国鉄・電電公社・専売公社の民営化の方向性を打ち出し、中曽根政権において自らそれを実現していくのである。
 また、こうした臨調を設置し有識者・国民の声を引き寄せ、そこでの結論を政治のリーダーシップで実行していくシステムは、首相となった中曽根が「大統領的首相」として多用していく審議会政治の先駆けでもあった。
 中曽根の国鉄分割・民営化について、国労つぶし、ひいては総評つぶし、そして社会党つぶしという見方がある。中曽根自身も国鉄分割・民営化の意義としてそのようなことをいっており、そのこと自体は否定しない。ただ、たったそれだけの理由で中曽根が国鉄分割・民営化を行ったとは到底考えられない。
 実際に国鉄は22兆円ともいわれる莫大な債務を抱え、毎年政府が支援のお金を都合しているような状況であり、国鉄改革・再建は必ずやらなければならないものであった。また国鉄改革には自民党の運輸族なども抵抗しており、中曽根にとって政治生命をかけてやらねばならないほどの課題であって、ただの「組合つぶし」といった軽いものではなかった。
 中曽根は「国家的見地」からものを見て、族議員というものを乗り越えようとしていたといわれる。三公社民営化は、そうした中曽根の国家主義的な改革と見るべきではないだろうか。他方、中曽根は当時の国土庁長官であった金丸信が進めていた群馬県長野原町の八ッ場ダムの建設については、自身の選挙区である長野原町の住民が建設に反対していることから、ダム建設に待ったをかけており、そこには国家的見地はない。こうしたところも非常に中曽根らしい。

おわりに

 以上、政治家としての中曽根の政策や思想、歩みについて、憲法や防衛、外交などにしぼって振り返ってみた。自民党内での派閥抗争といった権力関係、またプラザ合意など中曽根の経済政策なども深められればよかったのだが、いずれにせよこうしてみると「大勲位」「国士」「青年将校」などと呼ばれた中曽根だが、政策や思想を政局と権力関係のなかで変遷させていった、まさしく彼のもっとも有名なあだ名である「風見鶏」「変節漢」というのがふさわしい人物であることがわかる。
 冒頭述べたように、中曽根の死後、あたかも中曽根が戦後保守のレディティマシーのような存在であり、保守思想の体現者で、良質な保守のように見なす評伝もどきを見かけたが、彼はそんな立派な政治家なのであろうか。その評伝では、特に中曽根がアジア主義者新右翼、対米自立を戦略的に段階化して虎視眈々と狙う人物であり、国鉄分割・民営化も組合つぶしのためであって、けして新自由主義者ではない、すなわち中曽根は「保守」だというのである。
 中曽根が戦後保守政界の大人物であることに異論はないが、とはいえ彼こそが戦後保守の代表格であり、もっともオーソドックスな保守政治家であるとはいえないことは、これまでの中曽根の歩みを振り返るなかで明白かと思う。
 ちなみに、中曽根を保守だ何だと持ち上げているその評者は、他にも辺野古新基地建設を容認したり、沖縄戦は捨て石作戦ではなかったなどとする記事も執筆している。過去には韓国人差別の言説を弄しており、悪質かつ危険な人物である。このたびは自身が功成り名遂げるためには死者の亡骸に手を突っ込み、己のいいように腹話術をするなど、人間のすることではない。
 「風見鶏」と言われた政治家の死。
 どこまでも「風見鶏」であったと評価することが弔いなのではないだろうか。

参考文献

・服部龍二『中曽根康弘 「大統領的首相」の軌跡』(中公新書)
・佐道明広『戦後日本の防衛と政治』(吉川弘文館、2003年)
・増田弘『戦後日本首相の外交思想』(ミネルヴァ書房、2016年)
・中島琢磨「戦後日本の『自主防衛』論─中曽根康弘の防衛論を中心として」(九州大学法政学会『法制研究』第71巻第4号)
・井芹浩文「歴代首相の憲法観─せめぎ合う改憲派・護憲派・現実派─」(『崇城大学紀要』第39巻)
・張軍平「日本の安全保障に関する中曽根康弘の主張と取り組み─与党議員から防衛庁長官になる直前にかけて─」(『広島法学』第42巻第4号)
・李炯喆「中曽根康弘とアジア」(『長崎県立大学研究紀要』第16号)
・成田千尋「沖縄返還と自衛隊」(『同時代史研究』第10号)
・田中一昭「中曽根行革・橋本行革・小泉行革の体験的比較」(『年報行政研究』第41号)

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