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歴史の情報に流されず

もうすぐ8月15日がやってくる。この日はいわゆる終戦記念日。全国各地で戦没者を追悼する慰霊行事が行われる。

同時に、多くのメディアによって終戦や戦争関連の情報が取り上げられる。戦争体験者が登場するインタビュー映像やドキュメンタリー、戦争を題材とするドラマなどが放映されるのはこの時期の風物詩といっていい。

また、靖国神社を参拝する閣僚とかをつかまえて「参拝は私的ですか公的ですか」とやるのも、きっと繰り返されるのだろう。

この日に合わせてマスメディアの報道が過熱するのは一種の終戦特需とでも言おうか。

こんな調子だから、8月15日の世の中はお盆休みの最終日でありながら、ちょっときな臭い特別な雰囲気に包まれる。主にマスメディアが作り出す終戦の日のイメージは、「追悼ムード」「反省ムード」「懺悔ムード」「沈痛ムード」といった感が強い。

日本国民がごく一般的に抱く、先の大戦に関する日本の評価と印象というのは、この8月15日になったら毎度繰り返される「セレモニー」によって大部分が形成されてきたといえないだろうか。

日本国民の多くは、近現代史を知らない。

これは国民が怠慢だからではない。学ぶ機会を与えてこなかった教育の責任であり、事なかれ主義の政治の結果でもある。

それはともかく、近現代史を学んでこなかった日本国民が、日本の戦争に関する情報をどこから仕入れるかといえば、メディア(ほとんどはテレビ)が有力な候補になるだろう。どのメディアもこぞって戦争関連の情報を取り上げる8月15日はその絶好の機会を与える日となる。

節目節目で戦争を振り返ることはもちろん大事だ。それがメディアの担うべき役割であり期待される機能である点も否定しない。

問題は、終戦特集や戦争特番をみる視聴者がどのような意識で情報を受け取るのか。

何気なく合わせたチャンネルの番組から情報を受動的に受け取るのと、主体的に学ぶ機会をつくって情報と知識を得るのとでは、学びの深さはまるで異なる。

そもそも日本は敗戦国で、先の大戦に関する自国の評価を自由に表明できる立ち場にない。

日本は戦勝国にさるぐつわをはめられたままであり、戦後77年経っても以前として閉鎖した言論空間が続く。総理大臣が靖国参拝できない問題もこの延長線上にある。

さるぐつわをはめられているのは政府要人や閣僚、現職国会議員は言わずもがな、言論の自由を体現するはずのマスメディアも政治的な制約を受ける。いまだプレスコード(占領軍が当時の新聞NHKに課した検閲規則)を守る報道姿勢をみれば明白である。自由な評論自由な意見を担保できる状況ではない。

主要メディアから流れる近現代史の情報は枠が決まっている。多様性なき意見の集まりである。同じ視点同じ方向から毎度毎度一方的に流れるバイアスのかかった情報。他の角度からの情報や別の視座の意見といったバッファがあればある程度のバランスもとれるが、それがない真っ白なキャンパスだとほとんど無防備の状態で浴び続け、一気に染まる。

情報の持つ意味とは。情報は人を動かすもの、人の行動を決めるもの。その力はまったくとんでもないものだと言っていい。よく言う意見の違いとやらも、要は持っている情報の違いである。近現代史に限った話ではない。昨今の流行り病の問題しかり、政治の諸問題しかり。いつも情報に流され情報に踊らされている。情報が偏ることの危険性を日本人はもっと危惧すべきである。





















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