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【大東亜戦争開戦前夜】日米交渉2|交渉か戦争か、討ち死にか衰弱死か

交渉継続か、戦争決意か。ソ連排撃か、仏印進駐か――。

野村とハルがワシントンで運命の交渉を続ける一方、東京では国策を巡って陸軍と海軍、政府と軍部の間で激しく議論が戦わされていた。

このまま経済封鎖が続けば戦略物資も途絶え、三年後に日本はアジアの孤児となる―。過度の危機意識が合理性なき政策判断を生み、刹那主義の中で活路を見出す雰囲気が醸成されていく。

交渉か戦争か。決断に苦しむ大本営と政府

日本にとって悩ましかったのは、外交交渉の裏で戦備計画の充実を急がねばならなかったことである。こうした二兎を追う動きは、重臣会議をいたずらにこじらせ、米国側にもあらぬ不信を与えた。

下記は、日米交渉と同時に進んだ内政と軍事の動きである。

■昭和16年4月
・日米諒解案の成立
・日ソ中立条約の締結
 軍・事力も含めた南方戦略を盛り込んだ『対南方施策要綱』策定

■昭和16年5月
・松岡修正案の提示。三国同盟に基づく自衛権の発動と、大陸から軍撤退を拒否する内容
 ・5月27日海軍記念日にラジオ『世界動乱に処す帝国海軍』を放送。海軍力を誇示する内容。

■昭和16年6月
・米国、修正案に対する回答案を提示。日本、大いに不服とする。
・独ソ戦を受け、『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』を策定。軍事色が強く帯びたものとなる

■昭和16年7月
・日本の南進を受け、ハル「交渉の基礎を失った」と野村に伝える。以降、交渉は途絶える。
・南部仏印進駐。米国、日本の資産凍結と石油全面禁輸措置を発表

■昭和16年9月
 ・近衛―ルーズベルト会談の話が持ち上がるも、立ち消えとなる。
・御前会議を経て『帝国国策要綱』を策定。10月末をめどに戦争準備の完遂を目指す。

■昭和16年10月
・米側、日本に三国同盟の実質的解消を要求。
・近衛内閣の退陣。東条内閣発足。

■昭和16年11月
・米側、日本側の妥協案を蹴り、最後通牒ともいえるハルノールを提出。
・ハルノートが通告された26日、真珠湾へ向け機動部隊がヒトカップ湾を出港。

7月の南部仏印進駐、そして米英欄との開戦へ向け、10月15日を目途に戦争準備の完遂を方針に掲げた『帝国国策要綱』の策定と、政府および大本営は日米交渉妥結を目指す裏で着々と軍備増強に励んでいく。

背信行為ともとれる日本側のこうした態度に、ハルは「日本政府は我々と平和交渉を進めておきながら、片方で侵略計画を強行しようとしている」と痛烈に批判している。

このまま外交交渉に望みをつなぐか、それとも戦争を鬼神断行するか。前者は政府に賛同者が多く、後者の意見を先導するのは圧倒的に軍部であった。

陸海軍の指導部も、当初は対米戦争に否定的な風潮が強かった。しかし、交渉が煮詰まり米国の態度が硬化するにつれ、次第に戦争を選択する動きに傾いていく。それは、日々迫りくる危機と切迫した状況を鑑みて、「戦争をやるのであれば今がその時である」という悲壮的な情勢判断によるものであった。

11月5日に開かれた御前会議の席上、東条英機首相はこう述べている。
「現在の如く米国のなすがままのことをさせて如何になるであろうか。2年後には油はなくなり、船は動かず、南西太平洋の敵側の防備は強化され、米艦隊は増強し、支那事変は依然として解決しない。国内の臥薪嘗胆も長年月にわたり堪えることは不可能である」

貿易収入の7割以上を占める米国からの経済制裁は、日本にとって武力攻撃に匹敵する痛手であった。

石油や鉄、ニッケル、錫といった工業製品に欠かせない資源の調達も困難となり、このままでは艦船や戦闘機、各種武器の生産力低下に加え、国民生活も窮乏の度を増していくであろう。何とか米国との間で折り合いをつけ、太平洋の安定化に共同で向き合い、通商関係の回復に努めなければ、近い将来日本は三等国に落ちぶれるのが目に見えている。

表向き米国も日米国交調整に努力する姿勢を見せるものの、正式に協定案が文書化されて和平までこぎつけるかどうかは未知数である。このまま交渉が長引き、石油も鉄も止められたままジリジリといって衰弱死寸前のところで「さあ戦争だ」と立ち上がってみせても船一隻動かせない有り様ならば、戦わずとも結果は明らかだろう。

こちらが一方的に妥協しない限り、日米戦争が避けられぬ状況下、来年再来年に戦争をはじめるよりは、今その決断に踏み切ったほうが万一でも勝機のチャンスはある。しかも、友国のドイツは好調で、今はまだ日本の軍事力も健在である――。

軍の指導部が「戦機は今」と見込み、戦争準備を急いだ事情には、抜き差しならない経済状況と悲観的観測があったのである。

一方、米国の動きは……

米国は、日本との交渉に入る前からとっくに準戦時体制下にあった。
1月7日、米政府は国防に重点を置いた生産計画を管理する部局を設置。続いて3月11日にイギリスを対象とする武器貸与法を成立させ、欧州大戦参入の足掛かりを作る。

4月25日には全海岸への哨戒網整備に着手することを発表、米海岸に近づく不審船は容赦なく撃沈してよいと米艦船に命じた。

内外に警戒網を張る中で5月27日に至り大統領が発出したのが、無制限国家非常事態宣言である。

米国の領土領海を脅かすと言明した大統領のいう敵性国家とは、日本とドイツを指していることは間違いない。ルーズベルトは宣言の中でこう述べている。

「戦争は西半球の外縁に近づきつつある。……これまで多数の商船が西半球の水域で、枢軸国側の通商破壊作戦によって撃沈された。あらゆる事象は米国諸国に対する事実上の攻撃を意味している。近代戦の奇襲攻撃から見るとき、彼らがわれわれの中枢にまで来るのを待つのは自殺行為に等しい」

だが、本物の奇襲攻撃が仮定の話でなく間近に迫っていることが分かりながらも、ルーズベルトはその事実を太平洋に配備された空母部隊に知らせなかった。それは、1944年11月6日に海軍長官宛てに提出した合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長E・J・キング提督の書簡の中で示されている。

「海軍省が入手したすべての情報が適当に評価されて伝えられていたならば、キメル提督(真珠湾攻撃当時の米太平洋艦隊司令長官)が実施した12月7日午前の太平洋艦隊の配備は、その当時実際に見られたようにはなっていなかったであろう」

当時米国は、東京の外務省から日本大使館及びハワイ総領事館に送られる電報の暗号解読に成功しており、そのほとんどを傍受していた。日米交渉における日本側の態度も筒抜けだったのである。にも拘わらず、「傍受されたホノルルと東京の間の電報は全然知らされなかった」(キメル提督の証言。真珠湾攻撃査問会において)のはなぜか。それについて、スターク海軍作戦部長は海軍査問委員会で、こう述べている。

「これら情報をキメル提督に伝えるおとは好ましくないと考えた。そうすることによって、海軍省の能力を維持するための秘密を漏らすことになったからである」

11月26日に米国側から日本へ通告されたハルノートは、事実上の最後通牒であり、日本政府が到底受け入れられない内容であったことは、米国内の政治関係者や軍事専門家の間でも常識であった。

そのような重要文書を通告した事実を、太平洋の防衛監視を司る最高責任者に知らせなかった意味は、決して小さくないだろう。太平洋艦隊の主要艦船は、日本海軍による怒涛の襲来を受けるまで、日曜日の平穏な雰囲気に安息しながらのどかに遊よくする光景が広がっていた。


参考:
『真珠湾までの365日』実松譲
『滞日十年』ジョセフ・グルー
『ハル回顧録』コーデル・ハル
『大東亜戦争史』服部卓四郎
『米国に使してー日米交渉の回顧』野村吉三郎
『大本営機密日誌』種村佐孝
『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』東条由布子

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