見出し画像

【皇道派と統制派】陸軍内部の暗闘の歴史から学べること

かつての日本陸軍には、「皇道派」と呼ばれる軍閥が存在しました。

その皇道派と激しく対立した陸軍内の勢力が「統制派」です。

皇道派と統制派の激烈で陰惨な角逐は、日本の政治や権力機構を大きく揺り動かし、日本国家を取り返しのつかない状況に追いやりました。

「皇道派と統制派の違いがよくわからん」とよく耳にします。そこで、この記事では両派が成立した経緯やそれぞれの特徴、決定的な違い、両者に通底する共通項を整理し、日本陸軍が国家を滅ぼすまで治癒できなかった「闘争という名の病理」とは何なのか、考察してみたいと思います。

皇道派|藩閥から軍閥へと変質させた政治集団

そもそも陸軍には、明治の建軍以来、「長州閥」と「薩州閥」が存在しました。

長州閥は長州出身の大村益次郎や山縣有朋、薩州閥は薩摩出身の西郷隆盛や大山巌の流れを汲む一派です。

維新に功労のあった長州・薩摩両藩の出身者が地縁の結びつきで党派を形成し、軍内の権力ポストを巡って張り合う構図があったわけです。

とはいえ、陸軍は山縣有朋が得意の政治力でもって絶大な権力を維持したため、実質的に長州閥の天下でした。ライバルの薩州人たちは軍内野党的な悔しい立場。忍の一字で耐え忍ぶ時代が続きました。

潮目が変わったのは山縣有朋が亡くなってからで、長州派閥の首魁の座を田中義一(後の首相・「田中上奏文」で有名な人)が継いでから、薩州閥の勢力が権力の座を奪うチャンスとばかりに巻き返しを狙います。

そのときの薩州閥の領袖が上原勇作という人でした。

上原勇作と田中義一が藩閥トップの意地をかけて争うわけですが、熱くなっていたのはこの両者のみで、派閥全体が燃え上がって仁義なき抗争を繰り広げていたわけじゃありません。少なくとも、、個人間の権力闘争の域を出ない争いでした。

そのように考えると長州閥と薩州閥の戦いは、軍閥の対立というより藩閥の争いであり、郷里を同じくする者同士が派閥をつくって張り合う程度のものでした。今も日本の大企業や商社などに見られる学閥の争いと大差ないかもしれません。

後の「皇道派vs統制派」の激しい対立を考えると、陸軍創設期の派閥争いはまだ可愛げのあるものだったのです。

さてその後ですが、田中義一陸相の下で陸軍次官を務めた宇垣一成という人が、陸軍大臣になります。この人は長州出身者ではないものの、田中義一と近い立場にあったため、準長州閥のような見方をされました。

それもあり、宇垣大臣は上原勇作の薩州閥と対立する構図が生まれます。

というより、宇垣は陸軍内すべてを敵に回すような大きな改革に着手しました。

有名な「宇垣軍縮」です。

兵員の大幅削減や連隊の編成が宇垣大臣の鶴の一声で断行されました。

その目的は「軍の近代化」にありました。

当時は第一次世界大戦が終わったばかりで、この戦争がもたらした教訓が「これからの戦争で中心となる戦力は歩兵ではなく、火力など近代兵器を主とする機械化部隊」という認識に移り変わったのです。

装備が古く戦争の考え方も旧式のままの日本陸軍では、これから起こる近代戦争を戦えない。急速に火力兵器を整備して近代化を推し進める必要がある。そう危機感を抱いた宇垣大臣は、人員を削減し、その浮いた予算で兵器と軍制の近代化を目指したのでした。

大掛かりな改革には反発や妨害がつきものです。この改革によって職を失う軍人が大量に生まれるわけですから、宇垣憎しの怨嗟は末端の兵士にまで達しました。

それでも宇垣は国家百年の計として軍の近代化は必要であり必然であると改革を断行します。

この宇垣大臣による軍縮改革には、先の上原元帥も猛反対でした。もともと敵対する長州閥に近い宇垣大臣への感情的なしこりもあったのでしょう。上原は近しい立場の将官たちをしたがえて軍縮反対運動を盛り上げていきました。

その将官たちの中に、後の皇道派の首魁になる荒木貞夫、真崎甚三郎らがいました。

彼らは大臣や長官を輩出する陸大出身のエリートでありながら、三十代の若い佐官・尉官クラスの将校たちと気さくに交際していました。年齢や階級にとらわれない器の大きさがあったようで、若い将校たちも彼らを「オヤジ」と呼んで慕ったため、荒木・真崎を取り巻く青年将校の一派ができあがっていきました。

実はその青年将校たちこそ、宇垣軍縮の最大の犠牲者でした。この軍縮改革により、四十数個連隊が解散となり、ある者は職を失い、ある者は慣れ親しんだ母隊を離れる憂き目に遭いました。彼らはこの改革の名の下で強硬に行われる軍縮に対し、強い不満をあらわにしました。

この「反宇垣」の思想は、上原勇作ー荒木貞夫・真崎甚三郎と、青年将校らを結びつける磁場になったのです。

昭和初期のこの頃は、もう藩閥同士が対立する図式ではなく、宇垣vs反宇垣、つまりは改革派vs守旧派のような対立構造になっていました。

反宇垣(軍縮反対派)には上原勇作と近かった荒木貞夫や真崎甚三郎、軍縮のあおりをくらった青年将校たちがいました。宇垣軍縮に賛成の立場だった人たちは、第一次世界大戦を現場で視察し、軍の近代化の必要性を認識していた陸軍の中堅幹部連です。その中に統制派の中心となる永田鉄山も含まれます。

反軍縮で結びついた荒木貞夫・真崎甚三郎ら将官と青年将校グループを引き合わせたもう一つの強い磁場が、「国家改造計画」を激しく主張する北一輝、大川周明といった思想家たちでした。

北一輝と大川周明は右翼運動家として知られ、その思想は極端かつ過激でした。腐敗する政党政治や富を収奪する財閥を厳しく糾弾し、彼らを打倒して国家の抜本的な改革の必要性を強く唱えました。

国家の抜本的な改革とは何かというと、日本をナチスドイツやソ連のような国家社会主義体制にし、国を挙げて経済と国防の強化を図れ、というものでした。

自分たちの計画を実行に移すべく、政治家や軍人とも積極的に交流を持った彼らは、荒木貞夫・真崎甚三郎ら陸軍の上級軍人に近づき、現状に強い不満を抱く血気盛んな青年将校にも接近して、彼らの思想形成に大きな影響を及ぼしました。

北一輝や大川周明の過激でまっすぐな思想は多情で多感な青年将校に響くものがあったのでしょう。彼らの多くは北や大川に心酔しました。そして悪辣な財閥と癒着して党利党略に溺れる政党政治を激しく憎悪し、国家改造計画を何としてでも実行に移さねばならぬと意気込みます。我々が立ち上がらなければ日本は滅びるという危機感が彼らを駆り立てていったのです。

反軍縮への不満と、腐敗堕落した政治への怒り。国を愛し国を憂えてやまない心は、北一輝・大川周明らの薫陶で理論化されました。彼らが目指すのは「国体の明徴」つまり、「日本古来の伝統である天皇親政に政治の姿を戻し、我が国の国体をはっきりさせる」というもので、その思想ゆえに彼らは皇道派と呼ばれるようになりました。

改革に熱く燃える軍人集団は、やがて力づくでの現状変更をもいとわない暴力集団へと変質してゆき、その行動は政府高官や陸軍要人が決起した青年将校らに暗殺される二・二六事件で極点に達しました。

統制派|反皇道派として立ち上がり、戦争推進の道筋をつけたエリート集団

「陸軍を牛耳った皇道派は二・二六事件で失脚し、統制派が実権を掌握した。いざとなれば実力行使に走る軍部に政府はモノを言えなくなり、軍国主義化が加速、太平洋戦争へと突入した」

学校の教科書で教える歴史の通説です。

日米開戦時の日本の首相は、統制派の東条英機でした。二・二六事件により皇道派が一掃された後は統制派が主導権を握り、軍政や作戦計画など重要な意思決定を下す立場となりました。

結果だけ見れば、日中戦争を拡大させ、ドイツと同盟を結び、ソ連とも中立条約を結び、米英と衝突する環境をこしらえて第二次世界大戦に日本を向かわせたのは、陸軍統制派ということになります。

そもそもなぜ彼らは「統制派」なのかと言えば、「陸軍内の規律と統制を重視する」考えを持つ軍人たちの集まりだったからです。統制派という名称は後世に用いられたもので、当時そう呼ばれていたわけではありません。

そもそも統制派は派閥ではないとする見方もありますが、「軍人たちによる政治集団」を軍閥の定義とするならば、政治に堂々と干渉するようになる彼らは立派な派閥であり軍閥です。

統制派を代表する軍人といえば、永田鉄山や東条英機らが有名です。その面々はいずれも陸大出身のエリートで、陸軍省並びに参謀本部の主要ポストにおさまる佐官クラスの軍人たちでした。いわば作戦や人事を動かせる陸軍主流派の人たちで、末端の兵と直に接する青年将校が中心だった皇道派とはこの点でだいぶ毛色が違います。

彼らが陸軍内で勢力を形成した背景には、皇道派の台頭がありました。昭和5年犬養内閣の組閣で皇道派の荒木貞夫が陸軍大臣に就任し、陸軍中央の要職をことごとく皇道派の軍人たちで埋め固める横暴人事を断行すると、いよいよ危機感をつのらせ、皇道派の増長許すまじと永田鉄山らが徒党を組んで対抗しようとしたのが始まりとされます。

その永田鉄山は皇道派の相沢三郎に軍務局長室で斬殺される(相沢事件)など、血みどろの暗闘と化した皇道派と統制派の対立は、二・二六事件を起こした皇道派の自壊で終焉を迎えます。

先述の通り、統制派軍人たちは頭脳明晰のエリート集団でした。皇道派のような武力によるクーデターを否定し、あくまで合法的に論理的に、「陸軍現役武官制」や「国家総動員法」などの法律や制度を整備しながら着々と自分たちが目指す国防国家への道を整えていきました。他方で、法律や制度に反対する政治家を憲兵を使って脅すような非合法手段もいといませんでした。

皇道派が力を信奉する激情家の集まりなら、統制派は知恵を使いながら用意周到に計画遂行を進める冷徹な智能集団と呼べるかもしれません。

しかし、もっとも着目すべきは、統制派の国家構想は極めて国家社会主義的なものだった、という部分です。つまりは自由主義を捨て、国家が主導する統制経済で高度な国防国家を建設する狙いが彼らの政策のど真ん中にありました。国家社会主義的政策を重視した点において、皇道派と統制派は同じ穴のムジナだったのです。

もっとも、皇道派が財産と富の分配管理を目指したのは財閥憎しの感情によるところが大きく、その反動で反自由主義へと傾斜した面が否めません。

これに対して統制派の社会主義的経済政策には理論がありました。それはこういうものです。

ーこれからの戦争は国家が総力を挙げて戦う「総力戦」の時代となる。資源のない日本は安定的な国力維持が心もとない国である。経済活動を個人や企業の自由に任せては経済基盤の強化はままらなず、これから起こる戦争を戦い抜けない。よって国家が経済を統制する高度国防国家の構築が急務であるー

今ではこのような経済の認識は間違いだと明らかになっていますが、残念ながら当時の軍人たちにその認識はなく、統制経済を強めていく国家社会主義へと傾倒していくことになりました。

派閥抗争で勝利した統制派は国家社会主義的な政策を推進して戦時体制を整え、中国やアメリカとの戦争に突き進む道筋をつけました。その結果、国民は塗炭の苦しみを味わうことになったというのが、今の私たちが知っている歴史です。

両派の決定的な違いは対ソ認識

皇道派も統制派も、領分をはみ出して政治に深く関与した軍閥でした。いずれも国家改造を目指す集団でしたが、国家が抱える課題への対処がともに社会主義的な発想によるものだったというのは興味深いところです。

とはいえ彼らは政治や経済に関しては素人なので、間違って当たり前でした。この部分に手を出したのがそもそもの誤りだったといえます。

彼らは政治家でもなければ経済学者でもなく、れっきとした職業軍人です。ならば、軍略や作戦思想の面で皇道派と統制派を比較・評価するのが妥当な考えかもしれません。

その論でいくと、皇道派と統制派の決定的かつ本質的な違いは何か。それは「対ソ認識の違い」にあると言えます。

つまり、建軍以来の宿敵・ソ連を前に、陸軍はどのような振る舞いをするのが妥当であるか。この点において、皇道派と統制派は全く異なる認識を持っていました。

そして、皇道派と統制派のそもそもの亀裂の原因は権力闘争ではなく、対ソ認識の違いで激化した面も見ておく必要があります。

皇道派はソ連を「第一に優先すべき宿敵」と捉えており、ほとんどの軍事的資源を対ソ連に回して来るべき宿命の対決に備えなればならないとの方針でした。

日本が戦争をするとなれば、その相手はソ連一国であり、同じ東洋民族である中国や、開国以来協調を図ってきた米英とはなるべく融和路線を堅持するのが得策であり、資源のない我が国が四方に敵をつくるのは愚策である。ソ連に的を絞って機が熟するまで戦力を蓄え、それ以外の国とは事を構えるべきではない、とする戦略でした。

統制派はそうではありません。「ソ連と戦う前に、まず中国を叩くべきである。広大な大陸資源を手中に収めればソ連との戦も有利になる」とする軍略思想でした。そのためには米英と敵対しても構わないとする考えも主流でした。

戦うとなれば相手をソ連一国に絞り、中国や米英とはなるべく協調路線の堅持を主張した皇道派が壊滅し、代わって天下を取った統制派が、中国一撃論を説いて泥沼の日中全面戦争に突き進み、ついには亡国の太平洋戦争を決断したという歴史を今の私たちは知っています。

何度も言うように、統制派の軍人たちは幹部候補のエリートでした。抜群に頭のよい集団でした。その彼らが、現在では間違いだとはっきりしている「統制経済」や「三国同盟」「中国との全面戦争」「日米開戦」が正しい道だと吹聴し、推し進めました。

これに対し、論理的かつ科学的に反論できる人たちは、当時どれほどいたのか、そしてそれは果たして可能なことだったのか、と思わずにはいられません。

国民もマスコミも、たいてい軍部を支持する側でした。政府はけしからん、頼りないと言いながら、軍部には大きな期待と信頼を寄せていました。

でもこれはしょうがないことなのかもしれません。今と比較するなら、東大教授や官公庁といった権威も学識もある人たちが正解はこれだと主張して推し進める政策に、私たち一般人がおかしいと気づいて反論できるかという話ですから。

「二・二六事件が起きなければ戦争は起こらなかったかもしれない」「東条英機の代わりに〇〇が首相にだったら戦争は避けられたかもしれない」とはよく聞く議論ですが、後出しジャンケンとはいえ、どうすれば戦争を避けられたのかといったアフターシミュレーションは、歴史の失敗に学ぶという意味で一定の意義はあるかと思います。

ただ、もっと大きな議論として、我々日本人とは何なのか、ということにも踏み込みたい。我々日本人とはどんな民族なのかを学ぶために、歴史はあると考えるからです。

歴史というのは学ばなければ意味がない

皇道派と統制派の対立を中心に、日本陸軍の闘争の歴史をみてきました。

私は、同じ組織内で闘争するのは日本人のDNAだという考えを持っています。

そのような考えは日本の歴史を学ぶことで育ちました。

日本人はよく身内で争います。すぐそこに外敵の脅威があるのに、平気で身内の争いができる民族です。皇道派と統制派の対立云々といってきましたが、大東亜戦争末期には陸軍と海軍がシャレにならん身内争いを演じて米軍を唖然とさせました。「日本は陸軍と海軍で内戦をやってその余力でアメリカと戦争した」といった笑えないジョークもあるくらいです。

現代でもそうです。コロナという未知のウイルスがやってきても、一致団結・大同団結できない。意見が違って同じ針路を進めないのはわかるけど、妨害や足の引っ張り合い、罵倒合戦はないでしょう。正直ウイルスよりこっちの現象のほうが不可解で怖いと感じます。

薩長同盟くらいじゃないでしょうか。その薩長も明治維新後は権力闘争に明け暮れましたが。

同じ組織内に属しても、意見の違い・立場の違いを受け入れられないからすぐ派閥をつくるし、異分子が現れれば村八分にして追放する。もう感情が先に立って、不合理や理不尽だとわかっていても争わずにはいられない。

日本人は情感が豊かな民族なので、感情のしこりがあると合理的客観的な判断が難しくなるようで、理性的な行動もできなくなる人が多いようです。このような特性は平時ならともかく有事では深刻な危機を招くと自覚しなければなりません。

島国の特殊性がそうさせるのかもしれませんが、我々日本人にはこのようなDNAがあるという事実を頭の片隅にでも置いたほうがよいのではないでしょうか。

皇道派と統制派の対立を他人事と思わず、現代の私たちにも受け継がれたDNAであることを知っておくだけでも、少しはマシだと思うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。
















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?