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幕末「強運」を演出した人物②斎藤一

斎藤一
鍛え抜かれた剣術と忠義の魂が死神を遠ざけた

剣術の猛者が集う新選組は、幕末の渦中に生まれ、幕府の瓦解とともに消滅した。斎藤一はその数少ない生き残りの一人。死と隣り合わせの戦いに何度も身を投じながら、運よく生き延び、維新後は平穏な余生にも恵まれた。

斎藤は二十歳のとき、新選組の前身である壬生浪士組に加入する。藤堂平助と並び、最年少であった。剣のほうは、沖田総司、永倉新八に次ぐ三番手と評されるほどの腕前で、若くして隊の組頭を任されるなど、局長近藤勇の信頼も厚かった。

新選組の任務は主に勤皇浪士の市中取り締まりであった。京都で勤皇倒幕の声が高まるにつれ、新選組の活動も活発になり、長州・土佐の浪士らとの間で派手な斬り合いが展開される。斎藤も修羅のごとく剣をふるい、勤皇浪士をその手にかけた。有名な池田屋事変では、褒賞金リストの「中等」に名を連ねる活躍を見せる。

新選組は士道の精神を何よりも重んじる組織だった。それは彼らが禄高を持たない半農半士の集団であり、「主君のために命を捨てる覚悟」でもって事に当たらなければ、武士としての証明が立たなかったからだ。斎藤も忠義のためならいつ死んでも構わない覚悟で剣闘に挑んだ。海援隊と新選組が刃を交えた「天満屋騒動」では、敵方の人数に対して劣勢だったにもかかわらず、斎藤は臆せず踏み込み、敵勢を跳ね返して見事に任務を果たしている。

忠義に厚い新選組の働きもむなしく、時勢はすでに薩長新政府の側にあった。幕府は鳥羽伏見の戦いに敗れるも、薩長政府の正当性を認めない会津藩らが抵抗し、新選組もそれに呼応するかたちで戦う道を選ぶ。「甲陽鎮撫隊」と名を変えて官軍とぶつかった甲州勝沼の戦いでは、敵の近代戦法と火力の前に完敗。新選組自慢の殺人剣もまったくの無力であった。近藤勇を失った隊はトップ不在のまま流転する。

斎藤や土方ら残党は会津に拠点を移し、「会津新選組」として再起を図る。幕府の陸軍奉行に取り立てられた土方に代わり、斎藤(※すでに山口次郎と改名している)が新隊長となって隊を引き継いだ。情勢を鑑みれば、会津藩が勝てる見込みはとてもない。それでも斎藤の忠義は死なず、新選組の名とともに玉砕する覚悟で最後の戦いに挑む。

敗走を重ねるたびに斎藤率いる新選組は数を失い、最終的に13人となって会津近郊の如来堂に立てこもる。300人の官軍に包囲され、隊の生存は絶望視された。土方歳三にしたがった中島登も「防御のすべなく、ことごとく討ち死にす」とメモに残して仲間の死を悼んだほどで、誰もが斎藤の死を信じて疑わなかった。

しかし、斎藤は死んでいなかった。絶体絶命のピンチを切り抜け、仲間数人とともに脱出に成功したのである。それは状況的にみて不可能な、ほとんど奇跡ともいえる脱出劇だった。危地を乗り越えた斎藤は新しい時代を生きることになる。

斎藤の維新後の人生は比較的穏やかであった。賊軍のレッテルを貼られた者の多くが路頭に迷う中、警視庁警部補や東京高等師範学校などの公職にありつけたのは、強運のなせる業か。家庭のほうは会津藩家老の娘をもらい受けるなど、伴侶にも恵まれたようだ。大正4年71歳で生涯を終える。戦いと無縁の生活が幸運だったかどうかは知る由もないが、少なくとも不運ではなかっただろう。

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