満州事変を『今村均回顧録』から読み解く
昭和6年(1931年)9月18日、「満州事変」(柳条湖事件)が発生しました。
近現代史に詳しくない人でも、「満州事変」を歴史か社会科の授業で学び、その言葉自体知っているという人は多いかもしれません。
満州事変を巡っては関連の書籍がたくさん出ていて、今もさまざまな場所で議論されています。
今の私たちは歴史資料から史実を知るしかないのですが、当時、事変に何らかのかたちで関与した人の証言、見方には、どのようなものがあるのでしょうか?
ここで紹介する『今村均回顧録』も当事者の証言が載っている貴重な資料の一つとなります。
著者である今村均は、当時陸軍参謀本部作戦課長として、満州事変の収拾工作に奔走しました。
ここでは、『今村均回顧録』を通して、満州事変とはどんなものだったのかを見ていきたいと思います。
今村均について
今村均は、大日本帝国陸軍将校として活躍した昭和の武人です。大東亜戦争(太平洋戦争)では、第16軍司令官として、インドネシアのジャワ・スマトラ方面攻略の作戦指揮を司りました。
今村といえば、ジャワ攻略後に行った民主的な占領統治と、戦後に戦犯の身から解放されながらも「部下と困苦を共にしたい」と自ら獄中生活に甘んじた、高潔と仁愛に満ちた身の処し方が有名です。
占領軍の司令官でありながら強権を振るわず、現地民のそれまでの生活・文化・宗教を守る統治を目指しました。中央の軍本部からそのやり方が手ぬるいと批判されながらも、決して方針を変えず信念を通したと言われます。
戦後、今村は戦勝国の軍事法廷にかけられ、戦犯となります。しかし、戦中の敵軍捕虜への扱いが人道的だったことから、オランダの裁判では無罪判決が言い渡されました。敗戦国出身の将校が軍事法廷で無罪判決を受けるのは異例といってよいのですが、その背景には、今村に対する被占領民の評判が高かったからと言われています。
今村はオーストラリアの軍事法廷では禁固十年の刑を言い渡されました。巣鴨プリズンに収容されるも、劣悪な環境のニューギニア・マヌス島の刑務所での服役をわざわざ志願したそうです。なぜか? そこには、かつての部下たちが収容されていたのです。劣悪な環境で苦しむ部下を横目に自分だけ環境の整った場所で過ごすことが許せなかったのでしょう。
この願いを申し込まれたとき、戦勝国司令官として日本占領統治を任されていたダグラス・マッカーサーは、「私はゼネラル今村の願いを聞いたとき、日本にはまだ真の武士がいたと感嘆した」と声明を出したといいますから、米軍の間でも今村の名声は高まったことでしょう。
これらのエピソードが残る今村均には、「義の人」「仁の武将」「信義の武人」と称える声が今もついて回ります。
満州事変とは
「満州事変」とはどんな事件だったのか、その概要を書いておきます。
満州事変とは、「関東軍(満州に駐屯し、主に満州鉄道周辺の守備や、日ソ・日中の国境警備、居留民の保護を任務とした大日本帝国陸軍の外地部隊)が、満州での権益保護と治安維持を目的に、中国国民党(蒋介石総統)の張学良の軍に攻撃を仕掛けてはじまった、大規模軍事衝突事件」です。
昭和6年9月18日、満州・奉天の柳条湖付近の南満州鉄道で爆発事故が発生。現場に急行した関東軍傘下の奉天独立守備隊が張学良の軍が陣取る北大営に攻撃を仕掛けました。
攻撃部隊の規模は進軍とともに膨れ上がり、それに反して張学良の軍隊は蒋介石の指令で「無抵抗主義」を徹底。関東軍の勢いは止まらずたちまち満州全土を軍事占領する事態に発展しました。
通説では、鉄道爆破も関東軍の自作自演、その後の作戦・進軍も用意周到に計画されたものであったとされます。満州事変は関東軍の高級参謀たちが仲間の参謀連や配下の部隊、司令長官までを欺いて決行した謀略だったのです。
『今村均回顧録』に見る「満州事変」
満州事変が起きたとき、今村は、「陸軍参謀本部作戦課長」という身分でした。
ここで、陸軍の組織機構について、簡単に触れておきます。
参謀本部とは、軍事における作戦計画の立案や作戦指導を行う組織。いわば、陸軍の部隊をとりまとめる統括組織みたいなところです。このトップは参謀総長と呼ばれました。
こう説明すると陸軍の親玉的組織は参謀本部のような感じもしますが、これとは別の上位組織として、「陸軍省」がありました。これは純粋な役所で、今で言う防衛省です。軍備計画や予算の策定、軍法諸制度の制定といった軍政に携わるのが任務。陸軍省に詰める職員は軍人でありながら役人、官僚でもありました。ここのトップは陸軍大臣(陸相)ということになります。
作戦全般を司る最高責任組織が参謀本部で、軍政全般の最高責任組織が陸軍省ということになります。この2つは大日本帝国陸軍の二大巨頭であり、これらはまとめて「省部」「陸軍中央」などと呼ばれたりもしていました。
陸軍の重要な決定は、主にこの2つの組織が連携しながら行っていたのです。
満州に出張る関東軍は独立した組織ではなく、参謀本部の直轄組織になります。作戦計画の立案や出兵計画は原則、参謀本部の意向で行うものであり、関東軍が独自にそれを行うのは許されません。にもかかわらず、陸軍中央の統制外で関東軍による満州事変が起こってしまいました。
今村均は、参謀本部の作戦課長という、陸軍中枢に身を置く立場で、満州事変の一報を受けます。『今村均回顧録』には、今村が事故処理に奮闘する姿や、事変に対しする陸軍中央の動きが細かく描かれています。
一報を聞いたときの今村の心情はどんなものだったのか。その部分を引用してみましょう。
九月十九日の午前四時頃、まだ夜の明けないとき、電話器の受話器の鈴がけたたましく鳴る。それに起こされ、受話器を耳にすると、梅津美治郎(筆者注:うめづよしじろう)総務部長の声だ。
「昨夜奉天近くで、鉄道が爆破され、関東軍が出動したらしい。僕はすぐ役所に行き電報を確かめるつもりだ。君のところにも、すぐ自動車を差し向けるよう、宿直将校に電話しておいた。くわしいことは、役所で打ち合わせしよう」
(略)自動車中で黙想して祈ったのは、“何とか事態が局部的に収まればよい”ということである。
まさに「寝耳に水」だったでしょう。というのも、関東軍が満州で独断的に軍事行動を起こさぬよう、中央の方針を伝達するなど釘を刺していたばかりのところで、この事件が起きたのですから。
満州における陸軍中央の方針とはどのようなものか、『今村均回顧録』に書かれてある内容を要約すると、次のようになります。
・関東軍の行動を慎重ならしめるよう、陸軍中央が指導する
・関東軍や陸軍中央が努力しても事態が改善しなければ、軍事行動も検討する
・満州問題の解決には、国民世論や諸外国の理解を得るよう努力する
・軍事行動を起こす場合、兵力運用に関しては、関東軍と協議の上、参謀本部作戦部にて計画し、上長の決裁を求める
・万一にも紛争が生じたときは、局部的な解決を目指し、不拡大方針を徹底する
また、この方針が決まってから一年間は隠忍自重、とにかく今は非軍事の方面であらゆる手を尽くす、といった趣旨のことが書かれています。
決して暴発するな、隠忍自重せよ、との中央の方針を関東軍に伝達するため、満州に派遣されたのが、今村均の直属の上司であった参謀本部作戦部長・建川美次(たてかわよしつぐ)少将でした。
『今村均回顧録』には、関東軍との折衝にあたっていた建川作戦部長は、事件が勃発してもなかなか知らせをよこしてきませんでした。参謀本部の首脳陣は当然焦ります。そのような状況に対し、今村はあくまで冷静でした。
「私は、建川部長が中央の方針通りに善処されていると信じます」
今村均が梅津少将に言った言葉です。このような言葉を発しなければならない背景には、上層部の間で蔓延する建川部長への不信感を払拭したい心情があったのかもしれません。
事変が起きた今となっては、これ以上戦火が拡大しないよう、事態の収束を急ぐことが参謀本部並びに陸軍省には求められました。
ところが、またしても中央の思惑を打ち砕くような一報が飛び込んできます。
事変から3日後の21日、満州と国境を接する朝鮮軍司令官・林銑十郎大将からの電報でした。
「張学良の攻勢に対する、関東軍の危急を救わんがため、独断、隷下第20師団に出動を下令せり、越境時期は21日午後の予定なり」
これまた中央の指示を待たず、今度はお隣の朝鮮軍が独断行動に出ようとの勢いです。これを受け直ちに首脳部が集まり会議が開かれた、と『今村均回顧録』に書かれています。
今村均が案じたのは、このまま独断で朝鮮軍が越境したのでは、天皇の裁可を待たずに出動することになり、林大将は統帥大権の干犯という重大な罪を犯すことになります。これを防ぐため、今村は「直ちに参謀総長が天皇に拝謁して越境の裁可を仰ぐこと。」を会議で進言。軍が越境する前に天皇裁可を戴けば、林将軍は統帥大権を犯す重罪を免れることになります。今村の意見に異を唱える者はありませんでした。
しかし、ここでもまた困った事態が起きます。幹部や首脳部が不拡大方針を目指す中で、陸軍省や参謀本部の将校たちは、関東軍や朝鮮軍の軍事行動に理解を示し、陸軍中央は全面的に彼らを支持すべきだと声高に主張したのです。
満州での排日行動、既得権益侵害を憤慨している多数は、興奮状態となり、この際、全面的に関東軍を支持し、満州問題の解決に邁進すべきであり、林軍司令官の処置を、肯定すべきだとの意向を漏らしはじめた。
私の作戦課員十名中の大部は、一心同体になり私を助けてくれ、(略)が、二、三名だけは、他の部課の者と呼応し、私が関東軍を統制しようとする方針に対し、不快の言辞を弄し、その一人は、暗々裡に陸大教官某々氏を策応し、私を参謀本部から追いだそうと試みた。これは心寂しいことであった。
※『今村均回顧録』より引用
陸軍中央の方針や、政府の外交姿勢を「弱腰」「軟弱」と非難していたのは関東軍だけではありませんでした。陸軍省や参謀本部内にも、事態を解決できない中央や政府に苛立ちを募らせる勢力があったことが、この文中からわかります。
今村均は、関東軍の暴走だけでなく、同じ部署の部下や仲間からの突き上げとも戦わなければなりませんでした。
そんな組織内の圧力に遭いながらも、今村はじめ幹部首脳陣は不拡大方針の徹底を貫き、何とか参謀総長の拝謁、天皇陛下の裁可にこぎつけます。が、このときはもうすでに朝鮮軍の一部が国境を越えて満州に向けて進撃を開始していたのでした。
建川美次作戦部長が帰国したのは、9月22日の朝。建川少将は「中央の意思を伝え、その夜宿で会食して寝てしまった。起きてみるとあの騒ぎが起きていた」と弁明した、と言います。結果的に関東軍の暴走を止められなかったことから、巷間では、「建川も関東軍参謀の計画に賛同していた」などの言説がまかり通ってしまいました。それについて今村は回顧録の中で嘆いています。建川少将の変節は間違いだとし、「自ら中心となって満州問題の解決方策の大綱を樹立した人が、自身これを覆すようなことをするはずがない」と述べています。
今村均によると、建川少将はその時「軟禁」された夜の不快を度々口にしていたそうです。通説では建川少将が関東軍に取り込まれたみたいになっていますが、本人の言う通り、その夜痛飲したばかりに寝過ごし、決行を許してしまったのかもしれません。史実は一つではない、ということです。
今村均は『回顧録』の「事変の反省」という章の中で、「満州事変に対し、陸軍中央の人事上の過失があった」としています。
新たに中央首脳になった人々は、満州事変は成功裏に収めたとし、両官(筆者注:板垣征四郎と石原莞爾。満州事変の首謀者)を東京に招き、最大の賛辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた所管を、一人残らず中央から出してしまった
この後、陸軍では中佐・大佐級の将校達の発言力が増す下剋上の空気が充満し、戦功さえ立てれば何をしてもいいといった統制の乱脈を来す問題が発生します。「五.一五事件」や「二.二六事件」といった軍部の重大な不祥事が起きたも、この人事の過失と無縁ではないでしょう。
***
教育現場で学ぶ「満州事変」、マスコミ報道などで伝えられる「満州事変」は、日本の中国侵略の先鞭であり、間違った戦争に突き進むきっかけとなった歴史的大事件という、この一点張りで情報をひたすら流す傾向にあります。それ以外の見方や考えは一切許さないといったこわばった空気すら感じます。
しかし、歴史はもっと多様であり、多面的です。いろんな角度に光をあてなければ正しい歴史の理解も進まないでしょう。
満州事変の前に、「万宝山事件」や「中村大尉殺害事件」、「済南事件」「南京事件」など、日本の居留民の生命財産を脅かす重大な事件が多発しています。重大な主権侵害の問題は野放しにされていました。当時の満州における関東軍や日本人がどのような状況にあったのか、その視点を抜きにして満州事変の本質は理解できません。
日露戦争の勝利により、国際的にその正当性が認められた満州の権益を度々害されながら、何一つ有効な手段を打てなかった日本政府の無為無策、それへの不満が頂点に達した関東軍。
国内の動静に目を向けると、当時の新聞は今にも爆発しそうな関東軍に対し、自制を促すどころかけしかけるような扇情報道。
満州事変が起こったとき、政府や陸軍省・参謀本部は不拡大方針に躍起となるも、国民はこぞって関東軍に拍手喝采を送ったと言います。
ただ誰かを悪者にしたり、安全圏に入って口なしの人を糾弾するだけでは、本当の意味での反省など無理でしょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?