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歴史研究において貴重な「敗者の伝」

私は歴史が好きなのでは歴史上の人物の自伝や回顧録、手記といったものを読むのが好きだ。これまで多くの人物たちの足跡を描いた書物を読み漁り(といっても百冊とかそんなレベルにあらず)、さまざまな時代の事件や出来事、歴史的瞬間、エポックメイキングを活字の上で追体験してきた。

時代の貴重な証言である自伝にも、厄介なところがある。おおよそが書いた人の「手柄話」や「自慢話」「言い訳」「自己弁護」になりがちなところだ。自分の活躍は徹頭徹尾かっこよく大きく見せて、都合の悪いところは巧妙に省く。そのくせ自分が嫌いな人物や対立関係にあった政敵、ライバルなどの暴露話や批判は盛大にやったりする。そこに感情が混じり、思惑が渦巻き、計算が働くのは、人間が書く以上仕方ない。AIのように単に事実の列記だけでは済まされないということだろう。

だからこれを読む者としては、その人がどういう目線で、どういう立場で、どんな思惑でどんな角度から、そのような証言をしているのか、注意深く冷静に見ながら読み進める慎重さが大切だ。自伝の著者が話す内容は、その人にとっての事実であり、体験したことであり、見方であり考え方なのだ。もちろん事実と思っていいが、それだけが事実ではなく、きっと事実B事実C事実Dがあるものだということを念頭に置く必要があろう。

私は、そんな眉唾物の自伝なるジャンルに相対する際は、書いた人の「立場」に注目する。どんな立場の人が書いたかで、歴史研究における価値の大きさが決まるとまで考える。

自伝でも歴史研究において価値があると考えるのは、「敗者の立場」で書かれたものである。「敗者の弁」「敗軍の将兵を語らず」などと言われるが、歴史上の敗者の証言は大変貴重だ。なぜなら、歴史とは勝者がつくるものだからだ。政治的強者が時勢の優位性を利用して好き勝手書くことも少なくないからだ。勝者の自伝はほぼ「公式見解」で、まあ企業広告のようなものと思っていい。自分たちに都合の悪い事実や記録をわざわざ教えたりしない。今の己の立場を一変に吹っ飛ばす危うさをはらむから、当たり前だ。対して敗者の自伝は、広告の裏側に隠された闇を照らす光になり得る。

もちろん、敗者の立場で書かれたものならすべて正しいとはならない。どんな立場の自伝でも自己弁護はあり、自分に都合の悪いことはあまり書きたがらないものだ。しかし、勝者の口から一方的に語られ、片方からのみの事実で歴史が塗りつぶされる状況に、一矢報いることはできる。より多くの声と言葉をすくい上げ、掘り起こし、耳を傾け語り継ぐことで、正義はかろうじて守られる。

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