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もう一つの真珠湾攻撃|特殊潜航艇による特別攻撃

昭和16年12月8日(ハワイ時間は12月7日)に断行された真珠湾攻撃(ハワイ作戦)は、空母から発鑑した航空部隊による空襲攻撃と、潜水艦から発進した特殊潜航艇による湾内魚雷攻撃を統合した奇襲作戦だった。

真珠湾を制圧、華々しい戦果を挙げた空襲部隊に対し、魚雷を抱えて潜航した特別攻撃隊員たちの作戦行動はあまり知られていない。

彼らの行動の実態が明らかとなったのも戦後に入手した米軍側資料によるものである。

特殊潜航艇とは?

ハワイ作戦は、南雲忠一中将麾下の空母機動部隊による「空」からの攻撃と、清水光美中将率いる第六艦隊による「海」からの潜航攻撃および探知活動からなる統合作戦であった。

第六艦隊を構成するのは潜水艦兵力で、第一潜水部隊・第二潜水部隊・第三潜水部隊並びに、特別攻撃隊、要地偵察隊、補給隊によって区分される。

第一潜水部隊に編入された特別攻撃隊とは、超小型潜水艇とも呼べる特殊潜航艇による、決死の攻撃任務を帯びる極秘の先鋭部隊のことだ。

真珠湾に近接した母艦から出艇した特殊潜水艇群は、敵主力艦が在伯する湾口まで肉薄し、一中必殺の魚雷攻撃をもって在伯艦を奇襲。そして味方の空襲から難を逃れた敵艦艇に対しても湾口付近で迎撃して反撃の芽を摘むと同時に、不時着搭乗員を救出する作戦目的も秘めるという、極めて重要な役割を与えられていた。

小型軽量の二次電池のみで稼働する特殊潜航艇は、乗員二名、総重量四十六トン、全長二四メートル、直径二メートル弱で、兵装は四十五センチ魚雷発射管二基のみ搭載。潜望鏡はごく短小な特眼鏡を採用し、羅針盤としてのジャイロコンパスも小型サイズという、原型の縮小に合わせ何から何までミニマム化の設計での建造であった。

この作戦では、敵駆逐艦艇による厳しい哨戒網を潜り抜けねばならず、乗員たちが無事生きて帰還できる可能性は極めて低くかった。

しかし、特殊潜航艇の湾内進入、帰還から母艦への早期収容まで確実な対策をとることを条件に、特別攻撃隊はハワイ作戦の一部に組み込まれることになる。

なお、特別攻撃隊の名称について、第六艦隊司令長官・清水光美中将がのちに、「決死隊という呼び名はその名の如く兵士が命と引き換えに任務遂行にあたるという意味が込められているが、特殊潜航艇による攻撃プランは乗員たちの帰還が大前提の作戦であるから、決死隊という言葉は避けて特別攻撃隊と称することになった」と回顧するように、終戦間際の神風特別攻撃隊とは全く別物の作戦である。

特別攻撃隊の動静

《特別攻撃隊の編成》
伊16 山田薫中佐 横山正治中尉 上田定二曹
伊18 大谷清教中佐 古野繁実中尉 横山薫範一曹
伊20 山田隆中佐 広尾彰少尉 片山義雄二曹
伊22 揚田清猪中佐 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹
伊24 花房博中佐 酒巻和男少尉 稲垣清二曹
※伊16~24は潜水艦名

12月7日未明、真珠湾が手に届く距離まで接近した先遣部隊(第6艦隊)の6隻の潜水艦から、格納筒(特殊潜航艇)が湾内めがけて発進。7日の午前1時~3時半までの間に、潜水艇5艇の発進が完了。すべての潜水艇は、およそ20kmの距離を海中走破し、黎明までに敵監視網に悟られることなく、真珠湾内に忍び込んで停泊する戦艦を魚雷攻撃することを目的としていた。

しかし、もっとも遅い時間に、もっとも真珠湾とは離れた距離から発進した酒巻和男少尉の格納筒は、直前になってジャイロコンパスの故障トラブルが発生。任務遂行が危ぶまれたものの、酒巻少尉は決心を変えず、不安を胸の底に押し込んで真珠湾突入を目指した。

特殊潜航艇を操縦する特別攻撃隊員たちがその後どうなったか、正確な記録が残されていないためはっきりとしたことは分からない。しかし、種々の情報から特別攻撃隊の佐々木半九指揮官は、特殊潜航艇5隻は湾内進入に成功するとともに、湾内で大爆発を起こして炎上した戦艦アリゾナを我が特別攻撃隊が撃沈せしめた、との判断を下す。

残念ながら戦果ありとの判断は、日本が戦後に米側から入手した資料によって覆されることになる。

進入前に撃沈された特殊潜航艇米側資料をもとに特殊潜航艇の動静を時系列に沿って並べると、次のようになる。

7日3時42分、真珠湾入り口付近の掃海作業にあたっていた掃海艇・コンドルは、湾口近くに潜航艇の潜望鏡らしき物体を発見。ただちに付近を哨戒中の駆逐艦ウォードに対し、発光信号で物体確認の報を知らせた。付近を哨戒していた飛行艇が、6時33分、小型潜航艇とおぼしき物体を確認。この物体とコンドル発見の潜航艇が、同一のものであるかどうかは不明。飛行艇が投下した発煙弾によって潜航艇の居場所を突き止めたウォードは、6時45分、爆雷攻撃を開始。同艇は左に傾き沈没し、海面には大量の油が浮き上がった。

米側資料の内容が確かならば、真珠湾攻撃は米海軍駆逐艦の攻撃によって幕を開け、最初の犠牲者は日本側の特殊潜航艇乗組員だったことになる。岩佐艇、湾内進入成功も沈没か6時54分、駆逐艦ウォードから第十四海軍区司令官へ、国籍不明の潜水艇の存在確認が報告された。

同司令官によって7時12分、駆逐艦モナガンに出動命令が出される。8時35分、水上機母艦カーチスと工作艦メデューサが敵潜航艇に対し、砲撃を加えているところをフォード島北方を警戒中のモナガンが確認。潜航艇が放った魚雷はカーチスを外れてパール・シティーのドックに命中。その次に潜航艇はモナガンを狙って魚雷を発射するも、またも命中せず海岸にぶつかり爆発を起こした。

8時43分、モナガンは潜航艇の真上海面の位置まで移動し、二回にわたって爆雷を発射。潜航艇が沈んでいく姿を確認する。モナガンによって撃沈された潜航艇は、海底から引き揚げられるも、損傷が激しく、艇を特定する有力な情報は見つからなかった。

その後、船体の葬送儀式を済ませ、潜水艦基地にかけられた桟橋の基礎材料として使われた。10時00分、米巡洋艦セントルイスが真珠湾入り口内側に差し掛かったとき、二本の魚雷が同艦に向かってくるのが確認された。

しかし魚雷は命中せず暗礁にぶつかって爆発炎上。セントルイスは魚雷発射した潜航艇を発見、砲撃を加え撃沈を確認した。米艦艇に果敢に攻撃を仕掛けるも命中せず、反撃を食らって撃沈された二隻の潜航艇乗組員四名は、その後アメリカ海軍の海軍葬にのっとり、基地内に埋葬されたと伝えられている。

そのうちの一人の軍服には大尉のマークがあったと言われることから、湾内進入に成功した2隻のうち、確実なのは岩佐中佐を乗せた特殊潜航艇だったと思われる。

故障に泣いた酒巻少尉、捕虜となる特別攻撃隊員10名のうち、唯一の生き残りが伊24潜格納筒に乗り組んだ酒巻和男少尉である。不運にも、酒巻少尉の格納筒は最初から機体トラブルが多く、何とか発進にこぎつけても湾内へ真っすぐ進むことはかなわず、苦しい潜航が続いた。そのうち操縦までもが利かなくなり、酒巻艇は湾口水道の東側に座礁してしまう。

8時47分、駆逐艦ヘルムが立ち往生している特殊潜航艇を発見し、砲撃を開始。酒巻艇は何とか船体を立て直して避難を試みるも、結局ペローズ飛行場沖の浜辺に乗り上げ、あえなく拿捕された。酒巻少尉は身柄を拘束され、捕虜収容所に送られた。

米軍資料を紐解いてみても、特殊潜航艇の動静が掴めるのは四隻までで、残る一隻の消息は分かっていない。ただ、同日9時、米機雷敷設艦オグララの艦上にいた敷設艦部隊指揮官が、フォード島南方水道で磁気機雷に似た爆発を認めており、特殊潜航艇がその機雷網にかかった可能性は低くない。

湾内突入の目的は五隻のうち四隻が達成した見込みが高いものの、魚雷攻撃でもって米艦艇を撃破することはできなかった。

特別攻撃隊員たち、戻らず特別攻撃隊の湾内進入作戦は、攻撃決行後、5隻がラナイ島西方海面の第一収容地点に戻り、親潜水艦に収容される手はずだった。

親潜水艦五隻は日没後、浮上待機して特殊潜航艇の到着を待つも、作戦当日に姿を見せた潜航艇はなかった。

翌日、ラナイ島南方10カイリまで配備範囲を広げてそれぞれ配置につき、収容できる準備を整えて彼らの帰還を待つ。しかし、とうとう一隻も姿を見せずに日付変更を迎えるに至った。

特別攻撃隊の佐々木指揮官は、規定時間を過ぎても五隻が戻らなかったことから収容見込みなしと判断し、やむなくラナイ島を離れる決断を下したのである。



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